最新情報と更新情報

(最新情報)

 第1回  5月10日(土)1022番教室(266人)
 第2回  6月14日(土)1022番教室(266人)
 第3回 10月11日(土)1163教室(168人)
 第4回 11月29日(土)1021教室(266人)
 第5回 12月20日(土)1021教室
 ※ 教室内での飲食は御遠慮下さい。

 上記日程はほぼ確実かと思いますが、お出かけの際は念の為、明治大学商学部の公式サイトでご確認ください。

 表題作は「オール讀物1999年10月号」掲載の、メッテルニヒ夫人の手紙の翻訳。
 短編集。zohanaさんが編集部の担当さんから電話で聞いた情報。

あらためて、担当者の方に話を
聞けたので追加の情報を書いておきます。
1、短編集、書き下ろし三本収録予定。
2、発売日は未定。
3、書下ろしは二本完成しているが、三本目はまだ出来てない模様。
4、このため、三本目を待つ場合発売はさらに遅れる可能性あり。
ということでした。
投稿 zohana | 2008年6月27日 (金) 18時48分

  • ハヤカワミステリマガジンにて 2008年1月号〜連載中(早川書房

 第14回「宮下誠氏とルマルシャンの箱」2009年2月号『カラヤンがクラシックを殺した/宮下誠光文社新書)』

  • HERS「今月の拍手喝采?」2008年4月号(創刊号)〜 2008年10月号
  • 毎日新聞「ダブルクリック」欄 2008年7月1日〜2008年10月1日(原則 火曜夕刊)
  • 週刊朝日2008年7月11日号

 あの本(あのとき、あの場所の一冊)「月子ちゃん、と口走った父」『三丁目が戦争です/筒井康隆

 大蟻食さまがご自身を「造形作家」と評されているのは納得する表現です。次はもっと人のついて来られない作品を書くとの事。

  • ミノタウロス』2007年11月23日付で第四刷、12月10日付で第五刷、2008年4月10日付で第六刷が刊行。

 第五刷分の帯:「本の雑誌 年間ベスト第1位」
 第六刷分の帯:「見事2冠達成 第29回吉川英治文学賞新人賞 07年本の雑誌 年間ベスト第1位 」
 



(更新情報)

  • 「大蟻食さまのお仕事」更新。(12/31)
  • 「大蟻食さまのお仕事」更新。(12/8)「最新情報」欄と「大蟻食さまのお仕事」欄は、G3さんが管理して下さる事になりました。

 G3さんも僕同様、のんびり好きな時に更新するそうです。

  • 各ページにトラックバック受け付けられるようにようやくなりました。見出しをつけないと駄目だったのね。ちなみに、このページはトップページ扱いで、トラックバックは受け付けられません。

 著作関連記事のまとめwiki

大蟻食さまのお仕事

小説

  • バルタザールの遍歴(1991 新潮社 ISBN 4103831014 / 1994 新潮文庫 ISBN 4101317119 / 2001 文春文庫 ISBN 4-16-764702-8)

 ※初出:小説新潮1991年9月号

  • 戦争の法(1992 新潮社 ISBN 4103831022 / 1996 新潮文庫 ISBN 4101317127 / 2003 ブッキング ISBN 4-8354-4064-1)
  • 鏡の影 (1993 新潮社 ISBN 4103831030 / 2000 ビレッジセンター / 2003 ブッキング ISBN 4-8354-4070-6)
  • モンティニーの狼男爵 (1995 朝日新聞社 ISBN 4-02-256878-X / 2001 光文社文庫 ISBN 4-334-73222-4)
  • 1809 (1997 文藝春秋 ISBN 4-16-316940-7 / 2000 文春文庫 ISBN 4-16-764701-X)

 ※初出:別冊文藝春秋 Autumn 1996「1809ーナポレオン暗殺 前編:第1章-第5章」、Winter 1997「同 後編:第6章-第9章」

  • 天使 (2002 文藝春秋 ISBN 4163214100 / 2005 文春文庫 ISBN 4-16-764703-6)

 ※初出:別冊文藝春秋 2002年3月号、5月号、7月号 

 ※初出:別冊文藝春秋 2003年5月号 「花嫁」、7月号「雲雀」、9月号「王国」、書き下ろし「猟犬」

 ※初出:小説現代 2006年6月〜7月、10月〜2007年2月号(講談社

小説 (アンソロジー

  • 日本SFの大逆襲 「モンナリイザ掠奪」 (1994 徳間書店鏡明編・絶版 ISBN 4198601976)●
  • 血-吸血鬼にまつわる八つの物語 「エステルハージ・ケラー」(1997 早川書房 ISBN 4152081074 / 2000 ハヤカワ文庫 ISBN 4-15-030640-0)●
  • ハンサムウーマン「白鳥殺し」(1998 ビレッジセンター ISBN 4-89436-114-0)

小説(単行本未収録)

翻訳

翻訳(単行本未収録)

 メッテルニヒ夫人の手紙の翻訳

エッセイ・評論集

エッセイ・評論(アンソロジー・共著)

 ※初出:環【歴史・環境・文明】No.2 2000年7月号(藤原書店)  

  • そして、作家になった。作家デビュー物語?「ウィーンに還る」(2003 メディアパル:新刊ニュース編集部編 ISBN 4-89610-063-8)

 ※初出:新刊ニュースNo.564 1997年7月号(トーハン)   「でもわたしは幽霊が怖い」にも収録

解説

連載

  • 掠奪美術館:太陽 1993年9月号〜1994年9月号(平凡社)→「掠奪美術館」所収
  • ストリートシーン:世界 1994年6月号〜1996年4月号(岩波書店)→「陽気な黙示録」所収
  • 書評鼎談:RONZA 創刊準備(1994年12月)号、創刊(1995年4月)号〜1996年11月号(朝日新聞社)→「皆殺しブックレビュー」所収
  • 外人術:リテレール No.14 1995年冬号〜No.18 1996年冬号(メタローグ)→「外人術」所収
  • 季刊アステイオン 1996春-1997夏 語りかける本たち テーマ書評

 ヴォルテール『浮世のすがた』 夫婦と愛人で囲む晩餐  季刊アステイオン 1996春 語りかける本たち テーマ書評(7)夫婦
 G.K.チェスタトン『新ナポレオン奇譚』 予言者の正しい葬り方  季刊アステイオン 1996夏 語りかける本たち テーマ書評(8)世紀末
 佐々淳行『東大落城』 ”経験”の責任ある語り方  季刊アステイオン 1996秋 語りかける本たち テーマ書評(9)責任
 西川恵『エリゼ宮の食卓-その響宴と美食外交』 子供に戻る術  ※「検察側の論告」所収  季刊アステイオン 1997新年 語りかける本たち テーマ書評(10)成熟
 池田晶子メタフィジカル・パンチ』 人類愛が猛り立つ?  季刊アステイオン 1997春 語りかける本たち テーマ書評(11)テレビ
 サルマン・ラシュディ『東と西』 東と西を分つ線  季刊アステイオン 1997夏 語りかける本たち テーマ書評(12)アジア

 矢川澄子『受胎告知』性的匂いのない男性性 2003/01/12

 スラヴォイ・ジジェク『『テロル』と戦争』荒涼の現実突き付けた9・11 2003/05/18 
 佐藤賢一オクシタニア』善悪超越し濁世の肯定へ 2003/07/13
 笙野頼子『水晶内制度』渾沌とした形式で『国家』描く 2003/09/07
 山尾悠子ラピスラズリ』静かな滅亡の仮面劇 2003/11/02 
 皆川博子『総統の子ら』とびきりハードな戦争小説  2003/12/14 
 森見登美彦太陽の塔』若者の痛々しさに笑い泣く  2004/02/15 
 ゼイディー・スミス『直筆商の哀しみ』2004/04/11 ほとばしる若々しい才気
 高野史緒『ラー』答えなき問い続ける人の姿 2004/06/06 
 エミール・ゾラ『獲物の分け前』踊り続けるバブルの虚無  2004/08/01 
 マルセル・ライヒラニツキ『とばりを降ろせ、愛の夜よ』ドイツ文学の魅力ここに 2004/09/19  
 笙野頼子『金毘羅』知的で巧妙な霊性の世界 2004/11/14 
 酒見賢一泣き虫弱虫諸葛孔明』度肝抜く自在な語り口 2005/01/16 
 森見登美彦四畳半神話大系』京都の豊かな大学生活 2005/03/13 
 ロバート・ダーントン『禁じられたベストセラー』『革命前』に読まれた本は… 2005/05/15 
 笙野頼子『徹底抗戦!文士の森』『近代』超えた現代文学 2005/07/17 
 トマス・ベルンハルト『ふちなし帽』奇妙な感動呼び込む衝撃 2005/9/18
 高村薫『新リア王』 "現在"を読み解くモノローグ 2005/11/20
 筒井康隆『銀嶺の果て』 たまらなく愉しい渋さ 2006/2/12
 陣野俊史フランス暴動対岸の火事で済むのか 2006/04/16
 G・カブレラ=インファンテ『煙に巻かれて』 浮遊感に満ちた葉巻の快楽 2006/6/18
 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』 愛読者”泣かせる”実験作 2006/8/6
 笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』奔放な語りで現代を斬る 2006/9/24
 ロバート・ウェストール『ブラッカムの爆撃機』戦争の滑稽と悲惨ぎっしり 2006/11/12
 ダニエル・リベスキンド 『ブレイキング・グラウンド』土地の霊と語り合う建築家 2007/1/7
 ジュリアン・バーンズイングランドイングランド』造り上げられた「美しい国」 2007/2/25

  • 小説のストラテジーユリイカ 2005年8月号〜2006年7月号(青土社)→「小説のストラテジー」所収
  • 独楽日記:ハヤカワミステリマガジン 2008年1月号〜連載中(早川書房

第1回「不滅の小四魂」2008年1月号 DVD-BOX『サウスパーク/トレイ・パーク&マット・ストーン(ワーナー・ミュージック・ジャパン)』

 第2回「人生を誤ったひとのためのバルカン・ビート」2008年2月号 CD『We Came To Take Your Jobs Away/Kultur Shock』

 第3回「小説のルール」2008年3月号『ロリータ・ロリータ・ロリータ/若島正(作品社)』

 第4回「これであなたも小説家より小説がわかる!」2008年4月号『ロリータ/ウラジーミル・ナボコフ:若島正訳(新潮文庫)』

 第5回「『HEROS/ヒーローズ』見たぞ!およびアニメ声問題」2008年5月号 DVD『HEROSユニバーサル・ピクチャーズ)』

 第6回「とことん糞のような『マイスタージンガー』を見ちまったぜ、ちっ。」2008年6月号『ベルリン陥落/アントニー・ビーヴァー(白水社)』

 第7回「で、これがどのくらい糞かって言うと――」2008年7月号 オペラ『ニュルンベルグマイスタージンガー/クプファー=バレンボイム

 第8回 映画「リボルバー」2008年8月号 映画『リボルバーガイ・リッチー

 第9回「北米版GTA?」2008年9月号 ゲーム『グランド・セフト・オート?/北米版(ロックスター・ゲームズ)』

 第10回「水納島マーラー」2008年10月号 CD『交響曲 大地の歌ワルター=ウィーンPO & キャスリーン・フェリアー(ユニバーサルミュージック)』

 第11回「あんまり怖すぎないクラウス・バルビー」2008年11月号 映画『敵こそ、我が友〜戦犯クラウス・バルビーの3つの人生〜/ケヴィン・マクドナルド

 第12回「世界はおれのもん――か?」2008年12月号 DVD『ほしのこえ新海誠コミックス・ウェーブ)』

 第13回「猫がっ! 猫がっ!」2009年1月号 DVD-BOX『巨匠とマルガリータ/ウラジーミル・ボルトコ(アイヴィーシー販売)』

 第14回「宮下誠氏とルマルシャンの箱」2009年2月号『カラヤンがクラシックを殺した/宮下誠光文社新書)』

第15回「われらが歌う時」2009年3月号『われらが歌う時/リチャード・パワーズ:高吉一郎訳(新潮社)』

第16回「出演馬38頭!ジンガロのお馬様を拝みに行く」2009年4月号『バトゥータ/ジンガロ』(DVD コロムビアピクチャーエンターテインメント)

※2009年3月26日まで東京・木場公園ジンガロ特設シアターにて公演中

  • HERS「今月の拍手喝采?」2008年4月号(創刊号)〜 2008年10月号

 2008年4月号 「まことにロシアらしい"CNN的オペラ"」『ホヴァーンシチナ/マリインスキー・オペラ』 
 2008年5月号 「"池波正太郎的"とでもいうべきアカデミー賞受賞作」『ノーカントリー/ジョエル&イーサン・コーエン
 2008年6月号 「パンク・オペラ『ジプシーのとき』」
 2008年7月号 「現代のアーティストたちによって続けられる"絶望的な努力"」『英国美術の現代史:ターナー賞の歩み展』
 2008年8月号 「展覧会が目白押しの上野公園。お散歩コースとして世界最強かも。」『コロー 光と追憶の変奏曲』『バウハウス・デッサウ展』『パリ展』        
 2008年9月号 「名物の大回遊水槽以上に美ら海を感じさせる"真面目な"イルカたち」『沖縄美ら海水族館
 2008年10月号「今やパリのオペラは相当に面白い。どう面白いかと言えば」『トリスタンとイゾルデパリ国立オペラ

  • 毎日新聞「ダブルクリック」欄 2008年7月1日〜2008年10月1日(原則 火曜夕刊)

 7月1日 カフェの空気
 7月8日 一番に効くもの
 7月15日 ウィーンの暑い夏
 7月29日 至高のかき氷
 8月5日 可愛さにつけこまれる
 8月12日 見られることを放棄する
 8月19日 コインランドリー
 8月26日 日曜日の店
 9月2日 パリ・モスクのハマーム
 9月9日 コンパートメント
 9月16日 東側のスーパー
 10月1日 バイオリンの音

対談・座談会

紀行文

インタビュー

  • 十歳から小説書いたお嬢/週刊朝日 1992年2月7日号 週刊図書館
  • 人間のどうしようもなさって大好き/朝日ジャーナル 1992年2月7日号 BOOK'S '92
  • 幻想文学の旗手に十二年越しのロマンス +佐藤哲也週刊新潮 1993年12月9日号 結婚
  • 3万円ブック・ハンティング/CREA 1994年10月号
  • 『掠奪美術館』/クロワッサン 1995年9月25日号 最近、面白い本読みましたか
  • 見てきたように”昔のヨーロッパ”を書く作家/MORE 1995年12月号 ON BOOKS
  • 博覧強記の実力派 2つの長編執筆中/朝日新聞 2001年4月7日 夕刊 ひっとびっと
  • 曖昧さが生むもの『戦争の法』by 濱美雪/スイッチ 1992年9月号 Writers At Work
  • 著者に聞く 佐藤亜紀「雲雀」「知識と想像力で描く近代ヨーロッパ」/本の話 2004年4月号 自著を語る
  • 知性派物語作家の本領/小説現代 2006年6月号 作家登場(グラビア) ※「ミノタウロス」連載開幕号
  • 著者は語る 『ミノタウロス』/週刊文春 2007年6月14日号 文春図書館
  • 春の祭典ペトルーシュカストラヴィンスキー  フリッチャイ=ベルリンRIAS SO /レコード芸術 2007年8月号 PAUSE お気に入りのディスクを教えてください。
  • クリエイターMAP 1998/広告批評 1998年3月号 ※斎藤美奈子さんが選ぶ10人の作家のひとりとして12問のアンケートへの回答

  選考基準:代役を立てるのが難しそうな中堅/一筋縄でいかなそうな新人
12問:肩書/生年月日/出身/最新作/座右の銘/平均睡眠時間/好きなクリエイター/好きな音楽あるいは本/好きな場所/アイデアを思いつく場所
最近気に入ってるもの/仕事の栄養源
大蟻食さまのほかの9人:阿部和重/石黒達昌/酒見賢一/多和田葉子
赤坂真理/デビット・ゾペティ/野中柊/引間徹/町田康

  • 県人作家に聞く「故郷舞台の小説準備」 新潟日報 朝刊 2001年1月3日 特集 県内ミステリー現場をゆく

明治元年栃尾を舞台にした作品を準備中とのこと。他に神林長平氏、樋口京輔氏へのインタビュー

 綿矢・金原/芥川受賞への文芸サークル学生の反応についてのレポート。
 当時、早大客員教授だった大蟻食さまのコメントあり。

キャンパる・大楽人:人生3回棒に振るつもりで 毎日新聞 2008年5月30日 東京夕刊


エッセイ・評論(単行本未収録)

  • オール讀物2000年1月号 偏愛読書館 実録の想像を絶する可笑しみ−『モンタイユー』
  • オール讀物2004年5月号 ブックトーク「雲雀 香り立つ〈感覚〉の魅惑に満ちた作品集」●
  • オール讀物2004年8月号 真夏に食べたい!クールスウィーツ 千疋屋「桃」●
  • オール讀物2006年2月号 ああ、大散財! 「リプレイ」●
  • オール読物 2002年5月号  女流作家の”究極”乃映画 『リベルタン

 ワープロ・パソコンvs.原稿用紙  
 ※文学は書字の運動である/石川九楊文學界2000年2月号)に関して

  • en-taxi2004年7月号 「シャマランのしみじみ」
  • QuickJapan vol.60 2005年 「What is 結婚?」
  • 週刊文春 2001年4月12日号 特集「超法規的日本再生計画 第三弾 私たちにも言わせてよ」"負け犬国粋主義は不要"
  • 週刊文春 2001年8月9日号 書評 「ゼイディー・スミス『ホワイト・ティース』」
  • 週刊現代 2004年7月3日号 書評 笙野頼子『片付けない作家と西の天狗』「絶妙のタイミングで変転する「語り」が生み出す生理的快感」
  • 図書新聞 2000年9月16日 書評「日本SF論争史」
  • 週刊朝日 (通号 4485) [2002.2.15] 特集 外相更迭

 "ナタのような「角栄語」"→正論2002年7月号 CrossLine「メディアの自殺」の前日譚

  • 週刊朝日2008年7月11日号 あの本(あのとき、あの場所の一冊)「月子ちゃん、と口走った父」『三丁目が戦争です/筒井康隆
  • 新潮 1999年2月号 "98私のベスト3"
  • 太陽  1997年10月号 特集 ヴェネツィア--海の都の物語 "晴れやかで豊穣な快楽"
  • 正論 2000年10月号 "「作家の値うち」が投げかけたもの"
  • 正論 (通号 330)  2000年2月号 "男たちよ、70年前は…"
  • 正論 (通号 354)  2002年2月号 "アメリカに帝政を!"
  • 正論 2002年8月号"悪党の冴えなきウブな男たち"
  • 正論 2004年5月 "ウソと花見と国勢調査"

  紹介CD:偉大なるクルアーン ~イスラムの栄光 (ビクターエンタテインメント

  • ランティエ 2005年11月号 宰相の器
  • Bunkamura 1996 想い出のカフェ2 ドゥマゴからの贈り物 井上俊子編 「客もまた怪し ウィーンのカフェ」
  • Bunkamura 1997 想い出のホテル ドゥマゴからの贈り物 井上俊子編「寝台列車の一夜」
  • 鳩よ 1995年4月号  もう一度見たい! 70人が選んだ「あの感動を今ひとたび 『輪舞』
  • 鳩よ 1996年5月号 美少年コレクション 妖しくときめく総勢110人を堪能する  

    自分を自分で持て余しているのがいい
    『バフォメット』のオジェ・ド・ボーゼアン/『ロベルトは今夜』のアントワーヌ

  • サンデー毎日 1998年5月24日号 サンデーらいぶらりぃ 今週の三冊 フランス的、あまりにフランス的 『ルーヴルの騎手/フィリップ・ソレルス
  • 朝日新聞 1997年11月15日 朝刊 批評の広場 歌って踊れる野郎どもヤワでクサい「夢」の小世界:『タイムトンネル/ザ・コンボイ・ショウ』
  • 朝日新聞 1999年2月27日 朝刊 批評の広場 「三島の再来」実力のほどは 新鮮さ感じる無防備な若さ『日蝕平野啓一郎
  • 読売新聞3月1日(土)夕刊11面 私のいる風景[欧州]映画から広がった親しみ
  • SPA 1992年2月19日号  12人の怒れる女たち ’80年代型モラルを清算せよ!!  階級
  • ミセス 1995年1月号 新春トーク 私の生きるヒント 〈疑う〉ー 日常生活へのまなざし
  • 新刊展望 2004年5月号 道楽者の弁明
  • SPA 1997年6月11日号 自著中心的3冊 外人術を体得し、偏屈な旅を!

  『地球の歩き方』『外人術』『鉄道大バザール/ポール・セルー』AMUSEMENT PARK BOOKS

  • 翻訳の世界 1995年4月号(バベル・プレス) ”命からがら”の後に必要なもの

 ※「エゴイスト」「トリストラム・シャンディ」について

  • CREA 1996年12月号 かわいそうなものは必ずおいしい 例えば豚の胎児 特集 食べて作っていい女 ビストロ・クレア開店中 忘れられない味 離れられない店

  素晴らしい夏。 1914年6月、スイス、ダヴォスのベルクホーフ国際サナトリウム。20世紀売ります 100年後へのタイム・トリップ。あなたは何処にセットしますか?
  ※30名にアンケート

  • WALK第55号 特集:活字のススメ? 「活字から言語の海へ」

   通信販売(現金書留)で購入できるようです。→http://www.arttowermito.or.jp/atm-info/2300/2300.html

 大蟻食さまがご自身を「造形作家」と評されているのは納得する表現です。次はもっと人のついて来られない作品を書くとの事。

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書誌情報求む「誰が作者を殺したか」

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Gaucheさん、G3さん、さんきゅーです。

ここに載っている以外の情報をお持ちの方、情報をご提供ください。掲示板へ

佐藤亜紀明治大学公開講座第九回(2008年度第四回)[2]

歴史とは

少し話をずらします。
歴史歴史と言うときに、非常に七面倒くさい問題が起きるというのは、この間ちょっと触れました。つまり、歴史とは何かと言ったときに、話していて凄く混乱が起きることがあるわけですよ。特に議論になっている時にね。その原因の第一というのは、当該の問題に関して、一体それが何を指しているのかという点で、双方がきちんと詰めないまま、別々の問題に関して話しているというケースが非常に多い。あるいは、意図的に混同するケースもありますけれど。
そこを整理するために、まずきちんと分けておきましょう。一番最初に「歴史とは何か」と言った場合に、そこにいの一番に来るのは何なのかというと、つまり「為された総体としての歴史」。何の意味づけもなくて、ただ単にこういう事があった、ああいう事があったというのが、無数にごろごろ転がっている、そういう場所だと考えてください。一応因果関係がある事もあります。でも、因果関係が無い事もあるし、今となっては因果関係が失われてしまったなんていう事もざらにあるわけです。
ただ、我々がその物を認識する事が出来るかというと、事例を山のように集める事は出来るとしても、そういう意味での歴史の、言うなれば全体みたいな物。それを、我々が把握する事は、ほぼ無いと考えて下さい。何故ならば、そういう意味での歴史というのは、剥き出しの「物自体」じゃなく、「事自体」だからです。
全く何の意味づけも与えられていない、ある「事」みたいな物を、我々が認識できるかどうかと考えた場合、おそらく認識できないと思うけれど、そこには確実に、かつて何かそういう起こった「事」がある。そういう意味での歴史。
それでは、我々、歴史もへったくれもありません。これは南米の奥地に住んでいる部族が、かつて起こったある大災厄について、あるいはある素晴らしい出来事について語る時にやる事でも、現代の歴史家が18世紀における出版文化について研究する時でも、それは全く横並びで同じ事をやっているという事になります。そういう、「事」自体の総体の中から、「事」自体の塊みたいな物を、ある文脈に沿って、事実を切り出してくるわけです。あるいは、ある文脈を当てはめることによって見えてくる事実を切り出してきて、それを配置し直すわけです。これが、我々が言うところの普通に認識するところの「歴史」と言うことになるわけです。
ただ、そこで問題が起こってきてしまう。その時に、「歴史が歴史が」と言うわけですけれど――「その時、歴史が動いた」みたいな「歴史」ね。つまり。極端に非道い言い方をしちゃうと。「その時」も何も、歴史はそんな動き方をしねえ、とか思うんだけれど、時々面白いフィルムをやるから、あの番組は良いよ。
その時に、その文脈が、どういう種類なのかというのが、物凄く種種様々なわけです。それこそ、空幕長が書いちゃう論文みたいな「歴史」観から、きちんとした学者が40年間古文書館の中を這いずりまわって、こんな本を書いちゃったという「歴史」まで、それは全部、ただし、今二番目に言ったような意味では、全く等しく「歴史」です。
そこで、大体論争が起きるのはこの辺なのね。所謂歴史修整主義論争みたいな奴が発生しちゃうのは。その中で、言うなれば、何しろ意味のない事柄の積み重ねを、一定の意味の枠組みに切り出して来るという行為ですから、切り出し方や、文脈の与え方によって、どんな「歴史」でも、ある意味捏造は出来てしまうわけです。「捏造」というのもおこがましいくらいの物で。どんな風にでも、どんなトンデモ史観でも、やり方によって、作ってしまうことが出来る。

歴史とは物語に過ぎない?

