佐藤亜紀明治大学公開講座第九回(2008年度第四回)[2]

歴史とは

少し話をずらします。
歴史歴史と言うときに、非常に七面倒くさい問題が起きるというのは、この間ちょっと触れました。つまり、歴史とは何かと言ったときに、話していて凄く混乱が起きることがあるわけですよ。特に議論になっている時にね。その原因の第一というのは、当該の問題に関して、一体それが何を指しているのかという点で、双方がきちんと詰めないまま、別々の問題に関して話しているというケースが非常に多い。あるいは、意図的に混同するケースもありますけれど。
そこを整理するために、まずきちんと分けておきましょう。一番最初に「歴史とは何か」と言った場合に、そこにいの一番に来るのは何なのかというと、つまり「為された総体としての歴史」。何の意味づけもなくて、ただ単にこういう事があった、ああいう事があったというのが、無数にごろごろ転がっている、そういう場所だと考えてください。一応因果関係がある事もあります。でも、因果関係が無い事もあるし、今となっては因果関係が失われてしまったなんていう事もざらにあるわけです。
ただ、我々がその物を認識する事が出来るかというと、事例を山のように集める事は出来るとしても、そういう意味での歴史の、言うなれば全体みたいな物。それを、我々が把握する事は、ほぼ無いと考えて下さい。何故ならば、そういう意味での歴史というのは、剥き出しの「物自体」じゃなく、「事自体」だからです。
全く何の意味づけも与えられていない、ある「事」みたいな物を、我々が認識できるかどうかと考えた場合、おそらく認識できないと思うけれど、そこには確実に、かつて何かそういう起こった「事」がある。そういう意味での歴史。
それでは、我々、歴史もへったくれもありません。これは南米の奥地に住んでいる部族が、かつて起こったある大災厄について、あるいはある素晴らしい出来事について語る時にやる事でも、現代の歴史家が18世紀における出版文化について研究する時でも、それは全く横並びで同じ事をやっているという事になります。そういう、「事」自体の総体の中から、「事」自体の塊みたいな物を、ある文脈に沿って、事実を切り出してくるわけです。あるいは、ある文脈を当てはめることによって見えてくる事実を切り出してきて、それを配置し直すわけです。これが、我々が言うところの普通に認識するところの「歴史」と言うことになるわけです。
ただ、そこで問題が起こってきてしまう。その時に、「歴史が歴史が」と言うわけですけれど――「その時、歴史が動いた」みたいな「歴史」ね。つまり。極端に非道い言い方をしちゃうと。「その時」も何も、歴史はそんな動き方をしねえ、とか思うんだけれど、時々面白いフィルムをやるから、あの番組は良いよ。
その時に、その文脈が、どういう種類なのかというのが、物凄く種種様々なわけです。それこそ、空幕長が書いちゃう論文みたいな「歴史」観から、きちんとした学者が40年間古文書館の中を這いずりまわって、こんな本を書いちゃったという「歴史」まで、それは全部、ただし、今二番目に言ったような意味では、全く等しく「歴史」です。
そこで、大体論争が起きるのはこの辺なのね。所謂歴史修整主義論争みたいな奴が発生しちゃうのは。その中で、言うなれば、何しろ意味のない事柄の積み重ねを、一定の意味の枠組みに切り出して来るという行為ですから、切り出し方や、文脈の与え方によって、どんな「歴史」でも、ある意味捏造は出来てしまうわけです。「捏造」というのもおこがましいくらいの物で。どんな風にでも、どんなトンデモ史観でも、やり方によって、作ってしまうことが出来る。

歴史とは物語に過ぎない?

