佐藤亜紀明治大学公開講座第七回(2008年度第二回)(2008.6.14)[2]

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すっぱだかのナポレオン

 ところで、その話の続き。アングルは一応アカデミーの画家です。18世紀、17世紀以来のアカデミズムの伝統というのがありました。その伝統というのはなんなのかというと、さっきラファエロとちょっと言いましたが、それと当たらずと言えども必ずしもかけ離れていないところで、絵画のヒエラルキーというのがあって、当時アカデミーに入るときに、何を書く画家かというのを、きちんと決められて会員になるんです。その場合に、一番トップに来るのは何かと言うと、宗教画と、古代ローマの歴史に題材をとった絵を描く画家。それから、強いて言うならば、現在の政治家が政治的なエピソード。そういうものを描く画家達を含めてですけれど、こういう連中のことを、歴史絵画の画家というふうに一括して言ったんですよ。
 それに対して、我々は別に今日ではあまり区別をつけないような気がしてますけれど、風俗画と、それから静物画の画家というのは非常に地位が低かった。これは凄く微妙なところはあるんです。どの辺でこの問題が、フランス人の絵画観から抜けてくるかと言う問題。例えばシャルダンという画家いますよね。

エイをこうやってアンコウみたいに逆さづりにして、こうしている店先の絵というのは、多分画集か何かで見たことがあると思います。
 あるいは、帽子を被って男の子がこうやってまじめにカードを合わせているのを横から描いた絵とか。他にも色々あるんですが、基本的に彼らは凄くいい画家だし、今日誰もその事に疑いを持たないんですが、アカデミーの中のランクは低いんですよ。なぜならば、特に静物画を描いた人間は凄く不利だった。古い言い方だと、静物画のことをナチュール・モルト(nature morte)と言います。つまり死んだ自然なんです。で、死んだ自然を模倣するのは、宗教画のような、人間の霊的な問題、人間の精神の問題にとって重要であったようなこと、あるいは歴史画のような、人類の――つまり彼らは自分たちのちっちゃい世界のことを人類と言うわけですけれど――歴史において、大きな影響のあったような物事を模倣して描くことに比べると、そこらにある死んだ自然、自然を真似て死んだ物を描いているのは、明らかにレベルの低い行為だと考えた。
 ましてや、そこらの人間に過ぎない連中を、おもしろおかしく描くなんて事は、あまり評価されることではなかった。従って、意外な話なんですけれど、バロン(パロット?)(49:45)なんかもそういう観点から言っちゃうと意外に評価が低いですよ。それに対してブーシェっていうのは、どうしようもない、いけない萌え絵ばっかり描いている男ですけれど、いけない萌え絵を描く傍らに、時折神々の絵とか描きますし、いけない萌え絵として神々の絵を描きますし、それからいけない萌え絵として歴史的な事も時々描きますので、彼は一応歴史画の画家だという話です。そういう区別があった。
 従って歴史というのはある意味じゃあ、宗教的な物を除いては、価値のヒエラルキーの一番トップにあるものだというふうに考えてください。宗教的な物も、彼らははっきり言って区別がついていたのかというと、すごく微妙な事がありますよね。
 はっきり言ってね、これもひどくショッキングな代物なんですよ。信じられないような絵ってさっきいったのは、さっきのゴードリー夫人の肖像も信じれないですけれど、これも私、信じられないと思った。あり得ないと思った。

 すっぱだかのナポレオンですよ。
 これ1854年か何かにつまり、ナポレオン三世の時代になってから、パリ市庁舎の天井に絵を描いた。つまりナポレオンを記念する絵画を描いて欲しいと言われて描いた絵の下絵です。現物はパリコミューンの時に焼けたんで、残ってないんです。ただこの時は彼の画家のキャリアも最後に来てましたし、だいたいナポレオンに興味のある人じゃないのね。基本的にね。その頃の彼の興味っていうのは、というか多分最初からそうだと言えばそうなんだけれど、本当に彼が好きなのは、こういうもの(#5)なんですよ。なので、どう考えても非常にやる気がなくて、ある程度人を寄せ集めて、助手みたいなのを山のようにあれして、物凄い速成で作ったと言われています。
 ただ、これ、見て欲しいのは、このナポレオン、ある努力はあります。その努力に関しては後ほど触れるつもりでいますけれど、ある寓意画の伝統の中に、ナポレオンという、一応彼ら、当時の人にしてみれば、現代史のモチーフを、はめ込もうという努力はあるわけですね。その結果として、ナポレオンは、現実にはあり得ないぐらいいいガタイをしたナポレオン、すっぱだかのナポレオンになっちゃって、もっと凄いのはね、この布がどこに入っているかよく観察して見てください。こんな事って絶対にあり得ない。さすがに市庁舎の天井にですね、すっぽんぽんのナポレオンを完全に描くわけにはいかなかったということになっているんだろうと思いますけれど。
 いっちゃったら、この異様な美化という奴というのは、アングル自身が劣情に任せて背中の長いお姉さんが好きとか言って描いている時の、劣情の持ち方と、実を言うとあまりかけ離れたところがない。非常に必然的に出てくるあるロジックだと思うし、不自然という点でね。ただ、これはあまり彼はやる気がなかった。

 これ、もっとやる気まんまんだった頃のです。これはナポレオンを生で見て描いてます。1804年かな。確か。いやもうちょっと後かな。 1806年かな。ちなみにこれに関しても面白いエピソードがあって、ナポレオンはこの絵画すっごい嫌いだった。それは嫌いに決まってるでしょうという気がする。実はそこに大きな鍵があるんですね。アングルがどこまで当時の時代の風潮に乗ってて、どこまで乗ってない男だったのか。これはナポレオンという人物を完全にヨーロッパの伝統的な君主の枠組みに当てはめて、解釈して描こうとした絵画です。
 その範囲によって、君主というのはどのようにあるべきかという事を考えたときに、周りにアーミン(白貂)毛皮と別珍と金の刺繍と入れてさ、こうやってごてごてごてごて飾ることによってしか描けない。そうじゃなかったら素っ裸で神々のように描くしかないという、あれはあるんですけれど。
 ただね、凄いアレなのは、この顔なんですよ。この弱っちい顔。物凄く。それでこの顎の辺りが、そんな歳でもないだろうと思うんだけれど、たるんできてて、凄く病弱そうな感じの。顔色の悪い男だったと昔から言うから、その顔色の悪い感じと。強いて言うんだったら、衣装の中に埋め尽くされて窒息しそうになってる感じに見えるわけですけれども、これがようするにアングルが見たナポレオン。
 あるいは、こういう風に解釈することもできます。つまりアングルにとっては、ナポレオンを描けと言われたときでさえも――まあどうせたいして心が動いてないに違いないんですけれど―― ナポレオンに対してなんの感動もないから、うん、どれだけ偉い君主として描くかということにしか関心がないから、こういう事になる。そしてそのどれだけ偉い君主であるかという問題は、ナポレオン自身のカリスマ性であるとか、あるダイナミズムであるとかいうところに全くなくて、きちんと図像学的にこの場合は定められているわけですけれど、制度としても、このクラスの君主は何を身につけるべきか。どのように描かれるべきかという、きちんとした常識があるわけです。そのある常識に従って、描いて描いて描きまくる。その結果として、出てくるのは、当然のことながら立派な君主のナポレオンの像だろ、一体お前何の文句があるんだよって話になるのは、アングル的なある概念なんですよね。
 ここで問題になってくるのは、ようするにこの場合、ナポレオンという、生で見た、現に存在していたある男の、これ(#6)ですよね、皆さんよくご存じの奴はね。ナポレオンはこれに関しては全くけちはつけてないはずです。これは、あっちにある奴じゃなくて、別のところにある奴で。あっちっていってもわからないね。
 それで、これとさっきの玉座のナポレオンと比較して考えて欲しいんです。つまり、あのアングルの描き方というのが、言っちゃったらある一人の人間がですよ、人間を「歴史」という枠組みの中の――今言って良いのか悪いのか考えてますが――「歴史」という物語における強烈なキャラクターの一人として位置づけるというふうに言って良いんですけれど、その時に、アングルが考えた事って言うのは、ああいう事でした。
 つまり完全に君主として完全に飾り物の中に埋没する形できちんと描いちゃった。そうじゃないとすると、別の枠組みを持ってくる。つまり古代ローマの、神として祭られるというのがありますけれど、祭られた皇帝の姿として、従って既に神であるわけですから、着衣である必要はなくて、全裸の姿で黄金の戦車に乗って、月桂樹の冠を頂きながら天に上がっていくナポレオンというのを描いちゃう。どちらも全く生身とは関係がありません。