そこで一つ問題になってきてしまうのは――いや、みんな物凄く雑に、適当に言うんで、この問題に関してはきちんとお断りをしておく必要はあると思うんで一応言っておきますけれど、「歴史というのは結局物語に過ぎない」というような意見、時々聞くでしょう。それを聞くと、私はなんとなくむかーっとして、「物を知らん奴は黙っとれ」という気持ちがするわけですけれど。
何故「物を知らん奴は黙っとれ」になるかと言うと、まず、第一に言うならば、多分、歴史というのは、必ずしも物語じゃないんですよ。「歴史というのは物語である」という時に、ヒストリーとイストワールは同じだなどとみんな抜かすわけですけれど、イストワールと言ったときには、多分実話性がちょっと高いのよ。普通の作り話よりは。その事でもお分かりの通り、そこで好き勝手な物語は作れるとしても、その時に、じゃあ結局「歴史って物語でしょう」って言うと、「それはちょっと短絡です」と、多分普通の専門家ならみんな断ると思う。何故ならば、一応歴史と言った場合には、これこれこれこれこうだった、と言われているが、それは本当であるか否か、という問題に関して、完全にとは言わないにしても、ある程度までは、事実関係を争うことが出来るからです。それは勝手に作れる物ではない。そして、その事実関係を争うことが出来る、ある意味では限りなく事実に近い物事を使って、ある文脈を組み立てて行くに際しても、これは三番目の意味ですけれど、歴史学的にはある手順という物が存在しておりまして、そこの所を無視して好き勝手にやったかといって、歴史として認められるというような物ではないわけです。歴史学には歴史学のきちんとした手続があります。最近はみんなやらないけれどね。
特に私が問題だなと思うのは、例えば、もう少し現代的な社会科学の方法論。ポストコロニアニズムとか、カルチュラルスタディズとか、それからフェミニズムとかでも、言わんとしている事は、結構、というか、論文になっているでしょう。読むでしょう。面白いんですよ。つっこみどころとしては、凄く面白いんですよ。凄く面白い視点なのに、何でこんなに実証を欠いているのかというのが不思議で仕方がない。実証すると、彼らの何か、思想的な枠組みとして間違ったことになるのかも知れないけれど、フェミニスト辺りだと言いそうじゃない。「実証なんて言う物は、男の作って物であって、女はそんなことはしない」。お前馬鹿か、と思うんだけれど。おかしいんですよ。それは。
私の頭が古いのかも知れないけれど、もしフェミニストが切り出してきたような事があるんだとすれば、それは歴史的な事実として、きちんと実証出来る物でなければならないはずなんです。それが全部落ちているから、「あいつらの言うことは面白いけれど、与太だ」っていう気持ちになっちゃうわけね。いや、きちんと証明する人がいたなら、私は別に与太とは言いませんよ。だから、そこで投げるのは止めてくれという話なんです。不思議なことに、「歴史とは結局物語だから」というような事を言う人たちは、大抵その系統の人たちだったりする。あるいは、そういう系統の人たちが言う事というのを、適当に流用してきて、物凄く雑な形で一般にばらまいている人たちがいる。
やはりこの問題に関しては、もう少し私は怒りたいと思いますけれど。私が怒ったって仕方がないんだけどね。
だから、必ずしも歴史は物語ではないと考えてください。だから、色々な問題が色々な所に存在していて――そうそう、実証しない理由というのは、結局実証は文献に頼る事になるからという理屈は、昔一回読んだことがあるな。どこかで。非常に不正確な感じになっちゃいますけれど。記憶で語っているから。
なんでかっていうと、実証と言ったときに、多分歴史学の場合に、第一の手づるになってくるのは、文献であると。あるいは当時残された記録であると。だけど、当時残された記録というのは、所詮は文字の書ける人間が書き留めたことに過ぎないと。文字を書き留めた人間が、文字を読み書きできない人間の事を書く時には、当然のことながら、そこに階級的な偏見などが入ってきて、あるいはそこに、本質的な文化の相違みたいな物が入ってくるので、それは全く信頼するに値しないんだ、って言った奴がいるんだよ。
これはちょっと凄くてさ、つまり――そこまで言うかよっていう感じがしたから、それじゃ、あんた達は何に基づいて過去のことを語るつもりなわけ?という話になっちゃう。
「きっとこうに違いない」って言ってさ、「それ、実証したのか」と言われたら、「実証された文献には意味がない。なぜなら識字階級だけがそれを書いているから」って。
有り得ないよ。お前それ。じゃあ、お前が言っている事の根拠は何?っていう話になっちゃうでしょう?
その問題に関して、例えば、一頃興味を持った、随分色々やってみたので「モンタイユ」というのがあります。ルロワ・ラデュリーっていう、フランス史のフランスの研究者が見つけてきた史料で、もし見つけたら、これは絶対面白いですから、読んでみてください。これは何なのかというと、1320〜1330年くらいだったかな。ピレネーの山の中に村があるんですよ。狭い村でして。狭い村だから、人間関係煮え煮えで、狭い村を巡って二家族とかその辺が、権力の座を狙って七転八倒しているような場所です。この村が、いきなりパミエという所にある司教座の手入れを受けて、村ごと、ほとんど全員異端審問所に引っ張られた。凄いでしょう。そうすると、この連中は、何しろその証言を読んでいれば分かるんですけれど、信じられない位――どう言ったらいいかな――現実的な人たちなんですよ。だから、何を始めるかというと、お互いに助かるために、隣人について、ありとあらゆる事を喋る。
パミエの司教が引っ張ったのは、カタリ派の影響が、多分その村には強いだろうと見たからです。なんで、トゥルーズの異端審問所じゃなくて、パミエの司教座がそれをやったのかと言うと、この村に住んでいる、権力者の兄弟というのがおりまして、兄ちゃんが代官で、弟が司祭という形で、聖俗両方の権力を押さえているんですよ。
この家族は、トゥルーズには渡りをつけていたの。手入れはしないって言う。それで、なんとなく状況が悪化してきた時に、横からパミエの司教座がぽーんとやるという、非常にありがちな権力話があるわけですけれど。
ようするに、司教様としては、どこの家がカタリ派なのかというのが知りたいだけなんだけれど、もうそれ以外の話も山のように――誰と誰が出来ているとかね。司教は誰と寝たとか、誰を愛人にしてたとか、司教がこう言ったとか、そんなのが山のように出てきて、物凄く面白いですよ。
そして、一番凄いのが、こんな、家政婦は見た、みたいな話をどうしてみんなが知っているのかというと、家の造りが至って粗末なのよ。壁はしっかり作るのよ。壁はしっかり作るんだけれど、その上に、板屋根が乗せてあるの。そして、何か人の家の事をこっそり知りたくなると、女どもはどうするかって言うと、家から箱を持ってきましてね、軒の所に置くのね。そして、その上に立って、頭で屋根を持ち上げて中を覗くんだよ。
そうすると、ばあさんが死にそうだって言う所にカタリ派の聖人様を呼んで、こうやって手をかざして、ようするに、按手礼って言うんだっけ?あれをやっていたのを見たというようなちくりが山のように出てくるんですけれど。物凄く面白いわけですけれど。
例えば、「識字階級が書いた物には、当時の民衆が何をしていたかなんて言うことは、識字階級の都合によってしか記録されない」って言ったら、じゃあパミエの異端審問録、あれは全部嘘か、っていう話になっちゃう。あるいは、「識字階級には、そういう下々の事は分かるわけがないので、書かれていることには真実性がない」といった時に、じゃあ、パミエで書かれたあれは、まあいくらかのバイアスはあるかも知れないけれど、あれは全部間違っているのか、っていう話になる。
どう考えてもね、そうは思えんのよ。あの審問録を読むと。フランス語の奴があるので、審問録自体は全部読みました。実にくだらなくて、人間がこんなにくだらない事まで覚えているのかと、感心しますけれど。
例えば、捕まっちゃった代官の兄ちゃんなんですけれど、彼というのが、まだ若かった頃に、この男はそんな権力の座にあるにしては物凄く真面目な男で、女房一筋なんですよ。それで、女房とまだ婚約者だった頃に、その婚約者の家に行った。婚約者の家に行きました。誰かがその問題をちくったんだけれど、それだけで一日目終わる。
そして、もっと凄くつっこむからね。パミエの異端審問はさ。それで、二日目も同じ話をさせるの。よくあるパターンでしょう。警察で何回も何回も同じ話してきて、つじつまが合わない所を出すまでいじめるわけよ。そうすると、ディテールが入ってくるわけ。私が出かけようと思って外へ出たら、弟、つまり司教が、家の前のベンチに座っていたって。それで、俺が出ようとするのを見たら、弟がにやって笑ったんだって。お前、女の所へ行くんだろうって顔したんだって。
そういうくだらない事ばかり覚えてる。最終的に、三回目か四回目になって、その時の話の続きが無かったのは、彼女の家に行ったらカタリ派の聖人が居たからだって判明するわけですが、そこまでの間に出てくるディテールの凄いこと。
これが、全部嘘?っていう話になっちゃう。いや、話が大幅にずれていますけれど、必ずしもそうではない。というのは、それを考えている人というのは、あまりにも人間のあり方という物をシンプルに捉えすぎているから。つまり「識字階級には非識字階級の事は理解できない。なぜなら文化が全く違うからだ」と言った時に、多分人間の持っている文化的な層の重層性を全く理解していないんだろうと思うわけです。
大上段ですぱっと斬る人間はよくそういう事を言うんで、どの位まで意識しているか分からない所がありますけれど。だって例えばさ「文学におけるカノンというのは、学校教育で取り上げられるかどうかで決まる」って言ったらさ、多分仏文学の奴は全員ぷって笑うんだけれど、つまり学校教育される前に、広く読まれて古典化される実例が、フランスでもドイツでも、文学の古い歴史を持っている国には、どこでも知っているから。だって、「学校教育が取り上げないんだったら、古典というか、基準となる作品にはならない」と考えたらさ、日本人はどうやって源氏物語を読んできたのか、という話になっちゃうでしょう。だから、これはどう考えても――どこの国の人が言ったとは言いませんけれどね。ある種の野蛮人の言いぐさですわ。それはまあいいわけですが。
それと似たような所があって、例えば「識字階級の人間は、非識字階級の人間と文化を本当に共有していないのか」と言うことを考えた場合、多分全然違う要素が入って来ちゃうわけです。それは何かというと、当時の、例えば貴族なら貴族の子弟、あるいは高位聖職者になるような家庭の子弟というのは、どう養育されたかという問題。大抵乳母が付くわけ。そしてその乳母というのは、大抵下層階級の出身です。
まあ、やんごとなき方々には、やんごとなき乳母がつきますが、その位だと、多分女中とかそんな人たちもいっぱいいる。そして、子供の頃は、それほどそういう人たちとは隔離されずに教育されずに育つので、当然そういう下々の持つ文化というのが、身体のどこかに残り続けていて、理解できないと言うことは多分ないだろうと考えざるを得ないという事を、私は考えちゃうわけです。
もっとずっと後の話ですけれど、18世紀のウィーンの貴族がいるじゃない。ウィーンの貴族だから、18世紀の終わりぐらいになると、ドイツ語を喋らなくてはならないという事になるわけですよ。そうすると、フランス語は彼らはきちんと喋るのね。きちんとした教育でフランス語を教わって、小さいときから家庭教師をつけて、フランス語は上手だったりするし、フランス語だと結構洒落とか言えたりするんだけれど、ドイツ語で喋るでしょう。そうすると、そのイントネーションが、辻馬車の御者のイントネーションと同じだって言うわけ。なんでかわかるでしょう、これ。子供の頃に、ドイツ語喋れる連中に養育されたら、その言葉が移るからです。だから、ドイツ語の訛りだけは、いつまで経ってもそういう感じで残らないという事があり得る。
そういう形で、階層の問題というのは、線でも引いたようにぴしっと分かれるわけではなくて、色々な場所でぐちゃぐちゃになっている物なので、そこまで簡単に、識字階級と非識字階級の間に線なんて引けないわけだし、大体モンタイユの何人かは普通に聖書を持って読んでますし、恐ろしいんだけれど、当時聖書は、家を一軒建てる分ぐらいの値段で買えたんだって。だから、家一軒持っていて、なおかつそこそこのお金持ち、有力者っていう家は、大体とにかく聖書は置いてあったらしい。それで読んでさ、色々なあらぬ妄想を考えるから、何か訳の分からない事になっていく人たちというのがいっぱい居るわけですが。
そういう意味で、ぱしっとした割り切りというのは、基本考えない方が良いだろうと思います。それで、「歴史というのは結局物語だ」というのは、多分そういう種類の、ある種の「そこんとこまっすぐ斬りすぎ」という奴の典型だと思うわけです。
なるほど、歴史には、そういう形で、ある恣意性みたいな物は、歴史を語る人間によって与えられる事はあり得ますが、厳密に歴史とは何かといった時に、「歴史とはただの物語だ」という事、それはあり得ません。
ただし、「絶対に歴史は物語ではない」と私は言う気はないわけですよ。
まず、歴史という物は何かと考えた時に、一番根源的な所にある物というのが、世界の全面的な怪異性の記憶その物である、故に非常にトラウマ的な物であるんだとする。
つまり歴史の総体みたいな物があって、その中には、物凄く沢山の、全てをだとは言いませんけれど、ある意味、個々の人間が、あるいはある共同体が、あるいはある場所の、ある人間達がいきなり目にすることになった、世界の異様な姿という奴が、延々と刻まれているんだと考えてください。
だって、今時何か恐ろしいことが起こると、大抵みんな、子供達がPTSDとかになって、それで精神科の医者にカウンセリングにかかったりなんかするっていう話があるでしょう。それを考えたら、フランス革命の最中に幼年時代を送った子供達が抱えているPTSDってどのぐらいの物かって考えると空恐ろしいじゃん。あるいは、江戸時代の大飢饉を生き延びて大人になった人の抱えたPTSDっていかほどの物だろうってちょっと想像しない?当時はそういう事は言わないわけです。でも、おかしくなっちゃった奴はかなりいるでしょうね。
そういう、言うなれば、見たら目が潰れるような種類の物というのが山のように歴史の中にあるとして、あるいは歴史その物が実態としてはそういう物だとして――これは非常に暗い見方ですけれど――二番目の「歴史」というのは、言うなれば、この直視したら目が潰れるような物を、先ほど言った、そういう世界の怪異性みたいなものに直面した人間が、それを物語化する事によって、謂わばその状況その物を鎮めると言ってもいいですし、祀ると言ってもいいですし、こう言っちゃうと宗教的過ぎるんだと思うなら、ある種の物語化する事によって、合理的に受け入れられる物にしていくという運動があるんだとすると、「歴史」がそういう機能を果たしてくることがある。この場合の「歴史」というのは、さっき言った二番目の意味での、ある文脈に沿って切り出してくるという行為になりますけれどね。

閑話休題。イギリス人の健忘症と「民族自決」について

一つ、ちょっとね、多少気持ちが変わっているんで、あまりこういう事を言いたくなかったんだけれど、喋っていると言いたくなってくるから、仕方がないなと思って言いますけれど、これ、あんまりトラウマが非道すぎると、どうも民族や国家ぐるみで記憶喪失に陥っている連中というのがいるんだわ。
それね、一番具体的な例で言ってしまうと、イギリス人の場合は、明らかに、ある種の健忘症に陥っていると思う。あまりにも恐ろしい経験をしているから。そのあまりにも恐ろしい経験をした結果の健忘症の末に何が出てくるかというと、来ていらっしゃる方の中には、とても好きだという方もいるだろうと思うし、そして来ていらっしゃる方の中には私が死ぬほど嫌いだって言っているという事を知っている方もいると思いますが、そういうのの典型になってくるのが、例えば『指輪物語』なんですよ。
指輪物語』の何が奇妙と言ったってさ、つまり色々な種族が、それも肉体的な特徴が極度に違う種族が、それぞれに集落を作って、でも行き来が出来ないほど隔絶していない場所に、なんとなく平和に共存して、それぞれに独自性を保ちながら暮らしてるじゃない。あの状況がまず有り得ないって私は考えちゃうわけ。それは、非常に特殊な幻想だよね、という気がするんです。
だって、あれ、ルワンダの虐殺の話は前にも話したことがあるけれど、ベルギー人がやってきて、現ルワンダの所に普通に住んでいる人たちを見て、それを二つに分けたんだよ。背の低い人と背の高い人。そして、背の低い人たちというのは農耕民族だから背が低くて、背の高い人たちというのは騎馬民族だから背が高いなんだって言った。そして、騎馬民族というのは優秀な民族なんだから、この連中がこの国を支配すべきだって勝手に決めたわけ。
言うなれば、エルフとドワーフに分けたんだよ。ルワンダ人を。
別に彼らは元々どういう商売をしてたかとか、どういう生活形態をしていたかという問題とは別に、全然意識しないで普通に雑婚していた人たちの所に、いきなり外から、ベルギー人がやってきて、今日からお前らはドワーフだ、お前らはエルフだって分けたわけ。
そこで、人間というのは本当に嫌な物だ、と思うのは、その瞬間に違う人たちになっちゃった。あるいは、そこに我々は異なる種族だという認識をするようになっちゃった。そして、種族間の争いがそこで発生する。
これ、どこでも同じで、人間が住んでいる所だったら、どこでも、なんであれ、真ん中に線を引くんですよ。ぴーっと。そして、今日からお前らはこれで、お前らはこれだって言う。そういう風に教えると、なんと言っても人間というのは真ん中に線を引いて、俺たちとお前ら、ってするのは大好きなので、あっという間にそういう状況になっちゃう。
その状態で、平和共存なんて絶対しないの。ほぼ、歴史上、どこに関しても、真ん中に線を引いて、お前らと我々、というふうにした場合、そこで必ず殺し合いが生じるんですよ。ほぼ、例外なく。
その一番典型的な例というのを、イギリス人は経験しているはずなんです。宗教改革の時に。
カトリックプロテスタントのあの、国教化の間で、どれぐらい血塗れの争いがあったかということを、当然イギリスの歴史をやれば、普通に知っているはずなのに、彼らは何故その事に関して、全く物怖じせずに、相変わらずエルフとドワーフが仲良く分かれて住んでいました、みたいな話を脳天気につらつらつらつらつらいつまでも書いていられるのかっていうのが私は不思議で仕方ないのね。
色々考えると、それはあまりに痛い記憶であるが故に、健忘症に陥ったんだろうとしか考えられない。そしてもっと酷いのが、健忘症に陥ったどころか、人間は線を引いたら殺し合いをするという事実に関して、心の物凄く奥深くに封印してしまったものだから、例えば外国に出て行くと、必ず線を引いて人を分けてさ、お前らは別々の種族だから共存しろとか言って押付けはじめるわけ。
それが例えば、イギリスのボスニア紛争における、何か妙ちくりんな、現実性のない立回りの仕方とかそういう奴なわけ。どう考えても、少なくともヨーロッパ大陸で、不可能な事を、イギリス人は時々やろうとする。そのうちの一つが、民族政策であり、そしてそれはそのままアメリカ人にも受け継がれていて、例えば第一次世界大戦が終わった時に、民族自決とか有り得ない事を言ってくるわけ。民族自決なんてヨーロッパでやったら、物凄いわけの分からないことになるから。事実上不可能なんですから。
それが可能だとしたら、それは必ず、強制移住を伴わないといけません。あまりにも混住して暮らしているので。
例えば、アルザスなんてどうするのよっていう話になる。パリでフランスの編集者の人に会ったことがあって、名前を聞いて、アルザスの人でしょう?って言ったら、よく分かったわね、っていうけれど、いや、なんとかベルクなんていう名前が、フランス人の場合はベールって言うけれど、そんな名前の人がいたらあっちの方に決まってるって私は思ったわけですけれどね。当てずっぽうでしたが。
ただ、実際問題としてそうで、特にアルザスとロレーヌというのは、18世紀の終わり、マリア・テレジアの所に、ロレーヌ公フランツ・シュテファンが婿に来るときに、割譲する事でフランスの領土になった場所です。だから、フランスになった歴史というのは極めて浅い。
フランス革命の時にストラス・ブールで大暴動が置きますが、これ、ストラス・ブールの市庁舎の襲撃として、ある種非常に有名な事件ですが、この時の問題というのがそうであるにも関わらず、依然として市の中心部を占めている連中が、ドイツ系の住民で、フランス系の住民というのがその問題に不満を持っていたからだという事は、意外にみんな言わないかも知れない。
ところが、普仏戦争でフランスが負けて、アルザスがドイツに割譲されると「うぬ、おのれ、糞」とフランス人であるアルザス人は思ったという話になっちゃうわけですよ。実際問題として、アルザスって何なのって言ったら、はっきり言ってそんな事は分かりませんと言うしかないでしょう。そういう地域が、ヨーロッパの国境地域に無数にあります。
本当に民族自決というような原則を徹底するとしたら、ここで混住している人間達を全部分けなければならないという事になってくる。それは果たして可能ですかという話になる。混住している状態で上手く行っている物を、なぜわざわざ分けなければならないんですかという問題になる。
ナポレオン戦争の時で言うと、ネイ元帥があの辺の出なんですよね。宿屋の息子なんですよ。宿屋の息子というポジションもあるけれど、凄く不思議なのは、ネイ元帥ですよ。あの赤毛の。いいんだけれど。知っている人は知っているから、この問題に関してはあれしておきましょう。勇猛果敢なネイ元帥だと言っておきます。これが、メッテルニヒの回想録にやたらに出てくるんですよ。よくネイと話をしている。
なんでだろうと思って考えたんだけれど、メッテルニヒ自身がストラスブールの大学に行っていたという問題があるんで、そういう点で近づきやすかったのかも知れないけれど、どうも、ドイツ語が凄く出来たんじゃないかと考えられる。ちょっと具体的な記述は見たことがないんですが、非常にぶっちゃけた話をしてくる事があるんですよ。ネイ元帥が。
という事は、つまり宿屋の息子とか、普通の町人まで含めて、かなりバイリンガル的な生活をしていたと推測が出来るわけで、こういう地域のことを、そんな風にまっすぐ線を引いて二つに分けるなんて言うことは出来ませんという事になる。
どうしても、ある行政的な配慮に基づいた形で、異なる民族を包合する形でしか、国家が成り立たないようなところが、ヨーロッパには沢山あったし、勿論世界中、沢山の場所がそういう風になっています。
そして、今日に至って、移民という問題をどこの国でも抱え込むようになった状態においては、ほとんどそういう種類の、種族の住み分けなどと言うのは、有り得ない幻想でしかないんですよね。
これは私の政治的見解なので、その問題に関しては、全体をこうやって括弧でくくっておいて下さい。本筋に関係ないですから。