そこで一つ問題になってきてしまうのは――いや、みんな物凄く雑に、適当に言うんで、この問題に関してはきちんとお断りをしておく必要はあると思うんで一応言っておきますけれど、「歴史というのは結局物語に過ぎない」というような意見、時々聞くでしょう。それを聞くと、私はなんとなくむかーっとして、「物を知らん奴は黙っとれ」という気持ちがするわけですけれど。
何故「物を知らん奴は黙っとれ」になるかと言うと、まず、第一に言うならば、多分、歴史というのは、必ずしも物語じゃないんですよ。「歴史というのは物語である」という時に、ヒストリーとイストワールは同じだなどとみんな抜かすわけですけれど、イストワールと言ったときには、多分実話性がちょっと高いのよ。普通の作り話よりは。その事でもお分かりの通り、そこで好き勝手な物語は作れるとしても、その時に、じゃあ結局「歴史って物語でしょう」って言うと、「それはちょっと短絡です」と、多分普通の専門家ならみんな断ると思う。何故ならば、一応歴史と言った場合には、これこれこれこれこうだった、と言われているが、それは本当であるか否か、という問題に関して、完全にとは言わないにしても、ある程度までは、事実関係を争うことが出来るからです。それは勝手に作れる物ではない。そして、その事実関係を争うことが出来る、ある意味では限りなく事実に近い物事を使って、ある文脈を組み立てて行くに際しても、これは三番目の意味ですけれど、歴史学的にはある手順という物が存在しておりまして、そこの所を無視して好き勝手にやったかといって、歴史として認められるというような物ではないわけです。歴史学には歴史学のきちんとした手続があります。最近はみんなやらないけれどね。
特に私が問題だなと思うのは、例えば、もう少し現代的な社会科学の方法論。ポストコロニアニズムとか、カルチュラルスタディズとか、それからフェミニズムとかでも、言わんとしている事は、結構、というか、論文になっているでしょう。読むでしょう。面白いんですよ。つっこみどころとしては、凄く面白いんですよ。凄く面白い視点なのに、何でこんなに実証を欠いているのかというのが不思議で仕方がない。実証すると、彼らの何か、思想的な枠組みとして間違ったことになるのかも知れないけれど、フェミニスト辺りだと言いそうじゃない。「実証なんて言う物は、男の作って物であって、女はそんなことはしない」。お前馬鹿か、と思うんだけれど。おかしいんですよ。それは。
私の頭が古いのかも知れないけれど、もしフェミニストが切り出してきたような事があるんだとすれば、それは歴史的な事実として、きちんと実証出来る物でなければならないはずなんです。それが全部落ちているから、「あいつらの言うことは面白いけれど、与太だ」っていう気持ちになっちゃうわけね。いや、きちんと証明する人がいたなら、私は別に与太とは言いませんよ。だから、そこで投げるのは止めてくれという話なんです。不思議なことに、「歴史とは結局物語だから」というような事を言う人たちは、大抵その系統の人たちだったりする。あるいは、そういう系統の人たちが言う事というのを、適当に流用してきて、物凄く雑な形で一般にばらまいている人たちがいる。
やはりこの問題に関しては、もう少し私は怒りたいと思いますけれど。私が怒ったって仕方がないんだけどね。
だから、必ずしも歴史は物語ではないと考えてください。だから、色々な問題が色々な所に存在していて――そうそう、実証しない理由というのは、結局実証は文献に頼る事になるからという理屈は、昔一回読んだことがあるな。どこかで。非常に不正確な感じになっちゃいますけれど。記憶で語っているから。
なんでかっていうと、実証と言ったときに、多分歴史学の場合に、第一の手づるになってくるのは、文献であると。あるいは当時残された記録であると。だけど、当時残された記録というのは、所詮は文字の書ける人間が書き留めたことに過ぎないと。文字を書き留めた人間が、文字を読み書きできない人間の事を書く時には、当然のことながら、そこに階級的な偏見などが入ってきて、あるいはそこに、本質的な文化の相違みたいな物が入ってくるので、それは全く信頼するに値しないんだ、って言った奴がいるんだよ。
これはちょっと凄くてさ、つまり――そこまで言うかよっていう感じがしたから、それじゃ、あんた達は何に基づいて過去のことを語るつもりなわけ?という話になっちゃう。
「きっとこうに違いない」って言ってさ、「それ、実証したのか」と言われたら、「実証された文献には意味がない。なぜなら識字階級だけがそれを書いているから」って。
有り得ないよ。お前それ。じゃあ、お前が言っている事の根拠は何?っていう話になっちゃうでしょう?