 だからといって、じゃあこれは生身かといったら、これも明らかに生身じゃないわけです。ここのところにある凄い歴史的な亀裂が入っているという風に私は考えているんですよね。ダヴィッドですけれど。この時はダヴィッド、ノリノリだからね。画家というのは君主の絵を描かなきゃならないとかいう話はありますけれど、見ているとはっきりやる気のあるなし、その君主に惚れているのか惚れていないのかっていう話は出てくるところはあるわけですよ。人間ですからね。御用画家みたいにしてだらだら描いたって、やる気があるのかないのかっていうのは、後で批判的な目で見ちゃうと、結構露骨に分かっちゃうし、そして、もっと嫌なのは、やる気があるのかないのかという問題に関して言うと、意外に描かれた本人が分かる。だからナポレオンは嫌だっていう絵と良いって言う絵がはっきりあって、そこの嫌だって言うのと良いっていうのは、たいして絵を見る目なんかあるわけないっていうふうに考えますが――そんなにセンスのある人間じゃないし、興味もないだろうから。どちらかというと、うん、物事をきちんとありのままに写すというのが絵画なんじゃないのって言いかねない男なので、ナポレオンというのはね。
 ただ、それでも敏感に、自分のことを描いたある絵に関してはOKを出すし、ある絵に関しては、何か微妙な態度をとるんですよ。それはようするに分かってるのね。何が描かれてるかって問題について。それに本人では意識しているか意識していないかに関わらず、反応してはいるんですが。ここであれして欲しいのは、言っちゃったら歴史を描いた絵画についての話になりますけれど、歴史を描いた絵画って、ヨーロッパの絵画において、どうなのよって話で、ちょっともう一回こっちをよく見て、これ、この感じをよく覚えておいてください。凄いダイナミズムでしょう。物凄く綿密に描いてあるように見えて、実は空の辺りとか意外にこう、ぼやけて描いてある。もう一枚のあれは、ジョゼフィーヌ離宮だった場所の方においてある奴は、背景はもっといい加減に描いてあって、その中に指で背景をなすった跡があります。
 そうなんだけれど、こんな風吹いてて、こんなところで、こんな後ろから強風が吹いている時、こんな場所を馬で走るのは誰だって嫌だと思いますが、そのぐらい凄い風が吹いて、こっちをこう吹いて、目の所をこうやって暗くなっているという奴。
 実際問題として、ナポレオンに関して言うと、こういうイメージを当時の人たちも持っていた場合が多かった。で、現物を見て、なおそう思っていた人が多かった。
 ナポレオンというのは、よく三時間しか寝なかったと言いますけれど、三時間しか寝ないんじゃなくて、夜は三時間しか寝ないことがあったと考えた方がいいと思います。なんで夜は三時間しか寝ないことがあったかというと、ナポレオンの場合は、分かっている限りにおいては、一日一日、何時に寝て何時に起きて、その日はどこに行ったかというのを、だーっと書いた本があるんですよ。その本を読んでいると、いつ寝ているかよく分かるわけですけれども、よく昼寝をします。何かというと、昼寝をします。一番酷いのは、食事で大使とか呼んで、一緒に、あるいは自分の所の部下達とご飯を食べていても、ナポレオンは何を出しても15分で食うんですよ。15分で食ってどうするかというと、そこの長椅子に行って勝手に寝ちゃうの。で、寝ていたとかさ。あるいは人に呼ばれて、でも意外に子煩悩なところがあって、自分の子供じゃなくて、弟の子供ですけれど、後のナポレオン三世を膝の上に乗せてさ、まだちっちゃい奴。こうやってひざでもってあやしながら離乳食を食わせるというような話も残っている男なんですけれど、とにかくぱっと寝るんですよ。隙を見てぱっと。で、いやそれはなんでぱっと寝るのかと言うと、死ぬほど眠いからなんです。
 ナポレオンの副官をやっていたベルティエは、副官の勤めをやっている間、一晩たりとも洋服を脱いで寝たことがないという風に言われています。いつ呼ばれるか分からないから。実際、ワーテルローの戦いの時、ナポレオンが戻ってきて、副官としてもう一回働いてくれと言われたときに、断るんですよね。断った後で、つまりとてもじゃないけれどあんな目に遭いたくないと思ったんでしょ?にもかかわらず、その前に住んでいる二階の窓から身を投げて死にましたけれど。なにか非常にノイローゼ的な性格の男の末路みたいで切ないですけれどね。これは。
 とにかく寝られないんですよ。恐ろしい目に遭った奴の話っていっぱいあります。ナポレオン自身もそうで、何時就寝て書いてありますよ。それで次の日の記述を見ると、12時ぐらいに寝て1時ぐらいに起きているの。それは寝てないよねという話で、多分布団の中に入って悶々と考えているんですよ。で、いきなりついに我慢ができなくなって、がばっと起きあがって、誰それを呼べ!っていう。で、そこでいきなり仕事を始めちゃうんですよ。ナポレオンの三時間睡眠てそれで。その結果、戦役の最中、なんか夜中でもいきなり出現するんですよ。そこら中に。様子見に。1809年に橋を架けている時なんかそうで、本当に来るんですよ。いきなり馬に乗って。夜中の三時頃に。
 その時にさ、見た奴っていっぱいいる。あるいは、その後、もうちょっと状況が押し迫ってから、シェーンブルンで、一応毎日毎日閲兵をやるわけですけれど、閲兵の時にどこに行くのか分からない――つまり、フランス軍には、総計でうん十万人の兵隊がいますから、毎日と言っても、全員が毎日そこで閲兵するわけじゃなくて、今日はどこそこの部隊、今日はあそこの部隊ってやるんで、みんな慣れてないから、どこに行って並んでいいのか分からない奴が必ず出てくるわけですよ。で、そいつが書き残してるんだけれど、道に迷ってそこらをうろうろしてたんだって、そしたら目の前にいきなりナポレオンがざっと表れて「お前何をしにきた」。
 それはいいんですけれど、普通はね、あれなんですけれど、その時にね、ナポレオンがね、いきなり小柄な男が表れて、「炯々と輝く灰色の瞳で私を見つめて」って書くわけですよ。ありえねえだろそれって。普通。テンション高い男だからびびったのは事実だと思いますけれど。いきなり遭遇はしたくないね。とにかくそういう、あるノリみたいな奴ってのを非常に的確につかまえている。ある歴史上のナポレオンの幻想みたいな物、あるいはナポレオンの生身ではなくて、政治的な存在としてのナポレオンの側面と言う奴を、この瞬間においてきちっと捉えている。そういう意味では良くできた、非常に良い絵画ではあるんですよ。

「歴史」というのは、あくまで人間が人間の行為として行なっていくその積み重ねの中で出来ているという認識が、この絵画の中には表われている

 なんの話をしようかと言うとね、この絵画のあり方っていうのが、例えばさ、こういう絵画のあり方と全然違うでしょって話です。

これはベラスケスの『ブレダ開城』という奴です。で、これはベラスケスの絵画としても、そういう種類の物だと言われている。ごめんなさい、どういう戦争のどの場面だったかというのは、私は細かいことが言えないんで、いい加減になると悪いから、とりあえずパスしておきますけれど、とにかくそこのお城の司令官が包囲側に対して、城を明け渡す象徴として城門の鍵を持って出てくる。これは、普通は非常に屈辱的なものとして演じられるべき場面なわけです。
 素町人でもそういう目に遭うことがありまして、ロダン『カレーの市民』という彫像が、上野の西武美術館の所にあるでしょう?首に縄を巻いて、こうやっている。複数の。あれはその町の市民が、包囲軍に対して、自分たちの事を殺しても構わないからという意味で、首に縄を巻いて、シャツだけで出て行くっていう、そういう非常に屈辱的な敗北の場面を描いた物なんですけれど。ところがその時に包囲側の司令官が、なんと馬から下りて、相手の苦労をねぎらった。実際にそういう事件があったらしいです。どのぐらい事実なのかっていう問題は、調べていただくとしまして、その場面を、わざわざ書くわけです。そこには極めて古典的な意味での、この時代でさえ現実味はほとんどなくなったであろう、ある騎士道精神の生き残りみたいなものがあって、それは非常にリアルな人物像の中にきちんと定着させて、人間の世界の出来事として描いた。
 言っちゃったら、非常に歴史小説的な描き方だというふうに言えないこともありません。ある歴史上の出来事というのを、あくまで人間の世界の出来事に対してきちんと翻訳して、そしてそれが持っている非常に大きな意味そのもの、歴史的に大きな意味でもあり、そして人間の行為として大きな意味でもあるということですけれど、その意味というものを損なわないままに、人間の行為として画面に定着させるという努力がここでは払われている。
 そして、当然のことながら、そこに反映してくる歴史観というものも、お分かりだと思います。つまり、「歴史」というのは、あくまで人間が人間の行為として行なっていくその積み重ねの中で出来ているという認識が、この絵画の中には表われている。どこにも人間自身の力において、大きな所というのは何もなくて、ただそういう小さい人間としてのほんの小さな気持ち、ほんの小さな心遣いみたいなものがこういう場面を出現させるのだいう驚きだ、と言ってしまったらちょっと文学的すぎるわけですけれども。
 ただ、何にしても上手いですよ。この後ろの方の空気の描き方とか遠景の物の見え方とかも凄いでしょう。そういう空を背景にした、手前の方の、全体に黒めに描いてある人間達の衣装。それから、この白ね。この白が凄い効いてるんだ。全体に。しょうがないですよね。ベラスケス上手いから。