歴史は「物語」として機能する「事もある」

ただ、そういう種類の形で、隠蔽されてしまうと言うことが、歴史上には沢山ある。従って、ある意味、国史という奴は、それだけ単独で語られた場合には、鵜呑みにしかねるような所が多々出てくるという問題は常にあるわけです。
ついでに、ちょっと一言あれしておくと、物凄く大変な話というのがあって、これはWEBで書いていた、イディッシュ文学の専門家、イディッシュというのは、ユダヤ人がドイツ語を元にして作った、ある種の特殊な言語なんですが、ウクライナからポーランドにかけて、ある種非常に豊かな、文学的な成果を生んだことのある言語なんですよ。今だと、アメリカなんかで、ニューヨークの、かなり高齢の人など、まだ少し喋るらしいですが、おそらく遠からず多分喋る人がいなくなってしまうであろう言語ですがね。
このイディッシュ文学の専門家が、イディッシュ文学の研究がしたくて、色々やっているわけですけれど、この所の状況がどうも芳しくないと。つまり、ソビエト連邦が崩壊しちゃって、ウクライナが独立したでしょう。独立した途端に、イディッシュ文学の研究というのが、現地であまり歓迎されなくなっちゃったんだって。
何故なら、彼らはウクライナ人としてのアイデンティティを確立するために、ウクライナ語を話すウクライナという物を確立するために、躍起になっている。従って、文学研究の上で二つ、大きな問題が出てきちゃうんです。それは何かというと、ウクライナで主に活動していた――その人が書いている分にはね――イディッシュの文学を、研究の対象から外したがる傾向が出てくる。明らかにその土地で行われていたにも関わらず、ウクライナ文学ではないという言い方をするようになってくる。
二番目は、これまた凄く気の毒な話なんですが、ウクライナ語という事になっちゃうと、ウクライナ出身のロシア文学者というのは、実は凄く多いわけですよ。それで、彼らの作品を、ウクライナ文学にカウントするのかしないのかという問題が出てきてしまう。
言うなれば、凄く馬鹿馬鹿しい問題なんですけれど。国家とか民族といった問題を、四角四面に取り上げていった場合には、必ずそういう問題が出てくることになるわけです。
日本の、多分ある時代以降の文学にしたって、例えばそれが純粋に日本国籍を持っていて、日本人の両親から生まれた奴だけを対象にするというような事を言い出したら、物凄くややこしい事になると思いますよ。例えば、韓国系、朝鮮系、あるいは在日の人たちが、日本の文学に果たしている役割を、全部排除してなおかつ現代日本文学を語れるのか、という話になっちゃった場合には。そして、事実上それに近いような、微妙な無理をせざるを得なくなる瞬間というのが、どこの国でも必ずあるわけです。
多分、使用言語によってある程度分けていって、地域に関していうなら、多言語の存在を容認していくという方向においてしか、ある国家の文学の総体とか、歴史の総体を把握していく事は出来ないという事になるんじゃないかと思っていますけれど。
それで、歴史という物があまりに異様な、我々にとって受け入れがたいような、あるトラウマ的な経験の総体であるとすると、それに対してある文脈を与えて、切り出してきて、歴史にするということは、この世界の異様さみたいな物を、解消するための物語として機能する「事がある」。あくまで「事がある」ですよ。実際問題として、我々が「歴史」と言うときに捉えてきた歴史というのは、こういう意味での「歴史」であることがほとんどであると言っていいと思うわけですよ。
そのうちの一番稚拙な例と言うのが、一頃、教科書作りたがっている人たちが作ってた、あの、所謂「国民の歴史」という奴。あらゆる意味で、物語としての日本人の歴史みたいな物を、何か輝かしい過去しか持っていないような形で切り出してきて、それによって、国民の誇りを高めて、国民を鼓舞しようという、非常に明確な物語性に貫かれた歴史であるわけです。
ただし、中身をみると、凄く微妙な所があって、私、一番笑っちゃったのが――運慶快慶の彫像が凄いというのは、当たり前じゃん。そりゃ見れば分かることで、何でそれを表現するときに、「ミケランジェロより凄い」って言わなきゃいけないのか、私分かんないよ。はっきり言って。あんたら、そこまで誇りがないのかっていうのが、実を言うと、私があの「国民の歴史」を読んだ時の、素直な感想。ここまで言わないと、あんた出来ないのそれ、っていうのが一つですよ。
それを一つのバリエーションとする、より大きな形というのがあって、それが今日一番最初から言っている内容に関わってくるという事ですけれど、言うなれば人間の歴史、人類の歴史、あるいはある国家の歴史、あるいはある民族の歴史みたいなものを、ある一定の意識を持った人たちというのが、自分たちの運命は自分たちで決めて、動かしていくことが出来ると考えて、それを実践する事によって組み立てられてきた、ある歴史みたいな、そういう種類の歴史です。
だから、さっき言った「国民の歴史」の場合には、輝かしい日本を作るために、日本人は一丸となって努力してきたかのような感じがするわけです。勿論そんなわけはないんですが。運慶快慶は多分、がんがん彫っている最中にだよ、自分が日本人であるかどうかなんて、全く考えてないからね。多分。というか、そういう意識があの当時あったかどうかさえ疑問だが、という話になっちゃうわけですが。
ただ、そこで、人間は自分の運命を定める事が出来る。あるいは、目覚めた人間は、というような言い方をそういう場合にはしばしばする事があるわけですが。
あるいは、動物としての、生き物としての、知的生命体としての幼年時代を脱した知的生命体は、謂わばそういう意識に導かれて、自分の運命を自分自身で定めて切り開いてきたのだ。それがこの歴史だよ、という種類の「歴史」。
これが現実問題として、人類が、というか我々が経験してきた、物凄く沢山の、ほとんど意味のない虐殺であるとか、あるいは人間なんかではどうしてみようもない種類の、大変な災厄であるとか、そういう種類の物にさらされ続けて、翻弄されてきた人間のあり方に照らしてみた場合、いかに嘘くさいかというのはお分かりでしょう?
そして、こういう風な形で、このように人類は自ら選んで進化してきたみたいな事を言ってしまった場合に、そこから弾き出される者はどうなるのかという事になってくる。そして大抵の全体主義的なイデオロギーに基づく歴史というのは、こういう意味での、人間が人間の運命を自分でコントロールして、定める事が出来るようになったという事を前提にして語りますが、その時に、必ず物凄い数の人間が――今までの所、ですよ――排除され、場合によっては殺されてきたという事実を忘れるわけにはいかない。

その時弾き出される者たち

そして、その時にあれしてくるのが、前から時々言っている、ロマの話なんですよ。つまり、ゲルマン民族というのが、そういう形で、歴史のあり方に対して、ドイツという国の存在を、ゲルマン民族の運命を成就するために常時努力してきたが、その邪魔になっていたのは、国内にいたゲルマンじゃない奴ら、アーリア民族じゃない奴らだよ、といったときに、ユダヤ人も収容所に送りましたが、同時にロマもかなりの数送ったんです。
いや、これは知っていると思う。最近割合メジャーになってきた事実なんで。昔はみんな気にしなかったんだよね。この問題に関しては。あまり。
ユダヤ人の場合は、それに対抗する形で、ユダヤ人の民族性とか、ユダヤ人の国家性みたいな奴を、がつっと形成してきているから、彼らは彼らで、その受難という奴を、なんとか意味づけようという努力をしているわけです。ただ、本質的にはそれは意味づけられない物なのね。
だけど、仕方ない所はあるわけですよ。具体的な名前を忘れましたが、収容所から生きて帰って来るじゃないですか。強制収容所から。生きて帰って来て、パウル・ツェランなんかそうだったっけ。何年かきちんと仕事をしていたはずなのに、普通の生活に戻って、今はなんともない状態で暮らしているはずなのに、突然自殺する人というのがいるんです。
それで、そういう問題に対して興味をもった研究者というのがおりまして、収容所の生き残りに対して聞き取り調査を行ったわけですよ。自分の収容所経験について、どのように思ったか。それはあなたの人生において、どういう意味があったのか。それでね、ある種とてつもない結論が出てきた。つまり、生き残って、今もなお普通に、精神を病むことなく生きている人たちというのは、有り得ない程ポジティブな精神の持ち主だと言うことが分かった。
「有り得ないほどポジティブな」というのは、私、ちょっとさすがにそれ、全文じゃないですけれど、二、三行抜き書いてある奴を読んだときには、正直目を疑いました。
「収容所の体験は、私にとって、疑いもなく、人間が生きるというのは何かを教えてくれるという貴重な体験だった」と言っている奴が居る。
ちょっと凄すぎると思うわけですけれど。どう考えても何か、逆に何か怪しい感じがするんですよね。つまり、そこまで自分自身に対して、何か蓋をしていく、何かを見ていないことにする。あるいは、合理化していくんでなければ、人間はそういう経験を封印する事さえ出来ないのか。封印というか、消化する事さえ出来ないのかという、ある意味での、さっき言ったような種類の、物語化による合理化っていう奴の、典型的なパターンなんですよね。
元々、つまり楽観的な人なんだろうとは思いますけれど。そうじゃない人というのは、精神を病むことが非常に多いですし、自殺する事も多いですし、何よりも収容所で死んでいるケースが多い。普通の形で、今一体何が起こっているのかという事を、見て、それを楽観的な方向に、「これも経験だから」とかそういうわけの分からない方向に持って行かずに、受け止めた人間というのは、生きていくことが出来ないという事です。逆に言うならば。
そういう形で、ある「物語」を作れた人たちは良いですけれど、作れなかった人はどうなるのか。そういう形で、例えばイスラエルという国家の建国の、ある精神的な礎みたいな物というのを、ホロコーストに置くことが出来たわけで、それが色々七面倒くさい問題を今日に至っては生むわけですが、それが出来なかった、例えば、元より国家も持っていない、ロマみたいな民族はどうするのかという話で。これが、前にも言いましたけれど、『立ったまま埋めてくれ』というアメリカの、突撃研究者みたいな女研究者が、ヨーロッパのあちこちのロマ村に、無理矢理住み込んだり、駅の所で昔――ポーランドか何かかな――巣くっているロマの所にいきなり突撃レポートをかけたりしながら、書いたというえらい本があるわけですよ。
その中に、ナチスドイツによるロマの迫害を、どう思っているか、ロマに聞くという話があったんですね。ロマもかなり凄い殺され方をしていますんで。ところが、なかなかこの話が出てこないのは簡単で、ロマがその経験を語らないからですよ。ユダヤ人と違って。ユダヤ人は、出てきてから、凄く、ほとんどドイツに同化していた人が多いので、そういう意味でそれを語るという、ある動作が身に付いているから彼らは語るわけです。しかしロマはそれをあまりしなかった。そういう意味で、そういう記録は、多分あるに違いないけれど、少なくともまだ私の目には触れていない。実際、多分語った人は凄く少ないんだろうと思う。何故なら、その女研究者が聞いてみたロマが答えた所によると、これはすでに言った言葉ですが、「なんでだと思う?」と言ったら「運が悪かったから」だと答えた。
これは、そういう世界の全面的な怪異性みたいな物を、全く何の準備もなく、かわそうというあれさえもなしに、正面から受けちゃったら残念ながらそう言うしかないだろうという種類の言葉です。そんな問題に関して、ある理屈の付け方、こうでこうでこうでこうなったなんていう時系列順の展開のして行き方も出来ない。あるいは、何故かという問題に関して、例えばドイツ人の側に身を寄せて、ロマというのはわれわれの先祖というのはこういう事で、迷惑をかけていたから、そういう事になっても仕方がなかったなんていう、世の中そういう奴隷の鎖自慢みたいな事をしたがる被差別民ていっぱいいるわけですけれども。
ユダヤ人が時々ユダヤ人の悪口を酷く言うというのを聞くことがあって、本当に――まあ、いいんだけれど。電車の中で一緒になったじじいが、電車の中でずっとユダヤ人の悪口を言っていて、「俺はユダヤ人じゃないけどな」って言うんだけれど、顔を見ていると、もう露骨にユダヤ人だったって事があって、かなり参った。そして、彼らはあれが冗談として通ると思っているらしいから、はっきり言って、日本人としてはそれを聴いていてこう、笑ったものか、笑ってはいけないものか、凄くきついものがあって、もう貴重な経験をしましたが。
ロマはそう言うことすらしないわけですよ。結局人間が自分のことを語ったり、世界のことを語ったりするというのは、ある教えられた、というか身に付いた身のこなしみたいな物でやっていく部分がありますから、それが全くないところにおいては、それを語ることすら出来ない。
じゃあ、それなんだったのって言うと「運が悪かったから」としか言ってみようがない。この時に問題になってくるのは、彼らが第二の意味での「歴史」を語る気が全くないと言うことです。あるいはそのロマがね。
それで、全く語る気がないという事は、言うなれば、世界の怪異性と自分との間で、堤防になって身を守ってくれるような、ある物語化みたいな物が、全く働かない状態で、そういう過去の現実に直面する。それで頭が病気になったりはしないらしいんですが。
そういう人間にとって、あるいはそういう人間をも包括した形で歴史を考えていくときに、それはどうなっていくのかという問題。そして、歴史がある意味で物語だとするならば――「ある意味で」と言ってくれるなら私は全く文句はないわけですが――当然のことながら、そういう人間が自分の経験を語る物語のやり方もあるはず。それがどういう物であり得るのかという話を、来週したいと思います。



講師:佐藤亜紀

原稿起こし:ぷりぷりざえもん

2008.11.29 明治大学にて行われた講義より。

※この原稿は、講師のチェックを受けていません。ぷりぷりざえもんが許可を得て個人的に録音し原稿に起こしたものです。

※いつものように、ミス、抜け、聞き取れなかった部分のフォローよろしく!



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佐藤亜紀明治大学公開講座第九回(2008年度第四回)[1]

前回の授業の内容で、少し訂正があります。「我らの祖先ガリア人は」という問題について少しお話しましたが、高遠先生が、フランスのネイティブの方に聞いて下さったところ、それは元々童謡の内容であるという解答が返って参りました。非常によく知られている曲ではあるんですけれど、やはり現在の一般的な事情に照らした場合には、学校で教えるにはふさわしくない内容であると認識されているというのが、とりあえず常識として共有されているという事でしたので、ノート等とっておられる方は、その旨ご訂正お願いします。

世界の絶対的怪異性

多少陰気な気分なので、多少陰気な話から始めますけれど。大体、この授業の内容は非常に陰気な物なのですが。
 高校の時に、私、下宿していたんです。下宿していると言うことは、下宿代等は月初めに払ってありますが、それ以降、一ヶ月分のご飯代、その他の活動費は、貰っているお金の中から出さなきゃいけないわけです。ところが、かなり馬鹿な物ですから、うっかり前日に本屋に行った瞬間に、澁澤龍彦の箱入の本を買ってしまいまして。高校生が買う物か、という気はするわけですが、そのせいで、文無しになって、昼飯も食えない状態に陥ったわけですよ。
財布の中に残っているのは十円が入っているきりだったんです。それで、これはやばいな、と思って、家に電話しようと思ったんですけれど、下宿といっても、普通の日本家屋の二階の部屋一つずつに、高校生が住んでいるような所で、しかも、おばさんは厳しいんですよ。電話は、今だったら携帯がありますけれど、当時は玄関の所にあるだけで、おばさんに言わないと使えなかったんです。おばさんに「すいません、電話貸して下さい」と言って、電話掛けて、「お母さんお母さん、私は文無しになりました。援助をお願いします」と言ったら、おばさんに叱られるから。ちょっと考えまして、仕方ないので、学校から、このラストの十円を使って、電話を掛けて救援を請おうと思って、昼休みに、家へ電話をかけていたんです。だから、その日は何も食ってないわけですが。それで、空きっ腹を抱えて、電話をして、じーんじーんと鳴って、向こうが出て「はいもしもし佐藤です」と出た瞬間に、誰かが後ろから手を伸ばして、がっちゃんと電話切りやがったんです。。
どこの誰だよと思って振り返ったら、それが、物凄く不思議な話なんですけれど、隣のクラスの子なんですよ。隣のクラスの子で、中学校二年生くらいなのに、身長が175ぐらいあるとにかくでかい女で、物凄く不思議なキャラクターなんで、私はよく知っているけれど、口をきいた事は一度もない女なんです。そいつが、いきなり私の後ろから何の断りもなく電話をがっちゃんと切って「なんちゃって」って言って去っていった。
なんだったんだろうね、あれ。格別それで、以降仲が良くなったとかそういうことはないんだけれど、なんとなく、廊下で会うと、ちわーす、とかやる仲になっただけなんですけれど。
凄く不思議でしょう。世の中って、こういう種類の事がよくある、という話から始めようと思うんですけれど。

それで、凄く大仰な事を言いましょうか。その当時、なにしろ私は澁澤なんて買って読んでますから、クロソウスキーとかも喜んで読んでいるわけですよ。古本屋で見つけた『わが隣人サド』とかを、高校生のくせに、おお、とか言いながら読んで、それで「神の絶対的怪異性」だったかな。そんな事を言って物凄く喜んでいたんですけれど、実態としてよく分かってないのね。だけど、その後ろからがっちゃんをやられた時には、神とは言わないけれど、世界の絶対的な怪異性を感じました。あまりにもわけがわからない。なんの文脈もない。
そういう話から始めたいんですけれど、つまり「世界の絶対的な怪異性」という奴ですよ。この話はここから先、かなり異様になってしまうわけですが。つまり、何が絶対的に怪異なのか。世界の、何が絶対的に怪異だと感じたのか。
この世界の中に、我々がいるじゃないですか。というか、はっと気づくと世界の中にいるわけですよ。その辺りの問題に関しては、随分色々な哲学者が七面倒くさい言葉をこね回して言ってますから、多分ご存じだと思いますけれど。その時に、私と世界の関係が、何か決定的に妙な事になる瞬間があるわけです。このがっちゃんも、言うなれば、非常に些細で、かつ害のない、ある出来事だとは思いますけれどね。

それはつまり何なのかと言うと、自分を取り巻いている世界が、絶対的に、その本質として、何事にも揺るがされることなく我々から関係のない物として存在しているという事です。

暗黙の掟

あるいは、我々の側から様々な働きかけをやって、それが世界との間で何かをすると答えが返ってくるという状態。例えば、電話をするときに、十円を入れると、電話がぶーっと鳴るというような状況においては、全く気がつかないんですけれど、ある時突然に、我々が何をやっても実は何の効果も及ぼしていない。あるいは世界との間に何の関係もなくて、世界はただ単に――我々の働きかけによって揺るがされることなく――全く関係のない何かとしてそこに存在しているという、ある感覚があるわけです。
概ねにおいて、私が「世界はどうしようもなく怪異だ」と言う時には、そういう事だとご了解頂きたいわけです。つまり、世界というのは、我々から縁のない物として存在しているということ、あるいは、我々は世界にとって、全く縁のない物として、切り離されているような、ある感じみたいな物。
こういう感覚というのは、気がついている人というのは、ある意味では凄く敏感に気づく種類の物だろうと思います。

『小説のストラテジー』の中でもちょっと触れましたけれど、多分、カフカ的な物というのは、ある意味ではそういう感覚にごく近接にある何かであり、同時に多分ヨーロッパ文学とか、ヨーロッパについて興味を持って、よくご存じの方だったら分かると思いますが、ある種、練れた文明の人にとっては、自明のこととしてそれが存在していると私は思っていました。

一年ぐらい、パリの国立図書館に、ビブリオテーク・ナショナルという奴ですが、それがまだリシュリューという通り、パレ・ロワイヤルの裏の、古い建物にあった頃、一年ぐらい通った事があるんです。資料を調べるために。
その時、色々注意書きは渡されるんですが、我々の了解としては、注意書きというのは全てではないというのは知っています。多分日本人はみんな知っているでしょう。つまりそこには、明文化されていない沢山の掟があって、その明文化されていない沢山の掟のうちの、一つを踏み越えると、それでアウトになっちゃうという事です。

それで、古い建物の古い閲覧室をそのまま使っていますから、席数が圧倒的に少ないんですよ。だから、朝8時45分ぐらいまでに行って、行列していないと、閲覧席が取れないんです。そして、一度入った奴は、夕方まで意地でも出てこない。昼休みに少し出てくる。
だから、その状態で閲覧席にありつけないとなると、その日は諦めるか、あるいは昼までそこで、総合病院の待合室にいるみたいに、ずっと意地でも待って、一人出て行くたびに、段々中に入っていって、奥の方に行って、上手くすると、12時半ぐらいに入れる、そういう状態になるわけです。
もう一つ手があって、それは何かというと、窓口に頼むんです。なんと言って頼むかというと「目録が見たいから」と言うんです。そうすると、番付の札をくれるんです。普通はいつもその札をくれるんですけれどね。それで入って、適当な時間になったら行って、その札を見せると、いい具合に閲覧席が取れるというシステムなんです。
ただし、これはあくまでカード、目録を見るために入っているので、外に出ちゃ駄目なんですよ。それで、その「外」の案配が凄く難しい。私が見て一番びっくりしたのは、そこの窓口の、ある線、その線を踏み越えて外へ出て話をしていたら、お前はアウトだ、と言われた奴です。あれは多分に意地悪だったとは思いますけれどね。
ただ、そういう事は、観察していると分かるから、しくじらないように、我々は気をつけますけれど、どこにも書いてないし、貼ってもいない種類の事です。
あるいは、手洗いに行くときは、頼めばいいんです。「すいません、手洗い行ってくるんでお願いします」と言うと、黙認してくれる。しかし、そのままの状態で昼飯食ってきたりすると、それはアウト。「あんた、戻ってくるのが遅すぎ。一番後ろに並べ」って言われる。
そういう種類の、所謂「暗黙の掟」というのが、ビブリオテーク・ナショナルには沢山あったんです。上手く閲覧席をせしめるための。
そうしたら、ある時、少しばかり出るのが遅くなったので、割合前の方だったんですけれど、入口のゲートの前の所に、10人ぐらい座れる長椅子の待合室みたいな、楕円形をしているんですけれど、そこに座っていたら、アメリカ人の女の子が来ました。
アメリカ人の女の子だって分かるっていう事は、それだけで実に気の毒なことなんですよ。つまり、パリのアメリカ人というのは凄く不思議なもので、物凄くフランス語が流暢になって、物凄く同化すると、少なくとも日本人の目にはフランス人だかアメリカ人だか分からない。それがはっきりアメリカ人だと分かると言うことは、絵に描いたような外人であるという事なんです。
その女の子が来て、何か一つしくじったらしいんです。良い線まで並んで、列の前の方に来ていたにも関わらず、何か一つしくじっちゃって、資格をなくしてしまった。アメリカ人というのは、そういう時、まけませんから。一応建前としてはまけませんから、激しく窓口に言い寄って、そんな理由はない、大体どこにも書いてないじゃないかと言った。
他の連中はなんとなく見て見ぬふりをして、ああ、ひっかかっちゃったよ、という顔をして、目線を合わせないようにしているわけです。
でも、それは全然駄目だから、他にもみんな待ってるんだから、新しい番号をやるから、おとなしく後ろに並べと言われたときに、その女の子は、かなり泣きそうだったのね。それで、泣く泣くコートとかまとめて、座る場所ないから、廊下の方に出て待っていようとした途端に、ノートとか、鉛筆とか、大きな鞄を片付けなくちゃいけないから、沢山積んでいた物の中から、筆入がぽろっと落ちたのよ。その瞬間に、あっと思って拾おうとするでしょう。そうしたら、その他の、辞書とかそういう物が次から次へ腕の中から転げ落ちて、最終的に全部落ちたんです。そうしたら、その場で、その子、うわーって泣き出した。
分かるでしょう、この感じ。なんとも言えない、ある種。もう一つ言うと、あ、ってその子が来た瞬間に思ったのは、既にだいぶ神経がおかしくなっていたということ。そこで泣き出すだけの下地はあるんだと思ったんですが、やはり外国生活というのは、アメリカ人には凄く辛いらしくて、私も留学していた時に、アメリカ人の女の子が、奨学金を取っていたのに、留学を途中で投げて国へ帰ってしまったのを見たことがあります。
その時に、少し話をして聴いたら、「私はちょっとこの国には耐えられない」と。まず第一に、彼女は留学生なので、学生寮に入っていたんですが、学生寮にラウンジが無い。無いというか、入口の所に、ちょっと長椅子などがあるケースもあるんですが、所謂、学生寮のみんなが集まって話をしたり、お茶をしたりする空間というのは、確かにブザンソンの大学には無かったんですよ。
だから、せっかく寮に入ったのに、誰ともお友達になれない。テレビ室に行ってもいいんですけれど、テレビ室ってちょっと怖くてね。チャンネルが6しかないから、チャンネルごとに6室あって、それぞれチャンネルを放映しているんです。なんだか中が暗いんですよ。それで、いつも一人とか二人とか、こうやってあれしていて、あんまり、入りたくないよね。女の子はね。特に夜はね。だから、そういう所にもなかなか行きつけない。
それで、町に行っても、大学にもそういう空間というのは、学食ぐらいしかない。そして学食というのは、知り合い同士が、やあ、とか言って、集まって飯を食っているけれど、そういう所で、気軽く友達を作るチャンスが、フランスだとなかなか無いわけです。
アメリカの、プリンストンの子でしたけれど、彼女にとってはこれは信じ難い事態であるらしいんですよ。それで、キャンパスを歩いていても、誰も「ハーイ」って言ってくれないと言う。いや、言わないよ普通、と思うんですけれど。