その問題に関して、例えば、一頃興味を持った、随分色々やってみたので「モンタイユ」というのがあります。ルロワ・ラデュリーっていう、フランス史のフランスの研究者が見つけてきた史料で、もし見つけたら、これは絶対面白いですから、読んでみてください。これは何なのかというと、1320〜1330年くらいだったかな。ピレネーの山の中に村があるんですよ。狭い村でして。狭い村だから、人間関係煮え煮えで、狭い村を巡って二家族とかその辺が、権力の座を狙って七転八倒しているような場所です。この村が、いきなりパミエという所にある司教座の手入れを受けて、村ごと、ほとんど全員異端審問所に引っ張られた。凄いでしょう。そうすると、この連中は、何しろその証言を読んでいれば分かるんですけれど、信じられない位――どう言ったらいいかな――現実的な人たちなんですよ。だから、何を始めるかというと、お互いに助かるために、隣人について、ありとあらゆる事を喋る。
パミエの司教が引っ張ったのは、カタリ派の影響が、多分その村には強いだろうと見たからです。なんで、トゥルーズの異端審問所じゃなくて、パミエの司教座がそれをやったのかと言うと、この村に住んでいる、権力者の兄弟というのがおりまして、兄ちゃんが代官で、弟が司祭という形で、聖俗両方の権力を押さえているんですよ。
この家族は、トゥルーズには渡りをつけていたの。手入れはしないって言う。それで、なんとなく状況が悪化してきた時に、横からパミエの司教座がぽーんとやるという、非常にありがちな権力話があるわけですけれど。
ようするに、司教様としては、どこの家がカタリ派なのかというのが知りたいだけなんだけれど、もうそれ以外の話も山のように――誰と誰が出来ているとかね。司教は誰と寝たとか、誰を愛人にしてたとか、司教がこう言ったとか、そんなのが山のように出てきて、物凄く面白いですよ。
そして、一番凄いのが、こんな、家政婦は見た、みたいな話をどうしてみんなが知っているのかというと、家の造りが至って粗末なのよ。壁はしっかり作るのよ。壁はしっかり作るんだけれど、その上に、板屋根が乗せてあるの。そして、何か人の家の事をこっそり知りたくなると、女どもはどうするかって言うと、家から箱を持ってきましてね、軒の所に置くのね。そして、その上に立って、頭で屋根を持ち上げて中を覗くんだよ。
そうすると、ばあさんが死にそうだって言う所にカタリ派の聖人様を呼んで、こうやって手をかざして、ようするに、按手礼って言うんだっけ?あれをやっていたのを見たというようなちくりが山のように出てくるんですけれど。物凄く面白いわけですけれど。
例えば、「識字階級が書いた物には、当時の民衆が何をしていたかなんて言うことは、識字階級の都合によってしか記録されない」って言ったら、じゃあパミエの異端審問録、あれは全部嘘か、っていう話になっちゃう。あるいは、「識字階級には、そういう下々の事は分かるわけがないので、書かれていることには真実性がない」といった時に、じゃあ、パミエで書かれたあれは、まあいくらかのバイアスはあるかも知れないけれど、あれは全部間違っているのか、っていう話になる。
どう考えてもね、そうは思えんのよ。あの審問録を読むと。フランス語の奴があるので、審問録自体は全部読みました。実にくだらなくて、人間がこんなにくだらない事まで覚えているのかと、感心しますけれど。
例えば、捕まっちゃった代官の兄ちゃんなんですけれど、彼というのが、まだ若かった頃に、この男はそんな権力の座にあるにしては物凄く真面目な男で、女房一筋なんですよ。それで、女房とまだ婚約者だった頃に、その婚約者の家に行った。婚約者の家に行きました。誰かがその問題をちくったんだけれど、それだけで一日目終わる。
そして、もっと凄くつっこむからね。パミエの異端審問はさ。それで、二日目も同じ話をさせるの。よくあるパターンでしょう。警察で何回も何回も同じ話してきて、つじつまが合わない所を出すまでいじめるわけよ。そうすると、ディテールが入ってくるわけ。私が出かけようと思って外へ出たら、弟、つまり司教が、家の前のベンチに座っていたって。それで、俺が出ようとするのを見たら、弟がにやって笑ったんだって。お前、女の所へ行くんだろうって顔したんだって。
そういうくだらない事ばかり覚えてる。最終的に、三回目か四回目になって、その時の話の続きが無かったのは、彼女の家に行ったらカタリ派の聖人が居たからだって判明するわけですが、そこまでの間に出てくるディテールの凄いこと。
これが、全部嘘?っていう話になっちゃう。いや、話が大幅にずれていますけれど、必ずしもそうではない。というのは、それを考えている人というのは、あまりにも人間のあり方という物をシンプルに捉えすぎているから。つまり「識字階級には非識字階級の事は理解できない。なぜなら文化が全く違うからだ」と言った時に、多分人間の持っている文化的な層の重層性を全く理解していないんだろうと思うわけです。
大上段ですぱっと斬る人間はよくそういう事を言うんで、どの位まで意識しているか分からない所がありますけれど。だって例えばさ「文学におけるカノンというのは、学校教育で取り上げられるかどうかで決まる」って言ったらさ、多分仏文学の奴は全員ぷって笑うんだけれど、つまり学校教育される前に、広く読まれて古典化される実例が、フランスでもドイツでも、文学の古い歴史を持っている国には、どこでも知っているから。だって、「学校教育が取り上げないんだったら、古典というか、基準となる作品にはならない」と考えたらさ、日本人はどうやって源氏物語を読んできたのか、という話になっちゃうでしょう。だから、これはどう考えても――どこの国の人が言ったとは言いませんけれどね。ある種の野蛮人の言いぐさですわ。それはまあいいわけですが。