ナポレオンは、いかなる意味でも、勝利の女神の存在を必要としていないという事

 もっとどうしようもない例というのを上げますと、これはこんな絵を描かせなければ、もっといいのにということを前提にして言いますけれど。


これも、事実上は同じような場面を本当は描いている。ごめんね。ど忘れしているけれど、この絵の感じはルーベンスだと思うよ。メモとっときゃ良かったんだけれど、ルーベンス好きじゃないんだよね。
 ルーベンスには致命的な欠点があって、好きでもないくせに、寓意を多用しすぎるんですよね。寓意が面白い時期と面白くなくなっちゃう歴史上の時期というのがあって、明らかに面白くなくなっちゃった時期に属しているのがルーベンスです。面白くなくなっちゃうっていうのは、例えばルネサンスの初期、中世末期からルネサンス初期にかけての寓意像の展開というのは、物凄く面白いものがあって、どう面白いのかって言うと、頭の中で、どんどんどんどん拡大されていっちゃうのね。フォルトゥーナに関して扱った美術史の専門の研究所が一冊あるくらいです。つまり、フォルトゥーナ(Fortuna)というのは、「運命」ですよね。その運命の女神を、絵画の中に、あるいは詩の中に定着させるときに何をあれするのかって言うと、頭の中で考えるわけです。
 運命というのは、ようするにぐるぐる回る物だ。だから車輪を描けば運命になる。これはタロットカードなんかで皆さんおなじみだと思います。上に上がったり下に下がったりする。その上に上がったり下に下がったりする車輪のイメージを描くにはどうすればいいのか。あるいは、よくシャボン玉で、もっとリアリスティックに見えて、実は寓意的な意味が入っているんだよという絵では、シャボン玉として描かれることがある。つまり、ふうーっと膨らんでいって、きらきら輝いて美しいのに、次の瞬間にはパンと壊れてしまう。しかも丸い。これはくるくる回るという機能をそのまま引っ張ってくるわけです。あるいは。
 というふうに、多分描いた奴、作っている人間が、そういう自分の解釈によってどんどんどんどん変えていった瞬間というのがありまして、その瞬間というのは、物凄く寓意画って面白いんですよ。それは見てて面白いというのは何かというと、こっちもそういう意味解きの、謎解きゲームみたいなのに参加している事になっちゃうから。美術史における、私なんかはそういうのを基本にして美術史教育を受けましたけれど、イコノロジーというのは、基本的にそれを読み解くために発達した学問だと言って良いと思います。図像の例としてどんな物があるのか。だからこれとこれとこれを組み合わせたらこういう意味になって、でこれを今までこれこれだと考えられていたが、実はそうじゃなくてこうだみたいな読みをやる奴ね。
 ところがルーベンスの時代くらいになって来ちゃうと、ある程度、それが煮詰まってきちゃう。で、もう決まりが出来ちゃって、こういうふうに描けばようするにこれの寓意というのが決まって来ちゃう。にもかかわらず、員数だけ増やすためにどんどんそういうものをあれするんで、非常に虚しい寓意が多くなるのが、この時期以降のヨーロッパの絵画における寓意で、ほとんど意味はないんですけれどね。
 これはその城を占領した後の、ここに堡塁が見えますよね。とんがった。この包囲線において、勝利をした君主をこういう形でもってあれしています。きちんと調べてきてないし、今更あれする気もないですけれど。今更そんな学生みたいな行為に没頭する気はないんで、やって欲しいと思いますけれど、まあ間違いなくその羽のある人物が手に持っているのは月桂樹の冠で、こちらの人物も多分何かの寓意的な人物なんだと思います。そしてその二つの、言っちゃったら人間的ではない、ある神話的な物。ある何か神的な力というのが、彼女のことをこういう形で後ろから支えて祝福する事によって、彼女は勝利をおさめた君主である姿というのをこういう形で描いている。
 さっきの『ブレダ開城』なんかと非常に対照的な形になります。『ブレダ開城』というのはあくまで人間の世界の話でした。ここではある神話的な物というのが介入してくる。ただし一つだけ、全然決定的にさっきのアルプス越えのナポレオンなんかと違うところがあって、これ雰囲気だけで分かると思いますよ。つまり、この絵の持っている、あるきちんと安定した、馬にのった女性の姿勢一つからとっても、物凄くある安定した状態というのが分かりますよね。多分彼女自身の運命というものがどういう風に変わっていくとしても、とにかく彼女の君主としての正当性その物はまったく揺らぐことがないという、ある状況において、彼女はここに立って、このようなポーズをして、このように描かれている。
 非常に安定した政治体制みたいなものにおける、この君主の政治的な存在としてのあり方を描いたもの。身体的な存在という物はまだ多分別のところに存在するんですけれどね。それはある神話的な物とつながりを持つ物として描かれるべきだと画家は認識していた。つまり、人間のポジションというのがですね、全然異なるわけですよ。これが例だから、もう一回戻しますね。全然違うでしょう。
 この違いというのはどこから出てくるのかなというと、よく考えて欲しいわけですよ。言っちゃったら、さっき見ていただいたようなベラスケスの『ブレダ開城』、ルーベンスの『ユリエール開城』ですね。
 これは、歴史画における無垢の時代の絵画だというふうに考えていいと思う。つまり、「歴史」という物が、多分今日歴史というときに持っているような、とてつもない意味をまだ持っていなかった。ただ単に、ある為された出来事の堆積としての意味しか持っていなかった。そしてその中で、人間が不幸になったり幸福になったりする、その状況みたいなものにおいて、我々は何を為すべきかみたいな思考しかされていなかった、そういう時代がかつて存在したと思ってください。さっきの『ユリエール開城』の方に関して言うと、王の政治的な存在のエピファニーというふうに考えていいと思います。そういう意味では、これも政治的な存在としてのナポレオンのエピファニーであるわけですけれど、決定的に違うところがある。
 ナポレオンは、いかなる意味でも、勝利の女神の存在を必要としていないという事。そう考えると、さっきのアングルのナポレオンというのが、どのぐらい保守的なものというか、あるいは頑固に昔の形を守ろうとしているかということが分かると思います。ナポレオンは、そういう種類の寓意的な人物を、自分のことを対象とする、あるいは自分の治世を対象とする絵の中に描き込まれると凄く嫌うんです。何故だと思いますか。ナポレオンはそんなもの必要としないから。だって俺は俺だもん。だって俺ってナポレオンだし。簡単に言っちゃうと。だって俺ってナポレオンだし、別に月桂樹の冠なんか持って貰わなくても俺は勝てるもんねっていう話になっちゃうわけですよ。つまりそこには寓意的な人物もいないし、神もいない。つまりさっきの『ユリエール開城』みたいなものをあくまで念頭に置いて欲しいんですが、あるいはベラスケスでもいいんですけれども、あくまで人間のあるあり方、というか歴史というのは人間と人間とのある非常に偶発的な絡み合いの中で生まれてくる物であった。あるいは、もっとそれはバロック的な発想だと思うんですが、寓意によって表される、ある神秘的な状況みたいな物によって、超自然的な物によって、王の政治的な存在というのが荘厳されていく、飾られているというふうに考えられる。
 極端な話言っちゃうと、あれを例外にすると、もう一回それを見なきゃいけないからやめようと思って、時間がないから、忙しいからやめようと思って見なかったんだけれど、見ておけばよかったですね。モンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』という曲がありまして、凄い好き。ジャン・ピエール・ポネルの演出による録画を持っているんですけれど、録画というか、あれはビデオ用に編集した奴を録画した奴で、それが最高に素敵で、つまりポッペアを女房にしたいネロが、妻のことを殺すという話で、簡単に言っちゃうとそうなんですけれど。
 ネロのね、右と左からね、良い心と悪い心がささやいたりするんだよ。最高でしょ。この場合における人間の尊厳てどうなってると思うって考えたら、ネロだから、いいんだけれど。つまり、俺じゃなくて俺の耳にささやくものがいたんだ、それは病気なんだけれど、完全に自己のあり方に対する責任を放棄している、ある姿勢なわけですけれど、ユリエールも、言ってしまったらそういう種類の物なんですよ。私は確かに君主としてここに立っています。だけど、それは私が一人でやったことではない。そこの背景には、様々な寓意的な人物を描いてもらえる私の王としての権威が存在しているから。そういう自覚が存在する。逆に言っちゃうと、あの衣装を着て、あの人物二人を横に侍らせる事ができたら、彼女じゃなくて、誰でもユリエールの騎馬像のあの人物にはなれると言う話です。人間というものの位置が割合低い。そして、ブレダの場合なんか、そのあくまで低い位置における人間のある高貴な行為みたいなものを描く物だとしても、人間の力というのはそれほど大きい物では当時なかった。
 これは違うでしょう?明らかに。で、なんでかって言うとさ、言っちゃうと、ここではじめてある「歴史」という考え方に対する、とてつもない転換が起こっていると思うんですよ。ここでもって、彼は自分が「歴史」を体現する男になっちゃった。だからナポレオンは別に何もいらないんです。怪しげな寓意的な神々なんか後ろに控えさせる必要は全くない。なぜならば、俺が世界精神だから。彼がそう思ったかどうかは別ですけれどね。ナポレオンのことを見てそう思った奴が、確かに一人はいたんですよ。当時の、最盛期のナポレオンの雰囲気としてはそうだろうと思います。それは本当なんです。
 この話はまだしてないよね。1797年かな。フランスと同盟国側が、革命戦争の決着をつけるための和平会談をやった。その時にメッテルニヒは親父の尻にくっついて、一応現場まで行ってるんですよ。その時にメッテルニヒがね、家に向かっていっぱい手紙を書くんですよ。結婚したばかりですから。その結婚したばかりに向かって書くのね。ナポレオンが来るって言ってたけど本当かな?凄い。ナポレオンて、現物見たらどんな人なんだろう?ってね。今日もナポレオン来るのかなって、ナポレオンの事ばっかり書いてるのね。
 そのぐらい、ナポレオンの存在のインパクトというのは、敵方にとっても――というか、この時のメッテルニヒってナポレオンというかフランス革命戦争で、家を追っ払われて難民状態ですから。でも、それでも、そういうある種の微妙な憧れはあった。そして現物と遭遇した後も、実はそれほど幻滅はしてない。むしろ、実を言うとメッテルニヒはナポレオンを好きな男でして。
 何故かというと、聞いたことの無いような下品なしゃべり方をするのがすげえ面白い。そしてその下品なしゃべり方で、ぽんつくぽんつくなんだか、どんどん連想ゲーム式に言うのが面白い。「閣下、ドイツでの戦役はいかがでございましたか」「いやあ、あんなところ、えもんかけとキャベツしかねえ」ってこれ事実ですよ。「そのキャベツって、かたすぎてすぐ食えねえんだ。外で凍らせてから溶かして食うんだよ。ひっでえところだ。俺なんであんなところの為に、兵隊連れてわざわざ出かけていったか、このくそ寒いのに」って喋るわけ。ナポレオンは。本当に。メッテルニヒが記録している所によると。それで、メッテルニヒはそれを口開けて見て「すっげえおもしれえ」と思うわけ。こいつ最高って思う。
 で、見てると、明らかに非常に頭良いと思う。だから、メッテルニヒがずっと政治的決断の理想的な形として考えたのは実はナポレオンで、それは何かというと、アウステルリッツだったかな。昔の映画の中でもありますが、ナポレオンが風呂入ってるんですよ。で、ある問題について、戦争にするのかしないのかという話をするために元帥がだーっと風呂桶の周りに固まっている。で、元帥どもが喧嘩をするの。勝手に。主戦派と、反戦派に分かれて。ぎゃーっと喋ってると、ナポレオンはずっと風呂につかってまして、そしていきなりざーっとあがって、「お前らもう良い。下がれ」って言って。それで、その時にはもう決めてるんだよ。勝手に。話はしない。みんなに話をさせる。それを全部聞く。で、決断は一人でやる。だからメッテルニヒの不安というのは、フランツ一世はどうしてそういうふうにしてくれないのか。どうして誰かに一々話を聞いて、そこのところで誰と誰とのやりとりで三人で三角で話をしないと、右行ったり左行ったり話を決められない。お前一人で決めろっていう。俺たちは何でも好きなことを言うから、お前一人で決めろって思っているわけですよ。簡単にいっちゃうとね。とにかく本人のそういう性格という問題もありますけれど、ただ、そういう状況の中で、ある神話的人物にこの人はなっちゃった。で、一番問題なのが、ようするにそれが顔の剥奪という問題に繋がってくるんだけれど、つまり、ナポレオンがさっきのああであるのはいいでしょう?それはいいんですけれどね。