そうしたら、フランスの習慣についてアメリカ人が書いた本というのがありまして、その中に、逆のケースが書いてあった。フランス人の学生が、アメリカに留学するんですよ。うん、アメリカの大学って良いところだな、だけど、たった一つ微妙に気持ちが悪いのは、絶対知っているわけないって奴が、俺の顔を見て、「にこにこハーイ」をする。そうしたら、ある日、学生委員会から呼出しがかかりまして。「いや、規則に触るような事は何もしていないと思うんですが、何か?」と言ったら、「お前はみんながハーイと言っている時に、何故ハーイと言わない」と叱られた。
我々の国では、「ハーイ」と言われたら、「ハーイ」と言う事になっている。お前は何故それをしないのかと言われて、そうか、それは仕方がないなと思って、「ハーイ」って毎日やるようにしたわけですよ。そうしたらもう一度呼出しを食ってしまって。――これも多分に与太くさいけれどね――何を言われたか。「いや、あの、あれから注意して、ハーイと言われたときにはハーイと言って挨拶をするようにしています」と言ったら「目が笑っていないので、苦情が出ている」っていうの。
だから、アメリカとフランスの大学では、環境が凄く違うという事は分かると思うんですけれど、そうではなくても、図書館などに通って調べるんで、アメリカ人の学生はよく来ていますけれどね。そういう場所においても、非常に異なる環境にさらされて、ちょっと神経がおかしくなるというアメリカ人は結構います。日本人もいます。日本人の場合は、更に深刻なケースを沢山知っていますけれど、その話はおくとして、夏目漱石みたいな奴が100人いると考えて頂ければいいわけですが。夏目漱石の留学の話を知っている方、おられると思いますけれど、留学する方は気をつけてください。夏目漱石の留学は、留学生がやってはいけない事を全てやっていますから。

まず正規のルートに乗らない。正規のルートに乗らないという事は、環境に馴染むチャンスを失ってしまうという事です。全く何の状態もないまま、街に暮らすなんて言うのはあれです。そして、その状態で、下宿をどんどん田舎の方に向かって移っていく。これは最悪のパターンなんだよね。なるべく町中に住んで、一応正規のルートに乗って、一応毎日、何かを達成しているような錯覚でもいいから、起こしておかないと、留学なんてものはとてもじゃないですが、やってられるものではありません。
その女の子は、多分そういう種類の――フランスなどには沢山ありますよ、暗黙の掟みたいな物。一応そこにいる人間は、多分こうだなと思っていて、日本人などでも、まあ、そういう暗黙の掟はあるよね、と思って、なんとなく踏み越えない物。いきなりそれに直面したときの、アメリカ人のショックという奴を考えて欲しいわけですよ。そうしたら、夏休みが来まして、夏休みになると、夏休みのアメリカ人が更に大量に来るようになったんですよ。そうしたら、多分、苦情が多いのにうんざりしたんだろうと思いますけれど、フランス語と英語の対訳で、暗黙の掟が全て明文化され、入口に張り出されていました。私もそれ、一々チェック入れて、やっぱりそうだったか、多分そうだろうと思ってた、ああ、やっぱりそうか、というのが全部書いてあるのね。
これが言うなれば文化の違いなんですけれど、そういう暗黙の掟のある世界とない世界というのがあって、アメリカにだって、ないわけはないと思いますけれど、おそらく、暗黙の掟が非常に少ない世界なんだろうと推察しています。
言うなれば、練れた文明というか、我々が過ごしている日本における文明のあり方とか、あるいはヨーロッパにおける文明のあり方みたいな物は、そういう暗黙の掟みたいな物がある。誰も口にしないし、明文化も敢えてしないんだけれど、やっちゃいけない事というのがあるというのを前提にしているわけです。ただし、この状態で我々は慣れて暮らしていますけれど、一つ、それにつまづいた瞬間に、ある異様な感覚を覚える事があるわけです。
あるいは、それを分かって暮らしているんだけれど、もしかすると、私の知らない暗黙の掟がそこにあるのかも知れないという、ある感覚があるわけです。
筒井康隆の『熊の木本線』みたいな世界です。そこに、確実に、言ってはいけない言葉がある。何を言っても良いんだけれど、一つだけ言ってはいけない言葉がある。その感覚は、多分、非常にカフカ的な物として、文学においては表象された物だろうと思うわけですが。言うなれば、そういう何かをきっかけにした瞬間に、世界というのは、ある程度までは理解も出来るし、そこのメカニズムを理解しているから、ある程度まではコントロールできると――この度合いというのは随分色々あるわけですが――我々は思っているけれど、その一方で、何か根本的に完全な把握は不可能だし、完全なコントロールも不可能であると思わせる、ある姿をしているという事が、薄々分かった状態で、我々は暮らしている。それを、「世界の絶対的な怪異性」と私は言わせて頂きたいわけですが。
そういう世界のあり方は、つまり掟を踏み越えるような瞬間にさえも、大概は害がないから、ちらっと見えるだけなんですよね。一瞬。あるいは、我々の周囲の誰かが、全く予期しない所で、予期しない行為をやった瞬間に、この世の中って、私が思っているのとは全然違うのかも知れないという姿をぽろっと出す瞬間があるわけですよ。

9.11

それが、もっとはっきりした姿で我々の前に出現する時というのがある。大抵の場合、非常に個人的に、ある日常の風景の、ある忘れがたい異様な一コマとしてあって、それはなんとなく染みついてこの世界のあり方に、ある全面的には親しみにくい、何か本質的に理解も把握も出来ない物。あるいは、我々にとっての他者としての世界みたいな感覚を持たせることはあります。
希にですけれど、非常に多くの人が、同時にそれを体験するという事を、去年の一番最初の時から実はしていたわけです。今日はそこから話を始めます。
そのうちの一つとして、去年の一番最初の授業で挙げたのが、9.11の事件でした。
思い出話ばかりみたいになってしまいますが、9.11の事件が起こった時、私は田舎に帰ってまして、夏は暑いから田舎に帰るという習慣がありますから――最近は田舎も暑いんだよ。全然涼しくなくなってしまって、何故だろう――そうしたら、10時のニュースを漫然と、風呂から上がって家族でビールとか飲みながら見ていたら、最近は「本当は怖い家庭の医学」でビートたけしの隣にいる、あの超可愛い女の子、というか、結婚しているようですけれど、あの子がまだ10時のニュースで誰かの隣に座っていた時。その時でしたが、彼女がいきなり言ったの。「ニューヨークの国際貿易センタービルにジャンボジェット機が衝突したようです」その時、飲んでたビール吹いた、私。

だって、それは有り得ないもの。一瞬、その光景を想像したらさ、結構吹かざるを得ないわけですよ。
「詳細は、また入り次第お伝えします」とか言うから、思わずわくわくして、その超馬鹿な光景というのは誤報だったというのを待とうじゃないか思っていたら――本当にやってるんだよ。
その瞬間に、家族はさすがに何も言わなかったけれど、私はマジ笑った、はっきり言って。笑うしかないんですよ、あの風景。本当に。私としては、それ、凄く正直な風景だったと思います。私の家族も、やはりその瞬間というのは、なんと言っていいのか分からないけれど、一瞬笑いたくなったのは確かだと思います。そして、日本中でも世界中でも、あの映像を初めて見た瞬間に、笑った人って、凄く沢山いると思うんです。
なんで笑うのかという事です。それは、今言ったように、あまりにも馬鹿馬鹿しいからというのが、理由の半分です。多分、あまりに馬鹿馬鹿しいからというのは、理由のあくまで半分であって、残りの半分というのは、何故笑うのか、多分自分たちでも分からない。おそらくほとんど理由もなく笑っている。そして、その次、あるいは笑わなかった人たちの反応というのは、これはちょっとブログとかその後検索したりしましたが、「非現実的だ」「あまりにも非現実的な光景が目の前に展開した」と感じた人たちが沢山いる。その、あまりにも非現実的だという、ある感覚みたいな物が、その後、すごく沢山の人たちが言うことになった「まるでハリウッド映画みたいだった」という言葉につながってくるわけです。
よく見ていただければ分かりますけれど、あれはハリウッド映画的な映像の作り方では全然ないですよ。むしろ、ウェザーニュースか何かの隅っこで、いきなりやっているみたいな世界なので。そういう意味でのハリウッド的な盛り上げ方とか、そういう物が一切ない状態です。いきなりスコーンと投げ出されているんで、あれを「ハリウッド的」というのは、多分あまり映画を見てないし、見てもあまり絵にこだわってない人たちの反応だとは思うんですけれど。
ただ、それを引き出すのは、当時もうだいぶCGを多用した映像が登場して来ましたから、その「ハリウッド的な映像」という奴が、非現実的な光景を描き出すものという典型としてみんなの頭の中に刷り込まれていたという事だろうと思うんですよ。
ただ、笑うにしても、非現実的だと思うにしても、そこには一つ、共通のことが起こっている。それは何なのかというと、例えばそれが非現実的な物に見えるのは、それがあまりにも現実的過ぎるからです。
その、あまりにも現実的過ぎる、生々しい現実であり過ぎる物を目の前に突きつけられた結果、我々の頭の中のブレーカーがいきなりすとんと落ちているんですよ。それ以上の電流が流れないように。多分この二つとも、笑うにしても、非現実的だと感じるんだとしても、そこの所で、何か我々の心のあり方みたいなものを防衛するための、あるメカニズムが動いている。
つまり、世界が余りにも怪異な場所であるという事が、9.11のあの瞬間に、あの映像によって、我々の目の前に突きつけられている。つまり、普通、都市の上を旅客機は飛ばないし、ましてや高層ビルがある所は、飛ぶことが稀にあったとしても、安全な高度を保って飛ぶか、安全な距離を保って飛ぶかするはずなので、普通にロジカルに考えた場合には、あそこを飛行機が飛んでいるという事は、ほぼないんですよ。
これはどこの都市でも同じだと思います。東京の上空は、割合小さい飛行機は飛びますが、大型の旅客機は飛びませんよね。
私が聞いた話というか、いやごめんなさい、フランスにいる間、一応新聞は毎日読むんですけれど、日本で新聞を読んでいる時と同じで、一面の真面目な記事というのは斜めに読んで、その次辺りにある、小さな与太記事を読むのが好きなわけですよ。多分、新聞が好きな人って、与太記事が好きなんだと思う。その中で、「謎の飛行機が夜毎にパリの上を飛ぶ」というのがありまして。当局も不明なんだけれど、一体何者が飛んでいるのかは分からない。ただ、パリの上空というのは、飛行機は飛んじゃいけない事になっている。にも関わらず、夜な夜なセスナ機でその上を飛び回る奴がいるらしいんです。「当局がその正体を掴まえかねている。一体正体は、暇を持て余した大金持ちのご婦人だろうか。それとも何か邪な目論見を持つ奴がやっているのであろうか。」そこから先、何もない。何、この煽り記事?って思ったんですけれど、それでつまり、都市の上空というのは飛ばないというのを、私は初めて知ったというふうに言っていいと思います。だから、有り得ないことです。
そして、有り得ないのは何故かというと、意図的にではないにせよ、うっかり街の上空で飛行機が落ちたり、それからビルに突っ込んだりしないようにするために、きちんとその現実をコントロールするテクニック、手段としてそれが行われているわけです。それはそうでしょう。だって、本当に例えば羽田を離陸したばかりのジャンボジェットが、北の方に進路を変えるときに、東京の上空で旋回して、旋回している間にエンジントラブルを起こしてそのまますとんと落ちたらどうなるのよ、って考えてご覧なさい。それで、そのまま新宿の高層ビル街に落ちてご覧。凄いことになっちゃうから。だから、そういう事が起きないように、一回海に出てから廻るようになっている。大抵そういうコントロールがされています。だから、ほとんど被害妄想みたいな事を考えないと、セキュリティというのはきちんと守れないという話になるわけですけれど。
それをもっと、今言っている文脈に引きつけて言うならば何なのか。我々は日々、世界の怪異性みたいな物を飼い慣らそうと必死になって努力しているわけです。ところがああいう事をやる奴が突発的に出てくると――あるいは誰だって考えつくわけだけど、地下鉄の中で毒ガスを撒いたらどうなるかって、誰だって考えるわけ。誰だって考えるけど、誰もやらない。恐ろしすぎるから。ま、それをやった奴がたまたまいたという、その事実を考えて頂いてもそうなんですが、世界というのは、常にそういう可能性を、それが起こり得るという可能性を孕んでいるにも関わらず、それはたまたま起こっていないんですよね。
その事によって、我々と世界との関係というのが、ある意味安定した形を保ち続けている。だから我々はそこで安心して暮らす事が出来る。例えば、自動販売機にお金を放り込んで出てきた飲み物を、我々は蓋を開けて、普通に飲むでしょう。中に硫酸が入っているとか、中に毒が入っているという事を、我々はあまり考えない。基本的にそこの所はコントロールされていると思うから。ただ、それは起こり得ない事では、必ずしもないわけです。例えばそれが「世界の怪異性」という奴のある姿です。
あるいは、もっと極端な事を言おうか。もしかしたら、それは誰も毒を入れなかったかも知れない。どの行程をチェックしても、そんな事は絶対にないにもかかわらず、この中に入っている液体というのが、突然致死性の毒物に入れ替わっている事が、絶対に無いとは言えないよね。
そこまで行っちゃうんですよ。世界がどの位怪異かという問題に関して疑いを持ち始めると。これを進めるとかなり病気になってきまして、外にも出られないという話になっちゃうんで、非常に危険ですけれどね。従って、もし万が一そういうことが起こった時には、それをなんとかその事実、世界がこんなにも不気味な場所であるという事実その物を飼い慣らす必要が出てくる。

物語による合理化――9.11の場合

その話をしたときに、確か、これは後になって見たんで、あの時は授業ではあまり話をしなかったと思うんですけれど、”Fallin Man”という、つまり「落ちる人」というドキュメンタリー映画があるんですよ。9.11物のDVDが沢山出た時、一緒になってレンタルの棚に並んでいたのを借りてきて見たんですが、まあ感じの悪い映画でしてね。感じ悪いなと思ってみたら、やっぱり作ったのはイギリス人だったという問題が一つあるわけですが、いいよね、少し傷が浅いんだよね、イギリス人はそういう点においては。
これは何なのかというと、9.11のテロで突入されたビルが崩落する前、中で盛んに火災が起こっている最中に、炎に追われた人たちの中で、窓から飛び降りて死んだ人が結構いる。その場面を撮った写真家がいるという話なんですよ。結構いっぱい撮ったんだよね。色々な姿で落ちる姿が出てきますけれど。
一応ドキュメンタリーだから、何らかの脈絡をつけなくてはいけないので、一応落ちている奴がいるという写真を見せて終わりというわけにはいかなくて、話を作らなくてはならない必要上、一応色々な事をしては見せるわけです。
それは何なのかというと、それがたまたま報道写真に出た際の反応みたいな物。その写真が出た瞬間に、物凄い反発を買ったんです。つまりそれは、我々が一番見たくない種類の物だった。人間が炎に追われてビルから飛び降りる姿は。ましてやあの状況では。
その後、そこでごたごたするんですけれど、最終的に私が記憶している限りでは、二、三年前の話なので、ちょっと印象が薄くなっていますけれど、落ちた人を突き止めようじゃないかという話になってくる。写っているのが誰なのか。一応調べてみるんですけれど、当局の返答というのが凄いですよ。「飛び降りる人の写真を撮ったので、身元を知りたいので、ちょっと協力してくれないか」と当局に聞いたら、当局は「飛び降りた人は一人もいません」と言った。面白いでしょう?
それで、なんとかつきとめて電話をすると、大抵遺族は怒るのね。それは、普通怒るわ。大抵怒るんだけれど、それでは全く話にならないので、一人ぐらい実地に写真を見て確認してもいいという人を見つけまして、写真を持って出かけていって、「ああ、間違いありません。これはうちの人です」というのをやるわけですけれど、その時に凄く面白かったのは――いや、非常にヒューマンな反応なんですよ。その問題に関してとやかく言うというのは、ひどく意地の悪い事だとお断りしておきますが――家族がそれを見て「うちの人です」と言って「なんでこんな事に」って悲憤慷慨して「テロリストをぶっ殺してやる」なんて叫ばないんですよ。「うちの人」という奴に対して、あくまで全ての興味が集中していく。そして「こんな風に綺麗な形で落ちているとは思わなかった」と。その次。「きっと覚悟の死だったに違いありません。心の中は穏やかだったでしょう」と言う訳ですよ。
いやあ、ちょっと呆然とした。でも、きっとそういう事件が日本であったとしたら、遺族はそう言うと思いませんか?あるいは自分たちの身にそれが起こったとしたら、必ず自分たちもそう言うと思いませんか?
ここで考えなくてはならないのは、この時に一体何が行われているかと言うこと。まず、何故当局は「飛び降りた人間は一人もいない」と言ったのか。飛び降りたという事実があってはいけない、と思ったからです。あってはいけない、というのは、不祥事だからなんとかという話ではなくて、そこに、ある決定的な、この世に生きているそれぞれの人々と、そしてこの世界との間の安定した関係を突き崩す可能性のような物が感じられた。だからそれは言ってはいけないことになった。誰も飛び降りていない、というのはそういう事です。
そして、二番目。どうしても飛び降りたんだという事実を突き付けられた時に、遺族はそういう形で、あるお話を作って、そのお話によって、その飛び降りたという事実を納得し、そしてその問題に関して、物語による合理化を図っている。そう考えることによって、人間が普通に、朝出して、働いている所に、飛行機が突っ込んでくるというだけでも災難だというのに、それで火事に巻き込まれて――本人、何の落ち度もないでしょう?どうしてみようもない状況になっちゃって、その中で落ちている写真も凄いんですけれど、それよりやはり嫌な写真だなと思ったのは、窓の所の写真なんですよ。
中でガスが充満してきて、熱にも追われているから、窓を開けて、現代建築のビルですから、細い窓ですから、そこに人が中から鈴なりになって、身を乗り出しているんですよ。その内の一人は、窓枠の縁に立とうとしている。そういう写真。
その状況というのは、ある意味、完全に人間性を剥奪された状態だと言っていいと思います。被害者の人には申し訳ないんですけれど。あるいは、スピルバーグの『宇宙戦争』の中の、トライポッドが襲ってくる瞬間に、こうやって顔を上げた瞬間に、人間の顔から何の表情も無くなっているという話をしましたけれど、あの瞬間の問題に非常に近い物だと思います。その瞬間、我々は人間として、この世界をコントロールしていく事が出来る、この世界の現実を自分の力でなんとかコントロールして、生きていく事が出来るという可能性が、実は全部嘘だったという事が分かる。そしてそういう可能性は、平穏な生活を送っていくためには、あってはならない事。だって、そんなことを考えたら、誰だって真面目に月曜日から会社に行く気がしなくなるでしょう。
こういう忌避は、世界の絶対的怪異性を突き付けられた時に、その怪異性を突き付けられた事実自体を否定するという形を取っています。本来、何の文脈もない、極めてよそよそしい場所であるこの世界に、何らかの、多くの場合非常に物語化された文脈を与える。あるいは、我々は普段そういう物語化された文脈の中で暮らしているから、平穏無事に暮らしていくことが出来ると考えられるわけですが、その文脈が一度剥奪されるのを目にした時に、あわてふためいて、元の文脈をなんとか与え直して、世界を元の場所に戻し、修復しようとする。その事によって、世界を再び安心して暮らせる、我々にとって非常に分かりの良い、見通しの良い場所に変えようとしている、そういう努力だと考えて良い。

物語による合理化――広島、長崎の場合

一応小説の話をする必要があるので、その辺りの観点から言っていくと、例えば「物語による癒し」というような言葉を我々はよく聞くと思います。あるいは「物語こそが今必要とされている」というような良い方がされることもあると思います。そういうのは何かというと、所謂「フィクションによる癒し」という奴は、基本的にはこういう機能を、ある意味で担っている所がある。だから、その「癒す物語」みたいな物に対して、私はある疑問を感じざるを得ないわけです。勿論そういう物を必要としている人は、凄く沢山いるでしょう。凄く沢山いるけれど、それで本当に良いのか。あるいは小説というのは、本当にそれをするためだけの物なのかという時に、かなりの疑問を私を持っているんですね。
読めば、効くには効くわけですよ。本当に。身内を亡くした時などに、何かそういう種類の、美しげな話があって、ああ、うちのお父さんもきっとこうだったに違いないわ、って胸に手を当てて思えれば、それは世界はとてもとても良い場所になりますよ。ただし、だからといって、この世界のあり方その物が、どこかで根本的に変わるわけではない。ただ単に、布を一枚かぶせて、見ない見ない、と言っているだけのような物なので。まして、そういう状況を前にした場合の、人間の為す術の無さみたいな物が消え去るわけではない。何かが、そうやって物語によって騙す事によって可能になるわけではない。ただ単に、目をつむる事が出来るようになるだけですよ。それではね。
ただし、そういう形での物語化によって、世界をもう一度自分たちにとって親しみやすい場所に変えてみようという努力は、格別、近代社会における、あるいは我々が知っている所における、小説や映画といったフィクションだけに限らず、例えば、何かしらの大きな災厄に見舞われた共同体が、その後である宗教儀礼を行う事によって、それを宗教的な文脈の中に閉じこめてしまうという行為も、おそらくはある種の物語化による――世界の絶対的な怪異性を悪魔だと仮定した場合ですけれど――悪魔払いだという事になる事は確かだと思います。
あるいはさ、陰気な話を積み重ねているけれど、仕方ない。これ書いてあるからしよう。
最近はどうなのか知らないんだけれど、私が子供の頃、夏休みの、8月の始めぐらいになると、テレビつけるのが凄く気が重いのね。なんで7月の終わりから8月にかけて、なんで気が凄く重いのかと言うと、終戦記念日が近づいているからですよ。終戦記念日の前には、広島と長崎があるわけです。テレビって、あの頃凄く真面目だったから、朝のおばはん向けのワイドショーみたいな番組でも、必ず直前になると、その話ばかりやるわけですよ。そうすると、はっきり言って、私は子供がいたらあまりこういうのを見せたくないなと思うし、子供の頃にも見たくなかったような物を、山のように見せられてしまう。焼跡の写真であるとか、あるいは被爆者の方々の写真であるとか、そういう写真。
凄く不思議なのは、最近になって出てきた写真だからなのかも知れないんですけれど、広島の、直後の写真で、唯一、これは救いだなと思った写真を、去年か一昨年ぐらい、はじめてNHKで見ました。それは、広島に確か原爆を落とした三日後くらいに、米軍が上空を通って、どうなっているか現場の撮影をやった写真の中に入っているんですよ。何日か続けてやったらしい。そうすると、被爆した直後、交差点の所で、市電が横倒しになって倒れているんです。ところが、何日か経つと、その同じ市電が、道の横の方に寄せられているんですよ。そして、何日か経つと、市電が無くなっているんですよ。面白いでしょう?
これは――たまには何となく希望の言葉を語らなくてはならないという気がしたから言いますけれど――本当に、それはある種の希望を感じる風景でした。初めて見た、あんなの。
つまり、あれだけの事があった状況下でも、道の真ん中に市電があるのは具合がよろしくないと言って、集まってきて市電を動かす人たちがいるんですよ。そして、それはそのままにしておくのは悪いからと言って、きちんと始末をしていく人たちがいるんですよ。あるいは、その後何日かしてから、救護所の写真なども上空から撮られていますけれど、そうじゃなくて、隅っこで物を売り始める人たちがいる。きちんと、そこで生活が再建されていくという過程がちゃんと捉えられていて、あれはちょっとあれでしたけれど。
ただ、子供の頃はそういうの無いのね。ひたすらに、原爆が落ちて、それは見てる子供にとって、ひたすらなトラウマなわけですよ。こんな恐ろしい事が世の中で起きるなんて、という。
広島、長崎に対する原爆の投下に関して、あまり政治的な事に触れたくはないような気はしますが、色々な正当化の問題が言われているのは確かだと思います。その内、かろうじて私にとって納得できる言葉があるのだとすれば「総動員体制をとって戦争行為をしている国にとっては、非戦闘員は存在しない」という事。これ自体が国民国家の非常に大きな問題になってきてしまうと思うんですけれど。政府が戦争を始めると、国民も全員共犯なんですよ。だから、その戦争を終結させるために、前線で武器を取っているわけでもなんでもない人間の頭の上に、爆弾を降らせても構わないんだ、というロジックは、国民国家国民国家が戦争をする場合には必ず出てくる。そのロジックに従った結果がこれだよっていうのが、唯一説明できる物だけれど、納得出来るかというと、出来ない。
それは絶対に出来ないですよ。そういう所から、国民国家って何なのという私の疑問が、ある意味では始まっているわけですけれどね。その所を、例えどこまでどうやっていったとしても、やはり残念ながら原爆を、広島と長崎に、それも8月に入ってから落とすという、この状況については、この状況を引き起こした、ある残忍さみたいなもの。あるいは冷酷さみたいなもの。そして、何よりもその冷酷さにまつわっている――この事って、やっぱりどうしても否定し難いと思うんですけれど――差別性みたいな物は、絶対に否定は出来ない。
ただ実際問題、それも良いことだとは言っておきますけれど、そういう意味で「アメリカ人ていうのは」というような報道の仕方は、少なくともあの当時はしてなかったし、今でもしていない。そして、原爆記念公園の所ですか。「安らかに眠ってください。過ちは二度と繰り返しませんから」と刻まれている。
この問題をちょっと考えて欲しいんです。どう考えても、彼らは何も悪くないんですよ。それを言ってしまったら、そこまでの悪いことを、日本人全員がやったと認識しなくてはならないというのは――かなりやった事は非道いわけですが。大東亜戦争全体を見た場合には。でも、原爆を落とされなくてはならない程非道かったわけ?と、日本人だったらやはりなるでしょう。
私が自分を日本人だと思うのは、その問題に関して考えた時だけだという気はするわけですが。ただ、残念ながら、そういう風に考えた場合、その瞬間に、ある人間のどうしようもない残忍さとか、どうしようもない差別性みたいな物。
そしてそれが平気で行われた瞬間に起こった、ある場景みたいな奴というのが、非常にトラウマ的な事実として、そこにごろんと横たわっていて、そしてこの問題に関して、我々は何とも出来ない。どうにも解決出来ない。物凄く嫌な形で、世界の絶対的な怪異性みたいな物が、我々の目の前にぼーんと表れる瞬間。それは、歴史的には例えば広島、長崎です。
その時に、さっき言ったのとは、また少し違う種類の物語化を、我々が行う事によって、戦争が終わってからの六十何年を生きてきた。それは、つまり、そこにあるごろんとした物に関して、直視してしまったら、日本人は生きていけないから。ましてや、被爆者たちは、それぞれ思いがあると思いますけれど、多分そんな事で、とても生きてはいけなくなってしまう人たちは多いと思う。
もう一つ政治的な状況があって、あの当時からしばらく続いていた政治的な状況下にあっては、そこでアメリカの事を虐殺者として非難しては日本という国家は生き延びていけないという、ある政治的な状況に置かれていた。
といっても、私の事を極右だと思わないで下さい、という話になってしまうんですけれど、その事はきちんとお断りしておきますけれどね。
その中で出てきた、非常に苦しい、ある意味では随分マシな物語化というのが、「過ちは二度と繰り返しませんから」という言葉に集約されてしまうわけです。歴史というのはこういう瞬間を無数に孕んでいるという事を、強調しておきたいと思ったんです。
実は、今日はこの話から持って行って、歴史というか、我々が普通に考えている「歴史」という物の解体にとりかかろうという話だったんですけれど、そこまで行くかどうかな。
一般的にどういう風に皆さんが考えているのか知りませんけれど、人類の歴史というのは、そういうテクノロジー的には20世紀に入ってからの飛躍的な発展があって、その分、引き起こされる状況は、旅客機一機であれだから、という言い方になりますけれど、比べものにならないくらい大きくなっています。しかし、人類の歴史はそういう種類の――安直な言い方をしますけれど――トラウマ的な状況の積み重ねの中で出来ている。あるいは、人類の歴史というのは、世界のあまりにも怪異な姿という奴を、人間が突き付けられ続ける中で展開してきたと言っても構わないと思います。
それは、今広島、長崎の問題で言ったのと同じように、ある意味直視したら生きてはいけない種類の物だったと考えてください。歴史というのは、本当の事を言うと、多分そういう物なんだと思います。そして、それを見ちゃったら、よく人類は恥ずかしげもなく生きているよね、という言い方になってしまうと思いますし、あるいはよくこんな状況の中で、我々は狂いもせずに生き延びて来たねという事になってしまうと思う。
そういう歴史を母体にして、これから考えて行こうと思います。