それと似たような所があって、例えば「識字階級の人間は、非識字階級の人間と文化を本当に共有していないのか」と言うことを考えた場合、多分全然違う要素が入って来ちゃうわけです。それは何かというと、当時の、例えば貴族なら貴族の子弟、あるいは高位聖職者になるような家庭の子弟というのは、どう養育されたかという問題。大抵乳母が付くわけ。そしてその乳母というのは、大抵下層階級の出身です。
まあ、やんごとなき方々には、やんごとなき乳母がつきますが、その位だと、多分女中とかそんな人たちもいっぱいいる。そして、子供の頃は、それほどそういう人たちとは隔離されずに教育されずに育つので、当然そういう下々の持つ文化というのが、身体のどこかに残り続けていて、理解できないと言うことは多分ないだろうと考えざるを得ないという事を、私は考えちゃうわけです。
もっとずっと後の話ですけれど、18世紀のウィーンの貴族がいるじゃない。ウィーンの貴族だから、18世紀の終わりぐらいになると、ドイツ語を喋らなくてはならないという事になるわけですよ。そうすると、フランス語は彼らはきちんと喋るのね。きちんとした教育でフランス語を教わって、小さいときから家庭教師をつけて、フランス語は上手だったりするし、フランス語だと結構洒落とか言えたりするんだけれど、ドイツ語で喋るでしょう。そうすると、そのイントネーションが、辻馬車の御者のイントネーションと同じだって言うわけ。なんでかわかるでしょう、これ。子供の頃に、ドイツ語喋れる連中に養育されたら、その言葉が移るからです。だから、ドイツ語の訛りだけは、いつまで経ってもそういう感じで残らないという事があり得る。
そういう形で、階層の問題というのは、線でも引いたようにぴしっと分かれるわけではなくて、色々な場所でぐちゃぐちゃになっている物なので、そこまで簡単に、識字階級と非識字階級の間に線なんて引けないわけだし、大体モンタイユの何人かは普通に聖書を持って読んでますし、恐ろしいんだけれど、当時聖書は、家を一軒建てる分ぐらいの値段で買えたんだって。だから、家一軒持っていて、なおかつそこそこのお金持ち、有力者っていう家は、大体とにかく聖書は置いてあったらしい。それで読んでさ、色々なあらぬ妄想を考えるから、何か訳の分からない事になっていく人たちというのがいっぱい居るわけですが。
そういう意味で、ぱしっとした割り切りというのは、基本考えない方が良いだろうと思います。それで、「歴史というのは結局物語だ」というのは、多分そういう種類の、ある種の「そこんとこまっすぐ斬りすぎ」という奴の典型だと思うわけです。
なるほど、歴史には、そういう形で、ある恣意性みたいな物は、歴史を語る人間によって与えられる事はあり得ますが、厳密に歴史とは何かといった時に、「歴史とはただの物語だ」という事、それはあり得ません。
ただし、「絶対に歴史は物語ではない」と私は言う気はないわけですよ。
まず、歴史という物は何かと考えた時に、一番根源的な所にある物というのが、世界の全面的な怪異性の記憶その物である、故に非常にトラウマ的な物であるんだとする。
つまり歴史の総体みたいな物があって、その中には、物凄く沢山の、全てをだとは言いませんけれど、ある意味、個々の人間が、あるいはある共同体が、あるいはある場所の、ある人間達がいきなり目にすることになった、世界の異様な姿という奴が、延々と刻まれているんだと考えてください。
だって、今時何か恐ろしいことが起こると、大抵みんな、子供達がPTSDとかになって、それで精神科の医者にカウンセリングにかかったりなんかするっていう話があるでしょう。それを考えたら、フランス革命の最中に幼年時代を送った子供達が抱えているPTSDってどのぐらいの物かって考えると空恐ろしいじゃん。あるいは、江戸時代の大飢饉を生き延びて大人になった人の抱えたPTSDっていかほどの物だろうってちょっと想像しない?当時はそういう事は言わないわけです。でも、おかしくなっちゃった奴はかなりいるでしょうね。
そういう、言うなれば、見たら目が潰れるような種類の物というのが山のように歴史の中にあるとして、あるいは歴史その物が実態としてはそういう物だとして――これは非常に暗い見方ですけれど――二番目の「歴史」というのは、言うなれば、この直視したら目が潰れるような物を、先ほど言った、そういう世界の怪異性みたいなものに直面した人間が、それを物語化する事によって、謂わばその状況その物を鎮めると言ってもいいですし、祀ると言ってもいいですし、こう言っちゃうと宗教的過ぎるんだと思うなら、ある種の物語化する事によって、合理的に受け入れられる物にしていくという運動があるんだとすると、「歴史」がそういう機能を果たしてくることがある。この場合の「歴史」というのは、さっき言った二番目の意味での、ある文脈に沿って切り出してくるという行為になりますけれどね。