 一兵卒までこうなってくるというのはどういう事?
 これはジェリコですけれどね。これは本当にこういう時代なんです。こういう瞬間というのがあった。実際にナポレオンにくっついて戦争していた事のある、ある人物は、とにかくある時期までのナポレオンの軍隊に関して、ナポレオンの軍隊として出かけていって戦争をするという事に関して、何か後光に包まれて進んでるような感じがしたという風に言っている。あり得ないと思うんだけれどね。本当は。実際に彼がその場で経験してる事の数々というのを考えれば。でも本当にそんな感じがしたらしいんですよ。その瞬間において、ナポレオン自身が歴史の体現をしているだけじゃなくて、一人一人の一兵卒までが、これは将校ですが、そういう人物までが、歴史の体現者として我らがナポレオンの横に従って、光の中に包まれて進軍しているような感じがする。その瞬間の事を想像して欲しいわけですよ。

「歴史」による顔の剥奪

 それで、これを我々は十九世紀以降「歴史」と言ってきた。私はさっきからかぎかっこで「歴史」「歴史」と言っている。かぎかっこをつけて「歴史」と言っているのは、この「歴史」のことです。この「歴史」の概念というのが、我々の中でなんとなく今でも生き残っているし、そしてむしろ積極的にもう一度あの「歴史」を生きさせてくれというような種類の人間というのが、既にナポレオンが死んだ後で何十年経っても百年経っても出てき続けている。その問題というのを考えて欲しい。その時に、今日私がそこまで言おうと思っていたのは何かと言うと、その時に個人、個々の人間の顔というのはどうなっちゃっているのという事。
 それで話は元の所に戻って来ちゃうわけです。元の所に戻ってくるついでに、これをあれしちゃうんです。実を言うと、よくよく考えるとそう酷く悪い絵だとは思わないよ。でもね、これですよ。

民衆を導く自由の女神』ね。
まったくじんえん(陣営?人影?)は必ずしも同一ではないと言っておきますけれど、さっき言った、光に包まれて進んでいるような気がするというふうに言った、あの歴史の雰囲気というのは、まさにここでも生き残っているという、その事を見て欲しい。これなんですよ。言っちゃったら。これは近代における「歴史」という概念であり、そして私は「歴史」と共にあると考える人間が感じるものというのがこれだというんです。
 例えばこの人物。いやよく描けてますよ。すごくこういう種類のこういう人物のこういう時の顔、そしてきちんと考えて描いてありましてね、明らかにある程度以上の資産を持った、中産階級以上の人間であろうというのと、それから、ひげを剃るという習慣さえない男という奴が肩を並べて戦っている。そしてその時に、相互の間の浮かべている表情には、ほとんど普段存在したであろうような違いさえなくなっている。この瞬間というのが、つまり革命でして。
 革命好きな奴って言うのは、革命なんかしたってなんにも良いことないじゃん。人が死ぬだけだからやめようよと言うと、いやいや、やっぱりこれがねと言うわけ。これたまんないからっていう。ずっと私、しばらく事情がありまして、ジジェクアラン・バディウを読んでいるんだけれど、彼らがようするにね、人が死ぬからとかっていうのはけしからんて言って、後ろ向きな姿勢になるのはけしからん、それは良くないって言うときに、じゃああんた何するのっていうと、どうもこれがしたいとしか思えないのよ。そこが彼ら、非常に**綺麗な文章を書くんだけれど、なんか微妙に肯んじがたいようなところがあるんですよ。
 だから、ここから先の歴史というのは何があると言うと、右へ行っちゃうと、例えば唯一にして絶対の、ある完成された完璧な形を持っていて、そこには一筋の瑕瑾さえ存在しない国民の歴史という奴。そして国民の歴史の中で我々はこのように歩んでいるんで、この問題についてけちをつける奴は俺は許さんという奴が必ず出てくるわけですが。あるいは、左側に行っちゃった場合には――お分かりでしょう?世界史の必然的な展開として我々は今革命の先頭に立っているという左翼的な主張ではあるわけです。どっちも完璧にこの文脈の中に入っちゃう。
 いや、これを見ている限りにおいては、我々はなんともない。別にあくまで自由のために民衆が立ち上がって戦っている。ナイスじゃん。全然問題ないじゃんと思うかも知れないんですが、私が言いたいのはそうじゃなくって、この絵画というのが、言っちゃったら、見ていただきましたけれど、エイゼンシュタインプロパガンダ映画と、それから見ていただいた『意志の勝利』(youtube)における人間の顔というのと、いかに近い場所にあるか。というよりは、全く同じ文脈にあるということを認識して貰いたいなと思います。そこで個別の人間が持っている個別の歴史という奴は剥奪されて、もっと大きな国民の歴史とか、あるいは歴史の必然みたいな物の中に組み込まれちゃって、それぞれの人間の偶然の顔というのが、あくまで偶発的な、無視しうる範囲の物でしかなくなってしまう。それがようするに、私が言っているところの「歴史」による顔の剥奪という奴です。