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佐藤亜紀明治大学公開講座第八回(2008年度第三回)[3]

「近代国家」はどこまで行っても戦争の概念から切り離せない

さて、ナポレオン戦争は、反作用で凄く大きな物を生み出しています。それが、我々が考えるところの「ドイツ人」という物です。この「ドイツ人」という概念は何かという話が凄く難しいわけです。つまり、物凄く古い時代にいけば、「神聖ローマ帝国の版図の中に住んでいて、一定の法律、ラントフォートレア法(?)に基づいて統治されている人民」というのが、「ドイツ人」という言葉の、ある定義であるわけです。その版図の中に住んでいる多くの人間が、ドイツ語を話したというのは本当です。しかし、中にはチェコ人もいますから。かなり広い範囲を含んでいますからね。純粋に神聖ローマ帝国というのが、イコールドイツ人だという意識を、彼らが持っていたとは考えられない。
大体、物凄く多くの諸侯によって分割されていて、彼らはそれぞれ皆、自分の領地から徴税をして、ある一定の行政を行うという権利を持っていますから。一応場所にもよるんですが、軍事と外交の権利は、神聖ローマ帝国とフランクフルトの議会にある事になっていたのかな。少しその辺りはうろ覚えなのですみません。
ところが、「ドイツ人」という言葉は既に存在していたわけですよ。あんたドイツ人?というと、うん、俺ドイツ人、と。凄いのが、あんなにナショナリズムが嫌いだったと言われているメッテルニヒでさえも、俺はドイツ人、という認識は持っていたんです。
さっき言ったドレスデン会談の時の話です。
メッテルニヒは、「とった兵隊は皆ガキばっかりだ。おまけに、あんたの所はロシア遠征でどの位、兵隊を失ったか知っている。戦争が出来る状態じゃないだろう」と、そうはっきり言うわけです。そうしたら、ナポレオンが何と答えたか。「いや、あんなのは屁でもない。死んだのはドイツ人ばかりだ」。
いや、実際そうなんですが。つまり、所謂ライン同盟諸侯からあげた兵隊というのを使っていますから。勿論フランスからも行っていますけれど。それで、死んだのはドイツ人ばかりだ、と言った時に、メッテルニヒは怒ったんです。「陛下、私もドイツ人である事をお忘れなく」。
彼が、自分でドイツ人だって名乗ったのはあの時だけだって気がするんですけれど。
その位、そうした、ある意識はありました。しかし、例えばウィーン会議の時に、ドイツを、統一した国家として作り出そうなどという事は全く考えませんでした。彼はコブレンツの人間で、オーストリアの人間ではないので、今日的な言い方で言うと、本当にドイツの人間なんですけれど、それは考えませんでした。何故かというと、この時の「ドイツ」という概念が、我々が考える「ドイツ」と微妙に違っていたからです。「ドイツ」って国の名前?と言うけれど、国の名前とはちょっと違うんです。
これはまたメッテルニヒの台詞なんですが、イタリアは何故統一しないのかという話になった時に、「だってイタリアっていうのは、ただの地理的な概念だから」と言いました。これは名台詞というので有名なんですけれど。まあお馬鹿な台詞だとも言われていますがね。
イタリアは地理的な概念です。それに対して言うならば、ドイツというのは、地理的な概念というよりは、ある文化的な概念です。つまり、同じ言葉を喋っている。ある同じ習慣を持っている。ある同じ法律に従っている。行政区分は違っても、基本的にスタンダードになる法律は同じ。そういう集団がいる。それが俺だし、だからライン川の所に住んでいる奴と、ハノーバーか何かに住んでいる奴も、俺たちはドイツ人だと言う事ができたんです。
言うなれば、この状態に対して、例えばナポレオン戦争が終わる、その時の戦いの事を――これは凄く持ち上げるわけですけれど――「諸国民戦争」と、私の時の教科書には書いてありました。今どうなっているかは知りません。でも、ドイツ語の膨大な資料集があって、そのタイトルが”Befreiungskriege”となっています。所謂「諸国民戦争」というのは、彼らの概念からすると「解放戦争」なんですね。
ドレスデンで勝ってから、フランスの軍隊をドイツ領から叩き出していくんですが、結局いつも触れ込みと実態は違うという話なんですが、叩き出していくという事がどういう事かというと、ドイツの中にロシア兵をいっぱい入れるという事に過ぎないわけです。そこから先の問題をどうするかというのが、言うなればウィーン会議の最大の問題になるんですけれど。
この「解放戦争」、ドイツ語って意味もなく大仰な感じがするけれど、これは一際大仰ではあるわけです。何故ならば、国家としてのドイツという物が潜在的に始まった、ある瞬間という事を彼らは認識しているからです。革命戦争が、動員された国家としてのフランスという物を作ったのだとすると、そこにいる全ての人間を動員した状態でのドイツという国を作った一番最初は、この解放戦争だと言っていいと思うわけです。
ですから、近代国家というのは、どこまで行っても戦争の概念から切り離せません。それはヘーネ(?)においてさえ同じ。というよりも、解放戦争からドイツが1870年に統一されるまで、60年近い年月が流れる間、ドイツの統一性という概念は、どんどん熟成されて行きます。叩かれたり潰されたり、随分しながらも頑張っていったわけですけれど。経済的な統一はもう少し先になります。1830年代の関税同盟です。

文化が果たした役割

問題は、そこにおいて、文化が果たした役割は何なのかという事です。言うなれば、共通の物と言えば、文化的な物しか存在していない状況、政治的には一時的に挫折した状態におかれているという状況において、共通のドイツ性という物――つまり我々は同じドイツ人であり、本来的には政治的に統一されるべきなんだという方向に向かって、人間を動かしていくのは何なのか。やっぱり文化なんですよ。だから、実を言うと、国家という物が戦争くさいものだとすると、文化というのも非常に戦争くさい物なんです。
従って、まずドイツ語という物が非常な重要性を帯びてきます。言語的な統一です。これはほぼ完全な形であれされる。その中で、19世紀の前半においては、例えばドイツの文学が非常に盛んになっていく。そうした時に、じゃあなんで、と考える。あるいはドイツが統一されていく過程において、文学はどんな役割を果たしたのか。つまりドイツ人の統一というのは、文化においてなされたのだと考えなくてはいけません。
それはそうでしょう。我々は今、凄く簡単に「ドイツ人、ドイツ人」と言っているわけですが、ドイツ人だって必ずしも単一の物ではないですから。
もし非常に純粋な、同一の起源から発生するある民族集団がいたとしても、とてつもない大平原の中に住んでいるのでもない限りは、当然のことながら隣には必ず別の民族集団が住んでいるわけですよ。
この二つの集団はどう暮らしているのかと言うと、仮に中心点においては純粋さが濃いといたしましょう。しかし、この縁を接する部分では、必ず混血します。物事も混血するし、人間も混血します。最終的には、微妙な濃淡によってしか、民族性という物は区別ができない、という状態に、ヨーロッパの場合はなるわけです。
アメリカ人が、民族自決の原則、とか言って持ち込んだ時に、物凄くややこしい問題が起こる理由がそれです。持ってくるなよそんな物、と思うんですが。彼らの頭の中には、どうもそういう物がありますからね。
そこで文化的な物が果たした、ある役割について話をしましょう。つまり、何の話をしたいのかと言うと……ナチの話をしたいわけです。またしても。というか、ナチの話は、通奏低音みたいな物で、実は私のこの講義の密かなテーマだったりするんじゃないかと思います。
つまりナチスドイツの話をする時に、その空恐ろしい蛮行の数々が、どうしても非常にカラフルな形で我々に訴えてくる部分があります。いや、実際に恐ろしい目に遭った人たちにとってはカラフルどころの騒ぎじゃないのかも知れないんですけれどね。
それで、その時に必ず出てくる台詞というのがあるんです。つまり、特に19世紀において、ドイツの文化レベルが、どれだけ高かったかと言う事を我々は知っているでしょう。今でもまあある種の高さはあるわけですが。ドイツ文学であるとか、ドイツの音楽であるとか、絵画というと微妙なんですが。それがどのぐらいの発展をしていたのか。これは我々がドイツをお手本にして明治以降の国家を作っていった事の大きな理由でもあると思います。そのせいで非常に微妙な事になっている所が日本には沢山あるわけですが。
あるいは哲学にしても、ドイツの、と言えば、あれは凄い、と言わざるを得ない物が、19世紀の間にいくらでも生み出されている。そして、それは必ずしも特権階級だけの物ではなく、普通の市民層に至るまでが非常に高い教養を持っていたということを我々は知っているわけですよ。
にも関わらず、と我々は言うわけです。どうしてあれほど文化的な教養がある人たちに、あんな事が出来たのか。
私はもっと意地が悪いから言ってしまいますが、ブゾーニを聴いていた連中が、どうしてホルスト・ヴェッセルの歌に耐えられるのか分からない。『ドイツよ目覚めよ』(音源と歌詞あり)に至っては、普通音楽を聴く人間は、走って逃げると思うんですが、彼らが何故あれに耐えられたのか分からないって事になるわけですが、それはちょっとおくことにしましょう。
本当にね、『ドイツよ目覚めよ』って、行進曲の奴じゃなくて、歌詞が入っている奴ね。笑いますよ。はっきり言って。あるいは、クルトワイルとか、アイスラーの音楽の持つ、少しジャズ的な物を取り入れた、あの複雑さに耳が慣れていた人間が、あの『ドイツよ目覚めよ』を聴いた時に、この糞音楽、となぜ思わなかったのかは、七不思議の一つではあるわけです。
そういう意味で非常に文化的なレベルが高かったにも関わらず、彼らに何故あんな恐ろしい事が出来たのか。一番ひどい例というのが――ちょっと固有名をど忘れするんですが、まあよくある情景です――つまり、ある種のポンピエ(?)に過ぎないと思うんですが、強制収容所の所長が、今日も恐ろしい事をいっぱいした後で、ラジオをつけて、ハンス・ホッターの歌を、『冬の旅』か何かを聴いて、深い理解を示している。グロテスクな情景ってみんな言うでしょう?ハンス・ホッターの『冬の旅』って凄く良いんだけれど、あるいはベートーベンでもいいんだけれど、そういう音楽を愛する心と、平然と人間の事を処分して最終解決していくという事、それが一体どうやって両立し得たの?という疑問です。
ですが、これは本質的に疑問でも何でもないんです。ドイツの場合も、あるいは他の多くの場所でも、多分そういう面においては、そうした問題は存在しない。文化的であればあるほど、それは可能になるんです。
文化という物が、ある国民、ある人間集団の統一の原理として働いている何かを、常に強めるために作用してきた物だとするならば、この同じ文化という物が、他者の排除に対して非常に親和的であるのは当たり前の話なんです。
文化的な事って、凄くみんなに親切にできて、心も正しくて、物事もよく知っていて、間違った事はけしてしないというような認識自体、根本的な間違いなんです。文化的な人間というのは、基本的にろくでなしだと思っていいと思います。もし、文化的であるにも関わらず、うん、あの人っていい人だよね、って誰に聞いても言われる人間がいるとすれば、「いい人だよね」の方か、「文化」の方か、どっちかに嘘があるんです。すごく極端な話。

肉団子の中のカプセル

何かそういう非常にやばいものが、文化的な物が入ってくる時には常にあるのだという考えです。今言っているのは政治的な話ですが、先ほどした、もしかしたら国民国家は終わったかも、という話に続けて考えてみてください。多分今日に至っては、そこで入ってくる最もやばい物というのは、言うならば商業主義の形をとって入ってくる――あの、私この言葉使うの、本当にためらってたんです。昔、ある作家の先生と話をした時に、その先生はそういうのが好きな方だったからですけれど、資本と階級について話をしましょう、って言われたの。資本の話は堪忍してください、って私は言ったんですが。だって私はアカじゃないから、というのが、常時私の中で非常に差別的な定義としてあって、今日に至るまで私はアカじゃないと確信してます。
だから、資本主義という言葉はあまり使いたくなかった。売上至上主義とか、商業主義とか、そういう形でなんとかごまかしたいと思ってきたんですけれど、今日に至っては言わざるを得ないんですよ。資本主義って。
ある状況の深まりの故だと考えてください。多分、それが一番やばいんです。今入ってきている中では。その中で、人間がまた別の形で顔を剥奪されていくという状況が起こっているという問題を少し考えて欲しいんです。文化という物には、いつもそういう何か凄くやばい物が含まれている。犬に薬を飲ませる時に、肉団子の中にカプセルを入れて、ぽんと食わせるでしょう。ああいう所って、文化にはいつもあるわけです。
それをそのまますとんと食うと言うことが、いかに危ないことであるか。もし私がこうして喋っている事に――与太は多いですけれど――何かの意味があるとしたら、その事です。自分が旨い旨いと食っている物に対して、ある警戒心は常に忘れて欲しくないという事です。

神聖ローマ帝国は露と消えたとしても…

その典型が何なのかというと、いや、結局出ますよ、ワーグナーの話。ニュルンベルクのマイスタージンガーです。これはドイツ統一の前夜、1867年に完成されて、1868年にミュンヘンバイエルン宮廷歌劇場で初演されました。
このマイスタージンガー、春に糞のような演出を観てきたという話(*1)は、もしかしたら知っている人は知っているかも知れませんが、その問題もちょっと絡みます。
本当の事を言うと、mpegファイルを持ってきたらここで鳴らせるかしらと思ったんだけれど、mpegにカットしている時間がなかったんで、持ってきませんでした。暇があったらさわりだけ聴けるところが、HMVとかにあると思うので聴いて欲しいわけですけれど、これね、トリスタンとイゾルデの後に作られたんですよ。
ワーグナーって一本真面目に仕上げるって事をしない人だから、ある微妙な行ったり来たりはあるわけですけれど、トリスタンとイゾルデの後です。そう考えると、やはり、うーん何かなあ、と思うわけですよ。
つまり、トリスタンとイゾルデは、凄く無調に近づいており、しかもそれがくるくる変わるんですよね。非常に安定の悪い状態の中で展開していく音楽です。それに対してマイスタージンガーというのは、いきなり、凄く解りがいいんですよ。
ワーグナーの音楽と言ったときに、今そういう事を言う人はいないし、トリスタンとイゾルデの出だしの所、どうだったっけ?ほら、聴かせただろ、やってご覧、と言うと多分子供でもやると思いますが、あれに人間が慣れるまでには、随分時間がかかって、20世紀の初めには音楽評論家さえ、ワーグナーにはメロディがないと言っていたんです。トリスタンとイゾルデはその一番典型的な物かも知れないんですけれどね。
その後で、非常に明確なメロディを持つ、どんな人間にも、それはもう「スター・ウォーズのテーマ」並に解り易い音楽を、ワーグナーが、しかもオケの厚みだけ意味もなく分厚く作っちゃったという物なんですね。
そして、ワーグナーとしては非常に珍しいことに――コメディがこれ一つだとは言いません。実は他にもあるんですけれど――言うならば、世話物でコメディです。音楽も凄く普通。
言うなれば、ポップでキャッチーなんですよ。ワーグナーの作品としては凄く。多分これはわざとやったんだと思うんですよ。
どういう話か。ニュルンベルクという町に、実際にハンス・ザックスという靴屋の親方が居て、歌を歌った。それで、職人たちによる歌の認定試験みたいなのがあって、そこでマイスターというのを取れると、マイスタージンガーになるわけです。そういう形で組織の中で非常に積極的に活動していた人でした。実際、曲もいくつか残っていますし、録音も手に入らないこともないんですよ。
私が高校の時に、物凄く変わった音楽の先生がいて、これがハンス・ザックスの歌だって聴かされた事があります。私は嬉しかったけれど、他の人はどの位嬉しかったんだろうってちょっと思いました。この人物をモデルにしています。
それで、ニュルンベルクの町に食い詰めた若い騎士がやって来るんですよ。そして、とてもじゃないけれど、城や領地など持っていても絶対に食えないから、町に出てきてなんとか食える方法を探そうと思った。彼は要するに歌を歌う男だったんですよ。
それで、たまたま教会で見たエーファという女の子の事を好きになってしまって、亭主にしてもらうにはどうしたらいいの?と言ったら、マイスタージンガーにならないとうちの親父は私に結婚していいって言わないから、って言われた。よし、なるぞ。歌なら得意だー、と言って、そこの歌うたいのおっさん達の集りに行って、歌うんですよ。
ところが、その歌って言うのが(笑)。規則に則ってないんですね。マイスターの歌というのはルールが凄く厳格なんですよ。それで、けしょんとして、どうしよう、駆け落ちしようか、という所まであれしていくというのがこっちの話。
ところでこっちに別の話があって、実はハンス・ザックスは年寄りだけれど、エーファの事が好きで、妻にしたかった。それで、夜なべ仕事で靴を作りながら、こう考えているわけです。
あの若者の歌は支離滅裂で滅茶苦茶だった。だけど、何か忘れ難い所がある。何か非常に大事な物を含んでいる気がする。
それで、結論から言うと、その若い騎士に、こういう形にすれば通るというハウ・ツーを教えます。こういう形で歌えと発音を教えて、なおかつ、競争相手になる、ベックメッサーという奴がいて、容易に想像出来ると思うんですけれど、やっぱり――ベックメッサーの商売ってなんだっけって時々忘れるんですが、靴屋じゃないし揚枝屋じゃないし肉屋じゃないし――市役所の書記でした(笑)。嫌ですよねこういうの。凄く意地悪いと思うんですよ、私。
それで、その市役所の書記をはめて、出来レース的に、でも良い歌を歌って、彼の事を優勝させて、そしてエーファの事を譲るというのが、ま、概ねの話なんです。
分かり易くてキャッチーな話でしょう。爺さんが、若い新進芸術家の恋の為に自分は身を引いて、あとを譲るという素晴らしい話ですよ。
ところが、中に二つ、やばい物が入っています。この微妙さというのが凄い難物で、つまりニュルンベルクのマイスタージンガーをやばい演目にしている理由です。
最後の所で、マイスターにするよ、と言われた時に、騎士のヴァルターが、いや、いらないからと言う。俺は勝ったんだから別にそれは要らない。町人のメダルは要らないと言う。
その時に、ハンス・ザックスが、彼のことを叱るわけです。その時に始まるのが、「親方達を軽蔑してはいけません」という物なんですが、ただの親方ではないんです。「ドイツのマイスター達を馬鹿にしてはいけません」。そこから始めて、かなり長い独唱があり、一番の締めの文句が「神聖ローマ帝国は露と消えたとしても、聖なるドイツの芸術は我らの手に残るだろう」。
これ、非常にメッセージ性がはっきりしているでしょう。
つまり、政治的なドイツの統一はないとしても、文化によって統一されている限り、政治的な統一は必ず来るという。そういうプログラムを示している一言なわけです。
私がやばいやばいと言っているのは何故かというと、ナチスドイツ時代にこれが、物凄くよく上演されていたからです。ニュルンベルク大会の時にも脇で上演していたという話ですし、前線からの兵隊の慰問にチケットを回す演目というのは、トリスタンでもなく、ニーベルングの指輪でもなく、マイスタージンガーだったと言います。私、前線から来る兵隊さんがあんな物で四時間も五時間も座っていたいとは全く思わないんですけれど。
それはつまり、こういう形で、ある国威発揚的な利用が出来たからです。
だから、今、上演する時に凄く困るわけです。この文句「神聖ローマ帝国は露と消えたとしても、聖なるドイツの芸術は我らの手に残るだろう」という、そこの所で、演出家が物凄く苦しむわけです。
これは私が観た中で一番良かったものですが、ゲッツ・フリードリヒの演出。みんなきちんとしたスーツを着て出てくるんです。今時のですから、オペラでも中世の格好をして出てこないわけです。その普通にきちんとした格好をした人たちの中に、ハンス・ザックスが第一幕で登場すると、くっちゃくちゃの麻のスーツみたいなのを着ていて、ノー・タイなんです。髪もぼさっとした男で、俺芸術家ですみたいな態度で出てきます。
ところが、最後の所で「聖なるドイツの芸術は…」とやるわけだけれど、やった後で、なんとなく恥ずかしそうにして居なくなるんですよ(笑)。一応俺って、心はドイツ人だから言わなきゃいけないって気持ちがあったんだけれどさ、やっぱり言うの、ちょっと微妙かも、この問題は。みたいにあれして、そしてベックメッサーって、はめたわけだから、普通は仲悪になるんだけれど、ベックメッサーの事もこうやって、まあええやん、はめたけど、みたいな。それで和解して、みんなが盛り上がって合唱している最中に、こうやって手を振って居なくなってしまう。
すげえ演出だと思いました。これが一つのこなし方です。
もう一つ別のやり方というのがあって、ちょっと私は、そこまでやっては、演出というか、作品として別物になってしまうので、どうかと思うんですけれど、最近聞いた話では、ハンス・ザックスがそれを言い始めると、聴いていた聴衆が、文字通り一歩ずつ引くという(笑)そういう演出があるそうです。現物は見ていません。
だから、凄く処置にこまってしまうんですね。そういう観点で言うと。言ってしまえば、ゲッツ・フリードリヒみたいにすれば、いなせてしまうわけです。演出次第でいくらでも変わっていくというのがオペラですから。だから、神々の黄昏なんかでも、やばくすれば極右的な方向にいくらでもやばく出来るし、極左的な方向に振ろうと思うと、極限まで極左的な方向に振れる。
そしてもう一つ言うと、ワーグナー自身の立場は、ドイツ統一派の、どちらかというと左翼的な所にあったという言い方も出来るんですよ。だって、何しろドレスデンで、革命家で指名手配された事がありますけれど、その時、確かバクーニンか何かと一緒に活動していたくらいの奴ですから。あんなに反ユダヤ主義者のくせに、別にその事に対して、何の疑問も感じないわけで。つまり国粋主義極左が、簡単に両立し得る瞬間というのが少なくともドイツにはあった。そしてワーグナーはそういう奴なんだという事になると思いますね。
つまり、文化、芸術、ようするに文学も音楽も絵画も、政治的な物とは、多分縁が切れないし、必ずどこかに何らかの態度を示している部分が存在している。そして、何らかの形で全く無垢ではおそらくはないという問題は、多分考えておく必要があると思うんですよ。