閑話休題。イギリス人の健忘症と「民族自決」について

一つ、ちょっとね、多少気持ちが変わっているんで、あまりこういう事を言いたくなかったんだけれど、喋っていると言いたくなってくるから、仕方がないなと思って言いますけれど、これ、あんまりトラウマが非道すぎると、どうも民族や国家ぐるみで記憶喪失に陥っている連中というのがいるんだわ。
それね、一番具体的な例で言ってしまうと、イギリス人の場合は、明らかに、ある種の健忘症に陥っていると思う。あまりにも恐ろしい経験をしているから。そのあまりにも恐ろしい経験をした結果の健忘症の末に何が出てくるかというと、来ていらっしゃる方の中には、とても好きだという方もいるだろうと思うし、そして来ていらっしゃる方の中には私が死ぬほど嫌いだって言っているという事を知っている方もいると思いますが、そういうのの典型になってくるのが、例えば『指輪物語』なんですよ。
指輪物語』の何が奇妙と言ったってさ、つまり色々な種族が、それも肉体的な特徴が極度に違う種族が、それぞれに集落を作って、でも行き来が出来ないほど隔絶していない場所に、なんとなく平和に共存して、それぞれに独自性を保ちながら暮らしてるじゃない。あの状況がまず有り得ないって私は考えちゃうわけ。それは、非常に特殊な幻想だよね、という気がするんです。
だって、あれ、ルワンダの虐殺の話は前にも話したことがあるけれど、ベルギー人がやってきて、現ルワンダの所に普通に住んでいる人たちを見て、それを二つに分けたんだよ。背の低い人と背の高い人。そして、背の低い人たちというのは農耕民族だから背が低くて、背の高い人たちというのは騎馬民族だから背が高いなんだって言った。そして、騎馬民族というのは優秀な民族なんだから、この連中がこの国を支配すべきだって勝手に決めたわけ。
言うなれば、エルフとドワーフに分けたんだよ。ルワンダ人を。
別に彼らは元々どういう商売をしてたかとか、どういう生活形態をしていたかという問題とは別に、全然意識しないで普通に雑婚していた人たちの所に、いきなり外から、ベルギー人がやってきて、今日からお前らはドワーフだ、お前らはエルフだって分けたわけ。
そこで、人間というのは本当に嫌な物だ、と思うのは、その瞬間に違う人たちになっちゃった。あるいは、そこに我々は異なる種族だという認識をするようになっちゃった。そして、種族間の争いがそこで発生する。
これ、どこでも同じで、人間が住んでいる所だったら、どこでも、なんであれ、真ん中に線を引くんですよ。ぴーっと。そして、今日からお前らはこれで、お前らはこれだって言う。そういう風に教えると、なんと言っても人間というのは真ん中に線を引いて、俺たちとお前ら、ってするのは大好きなので、あっという間にそういう状況になっちゃう。
その状態で、平和共存なんて絶対しないの。ほぼ、歴史上、どこに関しても、真ん中に線を引いて、お前らと我々、というふうにした場合、そこで必ず殺し合いが生じるんですよ。ほぼ、例外なく。
その一番典型的な例というのを、イギリス人は経験しているはずなんです。宗教改革の時に。
カトリックプロテスタントのあの、国教化の間で、どれぐらい血塗れの争いがあったかということを、当然イギリスの歴史をやれば、普通に知っているはずなのに、彼らは何故その事に関して、全く物怖じせずに、相変わらずエルフとドワーフが仲良く分かれて住んでいました、みたいな話を脳天気につらつらつらつらつらいつまでも書いていられるのかっていうのが私は不思議で仕方ないのね。
色々考えると、それはあまりに痛い記憶であるが故に、健忘症に陥ったんだろうとしか考えられない。そしてもっと酷いのが、健忘症に陥ったどころか、人間は線を引いたら殺し合いをするという事実に関して、心の物凄く奥深くに封印してしまったものだから、例えば外国に出て行くと、必ず線を引いて人を分けてさ、お前らは別々の種族だから共存しろとか言って押付けはじめるわけ。