「世界初のCNN絵画」


 これも見ておきましょうと言うことで、『キオス島の虐殺』。これも凄くいい絵なんです。ただね、やっぱりこれを今日見るときに、頭の中で、つまり逆に言っちゃうとドラクロワというのがいかに今日的な画家だったのかという話になっちゃうんですけれどね、「世界初のCNN絵画」という言葉が頭の中に浮かぶんだよ。全くこういう種類のさ、虐殺とかさ、圧政とかさ、まあ圧政は少しあるというふうに主張する人は一部にいるわけだけれど、いきなり人が死ぬような圧政とかいうのはないような状況の中でさ、脳天気に暮らしているようなフランス人がさ、ギリシャでもってトルコ人ギリシャ人を虐殺したそうだって聞いて、うぬおのれくそ、って言ってこういうふうに描くわけです。
 あるいは、どのぐらいインパクトのある出来事であったのかって言うと、例えばバイロンギリシャ独立戦争のためにわざわざギリシャくんだりまで出かけていって、そこで病気になってお腹を壊して死んじゃったわけ。確かお腹壊して死んだんだよな。やめときゃいいのにね。それはいいんですけれど、それ、実は何の過程の中で起こった出来事なのかって考えるのは、彼らの頭の中には、完全になくなっている。つまり、ここで苦しんでこういうような酷い目に遭わされている人々がいる、この人達を救わなければならないっていう、あるメッセージ性みたいなものを込めて言っている。だから、ある意味凄く象徴的なのは、この後ろの空なんですよ。
 これ、ちょっと暗いんですけれどね、確か今洗って綺麗になっていると思いますけれど、凄く明るいブルーをね、ドラクロワは後で入れたと言われています。ターナーの絵を見て、それを見て感動して入れたんだと言われています(ジョン・コンスタブルと勘違いの可能性あり)。その前は、もっと暗雲立ちこめていたらしいと言われています。というか、まあ、美術史というのもねえ、私が色々うちゃくちゃうろうろしてた頃から随分変わっちゃった可能性があるんで、その辺の所、確約はしませんが、ただもしそうなんだとすると、それは凄く象徴的だと思うんですよ。
 つまり、これが行なわれているこの場所の事を考えたときに、空はあくまで青く澄み渡っていなければならないとドラクロワが考える、その瞬間というのを考えると、それは画家の本能としては凄く正しいんだけれど、ある意味でとてもぞっとすることだと思います。あくまで美的なある判断に基づいて、空の色というのは黒ずんでいて、この瞬間の空というのは、ある透明な青さを湛えていなければならないと考えるんだよ。ここで、この状態でだよ。ちょっと、それかなり嫌な感じがする出来事ですよ。
 ましてあなた、特にこれをみると嫌なんですよね。子供がさ、死んだ母親の胸にむしゃぶりついてさ、お腹すかせてさ、こういう奴。他の所から引用されているのはいっぱいあります。このポーズの人物というのは別の絵画で老婆ではなくて若い娘でしたけれど、ドラクロワ描いたことありますし、この後ろの方でもって、騎兵に引きずられている全裸の女というのは、『サルダナパルの死』の中に出てくる人物です。それからこの赤ん坊のポーズというのは、ドラクロワメディアを描いた絵画の中で見られるポーズ。ある意味で非常に混成された物ではあるわけですけれども。
 何よりも凄くCNNだと私が言うのは、その空なんですよ。何故空を青く澄んだものにしなければならないのか。その時に、ドラクロワ自身の視点というのは、もしかすると空の方に凄く固着されていて、実際にここでもって這い擦っている人間の水準には全然ないんじゃないのというふうに考えられる。ここで這い擦っている水準にないということは、当然のことながら、この偶発的な出来事とギリシャ独立運動というもの、これの背景から、これがイギリスとロシアによるオスマントルコの分割の一環として起こった出来事だという認識はすこーんと綺麗にぬぐい去って存在しているということです。この話をするとまた長くなるからそれはカットね。
 だけど実際問題として、オスマントルコ、いつ解体するかというのは、ナポレオン時代から既に秒読みに入ってました。その一番あれとして、イギリスがギリシャを強烈に欲しがっていて、その問題に対してロシアがひどく過敏になっていたという問題もあります。最終的な決着として、ギリシャは独立させて、確か君主としてロシア皇帝の身内を入れたんじゃなかったっけ。この時色々な話が出てきて、だからメッテルニヒギリシャの独立に無茶苦茶反対したのは、アンチリベラルだからじゃなくて、そこまでロシアの影響が及ぶのは堪忍と思ったからだっていう、非常に具体的な、それこそ地べた這い擦った理由があるわけですが、そんなものは全部カットしている。もっとはるかに高い、自動的な水準という物に視点があって、そしてだからそれは青く澄み渡って全ての物が見渡せるようなそういう空じゃなきゃなんないと、この絵画を読み取ることができるんですよ。ある凄くやばい、いや、ドラクロワは微妙ないいやばさを持ってて、そのやばさがよく出ているケースはままあるんですけれどね。
 ドラクロワはアルジェニアにある政治的な人と一緒に出かけていったことがありまして、それでその時にかなりの数のスケッチを残してます。本当はこっちじゃなくって、ドラクロワがその時に現地のベルベル人の男達の事を描いたデッサンというのは見て欲しいです(参考?)。いかにそこでもってドラクロワがさ、なんか自分たちが属している文明から解放されたところにさ、真のとてつもなくマッチョな男らしさみたいなものを見て、その格好よさに胸打ち振るわせたかというのは、そのデッサンを見ると非常にビンビン伝わってくるんですよ。それに対抗する形で描いたのが、女達はこうであるという、この姿なわけ。言っちゃったら、ドラクロワの内側にある、どうしようもなく存在している植民地主義みたいな奴を炙り出してくる、ある装置になっている。ただ、言っちゃうと、それは絵画としての値打ちというのとは全く別な事であるわけですけれど。
 ドラクロワ植民地主義(参考1:アルジェの女 参考2:モロッコのスルタン)というのはそういう種類の物で、ある自己投影みたいな形で、ある男と女のイメージみたいなものを描いている。あるいは残虐さみたいなものと、男らしさが全くなんの遠慮することもなく一致をしている瞬間みたいなものを、超かっこええと思って描くというような所はあるわけですが、それはオルセー美術館の展覧会が来たときにさ、ポスターでもってさ、刀を抜いている黒人のポスター使ったというのを覚えてないかな。あの絵はねえ、オルセーにもありますが、私もしかするとあれはオルセーで一番格好いい絵じゃないかなと。物凄いしびれます。しびれるけれど、でもこういう物を描くのは政治的に正しくないよね、今日的には、という気もします。
 つまりそれはどのぐらい格好いいのかというと、所謂ギャングスタの兄さんがね、むかついたんで、手下の事をこうやってガーンと撃ち殺した瞬間みたいなのをあおりで撮った映画の映像みたいな、あるすんごい扇情的なかっこよさがあるんですよ。ああ、こういうものっていつの時代も変わりはないんだなと思いました。