「行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って」

そういうケースはままあるわけで、そのうちの一つというのが何かというと、ヴェルディの『ナブッコ』。イタリア語にすると凄くあれなんですが、旧約聖書ネブカドネザルの話。あれをオペラにしているんですよ。この中に、バビロンに連れてこられて、底辺労働を強いられているユダヤ達が歌う「行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って」(youtube)という合唱があります。歌いません。歌いませんから大丈夫です。多分聴けばみんな知っています。これが、つまりはリソルジメント、イタリア統一の時の主題歌だったと言われています。でも、実際にはどうも違うみたいなんです。そういう伝説を作った奴がいるというだけの話なんですけれど、ただその歌は、イタリア人にとって非常な重要な歌、らしいです。そして、あるそういう盛り上がりを含んでいる歌であり、そしてイタリア統一とか、イタリア人のアイデンティティという時に必ず登場するもので、トリノ五輪の時も閉会式ではちゃんと鳴らすという、その位の、言わば第二国歌みたいな物です。
ところで、この『ナブッコ』、凄く嫌な話なんだけれど、オペラってリアルタイムで観ていると政治的に結構生臭いんですよね。ウィーンで私は観たんですよ。その年というのが、極右政党が二度目のカムバックを遂げるんじゃないかと言われていた年で、現行の政権としては、極右政党の伸長は是非止めたい。つまりこの前にハイダーという奴がいたわけですが、それが率いて極右政党が伸びてきた時に、内閣の中に二人入れざるを得なかったんですよ。ハイダー自身じゃないですけれど。
多分、凄く困ったんでしょう。その結果どうしたのかと言うと――いや、何をしたのかは知りません。結論しか私は知りません――極右政党からその内閣に入った奴の一人は胃に穴が開いて病院送りになりました。もう一人は転びました。何があったか考えるだけで怖いという話なんですが。そういう事を二度とやりたくなかったわけでしょう。だから、事前に抑えようとか、一応そういうことなんでしょう。
ヨーロッパの場合はよく政治的な理由でテレビ局が特集を組んだりすることがあります。例えば、フランスなどでも、極右政党フロン・ナショナルが凄く伸びそうだった選挙の時に、言うなればNHKに当たるような、国営の第一チャンネルが特集を組んで、フロン・ナショナルの言い分がいかに間違っているか、みたいなことをやるわけです。
本当にいかがわしい番組で、例えばフロン・ナショナルを代表するって人が出てくるわけですよ。選りにも選って、ここの所に刺繍がついていて、それも全部ピリングになっている服を着て、超貧乏そうなおばちゃんが出てきて、「移民なんてみんな学がないんだから!ポーランド人なんて叩き出すべきなのよ!」
それで、フロン・ナショナルの何とかどうとか地区の何とかさんでした、と名前が出た後に、いきなり、超インテリそうな、ぴゃーっとしたスーツを着て眼鏡をかけた教授が出てきて「あ、それは間違いですね。ポーランド人というのは本質的に教育が高いですし、フランスの国家においても教育の世界においては特に非常な貢献をしているという事はやはり知ってもらわないといけない」。
名前出ると、ポーランド人なんですよ(笑)。えげつねえなこの番組って。ずーっとそれやっていて。要するに、いかにフロン・ナショナルというのが貧乏で教育がなくて馬鹿で、それに対するに、それに反対している人たちは、いかにナイスか、という事なんです。ビデオ欲しかった。録っておいてみんなに見せてあげたいくらい凄い番組でした。
それで、その時に観た『ナブッコ』というのはやはりショッキングで、つまり極右が伸びてきている時だったという問題だったんですけれどね。ユダヤ人達が、完全に難民として描かれてしまうんですよ。難民として描かれるだけではないんです。
シンドラーのリスト』の、ワルシャワゲットーに入っていく所を覚えていますよね。ああいう時って、持てないから、着るんですよ。これは知識として覚えておいてください。何か避難する時というのは、上に重ねられるだけの物を重ねて、鞄の中に入れて、両手で持って逃げるというのが、基本難民化する時のセオリーですから。覚えておくと役にたつかも知れません。
そういう形になった貧しげな人たち、乳母車を押してたりする人たちが、本当に肩を落として出てきて、それは観ているとナチの蛮行という奴を心に思い浮かべずにはいられない光景なわけです。そこで「行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って」って歌う(笑)。
つまり、文化というのは凄く多義的な物だから、ある毒餌みたいな物を必ず含んでいるんだけれど、そこを分かっていれば、それを逆転して使う事が出来るわけです。非常に楽観的な言い方ですけれどね。つまりそういう隙を常に探しながら観ていないと、どんな毒餌を食わされるか分からないよという事でもあるわけですけれど。

歴史と「歴史」

本来、今日入るべきだったのは「歴史」の話でした。つまり所謂歴史じゃなく――私が今「所謂歴史じゃなく」と言った、括弧をとってしまった歴史という物は、簡単に言えば、人類がやってきた事の中で、一応記録にとどめられている、為された事全体だと考えてください。そういう歴史ではなくて――ええと、私ね、この前やっと分かったんですけれど、アメリカの映画観ていて、よくこういう風にするでしょう?これ、なんだと思いますか?私初めて知ったんです。””なんだって。ようするに、所謂”国民がね”とやった時は、これ、括弧に入っているわけですよ。ああ、そうか、と凄く納得しました。ずっと不思議に思っていたし、アメリカ人に聞いても釈然とした説明をしてくれませんでしたから。え?分かるよね?と言われたという話なんですけれど。
ただ、為された事のほとんど全体というのは、ほとんど意味を成さない物だと考えてください。例えば、ペルシャ国王がある事件を前にして、これが起こっていたら大変な事になる所だったんだけれど、なんか腹壊して死んだ、みたいな話と、それからもう少しせこい問題、実は彼には愛人がいたんだけれどこの愛人はこういう女で、みたいな話、全部ひっくるめて歴史と考えた時、それは脈絡も意味も全くない、ある混沌とした総体になってきます。
ただ、これを想定してもらわないと困ってしまうんです。つまり、それとは別の「歴史」(ジェスチャー)という物があって、その「歴史」(ジェスチャー)という物は――分り易くていいでしょう?馬鹿っぽいけど(笑)――純然たる文化の産物だと言う事。実態としての歴史という物と、文化としての「歴史」という物と言っていいかも知れません。
そして、この文化としてのある「歴史」というのは、ある凄く微妙な問題をはらんでいます。つまり、今文化というのは微妙にやばい毒餌である可能性があると言いましたけれど、歴史というのは、もっと露骨な形で毒餌っぽさを帯びている事があるわけです。それはもうある意味仕方がない所があって、私はフランス人、とても好きだと言っていますけれど、時々どうかなと思う事もあって、それはそういう厳密さに関してどうかなと思うんです。
例えば、EU立ち上げの時に、EUの共通教科書という奴を作ったんですよ。歴史の教科書。翻訳が日本でも出て、それを見ていますけれど、そこの所で、大変なわけですよ。つまり、怨念がこんなに溜りあった人たちが「一応共通の歴史認識を」って、もうここで文化的な産物になっているの、分りますよね。作ろうって話なんですよ。つまり、これは歴史の事実と関係ないんですよ、この「歴史」認識という物は。つまり、お互いに揉めずに済む為の、ある妥協点みたいな物で、とりあえずこれとこれとこれに関しては、みんな認められるよね、ね?みたいな、そういう物なわけです。
その時に、ぱらぱらぱらっと見ていたら、フランス革命戦争の起源の所に、綺麗な棒がついていて、フランス側からやったって書いてあったから、おおおって思いました(笑)。やっぱりこれはこう言わざるを得ないのかと。でも、ドイツ人はその事について、それほど悪く言わないんですね。これはまた非常に倒錯した話なんですが、彼らはその事によって自分たちがドイツ人である自覚を持って、封建的な――という雑な言い方をしますが――体制と戦う事ができた、という認識をするので、それほど悪くは言わないです。ただ、そういう風に書いちゃったんですよ。
ところでフランスはというと、例えば誰とは言わないけれど、言ってもいいけど、フュレって人です。この人のフランス革命史の本というのを――フランス革命の専門家ですから――面白いからぱらぱらっと見て、戦争の起源の所どう書いてあるかなと思ったわけです。そうしたら、うん、凄く難しい問題はあるけれど、ドイツが先にやったって考えていい、って書いてある(笑)。我々は要するに防衛しただけだよって書いてある。やっぱりそういう認識なのかな、問題の多い件なのねそれは、って思ったら、同じ人の別な専門家向けの本を見たら、そうじゃないと書いてありました(笑)。
彼自身の学説がうろうろしたのか、それとも教育的な意図を持って、ある歴史的な認識みたいな奴を小国民達に教えるためには、そう書かざるを得ないって考えたのか。そこに微妙に二枚舌があります。
「歴史」という物には常にそういう所があります。よしんば全く不正確である事が分かっていてさえも、やはりそういう問題は続いていくという事は認識しておかなくてはなりません。
伝統的に小学校で暗唱させる文句で、「我らの先祖ガリア人は」というのがあります。そこから先、ガリア人の偉業の数々と、今日に至るまでの歴史の話を、どうも覚えさせる習慣があって、あれは良い習慣だから法制化しようという話があって、さすがに流れたんじゃなかったかな。どうなったのかな。ちょっとその辺の結論は覚えていません。
ただ、これが何故馬鹿臭いかというと、今現在フランスで暮らしている人間の内の、どの位がガリア人なのかという問題が物凄くはっきりしないからです。簡単に言えば、北アフリカから来た移民の子供達にもそれを言わせるというのは凄く変じゃないかという話。あるいは、ユダヤ系の子供達とか、国境地帯だったら、ドイツ系の子供達だっているわけです。その子供達にも、「我らの先祖ガリア人は」と言わせる。もっと凄いのは、マリから来た移民の黒人の子供にも「我らの先祖ガリア人は」と言わせるのかあんたは、って話になってしまう。
ただ、国家が子供達、国民である者に教えるべき「歴史」というものは、残念ながら常にそういう色彩を帯びざるを得ないわけです。そうでなかったら、国家がわざわざ国民に歴史を教える意味がありません。歴史なんて、何に使うのかと言ったら、そんな事にしか使えないでしょうという話になってしまいますから。そういう意味で、極めて文化的な存在であるし、文化全体が帯びている、ある動員の道具としての性格をより一層はっきりと帯びているのが、そういう意味での「歴史」だと考えなくてはなりません。

祖国の呼びかけに対する…

問題は何かというと、それこそマリから来た移民の子供が、「我らの先祖ガリア人は」言うときに、という話なんですね。「歴史」という物によって、動員をかけられた時に、そしてもしかすると、その動員に対して応えた時に――いや、だってフランスの移民は、そういう事に凄く積極的に応えていくものですから。だいぶ前、先代のローマ法王がフランスに来た時の話ですが、行った先で必ず一人くらい聖人を任命して帰るんです。一応サービスでそういう事があるみたいなんですよ。その時に、選ばれた顔ぶれ、私は結構感心しました。ブラジル人なんです。ブラジルからフランスにやって来た家族の二世で、第一次世界大戦で戦死した兵隊さんなんです。いや、凄い、実に適切な人材を見つけてきたなと。つまり人種の混交という問題を上手に扱いながらも、フランスの国家への忠誠という問題に対して、あくまで揺らぐ事がない。こんな素晴らしい人材、どこで見つけてきたのかという。
そういう問題もありますけれど、そういう形で呼びかけに対して応えていった人間はいくらでもいます。それを言えば、そういう愚痴って沢山記録に残っていて、一番私が笑っちゃったのは、第二次世界大戦が始まった時のロスチャイルドの所の息子の話で、ロスチャイルドユダヤ人だけど、つまりはフランス人ですから。ちゃんと兵隊にとられて、ドイツと戦おうと思って出かけていくわけです。それで、あっというまに捕虜になってしまって、捕虜収容所に入れられたら、周りのフランス人に、「ユダヤ人、ユダヤ人」ていじめられまくったという話があって、結構怒っていましたけれどね。
そういう形で祖国の呼びかけに応える、応えないという問題は、また少し別の問題であり、そしていかに民族という物を中心にしてそういう呼びかけを行っていったところで、基本的にそういう形で民族を中心にしているケースが多いですけれど――アメリカなどは例外です――その時に、いや、とてもじゃないけれど応える筋合いもないし、という人たちがいるんです。
それはロマの話で、それは別途お話します。そして、その国内のメインを形成しているエスニックグループでない人たちというのもまた勿論います。
これも又聞きなので、与太だと思って聞いてください。ロマン・ポランスキーという映画監督がいるでしょう?彼はユダヤ系ですけれど、その親父はユダヤ系だけれど、熱烈なナチだったらしいです。
これは、あるんですよ。その辺の所は、エーベルスの吸血鬼など読んで頂くと分かりますが、要するにユダヤ人と結びつくことによって成立するドイツというアイディアが、少なくともある時期にはあったんです。
それで、ナチが政党を取ったときに、ポランスキーの親父は凄く喜んで、ベルリンまで電車に乗って行っちゃったんだそうです。そしてそれきり行方不明になってしまいました。
どうなったか考えるだけで恐ろしいわけですが。何があったんだろうねという。その事を身内の一人がばらしたら、残りの身内が全員激怒して、何故そんな一族の恥さらしになるような事をわざわざ公言するのかと言って、一頃揉めていたという話を、フランスに住んでいる知り合いから聞いたことがあります。
でも、そういう事もあるわけです。呼びかけに応える、応えないという。出自の問題とは全然関係がない事なんですが。あるいはそれが関係ない状態で、応えざるを得ない状況に追い込まれていく事はあるわけだけれど、その時に、その人間の固有の顔はどうなってるの、という話です。
あるエスニック・グループに所属して、そこで所謂ルーツやアイデンティティを主張する事だけが、彼の固有の顔を主張する事ではないにせよ、フランスの為に戦うブラジル系二世の兵士には、何か自己定義において、非常に微妙な揺らぎがあるに違いないと考えられます。
あるいは、ユダヤ人というのは、生き残る為に教育をきちんとしなければならないと考えています。いかに東ヨーロッパのど田舎に住んでいる超貧乏な親でも、バイオリンぐらいは習わせようと思うのが、ユダヤ人なんです。なんでかというと、親が、怒り狂ったドイツ人やポーランド人やウクライナ人に撲殺されて、孤児になった時に、楽器が出来れば門付けが出来る。門付けをしていれば、何とか食っていく事が出来るから、この子にはバイオリンを、と言って、教えるんだって言ったのが、確かアイザック・スターンだったと思います。
同じ理由で教育はきちんとしなければならないと思うから、一応学校に行くんですよ。そうすると、きっちりナチ式の教育を受けるんです。そこで、彼らがどんなに思い悩むことか。真面目に勉強すればするほど、自己否定をする方向に向かわざるを得ない。凄く可哀相。そういう本があるんですが、ナチスドイツ下におけるユダヤ人兵士という。
みんな兵隊になります。他に就職口がないから。そして軍隊って、潜り込むと、内輪で庇ってくれる所があるんです。ですから、何をごまかしてでも軍隊に入ろうとする人たちがいました。
その前の段階で、例えば中学生ぐらいの、思春期のもんもんが強烈な状態で、夜寝る前に抜いちゃったりするわけですが、抜いちゃうと言うのは、当時凄く悪い事だと言われているわけです。そうして、学校に行けば、人種教育の時間があるわけです。「ユダヤ人というのは本来的に好色な人種である」と教えられる。そうすると、そうか、僕が毎日あんな事をしてしまうのは、ユダヤ人だからか(笑)って、一所懸命耐えようとするんだけれど、耐えようとすればするほど、我慢出来ないのは、僕がユダヤ人だからか(笑)って思っちゃうっていう、可哀相な話で。それを喋っているという事は、彼は無事にその後戦争を生き延びているからなんですけれどね。

予告編

その時に彼が経験した顔の剥奪とは、どんな物なのかという話。その話を、ここから先して行こうと思います。その先にはロマの話が来ます。いや、ロマの話は恐ろしい話なんですけれど。ユダヤ人の国防軍兵士の場合は、体は中に入れてもらって、実体は排除されているという状態ですよね。そうじゃなくて、ロマは丸ごと排除されてしまう。存在その物が、その体制の中から消されてしまう人たちというのがいる。あるいは消され続けているし、自らもそういう物を求めずに、ひたすら暮らして来る人たちがいるというのが、ロマで、言うなればロマというのは、1000年以上難民をしている人たちだと考えてもいいわけですけれども。
ちょろっと予告編で言っておきます。何回も言っていて、好きな話なので仕方ないのですけれど。
そこそこ教育も受けているんですよ。最近は定住してますから。一応分かっている、我々とある共通の理解はあるはずの、あるロマの人に、ナチスドイツ時代におけるロマの虐殺というのは、何が理由だと思うのか聞くわけです。
普通そういう場合、ナチズムがこんなにこんなにこんなに悪いって言えばそれで済むわけです。これが我々の考える歴史認識なんですが、物凄く素直に答えたんだと思うんですが、彼はね、すとんと言った。
運が悪かったから。
そこにはいかなる脈絡をも支える事の出来ない、自己自身の存在がある。自分の存在というのが、完全に――それは、最初の内は考えるでしょう。ある文脈によって、これが起これば次はこれが起こる。相手がこう言ったときに、こういうふうにすれば、大丈夫。全ての事を試して全部駄目だった。その時には、世界を支えているロジックその物が完全に意味を失っているわけです。その時に出てくるのが「運が悪かったから」です。それ以外、何の理由も考えられないから。
つまり、完全にロジックが崩壊してしまった状態で、自分自身の体験を語ると、どういう文章を書くことになるのか。それが誰にでも分かる形でロジックを追った文章では有り得ないという事はお分かりでしょう。そういう所から一体どういう表現が出てくるかという問題について、これからお話して行きたいと思います。
ブローデル『地中海』を読んでくださった方おられると思いますが、ブローデル『地中海』の問題も扱いながら、そういう括弧付きの「歴史」みたいな物を解体する、そして、人間と歴史の関係というのはどうしたものであり得るのかという話を次はしたいと思います。



*1 ハヤカワミステリマガジン2008年6月号掲載「独楽日記」第6回参照。

講師:佐藤亜紀

原稿起こし:ぷりぷりざえもん

2008.10.11 明治大学にて行われた講義より。

※この原稿は、講師のチェックを受けていません。ぷりぷりざえもんが許可を得て個人的に録音し原稿に起こしたものです。

※いつものように、ミス、抜け、聞き取れなかった部分のフォローよろしく!



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佐藤亜紀明治大学公開講座第八回(2008年度第三回)[2]

所謂国民の指導者、そのイメージ


多分これが出るだろうと、分かっていた人はいると思いますが、『アルプス越えのナポレオン』です。さっきの絵とこの絵の、非常に大きな違い。その話はこの前もしましたけれど、もう少し強調しておきます。さっきの絵では、こうして前脚の片側を上げた状態の、割合ダイナミズムのない姿で描かれています。騎馬像などでは時々あるわけですけれども。それに対して、こちらは馬が後ろ足で立ち上がった状態にある。この状態を考えてください。馬の表情も全然違うでしょう。さっきの馬が非常におとなしい――横を向いているけれど、別段気が荒れた様子も何もないのに対して、この馬の、はやって、もっと先に行きたくて仕方なくて、興奮のあまり後ろ脚で立ち上がっている、その姿。そしてこの馬の目。馬のたてがみはどっちの方に流れているか。強烈な風が後ろで吹いている。つまり追い風の状態です。そうしてそこに跨っている一人の男。
ある人間たちの指導者がこういう形で描かれるとすれば、そこに起こった、ある非常に大きな変化は明々白々だと思うわけです。強いて言うならば、我々が「歴史」というときに想像するであろうダイナミズムを、はじめて獲得した瞬間がここに現れていると考えていい。たかが絵なんですけれど、それがどれくらい多くの事を、それが描かれた時代について語るかということを、これを見た時には思い出して欲しいわけです。
まあ、ね。いくらなんでもと思うわけですけれど。よくよく見ると、かなり馬鹿馬鹿しい。でも、これ、毎度見ちゃうんですよ。ダヴィッドの凄く嫌な所ってそれで、ようするに『300』、あのアホ映画の元絵になってしまった『テルモピュレーのレオニダス』とか、『ナポレオンの戴冠』とかって、超馬鹿、とか書くわけだけれど、行くとやっぱり、ついこう佇んで見てしまうんですよね。やはりそれだけの凄さのある画家です。
ダヴィッドに関して言うと、凄く情けない話ですけれど、見ながら、一度泣いた事があります。『マラーの死』を見た時です。あれはちょっと凄い絵です。何かちょっとね…。どう言ってみようもない。現物を見ると――いや、画集で見て頂いてもいいんですけれど、やはり現物を見ると、全然違う種類の要素が入ってくるもので、特にマチエールですね。ご存知の通り、『マラーの死』は未完成の絵ですけれど、それにも関わらず、一人の人間が死ぬという事に関して、これだけの物をこめられる絵描きというのは、どういう絵描きなんだと思ったことがあります。だからダヴィッドは、間違いなく凄まじい絵描きなんです。ただ、これちょっとうざいので消します。だから、私もダヴィッドに関して非常に微妙なものがあるんですよ。好きなのか嫌いなのかと言われると、凄く微妙。
さて、この絵において劇的に変わったのは何かというと、まず、歴史という物の認識の中に、我々がダイナミズムを認めた瞬間はどこにあったかという、その問題。その瞬間に、歴史の主体その物が変わっちゃうわけです。今度は歴史の主体という話になります。
『ユリエールの占領』などの場合に認識されていた歴史の主体は、あくまで一個の君主です。