それが例えば、イギリスのボスニア紛争における、何か妙ちくりんな、現実性のない立回りの仕方とかそういう奴なわけ。どう考えても、少なくともヨーロッパ大陸で、不可能な事を、イギリス人は時々やろうとする。そのうちの一つが、民族政策であり、そしてそれはそのままアメリカ人にも受け継がれていて、例えば第一次世界大戦が終わった時に、民族自決とか有り得ない事を言ってくるわけ。民族自決なんてヨーロッパでやったら、物凄いわけの分からないことになるから。事実上不可能なんですから。
それが可能だとしたら、それは必ず、強制移住を伴わないといけません。あまりにも混住して暮らしているので。
例えば、アルザスなんてどうするのよっていう話になる。パリでフランスの編集者の人に会ったことがあって、名前を聞いて、アルザスの人でしょう?って言ったら、よく分かったわね、っていうけれど、いや、なんとかベルクなんていう名前が、フランス人の場合はベールって言うけれど、そんな名前の人がいたらあっちの方に決まってるって私は思ったわけですけれどね。当てずっぽうでしたが。
ただ、実際問題としてそうで、特にアルザスとロレーヌというのは、18世紀の終わり、マリア・テレジアの所に、ロレーヌ公フランツ・シュテファンが婿に来るときに、割譲する事でフランスの領土になった場所です。だから、フランスになった歴史というのは極めて浅い。
フランス革命の時にストラス・ブールで大暴動が置きますが、これ、ストラス・ブールの市庁舎の襲撃として、ある種非常に有名な事件ですが、この時の問題というのがそうであるにも関わらず、依然として市の中心部を占めている連中が、ドイツ系の住民で、フランス系の住民というのがその問題に不満を持っていたからだという事は、意外にみんな言わないかも知れない。
ところが、普仏戦争でフランスが負けて、アルザスがドイツに割譲されると「うぬ、おのれ、糞」とフランス人であるアルザス人は思ったという話になっちゃうわけですよ。実際問題として、アルザスって何なのって言ったら、はっきり言ってそんな事は分かりませんと言うしかないでしょう。そういう地域が、ヨーロッパの国境地域に無数にあります。
本当に民族自決というような原則を徹底するとしたら、ここで混住している人間達を全部分けなければならないという事になってくる。それは果たして可能ですかという話になる。混住している状態で上手く行っている物を、なぜわざわざ分けなければならないんですかという問題になる。
ナポレオン戦争の時で言うと、ネイ元帥があの辺の出なんですよね。宿屋の息子なんですよ。宿屋の息子というポジションもあるけれど、凄く不思議なのは、ネイ元帥ですよ。あの赤毛の。いいんだけれど。知っている人は知っているから、この問題に関してはあれしておきましょう。勇猛果敢なネイ元帥だと言っておきます。これが、メッテルニヒの回想録にやたらに出てくるんですよ。よくネイと話をしている。
なんでだろうと思って考えたんだけれど、メッテルニヒ自身がストラスブールの大学に行っていたという問題があるんで、そういう点で近づきやすかったのかも知れないけれど、どうも、ドイツ語が凄く出来たんじゃないかと考えられる。ちょっと具体的な記述は見たことがないんですが、非常にぶっちゃけた話をしてくる事があるんですよ。ネイ元帥が。
という事は、つまり宿屋の息子とか、普通の町人まで含めて、かなりバイリンガル的な生活をしていたと推測が出来るわけで、こういう地域のことを、そんな風にまっすぐ線を引いて二つに分けるなんて言うことは出来ませんという事になる。
どうしても、ある行政的な配慮に基づいた形で、異なる民族を包合する形でしか、国家が成り立たないようなところが、ヨーロッパには沢山あったし、勿論世界中、沢山の場所がそういう風になっています。
そして、今日に至って、移民という問題をどこの国でも抱え込むようになった状態においては、ほとんどそういう種類の、種族の住み分けなどと言うのは、有り得ない幻想でしかないんですよね。
これは私の政治的見解なので、その問題に関しては、全体をこうやって括弧でくくっておいて下さい。本筋に関係ないですから。