で、これはちょっとまた別の種類のある傾向を持っている絵画であるわけです。さっきの背中フェチの絵ってこれね。この背中とそっくりな絵を別に、もっと若い頃に描いているの知っているでしょう。で、これ、アングルがこれを描くためにあれしたデッサンというのがあるんですよ。
 ドラクロワの植民地というのが、そういう形で自己投影してったり、自分のことをふっと中に浮かべた形で見て、それで、ある見下ろす形でこんな生活をしている人たちがいるのか、格好いい、これこそ人間の真のあり方だ、とかこそこそ考えているのと違って、アングルはもっとオタクなんです。
 どうするかっていうと、世界中の色んな裸の女の図版を集めてくるんです。で、色んな裸の図版の――いや、それデッサンで残っているんですよ。色んなところから写した奴が。で、描いて描いて描きまくるのね。そうすると、女性の裸体の描き方、世界的に凄い色んな裸が存在するじゃん。その裸を、どうも違いがね、その裸の微妙な違いみたいな物まで含めて全部ここにコレクションしてるんですよ。彼は。女体の楽園なんです。そういう意味では。世界中の女をこの額の中に一枚、明らかにちょっとアジア系の顔をした女性がちょっと描いてあったりするんだけれど。
 一番はっきりしているのはこれね。手前の、ちょっと非常に良く、だってこれ明らかにさ、ヨーロッパ的な意味でのさ、女性の肉体がさ、観念からかけ離れた肉体じゃない。これが出典が確か、エローラの石窟寺院のね、なんかインドのあれなんですよ。それを要するに、買ってひいてきて、他にもイメージの影響あると聞いていますけれど、それをある程度彼の持っている、ヨーロッパ絵画の描き方に組み込める形に直して直して直していってここに描いている。おそろしい奴なんですよ。この傾向というのも凄くいっぱいありまして、論文書こうと思って書き損ねて卒業しちゃったんだけれど、ギュスターヴ・モローがですね、デッサンをね、普段から常日頃からあいつは山のようにそういうものをデッサンしてるんですよ。で、すんごい都合がいいことに、当時はそういう種類の物ばかり集めて編集して、毎号だしている雑誌というのがあった。これはギュスターヴ・モローも見てるし、フロベールも見てるんですよ。確かに。フロベールはそういう種類のエキゾチックな物みたいな物をやたらといっぱいコレクションしてて、自分の心の中でもってあふれかえってどうしようもなくなると、『聖アントワーヌの誘惑』など書くわけです。だから、そういう意味では、これと特にギュスターヴ・モローフロベールのその辺のそういう瞬間における発想の近さみたいなものというのは、ヨーロッパ絵画におけるコロニアリズムの問題を考える時に、多分ちょっとはずせない問題になってくるんだろうとは思うんですけれどね。
 いや、一応難しい理屈をここにも付けようかと考えていたんですが、見ていると考える気にもなれないです。素晴らしくて。この絵は私本当に凄い好きです。ちなみにこれ、ハレムじゃなくて、普通のハマームだという説がこの間出ていたなんか。よく考えてみると、確かにハレムってさ、大奥みたいな所だから、こんなにのうのうと女どもが仲良しできるわけがなくて、普通の、近所のハマームだと考えた方が、納得がいく話ではあるんですけれどね。
 次、秋ぐらいにそういう形でもって、かぎかっこの「歴史」に対して、歴史によって顔が剥奪されてしまうという話から、そういう歴史というのと、個々の人間のあり方、積み重ねてきたものとの関係がどうなるかという話をちょっとしていこうと思っています。もし、皆さんがお時間がいっぱいあって、お暇でしたら、夏休みの間に、どこまで触れるか分からないですけれど、ブローデルの『地中海』を読んでおいてください。読んで損ということは絶対にない本ですから。多分どこの図書館にもありますし。



講師:佐藤亜紀

原稿起こし:ぷりぷりざえもん
資料収集:Ooh

2008.6.14 明治大学にて行われた講義より。

※この原稿は、講師のチェックを受けていません。ぷりぷりざえもんが許可を得て個人的に録音し原稿に起こしたものです。

※いつものように、ミス、抜け、聞き取れなかった部分のフォローよろしく!

※#つけた絵画、分かる人教えてください。

佐藤亜紀明治大学公開講座第七回(2008年度第二回)(2008.6.14)[1]