あるいは、こっち(「ブレダ開城」)を見せてもいいんですけれど、この絵画に描かれている、ある歴史的事件における主体は、この、明らかに非常に高位の指揮官である、二人の人物です。それから後ろの方にも何人か描かれています。多分これは、集団肖像画になっていると思いますけれども、こういう人物たちとして描くことが出来た時代というのがあった。つまり、あくまでその場合の「歴史」を動かして行く、あるいは歴史的な事件を語るときに登場してくる人物たちというのは、君主か貴族だった。そこでは、人民がその国家の領域の中に住んで、その法に服しているという問題は、凄く後方に退いてしまい、それが歴史の主体だと言われたら、多分17世紀の人間はみんな腰が抜けたわけです。そんなことはあり得ない。だって、あの連中、土地と一緒に全部他所の国に行くんだぜって、そういう考え方。それが、劇的に変わった瞬間というのが、フランス革命であり、その後でそれがひどく軍事的な、攻撃的な色彩を帯びてくるのが革命戦争からナポレオン戦争にかけてからなんですね。
そこで起こるのは、人民の、国家に対する組み込みという物です。この、人民を国家に対して組み込んで、国民として組織するという動作のことを、この間からしつこく動員と言っているわけです。
この絵(『アルプス越えのナポレオン』)の感じ、よく覚えておいてください。歴史というのが一体何なのか。どういう風に認識されていたのかという問題に関してですね。
凄く抽象的でしょう?まず、これがナポレオンに似ているかと言えば、まあ、似てない事もないけれど、似てないよって事になってしまう。二番目に、この状況はあり得るかということになると、多分私、このマントを着て、この強風の中で、こんな峠道を馬に乗って行くのはナポレオンだって嫌がったと思っていますし、史実によると、この時使ったのは、馬ではなく、ましてや白馬ではなく、ロバだったと言われています。賢明な選択です。ロバで十分なわけで、こんな所を駆け足で抜けて行く必要は格別ないわけですから。そういう意味では、リアリティというのは全くないわけです。 リアリティがないとすると、この絵にある物は何なのかというと、ある象徴性なわけです。一番それを示しているのが、ナポレオンの上げられた右手。そして彼方を指している、その指。その動作。それから背景です。
背景に注目して下さい。さっきの『ユリエールの占領』で、少し煙が立って陰っていた以外は、空は凄く綺麗に青く澄んでいた事を覚えてらっしゃると思います。つまり非常に穏やかな天気であったのに対して、こちらは明らかに凄まじい暗雲が立ち込めていて、ただ、風が強いものですから、そこここに青空が見えて、非常に混沌としている。そして荒れ模様ですよね。
しかもこれ、馬の尻がこっちを向いているでしょう?この絵画を見ている人間を、後ろに従えて「あっちだ」と指をさしているんです。簡単に言えばね。
それも凄く違っています。ナポレオンは向こうを向いているでしょう?それで、見ている人間は馬の尻の方にいることになっています。そしてその見ている人間に向かって振り返り、向こう側を指さしています。それに対して、『ユリエール開城』の方は、馬に乗った女性は、こちらを向いて、なんとなく普通に、肖像画的ににこっと微笑んだ状態で綺麗に馬に乗って、そしてこうやって全く動かず、後ろの方で戦争をやっているんです。
ここで、見る人間との間に作られる関係が、『ユリエール開城』と『アルプス越えのナポレオン』では全然違う事はお分かりになりますよね。君主を描いた絵に向き合う人間と、それからその君主ないしは指導者との間の関係は劇的に変わってきます。
かつて君主というのは、我々の側を向いて我々を支配している事を、全く当たり前のように、穏やかな態度で示している存在でした。それに対して、ここに描かれているナポレオンは、我々の事を、なんと恐ろしいことに、どこかへ導いて行こうとしています。この後ろの方に、大砲を動かしている兵隊の絵が描いてありますけれど、こういう人たちと一緒になって、この絵を見る人間が行くべき場所を彼は示している。この荒れた天候の中を、激しい峠道の中を。
つまり、我々が言う所の、所謂国民の指導者という物。そのイメージがここに出現している。この時に、ではその「歴史」における主役は誰なの?と言ったら、ナポレオンです、とは必ずしも言えません。勿論ナポレオンは我々の指導者です。だけど、ナポレオンが一人で馬に乗って、一人で向こうへ走って行ったって、何が起こるわけでもありません。後ろを我々がついて行かなければならない。我々はこの指導者の指さす方へ向かって、一丸となって進んで行かなければならない。それが歴史だよ、という認識をこの位よく表した絵画はないと思います。
それで、多分、我々は歴史歴史と簡単に言うけれど、「歴史がその事を語っている」とか、「歴史的に言ってこの国は」とか言うときに考えている「歴史」というのは、多分そういうイメージの何かだと思うんです。
さて、そういう状態に置かれることを、「動員」と言う。では、その時に、こちら側にいる我々はどういう顔をしているのか。今日、さすがに切り取って持って来るのは不愉快なので見せませんでしたけれど、去年観ていただいた『意志の勝利』(youtube)のシャベル部隊のあの顔を思い出してください。あの状態で、我々が一斉にシャベルを背負って、こうやって行列して、こういうふうに行き先を示してくれるのを、待機状態で待っている。これがようするに近代国家の状態です。
つまり、この絵において、ナポレオンというのは、一君主ではなく、国民の指導者なんです。権利によって、つまり相続財 産みたいにしてある国を貰ったからその国の王様であるということと、ナポレオン・ボナパルトであるということの最大の違いは何なのか。国民の指導者であるナポレオンは、謂わば国民の意思を体現する存在であるという事です。彼は無理矢理我々をどこかへ連れて行こうとしているわけではありません。我々が彼の行く所に行くという形で自らの意志を委託した、その意志を体現した状態で彼はここでこうやって馬に跨り、じゃあこっち、と言うわけですよ。

「動員」に先立つある組織化の条件

その時に、では国民とは一体何なのでしょう。さきほどのギゾーの定義でもおとなしい物です。つまり、「住んでいる場所と、従っている法律と、それから出自を同じくしている」だけではまだ非常に緩い。ある意味は緩いんです。ただ、もうすでに「出自を同じくしている」という所で、微妙なやばさは出てきているんですけれど。そのやばさの問題に関しては順次お話しします。
我々が「国民」と言ったときに、今現在の定義というのは、多分もう少し踏み込んだ物になる。つまり、言語や習俗や信仰を同じくしている。それから、民族を同じくしているということもありますね。ただ、それ位の事は、ままあり得るわけです。つまり、偶々そうした物を共有している、ある人たちの集団がいますよという事は、必ずしもその集団が、政治的に統合されて、一つのある行為を完遂しようとして動くという事だとは限らないんです。
今日は、実はフランスの話じゃなくて、主にドイツの話をしようと思っていますけれど、言語、習俗、信仰を同じくし、そして人類学的な特徴を共有している、ある人々の集団が、一個の国家を成していない場合が地理的にも歴史的にもいくらでもあるという事はご存じだと思うんですよ。それを、ある一体性を帯び、ある共通した意志を持ち、それを実現しようと試みる集団だと――そう仮にフィクションの形で思ったとしてもですよ――言い表すようにするには、実は結構色々な手間暇がかかるわけです。
つまり、「動員」に先立つある組織化の条件が存在するという話です。ナポレオン戦争時代の話が一番分かり易いでしょうか。

『アルプス越えのナポレオン』は何のために描かれたか

一般的にですよ、あくまで一般的にです。どうなのか微妙という問題はもしかするとお話するかも知れませんが、一般的に「フランス革命というのは正しい戦争だった」と我々は認識していますし、フランス人もまたそう認識しています。「正しい戦争」とは、どういう事か。既にあの当時でさえもその定義は極めて簡単で、「我々は侵略をされたからそれに対して立ち上がらざるを得なかったのだ」という物です。これが正しい戦争の一番の条件だというのは、時代をどこまで遡ったとしても、いの一番に認める条件です。つまり正当防衛であるという事です。
しかし、少し考えて欲しいわけです。例えば、君主たちの軍隊の連合軍が、ライン川を越えてフランスに入ったとします。それって、プロバンスに住んでいる奴に何の関係があるでしょうか?真面目に考えても、全然何一つ脅かされてないと言ったっていいと思いますよ。その軍隊の侵攻の速度によっては、多分そこまで来ないだろうと考えるのが普通でしょうから。それにも関わらず、その時に、パトリアン・ダンジェ、祖国の危機と言って立ち上がらなきゃなんないと思ってしまうという事が、既に異常事態なんですよ。
そして、これは専門家に言うと凄く叱られるかも知れないんですけれど、実はフランス軍が、革命戦争を始めた瞬間には、侵略はまだ受けていません。実際には、細かく言っていくと、そういう条件で始まった戦争ではないんです。
実際には、ある純然たるプロパガンダとして立ち上がった問題の中で人間が動いていく。しかし、これは普通に考えたら動かないはずでした。ある時に、最大瞬間風速的に何故それが可能になったのかを突き止めて行こうとしたら、それこそとてつもない時間がかかります。
何故、フランス人はその瞬間にそのように動くことを集団的に選択したのか。その時、果たして国民という概念が、前提となるある条件として人間の中に存在していたのかどうか。これは非常に結論が出づらい問題なんですね。つまり、そういう意味でのフランス人としての意識は、「自分たちは脅かされている。だから武器を持って立ち上がるのだ」と、何よりもまず戦争の中で育まれていった。そう考えてください。
凄くシニカルな観察者がいて、実際にライン川の向こうで、軍隊の中をうろうろして、後でその事を書いています。その時、川の所に張り付いていた軍隊は、3万ぐらいしかいなかったらしいです。3万では、川を渡るにもちょっときついですね。それに対して、フランス側は、最終的には120万の軍隊がいました。その120万って何に使うつもりだったのか全く分かりません。
一番最初、まだ徴兵制という概念がないんですよ。兵隊をとるという考え方はあったんです。アンシャン・レジーム下でも、村々にお触れを回して、お宅の所は3人とか、お宅の所は5人とか言うと、みんなで村の広場に集まって、籤引きして兵隊をとるというのをやってました。で、当たると黒い玉が出るらしいんですけれど、黒い玉が出た瞬間に、みんな走って山に逃げたという話があります。
しかし、この一番最初の瞬間に、村々に募兵をかけたところ、結構人数は集まるんですよ。主に農家の次男坊と、それから商店などの丁稚とか。簡単に言えば、今ひとつ人生が面白くない若い連中というのが、勇んで応募してきました。その時の兵隊は、士気も非常に高く、そのため、一戦やって、補給線の延びきった超やる気のない軍隊というのを、即座に撃退する事が出来たと言うことになっているわけですが。
問題はその次の年。一度始めてしまった戦争は続けなくてはならない。兵隊が減ったので、また今年も兵隊を増やそうと思って、徴兵のお触れを出したところ、誰も来ないんですよ。どうしてだと思いますか?もうこの理由を書いた奴は本当に意地悪だと思ったんですけれど。「戦争に行くと死ぬ事があるって分かったから」。そりゃそうでしょうって話なんですけれどね。
しかも、政府側はごんごん兵隊の数を増やしたかった。戦線拡大してますから。最終的に、少なくとも、フランス史という形ではなくて、国際関係史ないしは外交史の世界では、この時のフランス側の戦争目標は、自然国境の獲得だったと言われています。これはルイ14世の時代からのフランスの悲願なので、外交上の問題として必ず出てくるんです。だから一度始めてしまった以上、戦争は必ず続けなくてはならない状況にあります。
それで、兵隊を更にとろうと思ったら、誰も集まらないので、地元のお偉方が凄く困りました。それでどうしたかというと、タイミングを待っていたわけです。一説によると蒲萄摘みのタイミングを待っていたと言われています。そうすると、季節労働者が発生するでしょう。この季節労働者を、道ではってて、ばーっと掴まえて、男だけ全部選りだして兵隊に出すんですよ。実に非道い事が平然と行われていたわけですが。
ちなみにこういう事をフランス人はあまり書きたがらないので、こういう研究をするのはやはりアメリカ人です。本当に非道い奴らです。
ただ、そういう形でやっていくに従って、戦争という物。それからその軍隊生活という物。国家における軍隊という物のポジションが、じりじり上がっていく。実態としてどういう種類の戦争をやっていたにせよです。その辺の軍事史関係の問題については、専門の方の本を読んでいただくのが一番正しいと思います。ただ人民というのを、特に徴兵制をしいてからは、そういういい加減な募兵じゃなくて、兵士として動員する。これは「動員」と言うときに、いの一番に来る意味だと思います。一般の国民の中から兵隊になる人間を、義務として課してとっていく。所謂徴兵制という物です。
いや、これ実は結構面白いんで、徴兵制をやってると、後世の人間にとっては色々役に立つ事があるんです。例えば、徴兵年齢における当時のフランス人の平均的な身長はどのぐらいだったかが分かる。フランス革命200周年の時に出た資料集を持っているんで分かったんですが、大体155か156です。18歳でです。更に、戦争が激しくなってきて兵隊の数が足りなくなると、兵役を前倒しにします。17でとったり16でとったりします。そうすると、必然的に身長が凄く下がってきます。今から考えると、高校生というのは、背は伸び切っちゃって、そこから先はごんごん背が伸びている最中ではないんですが、当時の子供達の育ち方は凄く遅くて、高校生になって、兵隊にとられてその後もまだ背が伸びていたという事が分かるんです。これはなかなか結構な発見でした。そして逆に言えば、ナポレオンが160cmなかったと言うけれど、その身長というのがどれほどの物だったかというのが感覚的に分かってきます。当時のヨーロッパ人は、概ねにおいて小さいです。
ゲーテの墓を暴いた時に、という話をした事があったでしょうか。ゲーテの墓を、調査のために開いたときに骨が出てくるので、晩年のゲーテですけれど、身長をきちんと測って記録にとっています。大体それが170cmありました。この170cmというのは、当時の大体貴族階級の平均的な身長です。だから、それは今日の人間より小さいわけです。当時のヨーロッパ人は、日本人で言うと、昭和一桁位の寸法だったと考えていいです。
勿論イギリス人はでかかったりするし、ブルターニュの連中なんかもでかい。ブルターニュの連中なんかがでかいというのは、180cmで兵隊をとって近衛部隊を作る事が出来た事実からも分かります。つまり身長差が凄く激しいんです。例えば、そっちの方の家の血統を引いているタレーランという人は、身長186かな。だから、その位の身長のばらつきを想定すると、あの当時のある感じに近づくと思うんですよ。
凄く迫力ないんですけれどね。とても長谷川哲也ワールドにかなわない。いや、でも面白いですよ、あの漫画。凄くよく描けてると思いました。物凄く馬鹿な瞬間て山のようにあるんですが、でも基本的には真面目によく描けてると思いました。大体よく調べてありますし。米のように細かい字で途中に、軍事史に詳しい人が色々書いてるから、舐めるように読んでしまう。まあそれはいいとしましょう。
しかし、ただ兵士として動員するというだけでは戦争は出来ません。これはお分かりですよね。つまり、戦争をするためには何よりもまず金が必要なんですよ。この事を忘れると、第二次世界大戦の時の日本みたいに馬鹿っちゃれな負け方するわけです。財源確保をしないで戦争をやってはいけないし、ちゃんと戦争をしている間は算盤を弾いて、そろそろ赤になります、止めましょうと言わなきゃいけません。
ただ、その確保のためには、一般の社会的な活動まで、戦争という活動の中に組み込まれていく事になります。言うなれば「産業の動員」だと考えて頂いてもいいと思います。
ナポレオン帝国は何故解体したかという問題に関しては色々な言い方があるわけですが、簡単に言えば、ナポレオンがテリトリーとしている、ある領域全体に対する、そこの産業の動員の仕方が激しすぎたからだと言ってもいいと思います。
このナポレオン時代のフランスのイギリスに対する負け方というのは、旧ソビエト連邦アメリカに対して何故負けたかに非常に良く似た所があるんですけれど、それはおくとしましょう。
当時の税関に関する本があったので、それを見てあれしているんですけれど、簡単に言えば、大きい領域が出来る時に、基本的にはみんな諸手を挙げて歓迎することが多いです。何故諸手を挙げて歓迎するのかと言えば、そこで商品の流通というのがより広い範囲で行えるようになると期待するからです。
ところがナポレオン帝国は全く反対のことをしました。ドイツに、ある手工業者がいるとしましょう。帝国になって、これで我々もフランスの一部になったわけだけれど、これでイタリアまで直接商品を出せるようになったら大儲けじゃん、と普通は考える。これが当初歓迎される一つの理由です。
ところが、これをやっていると、フランスが儲からない。ナポレオン時代に一時期行われていたある方法というのは何なのかというと、ドイツからいきなりイタリアに対して輸出が出来ないようにしました。一度、まず領域内に移動する。元の国境を越えて移動する商品は、まずパリに入れて、パリからイタリアに出せと言ったんです。これをすると、凄く儲かる理由、分かりますよね。2回国境を越えるでしょう。2回国境を越えるときに2回関税をかけられるんです。
これは業者としてみれば、とてつもなく不愉快なことです。そういう形で産業を支配していきます。あるいは勿論国内の殖産興業みたいな事だって、不完全ながらやります。
さらに言えば、そんなのとてもつきあってられないよ、と誰でも思うわけです。一番最初に、何しろ2年目に募兵をした年には、戦争に行くと死ぬから行かない、という兵隊が続出するというような状況ですからね。ナポレオン戦争時代というのは、そうやって徴兵制になった後です。徴兵をめぐっては色々難しい問題があるんですけれどね。
徴兵したと致しましょう。その数を100としましょう。そうすると、それをとりあえずカゼルネという兵営にぶち込んで、一応訓練して、それで配属します。なんと、この間のロスが10パーセントだったというんです。死ぬんじゃないんです。逃げるんです。普通に。
これがこの頃の常識です。今日的な感覚で言うと、徴兵されて兵営にぶち込まれると、途中で逃げるって考えられないでしょう。この所の、人間の、ある頭の構造の決定的な相違みたいな物を考えています。そんな事するのは俺は堪らねえ、って普通に言えた時代があったわけです。少なくとも10人の内1人は。
ひどい状態で出されるから、嫌だって言って逃げるのは分かるんです。よくやるのは、上着だけ。つまり、軍服を全部支給している暇というか金がないので、軍服のジャケットだけ与えて前線に出すというのをよくやっているんですよ。ズボンは後で送るからというわけです。ズボンは元のままの物をはいている。凄い軍隊だなと思います。これはかなり後までやっています。その状態をみると、普通、俺もうやだ、帰る、という気持ちになるのも分からない事もないです。この戦争本当に勝てるの?という気持ちになってきますから。
本土決戦まで来ると、もう少し状況は違ってきますけれど。ちなみに1814年、フランスの本土決戦の時は、兵役は16歳からでした。マリー・ルイーズ新兵と言われています。その時、オーストリア側、メッテルニヒが和平仲介をやって、プロイセン・ロシア連合軍とフランスの間でなんとか和解をさせようとするわけですが、その時にナポレオンに言った言葉というのがあります。ドレスデンで会うんですよ。ドレスデンの防衛を固めるために新しくとられた兵隊達が一所懸命土木工事をしていました。基本、兵隊の仕事というのは、第一が歩く事で、二番目は土木工事をする事ですから。弾を撃っているというのはほんの少しだけです。
それを見たら、みんな16くらい。メッテルニヒも小さい子供がいたので、「あんたの所の兵隊はみんな子供だけじゃないか、あの子たちに本当に戦争をさせるのか」と言ったと、メッテルニヒは後に回想録に書いています。それに対するナポレオンの答えというのは非常にそれらしい。「人間がどうやって戦争の中で成長するのかを私はよく知っている」。
それは、メッテルニヒとしては、とても受け入れられなかった。彼は子煩悩だから。自分の所の子供が、いきなり16で兵隊にとられ、ろくすっぽ軍服も与えられないまま、前線に出されてその中をひいひい言いながら大人になっていくなんていう状況は、とても彼には我慢できない。ナポレオンはそれが普通だと言うんだけれど。その所のある文化的な対立はなかなか面白いです。
当時は、軍人と、そうでない人間との間には、あるメンタリティの凄まじい差があるわけですが、そこを埋めていくために必要になってくるのが、つまりこれなんですよ。この絵。この絵が何のために描かれたか。国家が、ただ単に兵員をとって戦争をするというだけではなく、生産力、国民が持っている潜在的な活動力を全て戦争の中につぎ込んでいくために必要な物は何なのかと言うと、文化的、政治的な動員なんです。言うなればプロパガンダ的な物です。
だからこの絵は描かれた。そして、だからこの絵というのはこうじゃなきゃならなかったんだと言ってもいいと思います。
プロパガンダと言うと、みんな、ケッて思うわけで、ダヴィッドはプロパガンダ画家だったというような言われ方をしますが、私に言わせるとそれは少し違うんで、つまりプロパガンダの中からでも、この絵を描ける絵描きって偉いよっていう事です。
もし、ナポレオンなどという人間がいたことさえ分からない時代までこの絵が生き残って、そういう事件があった事さえ知らない人間がこの絵を見たとしても、多分、全てではないにせよ、一番最初にこの絵が発表された時にこの絵を見た人間が感じた物と共通する何かを、いくらかは感じる事ができるでしょう。全面的に共有出来るとは思わないですけれど。
政治的なプロパガンダを表現するために描かれている、細かい構図、動作、モチーフ、表情みたいな物が、この絵を全然違う文脈で見る人間に対しても、何か、例えばある動きの感覚、ある厳しさの感覚、あるいは嵐の中をついていくという事の持っている、凄くロマンチックなイメージみたいな物を、必然的に喚起するのだろうとは思うんですけれどね。

当時フランスは一個の兵営であった

謂わばそういう形で、フランス革命戦争ナポレオン戦争を通じて、フランスは根こそぎ動員されていったと考えてもいいと思います。その感覚というのは、当時の人々がよく言っているわけです。
メッテルニヒの回想録に出てくるのですが、ある上院議員か何かが、愚痴って言った言葉です。「今時は、我々は兵隊の額の汗を拭うために存在している人間でしかない」。あるいは、これはタレーランの台詞なんですが、タレーランがしくじって干された時に言った言葉――彼は派手なしくじり方を時々するから――「そこで私は内面の内側の静かな生活に引きこもろうと思ったが、当時のフランスには内輪の生活という物は存在しなかったので、私も必然的に引退した状態で政治に関わらざるを得なかった」(笑)。
そりゃ言い訳だって話になるんですが、タレーランにはそうした内輪の生活とか、内面の静かな生活の感覚ってあるわけです。フランスにそれはなかったという。つまりそこまで全ての物が動員されていた。
当時のフランスの雰囲気は、我々が普通に想像する物とはかなり違う物だと思っていいです。メッテルニヒが報告書の中に書いているのが、人民を操作するための、あるプロパガンダ的な、というかアジテーション活動のやり方みたいな物です。
例えば戦争があった場合に、負けたという情報がかならずアングラで流れるわけです。最初のうち、みんな踊らされるわけだけれど、段々慣れてくると分かる。ああ、負けるって言ってたけれど、本当に負けていないだろうと。負けると言ってしまうと、とにかくこの状態、根こそぎ全部、社会の何もかもが帝国の存在という問題に対してかかっているという状態――つまり常時戦争をやっていればそういう事になるわけですが――で、負けたみたいだという噂が流れるというのは、どの位の重圧を持っていたか。もう通りから何からどよーんとする。
そこでいきなり公式に、実は大勝利、という情報が入る。そうすると、この落差で、普通のこの位の勝利だったのが、この位の勝利に見えてくるんですよ。それで盛り上がって、必ずお触れが出まして、家の窓の所に全部蝋燭を灯して、イルミネーションをしたと書いてあります。そうやってお祝いをするという、そういう生活を毎日していた。
その中で、いや、勝ったなんて良かった良かったと言って、たまさか休暇を取っている兵隊などがシャンゼリゼ通りなどに繰り出すわけです。その雰囲気をちょっと想像して下さい。
そこで、もういい加減手を広げすぎなのよ、とかいう話をするわけです。いい加減止めた方がいいって俺は思うわけね、とかって。まあな、休暇引けたらお前、どこへ行くの、とかいう話をするでしょう。それから家に帰って酒を飲んで寝ていると、ドアをとんとんとんと叩かれるわけです。はーい何ですか?と言うと、いきなり連行されて、お前、昨日の晩の何時何分にシャンゼリゼ通りで何の某という者と、政府に対する不満を口にしたな、と言われる。本当にやるんです。大体お叱りを受ける程度ですむ場合が多いんですけれど。
だから、ある種の警察国家ぶりというのが、非常に不完全な形ながら始まっていた、その雰囲気を想像していくと、容易に、例えば映画など観ると、それが何につながったかというのが分かると思います。つまりナチ時代のドイツの雰囲気に非常によく似ていますよね。映画などで見た場合には。ある雰囲気が。
だから、当時フランスは一個の兵営(カゼルネ。かまぼこ型の、兵隊が住んでいる小屋)であった、というふうに言ったとしても、多分当時の人たちからも――特に冷めた目を持っている人たちからは――それほどの異論は出なかっただろうと思うんです。
ただし、このあり方というのは、近代においては必ずしも特殊な物ではないという事に注意してください。結局、ナポレオン戦争はそれで負けて、王政復古して、状況というのは変わったはずなのだけれど、フランスという国家は相変わらず、潜在的にそのままでした。現今戦争をしていなかったり、あんな大きい戦争はしていなかったりするだけで。
その中で、一番最初に言った、1822年のギゾーの定義が出て来るという事について少し考えて欲しいんです。同じ領域に色々な人間が住んでいるけれど、住んでいて同じ法律に従っていれば、そこの人間じゃん、という感覚に対して、もう一つ全然別な要素を持った、「その国の人間」という物に対する認識がある。それがつまり、”origin”であるという事です。出自の問題という物。
この国家というあり方は、革命戦争が始まった瞬間から潜在的に現れて、おそらくはほぼ今日に至るまで、ずっと続いています。もしかしたら、それはもう終わったのかも知れないんですが。
何故終わったのかというと、兵役という物を止める国がかなり増えてきているからです。兵役でとった兵隊を訓練して使えるような戦争の時代ではなくなってしまったという問題があります。ただその兵役という物がなくなって、志願制の軍隊だけをとるようになって、それを非常にプロフェッショナルな形で訓練するという形式が採用された瞬間に――国民国家というのは兵営だ、と言ったんですが、兵営国家というのも、悪いところもあるけれど、良い所もあるわけです。良い所というのは何なのかというと、簡単に言えば兵営に居れば食いっぱぐれないという事です。国民を動員しておくために、国家は国民を食わせておこうとする努力くらいは少なくとも払ってくれたんだけれど、もし戦争という問題を中心に考えて近代の国家という物が発達してきたのだとすると、徴兵制を止めて、人民を軍隊として動員しなくてもよくなった瞬間に、人民の面倒は別に見なくていいという事になってきてしまう。
何の事を言っているかは分かりますよね。もしかすると、そういう時代が来ているかも知れない。もう5年とか10年経って、私がこの時言ったのはただの杞憂だったと分かるといいなと思っていますけれどね。そうなってしまった時、国民から再び人民に返った我々は、一体どうやって安心立命を得て暮らしていけばいいのかと考える人たちが沢山いるのも分からないわけではないんですけれどね。