歴史は「物語」として機能する「事もある」

ただ、そういう種類の形で、隠蔽されてしまうと言うことが、歴史上には沢山ある。従って、ある意味、国史という奴は、それだけ単独で語られた場合には、鵜呑みにしかねるような所が多々出てくるという問題は常にあるわけです。
ついでに、ちょっと一言あれしておくと、物凄く大変な話というのがあって、これはWEBで書いていた、イディッシュ文学の専門家、イディッシュというのは、ユダヤ人がドイツ語を元にして作った、ある種の特殊な言語なんですが、ウクライナからポーランドにかけて、ある種非常に豊かな、文学的な成果を生んだことのある言語なんですよ。今だと、アメリカなんかで、ニューヨークの、かなり高齢の人など、まだ少し喋るらしいですが、おそらく遠からず多分喋る人がいなくなってしまうであろう言語ですがね。
このイディッシュ文学の専門家が、イディッシュ文学の研究がしたくて、色々やっているわけですけれど、この所の状況がどうも芳しくないと。つまり、ソビエト連邦が崩壊しちゃって、ウクライナが独立したでしょう。独立した途端に、イディッシュ文学の研究というのが、現地であまり歓迎されなくなっちゃったんだって。
何故なら、彼らはウクライナ人としてのアイデンティティを確立するために、ウクライナ語を話すウクライナという物を確立するために、躍起になっている。従って、文学研究の上で二つ、大きな問題が出てきちゃうんです。それは何かというと、ウクライナで主に活動していた――その人が書いている分にはね――イディッシュの文学を、研究の対象から外したがる傾向が出てくる。明らかにその土地で行われていたにも関わらず、ウクライナ文学ではないという言い方をするようになってくる。
二番目は、これまた凄く気の毒な話なんですが、ウクライナ語という事になっちゃうと、ウクライナ出身のロシア文学者というのは、実は凄く多いわけですよ。それで、彼らの作品を、ウクライナ文学にカウントするのかしないのかという問題が出てきてしまう。
言うなれば、凄く馬鹿馬鹿しい問題なんですけれど。国家とか民族といった問題を、四角四面に取り上げていった場合には、必ずそういう問題が出てくることになるわけです。
日本の、多分ある時代以降の文学にしたって、例えばそれが純粋に日本国籍を持っていて、日本人の両親から生まれた奴だけを対象にするというような事を言い出したら、物凄くややこしい事になると思いますよ。例えば、韓国系、朝鮮系、あるいは在日の人たちが、日本の文学に果たしている役割を、全部排除してなおかつ現代日本文学を語れるのか、という話になっちゃった場合には。そして、事実上それに近いような、微妙な無理をせざるを得なくなる瞬間というのが、どこの国でも必ずあるわけです。
多分、使用言語によってある程度分けていって、地域に関していうなら、多言語の存在を容認していくという方向においてしか、ある国家の文学の総体とか、歴史の総体を把握していく事は出来ないという事になるんじゃないかと思っていますけれど。
それで、歴史という物があまりに異様な、我々にとって受け入れがたいような、あるトラウマ的な経験の総体であるとすると、それに対してある文脈を与えて、切り出してきて、歴史にするということは、この世界の異様さみたいな物を、解消するための物語として機能する「事がある」。あくまで「事がある」ですよ。実際問題として、我々が「歴史」と言うときに捉えてきた歴史というのは、こういう意味での「歴史」であることがほとんどであると言っていいと思うわけですよ。
そのうちの一番稚拙な例と言うのが、一頃、教科書作りたがっている人たちが作ってた、あの、所謂「国民の歴史」という奴。あらゆる意味で、物語としての日本人の歴史みたいな物を、何か輝かしい過去しか持っていないような形で切り出してきて、それによって、国民の誇りを高めて、国民を鼓舞しようという、非常に明確な物語性に貫かれた歴史であるわけです。
ただし、中身をみると、凄く微妙な所があって、私、一番笑っちゃったのが――運慶快慶の彫像が凄いというのは、当たり前じゃん。そりゃ見れば分かることで、何でそれを表現するときに、「ミケランジェロより凄い」って言わなきゃいけないのか、私分かんないよ。はっきり言って。あんたら、そこまで誇りがないのかっていうのが、実を言うと、私があの「国民の歴史」を読んだ時の、素直な感想。ここまで言わないと、あんた出来ないのそれ、っていうのが一つですよ。
それを一つのバリエーションとする、より大きな形というのがあって、それが今日一番最初から言っている内容に関わってくるという事ですけれど、言うなれば人間の歴史、人類の歴史、あるいはある国家の歴史、あるいはある民族の歴史みたいなものを、ある一定の意識を持った人たちというのが、自分たちの運命は自分たちで決めて、動かしていくことが出来ると考えて、それを実践する事によって組み立てられてきた、ある歴史みたいな、そういう種類の歴史です。
だから、さっき言った「国民の歴史」の場合には、輝かしい日本を作るために、日本人は一丸となって努力してきたかのような感じがするわけです。勿論そんなわけはないんですが。運慶快慶は多分、がんがん彫っている最中にだよ、自分が日本人であるかどうかなんて、全く考えてないからね。多分。というか、そういう意識があの当時あったかどうかさえ疑問だが、という話になっちゃうわけですが。
ただ、そこで、人間は自分の運命を定める事が出来る。あるいは、目覚めた人間は、というような言い方をそういう場合にはしばしばする事があるわけですが。
あるいは、動物としての、生き物としての、知的生命体としての幼年時代を脱した知的生命体は、謂わばそういう意識に導かれて、自分の運命を自分自身で定めて切り開いてきたのだ。それがこの歴史だよ、という種類の「歴史」。
これが現実問題として、人類が、というか我々が経験してきた、物凄く沢山の、ほとんど意味のない虐殺であるとか、あるいは人間なんかではどうしてみようもない種類の、大変な災厄であるとか、そういう種類の物にさらされ続けて、翻弄されてきた人間のあり方に照らしてみた場合、いかに嘘くさいかというのはお分かりでしょう?
そして、こういう風な形で、このように人類は自ら選んで進化してきたみたいな事を言ってしまった場合に、そこから弾き出される者はどうなるのかという事になってくる。そして大抵の全体主義的なイデオロギーに基づく歴史というのは、こういう意味での、人間が人間の運命を自分でコントロールして、定める事が出来るようになったという事を前提にして語りますが、その時に、必ず物凄い数の人間が――今までの所、ですよ――排除され、場合によっては殺されてきたという事実を忘れるわけにはいかない。