最先端のコンピュータグラフィックスみたいなものというのは、個人の金ではとても出来ないものになっちゃうわけですよ

 (GTA IVの話題)きっとその話をするだろうと思っていた人が常連には何人かいると思います。まだ日本語版は出てないんですが、北米版が出て普通に売っていたんで、PS3も一緒に買ってやってみたんですよね。
 これがちょっと大抵じゃない事になっていまして、あんまり大抵じゃないことになっているんで、実は「HERS」という雑誌に、ちょっとアート系の原稿を書いているんで、この前ターナー賞の展覧会のをやったものですから、アート絡みで、『GTA4』はどうですかと言ったら、返事がしばらくしてから来まして。なんて言ったかというと、ゲームの話題をしてはいけないということは全くないんですが、ゲームの性質から言ってこれはやはりどうだろう、と。
 ご存じの方はいらっしゃると思いますけれど、『GTA』というのは一番最初、街路はこう地図を見て、こんなちっちゃい車がちこちこちこちこ走ってって、車をこうやって盗んで、このままちこちこちこちこ持って逃げてくってゲームだったんですよ。それが段々3D化されて、どんどんCGが技術の進歩に従って、向上していって、この前辺りから、非常に上手く町の雰囲気を捉まえるようになっているんですよ。この前というのは、『サンアンドレアス』って奴で、ようするに、刑務所から出てきた黒人のギャングが、最初はチャリから始めて、ひたすらに自転車をこぎながら悪事を働いている時期ってのがしばらく続いて、その後段々成り上がっていって、一番しまいの方にはラスベガスまで乗っ取るのに、兄者に「縄張りを荒らされている。帰ってこい」って言われて、戻ってって何故か縄張り争いをしているという情けない話なんだけれど。
 ただ、それでも、おそらくはロサンゼルスとおぼしきサンアンドレアス。それからラスヴェガスとおぼしきラスヴェンチュラス。それからサンフランシスコとおぼしき、あれはなんて言ったかな。とにかくいくつかの場所が出てきますが、これがね、CG使っているのに、街の雰囲気が全部違うんですよ。
 これだけでも感心していたんですが、『GTA4』をこの間買ってきて――私はまだほんの序盤戦しかしていませんが――ディスクを入れて、画面が映り始めた時に、ちょっと茫然自失しました。町が本当にそれらしいんですよ。信じられないぐらいそれらしいんです。雰囲気まであれで。リヴァティシティというのは一応ニューヨークということになっているからね。そこらも、スタバのカップ持った奴がよたよた歩いていて、後ろから走っていってぶつかると落として罵声をあげるというぐらい細かく出来ていて、光の加減とかも、信じられないぐらい上手く出来てきている。
 ここまで行っちゃうと、もうこれを作っている奴の作り込みというよりも、あるデザインに基づいた立派なアートになっちゃってるんじゃないかなと思ったんですよね。
 もう一つびっくりしたのが、人間の顔の作りです。昔は、なまじ人間の顔を作り込んじゃうと、不自然さばかり目立っちゃって、上手く動かないものですから、ゲームをしていて非常に不愉快な感じがあったんですよ。なもので、いや漫画っぽい美形キャラがベストだよ、ゲームするには一番楽だ、とか言ってやってたものですが、今回出てくるのは基本醜男ばっかり。信じられない。主人公にしてから信じられないぐらいの醜男で、その不細工な奴が、旧ユーゴからの不法移民ですから、なんかきっちゃないスポーツウェアみたいのの上からきっちゃねえジャンパー着て、もたもたもたもた尻の膨らんだズボンはいて歩いていて、実に不細工なんですけれど、顔を見てみても、嫌な気持ちにならない。なんかそこのところで、微妙に人間の顔になってきている。他のキャラクターも微妙に人間の顔になってきている。
 そうなってくるとどうなるかというと、基本的に PTAに叱られるような悪いゲームの代表格(参考1参考2)で、街中を歩いて通行人を殴って金品を奪ってもかまわないというのが一応お約束になっているゲームなんですけれど、ここまでなってきちゃうと、人を意味もなく街中で撃ち殺す気持ちになれない。だいたい、うっかりすると人を轢くんですけれど、轢くのが嫌なのね。だって轢いた瞬間の、微妙な凄い反動みたいな物、ゲーム機にくるわけじゃないんですけれど、画面の持っているショックみたいな物も大きいですし、だいたいにおいて、その後で見るとボンネットが血塗れになっている。ここまで行ったらちょっとここから先何が起こるか分からないと思いましたよね。
 昔ちょっと考えたことがありまして。デジタルリマスタリングなんてのがはじまるちょっと前ぐらい。昔の白黒映画にカラーをつけてみましたなんて試みを、ちょっと一瞬やってた時期です。あの時に、昔の俳優をCGに取り込んで、再び演技させることができるんじゃないかっていうふうに言っている人がいたし、実際それはすぐに誰でも考えつく事ですよね。ただその当時の水準では ――で、その辺でやらせるとなると、私の場合はルイ・ジューベ参考)とかね、その辺になっちゃうんですけれど、その辺の俳優を連れてきてあれさせたって、顔はそうかもしれないけれど、演技まではできないでしょと当時は思いました。
 だけど今はわからない。もう二、三年経ったら、そういう事も可能になっちゃうかも知れない。そうなったときに、ビデオアートというか、コンピュータを使って映像を編集して出来上がってくる物というのは、どのぐらいの水準になるのかっていうのは、これはちょっと推測がつかないようなところに入ってきているところはあると思います。
 でも考えてみてください。現状で、本式にそうやって町全部作り込んじゃって――リアルな街でも虚構の街でもいいんですけれど、ある一つの街をばっちり完全に作り込んでですよ、それでその中をゲーム機を介して、あるいはコントローラーを介して、それを鑑賞する人間がうろうろして色々な事をやったりしながら、その作り上げた街の雰囲気を楽しむことができるというのは、これは既にある種のアートの領域に入ってきているんじゃないかなと思うわけですよ。
 前置きはそのぐらいにしておきましょう。実はなんで買ったかというと、『メタルギア・ソリッド』の新しい奴が出るから、それをどうせ買うから、その前に『GTA』もやっておきましょうとか言って買ったんです。この『メタルギアソリッド』の CGと言う奴も、実は、ちょっと前に予告篇が出た時、PS3が出たばっかりの時に、秋葉原パイロットフィルムみたいな奴を見ているんですよ。大きい画面に映されている奴を。
 その時に、これは凄い、と思いましたけれど、残念ながらメタルギアソリッドは出るのが凄く遅れました。阿呆でもってなんか特典映像つきのヴァージョンを買っちゃったものですから、メイキングが入っているんですよ。NHK茂木健一郎でしたっけ、脳味噌の学者の人が出てきて、色んな人のところで仕事ぶりを取材に行くっていう番組があるでしょう。ほとんどあれみたいな作りの。それをみると、今年の一月に入ってまだ随分ばたばたしてたみたいなんですよね。その状態で出てきた物に関して言うと、そうやって随分長い時間をかけてやっている間にCGの精度という点で、スペック的には多分『GTA4』に簡単に追い越されちゃっているんじゃないかなと気が少ししないでもありません。
 勿論AIやらなんやらという物の出来映えという点でも、ちょっと全然違う種類の物になってきちゃってますね。だからここから先どうなっていくかというのはちょっと注目してもいいと思います。
 雑談ばかりで申し訳ないんですけれど、これで締めますから。ターナー賞の方を見てきたと言いました。こちらの記事は「HERS」の方に書きましたけれど、それでやっぱりこういう、アートの外側でやっている事を限りなく発展させていった結果、物凄くアートに対して豊かな可能性を提供しているにも関わらず、所謂現代芸術というのがその挑戦に対して応えて、その水準をクリアしているかというと、少し疑問になってくるような種類の展示ではありました。質は極めて高いんだと思います。
 毎度毎度展覧会に行くたんびに図録がお買い得だから買えって書くのもなんだから、今回書きませんでしたけれど、実は展示している物よりも、図録の中に入っている、写真で見る物の方が、やはり凄くいい状態になっている場合が多いというのはあるんですね。だから彼らとしてみると、作品の実力を発揮する場所としては、現在の展示は非常に不足だよという事になっちゃうかもしれないんですけれど。中にいくつかビデオアートがありますが、やっぱりちょっとそういうのを見ちゃうと、ビデオアートというのは非常に難しいことになってきているねと。
 本当に頭だけで――さすがに最後まで全部つきあいませんでしたけれど――あれ、お巡りさんなのかな。ずらーっとこう雛壇に並べて、写真撮りますよって言ったっきり、一時間動かせないでいるのをずっとビデオで撮ってて、みんながもう嫌になったとか、もぞもぞ動いたりなんかするのをずーっと果てしなく撮ったりとかっていうのがあります。これはもう技術とはなんの関係もない、ある一つの観点から切り取る事によって、アートになっているか、なってないかっていう話の物に過ぎないわけですけれども、こういうのだったら多分いくらでも出来ます。でも、もっと他の種類の、コンピュータを使っていじったりした物に関して言うと、やっぱりちょっとね。
 そして悲しいかな、現代の最先端のコンピュータグラフィックスみたいなものというのは、個人の金ではとても出来ないものになっちゃうわけですよ。だから、いかに商業芸術その物が恐るべき物になってきているかという事です(参考)。
 これは、これまた森ビルで――何故森ビルで展覧会に行くとそういう感慨を深めるのかというのはちょっと笑えるようなところがありますけれど。まあ森ビルってね、つい1、2年ぐらい前までは、なんか資本主義の牙城みたいな感じがしてたから。そこでやっぱりピクサーの展覧会を見に行った時にもそう思いました。ただピクサーの展覧会って、勿論出てくる物に関して言うと、CGの技術の現在の粋で、何しろふかふかの物が出てくると、そのふかふかの毛が一本一本全部きちんと動くんですもの。CGの動物を使ったあれというのはあるんですけれど、予算によって凄く絵の出来、不出来は違ってきて、一番それがはっきり分かるのは、あれ、難しいのかな。あんな基本的な事もまだ出来ないのかなと思うんですけれど、動物の背骨の動きが、やはりおかしいわけです。一番安いのになると、背骨ってまっすぐ棒が入っているだけで、全く動きません。これでいまいち動物に見えない。特に猫とか全然猫に見えない。猫はだって背中のこれが信条でしょう?
 というような所はあるんですけれど、CGの水準は勿論言うまでもなく高い。ただそれに対して、ピクサーの展覧会で一番びっくりしたのがピクサーが一本の映画を作るために抱え込んでいる芸術家の人数と彼らのレベルの高さです(参考)。だから一つの場面のために絵描きがちゃちゃちゃちゃっと画紙かなんかで書いたような絵とかぱっとおいてあるんですよ。これが凄いんです。とんでもない物だと思う。これを売ってたら、かなりの値段でも買う人間がいるだろうと思いますし、実際そういう事情でピクサーが内部に抱え込んでいるんでしょうけれど、それからモックアップっていうか、三次元に作ってみたキャラクターの造形とか、そういう物の一つ一つ、どれをとってみても、芸術作品としてきちんと評価するに足るような水準になっている。
 一番感心してしまうのが、そういう連中を寄せ集めてですよ――そういうものが出てくるというのは、あんまり標準化しないで、好きなようにある程度仕事をやらせて、それをまとめこむ形でもって作品にしていってるんだろうということになると思うんですが、それを可能にするだけの組織の力。組織をどうやって作って運営していくかという問題に関して、ピクサーはちょっと凄いのかも知れないと思いました。
 集団的な創作というのはそういうふうになっていくのかも知れないですけれどね。だから、映画としては勿論言うまでもなくお薦めですけれど――次何来るのかな――その内側でやっている、裏方達の水準というのを考えただけでも、ちょっと恐るべき潜在能力を持っているし、ここから先も何をやってくるのかよく分からない人たちで。ある意味ではお子様向けで片付けられてしまいかねないアニメを、あれだけの力を傾けてやっているということ自体に対する、ある恐ろしさみたいな物はありますよね。これに対して、個人がアニメーションを作っていって勝とうと思ったら、よほど頭を使わないととても勝てないと思いますし、頭を使うと言ってもこっちは一人で使ってるし、向こうは何十人かで寄せ集めてやって――それで悪い結果が出る事の方が基本的には多いと思いますけれどね。ただ、悪い結果じゃなくて、いい結果を出させる方法というのを彼らは知っていると言うことですよ。