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佐藤亜紀明治大学公開講座第八回(2008年度第三回)[1]

「国民」――ギゾーの定義

近代以降の――ここでは1789年以降だというふうに申し上げますけれど――国家において、国家と国民の関係がどのようであるのか。多少史料をあたってみたんですよ。つまり、「国民」という言葉はどのように定義されてきたのか。フランス語の辞書をあたってみたんですけれど、1822年に、フランスでギゾーという人が、あるフランス語の定義を書きました。彼は、”peuple”それから”nation”この二つの概念がどう違うかという事について、きちんと定義をしているんです。
”peuple”というのは「人々」。英語では"people"ですよね。ただし、ここでは政治的な意味できちんととられています。ギゾーの定義によると、「同一の国家の境界線の内部に住んでいて、同一の法律に服している人々」。これを”peuple”と呼びます。では、”nation”というのは、それとは違うのでしょうか。
ギゾーははっきり違うというんです。二つの点では同じです。「ある国家、ある主権に統括されているとされる領域内に住んでいる」。そして、「その主権が定めている法律に服して暮らしている」。”nation”――「国民」――の場合、その他にもう一つ入ってくるのが、「同じ出自――"origin"――を共有している人々」。
出自の問題というのがただの「人々」と「国民」という二つの言葉を――”peuple”というのはあるいは「人民」と訳すべきかも知れませんが――画然と画しているある概念だと、少なくとも1822年に、とある政治家が捉えた。この事をちょっと覚えておいて欲しいんですよ。

フランス革命前夜、ルソーなどを読んだ人は、ほんの少しだった

何故、「1789年以降の世界」と、私が言ったのかは、格別世界史をとっておいででない方でもお分かりだと思います。この時、ある決定的な歴史的事件が起こりました。フランス革命と言われる事件です。
フランス人の場合は、それ以前と以降という事で、そこに一本、線をぴーっと引きたくなるわけです。実際には、ある事件によって人間の考え方が、今日と明日で劇的に完全に変わるなどという事は、あまりあり得ない事だとはお断りしておきます。そこには随分長い積み重ねという問題がありますので。
「1879年に」とか、「1822年に」とか言いましたけれど、私は実は年代の問題というのをそれほど真剣に捉えているわけではありません。あるいは、それほど真剣に捉える必要はないのかも知れないと考えていると言うことはお断りしておきます。
アメリカの歴史家で、ロバート・ダーントンという人がいます。後で、外国人が余所の国の歴史を研究する事にはどういう意味があるのかという点に少し触れるかも知れませんが、このロバート・ダーントンという人、とにかくアナール学派的な傾向の入った、実証主義の鬼だと考えてください。
アメリカの研究機関の研究のさせ方というのも面白いんですけれど、どこかの財団などから、まず予算をぶんどって来て――これはアメリカの学者はよくやっています。日本でももしかするとやるかも知れないけれど、あまり聞いたことはないですよね。アメリカには、一年あるいはそれ以上において、研究の対象となる国に行って、古文書館を這いずり回っている学者というのがいるんですよ。
これはびっくりでしょう?少しオールドタイプなのかも知れませんけれど。今はもう少しテクノクラート的な方法論でさくさくっとやる方が流行りかも知れません。
ロバート・ダーントンは、もともとそういう史料を集める人なんですが、この間、割合新しく訳が出た本で何をやったかというと、あちこちの図書館に行って、フランス革命前夜の貸本屋の目録をあさったんです。
ダーントンの専門は、一応、フランス革命です。あるいは、フランス革命の思想的な背景を専門にしている人で、例えば、『パリのメスマー』とか、そういう本の訳が出ていると思います。もしかすると絶版かも知れませんけれど、読んで損はないので、読んでみてください。これは凄く面白いです。
彼は、古文書館や図書館へ行って貸本屋の目録をあさって、統計をとり、本の名前をだーっとひっぱってくるわけです。そして、どの本がどのぐらい読まれていたのかという事を調べました。これは最初に、ある仮説があるから、図書館に行ってそれを調べるわけです。
世界史をとった人だったらお分かりだと思いますが、「フランス革命を引き起こしたのは、啓蒙的な哲学、思想である」という、ある「言葉」があるわけです。「言葉」としか言ってみようがないんですよ。
教科書的には、「このような形でフランス革命は準備された」と平気で書くわけですが、それは本当かどうかという話です。つまり、フランス革命は本当にこのように準備されたのか。そして、例えば実際にバスチーユの襲撃などが起こった時に、人々は皆、その思想の事を意識していて、その思想に従って動いたのかどうか。その思想で約束されていたような未来が、本当に来ると思っていたのかどうか。
これを検証するために一番簡単なのは、そういう本――具体的に言えば、ルソーであるとか、モンテスキューであるとか、その辺り。政治的な面からもう少し微妙にずれた所で活動していた人たち(だと私は思っていますけれど)である、ヴォルテールディドロ――がどのくらい読まれていたかを調べる事です。ダーントンは、社会変革を論じた著作が、どのぐらい読まれていて、そして読まれる事によって、どのぐらい浸透していたかという問題を検証するために、貸本屋の目録を調べたわけです。
ところが、恐ろしい話なのだけれど、ほとんど読まれていないと言うことがわかってしまいました。少なくとも貸本屋のリストには出てこない。集められるだけの物は集めてみたので、とりあえず漏れはないと思うけれど、貸本屋の、継続的に何月に何の本が入って、何冊貸し出しが出て、という記録その物があまり残っていないというんです。数が非常に少ない。従って、残念ながら統計的な有意性のある結論だとは言えないからという事情で、それ以上の追究は、とりあえず諦めるんですけれど。
ただ、理屈としては、そういう教科書的な書き方で言われているところの、フランス革命を準備したと言われる思想書は、ほとんど誰も読んでいない。では代わりに何が読まれていたか。特に革命前夜、直前に何が読まれていたのか。
ポルノグラフィなんです。革命史をご存じの方はお分かりだと思いますけれど、特にマリー・アントワネットねたのポルノグラフィが、物凄い数、流布していた。
これは非常によく読まれているわけです。他にも色々あるわけです。タイトルが出ただけで、結構にやっと笑える奴というのが。
長谷川哲也『ナポレオン〜獅子の時代〜』を読んでいたら、ナポレオンが何故か本屋の店員していたんです。もしかするとそういう記述が一行ぐらいあったかも知れないけれど、ナポレオンが前掛けして本屋の店員していると思わなかったから、結構びびったんですけれど。その時に、それもあまりないことだと思うんですが、まだ上司と手下の関係になる前のミュラが本屋にやってきまして、そして『哲学女テレーズ』はあるかって聞くというところがあって。どうしてそこでそういうタイトルの本が出てくるんだろう。
この『哲学女テレーズ』という本の現物は見たことがないんですけれど、多分図書館かなにかで探せばあるでしょう。おそらく復刻版もあるし、あるいは家にあるかも知れない。フランスで、一冊叢書みたいなのを出しているシリーズがありましてね、色々な物がそれで揃えられて非常に幸せなんですけれど、その中に、その類の18世紀のエロばっかり集めた一冊というのがありまして、ソレロスなんかが書いている、ビバッドド(?)のポルノグラフィなども、確かその中に入っています。メジャーな奴が5本ぐらい入っているといるという物があって、あの中に入っていたかな。とにかく非常に有名なエロ本なんですよ。
そういう物は読まれていた、というか、読まれていたという形跡はたどる事が出来る。しかし、具体的にルソーなどが読まれていた痕跡を追究することは出来ない。そうするとこの啓蒙思想フランス革命の間の関係を実証的にあとづける事が可能なのかどうかという話になってくるわけです。
色々なやり方はあり得ますが、少なくとも実際に多くの人に読まれていたという検証は出来ませんでした。ただし、そこで一つ二つ、色々な留保が入るわけです。つまり、実際に買われた痕跡がない、あるいは借りられた痕跡がない、あるいはそこから先になるとこれは事実上追究は不可能な事になりますけれど、当時の人たちの書簡のようなものが山のように出てきたとして、その中で語られていた痕跡がない、などという事になってくると、じゃあどうやって、という話になってきます。革命以後の政治的な動きと、その思想的な物の間に明らかに存在する繋がりをどう説明するのか。
その時に出てくるのが、フィルター理論という物です。つまり、本当にルソーなどを読んだ人は、ほんの少しだった。しかし、その人達が何か書いたり読んだり、それこそ当時食い詰めるとみんなポルノグラフィーを書いているので、ポルノグラフィーなどを書く時に、少しずつそうした読んできた思想を入れる。そしてそれを一般の他の人たちが読んだ時に、それが断片として、更にずっと入っていく。これがフィルター理論です。つまり、原典を読んだことはないのに、なんとなく知っているという人がいっぱいいた。
しかし、これは残念ながらあとづけは不可能なんです。実際には、ダーントンが出した結論は、もっと空恐ろしい代物でした。けれど検証が出来ないからというので、一応投げてストップしてきた。真面目な、立派な歴史家の態度ですけれどね。そうすると、一体何が起こったのかという問題について考えなければなりません。
人間の集団が、ある一定の動き方をする。その時に、ある決定的な歴史的事件が起こる。その決定的な日付によって我々はその事件の全体を覚えているわけだけれども、そこにはおそらく因果関係をきっちりあとづけする史料さえ残らないような、もっと非常に漠然とした、ある動きみたいなものがあって、結果的にそれがその瞬間に吹き出してきて形を取るだけなのではないか。
歴史における年代や日付の事を、私はあまり真面目に取りませんと言った理由の一つがこれです。起こることは起こるんですが、その日に起こらなかった理由も、その人物たちによって起こらなかった理由も、本当はないんじゃないか。これはこの次に『地中海』の話をする時に少しまた触れる事になると思います。
ただ、ある微妙な気分みたいな物、何かを求める、ある気持ちみたいな物が、一斉に出来事を引き起こす瞬間が、歴史的には幾つもあるということです。きっちりきっちり仕組んで、登場人物は誰と誰と誰で、この時この人はこういうふうにやって、こうなったらこうなった、というのが事件史的な言い方になりますけれど、実はこういう出来事は、そうした漠然たる動きの上にぽちゃんと一つ立った波みたいな物なんじゃないのか。

(マイクの事について)なんかずっとカラオケしてるみたいで嫌なんだよね。腕疲れるし。こっち(ピンマイク)にしましょうか。
マイクをどこにつけるかというのは難しい問題で、一回だけNHKのテレビに出たんですけれど、NHKのスタジオに入ったら、物凄く渋いおじさんがやってきて、3種類か4種類、各種マイクを出して「どれにしましょうかね」とか言って。物凄いプロなんですよ彼らは。
それでもやっぱり私、テレビを見てると凄く気になっちゃう事がありまして。男の人はいいんです。スーツのこの襟の所に付ければ、大体それで済むわけで。こういう箱があるんですが、ポケットもあるし、どこにでもそれを入れられるから。
辛そうだなと思うのが女の人で、特に軽装の女の人。いや男の人もそうなんですけれど、どうするかというと、例えばTシャツなんか着てると、ここにマイクを挟むでしょう。よく襟の所とかついてますよね。で、その紐が、Tシャツの中に入ってるでしょう。あれを見る度に私、Tシャツの下をマイクの線が走っている感触というのを想像して、あー嫌だって思っちゃう。でも、うん。実際にはそういう不快感は全く無いように、きちんと綺麗に付けてくれました。何事にもプロというのはいるものです。

旧制度における君主の最大の美徳は、動かないこと

では、ちょっとこの前の復習みたいな話からしましょう。絵をなんで持ってくるのか。絵なんて何も証明しないよって言ってしまえばそれまでなんですが、今言ったような、時代が動いてくるある雰囲気みたいな物を、一番的確に捉まえてくるのは、必ずしも歴史的な事実じゃなくて、結局、その時に作られた物だと言うことになるんです。

まず、『ユリエールの占領』(The Capture of Juliers)ですね。この前見ました。確かルーベンス。この前のこの絵についての説明は覚えておいでかと思いますが、要するにアンシャン・レジームにおける、ある歴史のあり方の、非常に典型的な何かを示している絵です。つまり、この街が陥落した記念に書かれた絵で、それは歴史上の一つの業績ですよね。その時に、君主がどのように描かれているのかを注意して見てください。つまり、この歴史における登場人物であり、むしろ主要な主人公の一人である、ある女性の事をそこで描いている。背景に街が描いてあります。軍隊も描いてありますよね。そして、彼女が馬に乗っている。その事によって、この絵画が何を表そうとしているのか。
言うなれば、非常に典型的な、アンシャン・レジームにおける君主、つまりある国家の指導者のイメージの像だという風に考えて頂いて構わないと思うんですけれど。
まず見て頂きたいのは、少し横を向いて足を上げていますけれど、これは馬の姿を美しく見せるための、ある工夫であって、実際問題としては、足を軽く上げて描いただけで、まったく動いていない。凄く安定した構図です。その鞍の上に、女乗りになっているのは分かりますよね。こちら側の足の膝が、ここに来ています。
つまり、馬に足を開いて跨るというのは、非常に行儀の悪い事だとされていた時代がございまして、女性は馬に乗るときには特別な鞍を作りました。多分そういう鞍を使っていると考えた方がいいでしょう。でも、あの鞍も一体どの辺から来て、どの辺まで存在したのかというのもあれですけれどね。
簡単に言うと、鞍の上に斜め座りをするんです。斜め座りをして、右脚を下におろして普通に鐙をはいて、左足はここに突起がありまして、ここの所にかけるんですね。その姿勢で駆け足でも何でもするんで、恐ろしい物なんですけれど、実際に経験した人によると、実は女乗りの鞍というのは、障害を越える時にこれほど良い物はないという話です。ありかよ、と思うんですけれど、両足で跨っている状態よりも、前にバランスを失って体が崩れそうになった時に立て直しが速いって言うんですよ。世の中色々な物があります。
それで、上体のあり方なども含めて、非常にどっしりした形で座っている。こういう絵の見方という物、もし興味がおありでしたら、覚えておいてください。
こういうあり方というのが、結局何なのかと言えば、ある意味ではイデオロギー的な物を、この構図や描き方や、それから色彩によって与えられる重量感みたいな物が、全部語っている事ってあるわけです。彼女のあり方というのは、明らかにそういう、非常なイデオロギー性を帯びたある安定感なわけです。だから、彼女自身は全く動かない。
それはそうです。古い体制における君主は、自分自身がくらくら動いたり、さあこっちだ、さああっちだ、と人を引きずり回す物じゃない。ここの所で、きちんと馬の上に座って、姿を常に現しながら、ある歴史的な出来事を、経験していくと言うよりは、自分自身によって動かしていく。実際には色々な人間を使います。
実際こういう旧制度における君主の最大の美徳は、頭が切れる事でも世の中が分かることでもなく、動かないことなんです。それは何故か。下の人間が――つまりこのぐらいの頃になってくると、社会の構造というのはかなり複雑化してきています。その複雑な物事を、一人で全部仕切るなどということはとても出来ない。従って、戦争をする時には、戦争の事は軍事の専門家に任せざるを得ない。特に女性であった場合にはそう。そして、既にこの時代には、経済の事に関しては、経済の専門家に任せざるを得ない状況になってきています。治安の維持などの問題に関してもそれぞれ専門家の言うことを聞かなくてはならない。外交に関する情報などといえば格段に量が増えてきます。
19世紀の末ぐらいから、イギリスの外交官というか、外務関係の問題に携わる人間の桁が、ごーんと増える瞬間があるという話をニコルソンが『外交』という本に記しています。
実際そこまでではないにせよ、そういう形で、ある程度複雑化してきた社会においては、外交などに関しても専門家が携わる必要があります。つまり、君主の下には沢山の専門家がいて、君主はその示唆を聞いた上で、ではそれはあんたに任せるからそういうふうにやって、という話をせざるを得なくなる。それさえ難しくなってくると、所謂宰相を作ります。つまり、その問題に関して、判断力のある人物、そして抑えの聞く人物を一人任命して、その下の専門家達を統括させるという構造になってきます。
そこから先が問題です。その時、安定しているという事が、いかに美徳であるか。
やはり人間というのは、なまじ利口であって、色々な事を耳打ちされた場合、ぐらぐら動くわけですよ。上がぐらぐら動いてしまうと、下は物凄く困るわけです。従って、安定して動かないと言うことは、旧体制における君主の一番の美徳であるわけです。
この話は多分、メッテルニヒの話を書く事になれば――微妙に再浮上してきたんですが――徹底してあれすることになるでしょう。メッテルニヒの上司のフランツ一世というのはとにかく最低だと、宰相として仕えたことのある人はみんな言うんです。何が最低なのか。つまり、これこれこうですから、今こういう風にしなければなりません。ご決断をお願いします、と宰相が、毎日毎日通って、二時間三時間四時間と喋って、やっと説得するわけです。
いや、もう時間がないんだけれど、急いでこの手続きだけ打たなきゃ、と思って、五分離れた隙に、誰か別の奴が寄って行って耳打ちすると、もう気が変わっている。これにみんな、本当に悩まされるんです。
逆に言えば、マリア・テレジアなど、つまり所謂ハプスブルク家の女どもの美徳というのは何なのかと言えば、鈍感と頑固。梃子でも動かない。この梃子でも動かないという性質は、実はなかなか出てきづらい。ハプスブルク家の女の子というか、マリア・テレジアも娘達も、平素を見ていると、ただの馬鹿姉ですよ。どう考えても凄く軽薄だし、なんかちゃらちゃらしているわけです。しかし、そこで何か起こると、いきなりとてつもない腰の据え方を発揮するのがあの女どもで、マリア・テレジアははっきり言って、その腰の重さだけで、「あの」マリア・テレジアという名前を築いた女だと考えられます。
彼女は、例えばエカテリーナ二世などに比べれば、格段に頭が悪いし、統治の技術も知らない上に座っている女だと言ってしまえばそれまでなんです。だけど、例えばオーストリア継承戦争の時に、話が面倒くさいことになってくると、これは亭主に――この亭主の話からして凄くて、マリア・テレジアが5歳だった時の話です。その時、後に亭主になるロレーヌ公は、ウィーンの休廷で小姓勤めをしていました。その11歳の男の子を、5歳の幼女が見たわけです。それで、もう「超素敵!」と思って、「あたしあの人のお嫁さんになる」と言った。
5歳とは言え、ハプスブルク家の跡取り娘ですからね。可哀想に、そこから先の意志は彼にはないんですよ。そのまま亭主にしてしまうわけです。しかも彼は、婿になるための交換条件として、自分の領地を手放したんですよ。それで、アルザス・ロレーヌというのはフランス領になりました。これも後で触れる話と関係がありますけれど。
それで、亭主としてはある種義務はあると思うじゃないですか。例えばオーストリア継承戦争で女房がかっかかっかして、絶対にプロイセン討つべし、っていうポジションを取ると、彼女は動かないわけです。あの土地はあたしの物だから絶対に渡さない、と。
でも、どう考えても、算盤はじくとそろそろ赤になりつつある。亭主は割合そこの所敏感な男で、「もうさ、そろそろやめてもいいんじゃない?あれはやっちゃおうよ」と言ったら、女房がどのくらい怒ったか。「あんたは黙ってなさい!」って本当に言ったらしいですよ。何しろこの有様なので、他の誰がどう口を出したって絶対に動きません。
ところが、「あんたは黙ってなさい!」って言うんだけれど、その後亭主の所に行って「あたしの子ネズミちゃん」(笑)。それとそれは全然別の事なわけです。それどころか、亭主は、そういう寂しい人生を送ってきてたから、古銭とかそういう物を山のように集めてて、その凄いコレクションがウィーンに行くとまだあるわけです。一度見るといいですよ。立派なコレクターだと言うことが分かりますし、この男としての度量って凄いって思うわけですが。
それで、人生寂しいから、素晴らしく綺麗な女っていうのが宮廷にいましてね。ナイペルク伯爵夫人というんですけれど。ナポレオン戦争関係が好きな方がおられたら、ナイペルク伯爵夫人と言ったら、ああ、あのナイペルクの身内?って言うと思います。後にマリー・ルイーズの亭主になる男の身内ですね。要するに、美男美女系の家だと考えていいわけですが。それで、ナイペルク伯爵夫人の事が好きだ、ってなった時に、もうばればれになっちゃったんですが――だって、隠すの無理ですよね――そうしたら、マリア・テレジアは、別に何も言わなかった。それどころか、関係は放置した上で、週に一回ずつ三人で一緒にご飯を食べた。なんかこう、男女の関係って凄く嫌だねって若い人は思ったと思いますが、まあそんな物なんですよ。
何の話だったかというと、いわゆるその動かない姿勢という奴、それを絵画でどう表現していくか。こうじゃなくてはいけない。彼女の周りで全てが動いていく。それを表しているのが、例えばこちらの人物であり、そちらの翼のある人物です。特にこの翼のある人物に注目してください。片手に月桂樹の冠を持って、この不動の姿勢を保って動かない女性に対して、それを捧げている。
いわば、あるタイミングみたいな物。ある運命みたいな物。ある宿命みたいな物を――ニケだと思いますけれど――配する事によって、彼女が特別な、当然のことながら恵まれるべき幸運に恵まれた女性であるということを表現している。かつて君主という物はこういう風に認識されていたんだと考えてください。

近代以前において、人民が何人であるのかは、政治には関係がなかった

先ほど、「人民」と「国民」の違いについてのギゾーの定義についてお話しましたが、それはここに関係のある話です。つまり、「ある一定の領域に住んで、そこの法律に従っている人間」と定義した場合には、これは非常に古い国家における人間のあり方だと考えられますが、そこで、人民が国家に対してどういう権利を持っているのかということは、全く触れられることがありません。
それどころか、さっきアルザス・ロレーヌを手放して交換したという話をしましたけれど、それと同じ理由で、例えば一般の人民がある村に住んでいます。それで、土地が割譲されてしまうと、翌日からは違う国の人間になってるんですよ。当時は。
これが後の時代と、どちらが良いかというのは、すごく微妙な問題です。現代史において、こういう形で土地が割譲された場合には、ほぼ確実に、今まで住んでいた場所を出て行くことになります。今日からこの国はここになったんだから、例えばポーランドになったんだから、このポーランド領に住んでいるドイツ人は全部出て行けという話になってくるんですよね。実際それに近いことをやられて、遺族会みたいなのが、今でもズデーデンの土地で怒ってますけれど。あるいは日本のことを考えても、北方領土がロシア領になった時に、そこを追われてきた人たちがいる、あるいはサハリンから追われてきた人たちというのがいることを考えてください。
これが、つまり今日言うところの、1979年以降の国家のあり方ですが、それ以前においては、そういう意味で、人民というのが何人であるのか、という認識は、上の方さえ持っていない。政治には関係ないんです。簡単に言えば、会社が、子会社を手放して別の会社に売却したみたいな感じです。経営者が変わっても、そこで働いている人間にはあまり関係がない。もっと凄いのは、実は生活さえ何一つ変わらない事です。実例をあげますと、オーストリア継承戦争の時に、最終的な解決の際に、プロイセン側に渡った領地に住んでいた人たちというのがいます。その時、プロイセンは、その土地を管轄する専門の役所を作りました。今までの役所では対応ができないからです。行政体系が違うからです。でも、行政体系は変えないんですよ。そこの人間たちが今まで作らしてきたのと同じ法律の体系を守るために、特別な役所を作って、そしてそこに人を据えるというやり方をしました。この時にそれで出てきのが、ハルデンベルクという人なんですが、それはまた別の話。



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