その時弾き出される者たち

そして、その時にあれしてくるのが、前から時々言っている、ロマの話なんですよ。つまり、ゲルマン民族というのが、そういう形で、歴史のあり方に対して、ドイツという国の存在を、ゲルマン民族の運命を成就するために常時努力してきたが、その邪魔になっていたのは、国内にいたゲルマンじゃない奴ら、アーリア民族じゃない奴らだよ、といったときに、ユダヤ人も収容所に送りましたが、同時にロマもかなりの数送ったんです。
いや、これは知っていると思う。最近割合メジャーになってきた事実なんで。昔はみんな気にしなかったんだよね。この問題に関しては。あまり。
ユダヤ人の場合は、それに対抗する形で、ユダヤ人の民族性とか、ユダヤ人の国家性みたいな奴を、がつっと形成してきているから、彼らは彼らで、その受難という奴を、なんとか意味づけようという努力をしているわけです。ただ、本質的にはそれは意味づけられない物なのね。
だけど、仕方ない所はあるわけですよ。具体的な名前を忘れましたが、収容所から生きて帰って来るじゃないですか。強制収容所から。生きて帰って来て、パウル・ツェランなんかそうだったっけ。何年かきちんと仕事をしていたはずなのに、普通の生活に戻って、今はなんともない状態で暮らしているはずなのに、突然自殺する人というのがいるんです。
それで、そういう問題に対して興味をもった研究者というのがおりまして、収容所の生き残りに対して聞き取り調査を行ったわけですよ。自分の収容所経験について、どのように思ったか。それはあなたの人生において、どういう意味があったのか。それでね、ある種とてつもない結論が出てきた。つまり、生き残って、今もなお普通に、精神を病むことなく生きている人たちというのは、有り得ない程ポジティブな精神の持ち主だと言うことが分かった。
「有り得ないほどポジティブな」というのは、私、ちょっとさすがにそれ、全文じゃないですけれど、二、三行抜き書いてある奴を読んだときには、正直目を疑いました。
「収容所の体験は、私にとって、疑いもなく、人間が生きるというのは何かを教えてくれるという貴重な体験だった」と言っている奴が居る。
ちょっと凄すぎると思うわけですけれど。どう考えても何か、逆に何か怪しい感じがするんですよね。つまり、そこまで自分自身に対して、何か蓋をしていく、何かを見ていないことにする。あるいは、合理化していくんでなければ、人間はそういう経験を封印する事さえ出来ないのか。封印というか、消化する事さえ出来ないのかという、ある意味での、さっき言ったような種類の、物語化による合理化っていう奴の、典型的なパターンなんですよね。
元々、つまり楽観的な人なんだろうとは思いますけれど。そうじゃない人というのは、精神を病むことが非常に多いですし、自殺する事も多いですし、何よりも収容所で死んでいるケースが多い。普通の形で、今一体何が起こっているのかという事を、見て、それを楽観的な方向に、「これも経験だから」とかそういうわけの分からない方向に持って行かずに、受け止めた人間というのは、生きていくことが出来ないという事です。逆に言うならば。
そういう形で、ある「物語」を作れた人たちは良いですけれど、作れなかった人はどうなるのか。そういう形で、例えばイスラエルという国家の建国の、ある精神的な礎みたいな物というのを、ホロコーストに置くことが出来たわけで、それが色々七面倒くさい問題を今日に至っては生むわけですが、それが出来なかった、例えば、元より国家も持っていない、ロマみたいな民族はどうするのかという話で。これが、前にも言いましたけれど、『立ったまま埋めてくれ』というアメリカの、突撃研究者みたいな女研究者が、ヨーロッパのあちこちのロマ村に、無理矢理住み込んだり、駅の所で昔――ポーランドか何かかな――巣くっているロマの所にいきなり突撃レポートをかけたりしながら、書いたというえらい本があるわけですよ。
その中に、ナチスドイツによるロマの迫害を、どう思っているか、ロマに聞くという話があったんですね。ロマもかなり凄い殺され方をしていますんで。ところが、なかなかこの話が出てこないのは簡単で、ロマがその経験を語らないからですよ。ユダヤ人と違って。ユダヤ人は、出てきてから、凄く、ほとんどドイツに同化していた人が多いので、そういう意味でそれを語るという、ある動作が身に付いているから彼らは語るわけです。しかしロマはそれをあまりしなかった。そういう意味で、そういう記録は、多分あるに違いないけれど、少なくともまだ私の目には触れていない。実際、多分語った人は凄く少ないんだろうと思う。何故なら、その女研究者が聞いてみたロマが答えた所によると、これはすでに言った言葉ですが、「なんでだと思う?」と言ったら「運が悪かったから」だと答えた。
これは、そういう世界の全面的な怪異性みたいな物を、全く何の準備もなく、かわそうというあれさえもなしに、正面から受けちゃったら残念ながらそう言うしかないだろうという種類の言葉です。そんな問題に関して、ある理屈の付け方、こうでこうでこうでこうなったなんていう時系列順の展開のして行き方も出来ない。あるいは、何故かという問題に関して、例えばドイツ人の側に身を寄せて、ロマというのはわれわれの先祖というのはこういう事で、迷惑をかけていたから、そういう事になっても仕方がなかったなんていう、世の中そういう奴隷の鎖自慢みたいな事をしたがる被差別民ていっぱいいるわけですけれども。
ユダヤ人が時々ユダヤ人の悪口を酷く言うというのを聞くことがあって、本当に――まあ、いいんだけれど。電車の中で一緒になったじじいが、電車の中でずっとユダヤ人の悪口を言っていて、「俺はユダヤ人じゃないけどな」って言うんだけれど、顔を見ていると、もう露骨にユダヤ人だったって事があって、かなり参った。そして、彼らはあれが冗談として通ると思っているらしいから、はっきり言って、日本人としてはそれを聴いていてこう、笑ったものか、笑ってはいけないものか、凄くきついものがあって、もう貴重な経験をしましたが。
ロマはそう言うことすらしないわけですよ。結局人間が自分のことを語ったり、世界のことを語ったりするというのは、ある教えられた、というか身に付いた身のこなしみたいな物でやっていく部分がありますから、それが全くないところにおいては、それを語ることすら出来ない。
じゃあ、それなんだったのって言うと「運が悪かったから」としか言ってみようがない。この時に問題になってくるのは、彼らが第二の意味での「歴史」を語る気が全くないと言うことです。あるいはそのロマがね。
それで、全く語る気がないという事は、言うなれば、世界の怪異性と自分との間で、堤防になって身を守ってくれるような、ある物語化みたいな物が、全く働かない状態で、そういう過去の現実に直面する。それで頭が病気になったりはしないらしいんですが。
そういう人間にとって、あるいはそういう人間をも包括した形で歴史を考えていくときに、それはどうなっていくのかという問題。そして、歴史がある意味で物語だとするならば――「ある意味で」と言ってくれるなら私は全く文句はないわけですが――当然のことながら、そういう人間が自分の経験を語る物語のやり方もあるはず。それがどういう物であり得るのかという話を、来週したいと思います。



講師:佐藤亜紀

原稿起こし:ぷりぷりざえもん

2008.11.29 明治大学にて行われた講義より。

※この原稿は、講師のチェックを受けていません。ぷりぷりざえもんが許可を得て個人的に録音し原稿に起こしたものです。

※いつものように、ミス、抜け、聞き取れなかった部分のフォローよろしく!



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