人間の顔が美しいというのはどういう事か

 そういう実業の世界の話はとりあえずいいとしまして、今日お話の一番最初に出てくるのはこれです。去年見ていただいた、アングルの

『ベルタン氏の肖像』という奴ですね。これをちょっと元にして「顔の剥奪」という話をすると前に言いましたけれど、今日しようと思っているのは、「歴史」という物。この「歴史」というのはかぎかっこをつけて考えて頂いた方がいいのかも知れないんですが、「歴史」による「顔の剥奪」というのがどのように行なわれたかという話をちょっとしようと思っているんですよ。
 去年も言いましたが、これは多分アングルの肖像画の中でも最高傑作だし、もしかするとアングルの作品の中でも最高傑作のうちの一つに入るんじゃないかと思います。凄い顔でしょう?実を言うと、昔、私がまだ大学生の頃にアングルの大展覧会が上野の美術館であったときの図録をもっているんですけれど、その中に、このベルタン氏が実際にポーズをとったときのスケッチというのが入っています。その時ね、こうやって座ってないんですよ。どうやっているか。ちょっと高い台みたいな所にこうやって肘かけて、足を交差して、小洒落た格好で立っている。それではないわけですよ。アングルはそれではなくて、このポーズで描いた。この男を描くにはこのポーズじゃなきゃならないと彼は考えて描いた。
 新聞社の社長か何かです。だから、それこそバルザック的なジャーナリズムの世界をばんばんに叩き上げていって、アングルに肖像画を描いてもらえるくらいの社会的地位を獲得した男だと言っていいと思いますけれどね。だから、この顔を見たときに、目つきから何から凄いでしょう?
 この人がここまで来る間にやってきた経験というのをつい我々は想像してしまう。もし詳細な事実を知らないとしても。要するに新聞社を持っているベルタン氏の肖像だよと普通図録には書いてあるだけです。多分この人の細かいライフヒストリーを調べた人もいるだろうと思いますけれど、そういう物を読まなくても、この人がここまで来るときに舐めてきた、受けてきた、いくつものいくつもの苦難を乗り越えてきた、困難の規模みたいな奴。それからそれに対して立ち向かっていくだけの――顎が凄いでしょう。この口の締め方。例えばこういう所からも、全部この人のしょってきた個人の歴史みたいな奴って言うのは ――この場合の歴史はかっこを外して頂いて結構なんですけれど――ごーんとして、ある意味じゃこの顔の中に凝縮されてしまっている。
 アングルは他にこういう肖像を描いていませんし、若い頃のだからそうだ、と言えばそうなんですけれど、自画像を描いてもこういう風にはならないんですよね。ああ、でもないな。晩年のが一枚あるな。それもなかなかに凄い顔の肖像画だとは思うんですけれど、今日は持ってきていないから。
 何を言いたいのかというと、いっちゃったら、この前の、去年見せた映画の中に、セルジオ・レオーネ『ウェスタン』の中の一コマと言う奴で、見ていただいた奴がありますけれど。人物の顔が果てしなく大写しになる奴ね。セルジオ・レオーネ、凄く人物の顔の大写しが多いんですよ。そして台詞が凄く少ないのね。何故そうなっちゃうのかというと、役者の力量もありますし、撮っている人間が、人間の顔という物に対してそれだけの信頼を持っている――つまり、この役者の顔をこういう形で撮ったら、この顔が、何を喋るよりも多くの事を喋るに違いないというふうに思うから、自信を持って大写しに撮っているわけですけれど。
 そしてその顔というのは、非常に妙な対照で言いますけれど、実を言うと、もう一人顔の大写しが凄く多い監督というのがいて、私その時代のイタリア映画というのを横断的に見ているわけじゃないんで、当時の様式としてそうだというふうに言い切ることはちょっと出来ないんですけれど、ルキノ・ヴィスコンティがやっぱり顔のアップの多い男なんですよ。すんごく。顔のアップだけみたいな場面いっぱいありますよね。ヴィスコンティ
 それで、この前『ベニスに死す』を見せようかな、見せまいかなと考えて、そしてどうせみんな見ているからいいやって思ったんだけれど、案外みんな見ていないかも知れないとは思ったんですけれど、今日も持ってきてませんが、それで、ようするにもってきたのが『ベニスに死す』です。その中で特に比較して欲しかったのが、顔の大写し。顔がその映画の中で、特にクローズアップされている、主人公の音楽家、アッシェンバッハ、それからアッシェンバッハがベネツィアのオテル・ド・バンで見つけて懸想をする美少年のタジオ。
 どなたかがきちんと検索をして、本物のタジオの顔はこれだというのをブログに張ってくださってました。あれを見て、私とてもうれしゅうございました。あれはよく出来たリサーチでした。本当に褒めてあげたい。だって、つまりあの顔ね。今の歳取っちゃった後の顔というのを見ると――皆さん知ってるかな。昔ポーランドが今の体制になる前にさ、社会主義の最後の頃にヤルゼルスキという奴がいたのよ。ヤルゼルスキというのは、ポーランドの士族の出で、そう言ったって、ポーランドとかハンガリーというのは、自称士族と称する人間の数が異様に多くて、ハンガリーで確か人口の30パーセントと言ったかな。ポーランドだと、人口の50パーセントだったか、もっとだったかが、士族だという風に言っているという話で、それはほとんど意味がないよという話になっちゃうわけですが、その状態でよく国家としての生産体制を保てたものだねと思うわけですけれど、士族というのは土地を持っていて、管理する側の人間ですが、実際にそこで畑を引っ掻いているのは誰なのという話になりかねないし、多分落ちぶれると自分でやるんでしょうけれど――なんか典型的なそういう顔のおっさんなわけね。そういうおっさんが若い頃、子供の頃どういう顔をしているかというの、想像がつかないじゃない。それでリサーチ、すっごいグッジョブなのが何かって言うと、そういうおっさんたちが子供の頃どんな顔をしているのかというのがきちんと写真貼ってあって、12歳の時の写真だったかな。それで見られるわけですよ。見てください。
 いや、確かにね。『ベニスに死す』を読んで、あの顔を想像する人はいませんわ。いませんけれど、ただ、私はあれは、ああこれは立派な男の子だねと思いました。はっきり言って、男の子として見た場合、ルキノ・ヴィスコンティが撮ったタジオより全然可愛い。多分母親の自慢だったと思う。もう何から何までかっちりしっかりよく出来た子供なんですよ。そういう感じなの。
 それは多分何かトーマス・マンが見ていた物とは全然違うのかも知れないねという気もしましたけれどね。なんか、あの写真では、ちょっとあれできないような、全然別な微妙な空気みたいな物をはらんでいたのかも知れない。でも、まさか12歳だったとは思いませんでしたけれどね。ちょっといくらなんでも。美少年趣味とかなんとかいうよりも、幼児愛としか言ってみようがないでしょう。変態もいいところだな。
 それはいいわけですが、話を戻します。問題なのは、『ベニスに死す』でルキノ・ヴィスコンティが撮った顔です。その時に対照的に撮った、ダーク・ボガード演じるアッシェンバッハの顔と、ビョルン・アンドレッセン演じるタジオの顔というの、これ、二つ一組で見た場合に、歴史のある顔と、それから歴史を超越した無時間的な顔。あくまで人間の物でしかないような、皺とか毛穴とかにまみれた実に汚らしい顔の、ある美しさみたいなものと――私、あのダーク・ボガードって好きなんですよ。あの時、変な化粧をする以前に変なメイクをしてますけれどね。彼は非常に良い感じの役者だったと思うんですが――それと、女の子のよう、とさえ言いようがない、なんだかよく分からない種類のタジオの顔というのがあるわけです。その中で全く時間が流れていない、超越的な美として捉えられた顔という奴。この対照というのをあれした上で、ちょっと考えて頂きたいわけです。
 つまり、人間の顔が美しいというのはどういう事か。
 それに対する一つの回答として、アングルはこれを描いたということをちょっと念頭に置いておいてください。そこから先はなかなかに凄いことになりますが。

 この顔です。信じられます?完全な左右対称でしょう。ちょっと目が微妙にろんぱりぎみなんだけれど、なんでろんぱり気味なのかって言うと、これは実在する人物の顔だからです。元の顔というのはどれなのかって言うとね、本当はこういう顔の人(#1)なんですよ。似ているでしょう?確かに顔の特徴は捉えている。これも横を向いているから、非常にきちんとした、整った顔立ちの、ちょっと年齢行っていると思いますけれど、三十過ぎぐらいかね。後で別な画家が肖像画に描いた顔なんですよ。多分実際にもし会って、話をして、あれしたとしたら、いかにどこかのお嬢様だとしても、もうちょっと別の顔を見せるはずなのに、この顔なわけです。
 この顔というのは、何の顔なのかというと、どうもこれ(#2)のための下書きだったらしいんですよ。四半世紀前のアングル展の書き込みなので、多分今ぐらいは、随分研究も進んじゃって、状況も変わっていると思いますけれど、その時のパンフレットに書いてあった説明によると、そこの家から家族の肖像を描いて欲しいと言われた。ただし、時代が時代ですから、19世紀の最初の頃。ただ単に家族の顔を描くんじゃなくて、居間の中に装飾として入れてくれ、その時に、メダリオンとして、部屋の装飾になるように描いて欲しいと言われたらしいんですよ。家族全員の顔を、神話の中の人物として描き出すことを依頼されたと書いてある。それがこの顔です。
 女神として描くために、真っ正面から完全に左右対称の形に顔を描いちゃったっていうふうに考えられるわけですけれど、アングルの場合、必ずしもそうは言い切れない所がある。朴念仁みたいな顔をしながら邪念の多い男ですからね。どのぐらい邪念が多いか後で見せますけれど、

これ、アングルが描いた聖母です。この顔は、ラファエロなんかから取ってきた、完全に典型的に古典的な顔なんですけれど、限りなく近いでしょう?むしろこっちを元にして考えて頂いた方がいいと思いますよ。
 つまり、アングルにおいては、完璧に美しい顔というのは、ああいう種類の物だった。ああいう形で左右きちんと対称で、全くいかなるぶれもずれもないような種類の顔というのを、美しい顔として認識していたんだと思います。そうして、アングルの美しいという概念というのは何なのかという話に入って行っちゃいますけれど。アングルにとって、それってでもさ、実際に変じゃない?って言う風な考え方は、多分ないんです。
 だって、普通に生きてる人間の顔って、みんな左右対称じゃなくて、ちょっとずつずれている。動いているよ。そこ、違うところで微妙な人間の顔の表情って出てくるんだ。ちなみに、もしあまりそういう事を考えたことがないと言うんでしたら、最近のコンピュータで――このほどやっと私はコンピュータをインテルマックに換えましたが、インテルマックにはカメラついているんですよね。自分の顔写真を撮ってぞっとしましたけれど、ていうか一番最初起動したら自分の顔が映ったんで、結構ぞっとしましたけれど。そういうのを使って――写真を撮って、多分簡単な編集ソフトぐらいついていると思うんで、顔を真ん中から切って、完全に左右反転でもって合成してみてください。右の顔と左の顔と。そうすると、左右を完全にそろえて同じにした自分の顔というのが、いかに変な顔なのかというのがよく分かると思います。これが、あまり顔にぶれがない人でもです。
 実を言うと、普通に話をしたり、人と話をしたりしていて、あ、この人の顔曲がってんだなって、なんとなくつくづくと思う瞬間てあるわけですが――これは余談ですけれどね――不思議なのは、その同じ人とずっと会っていても、その顔が左右違っていることが、凄く目立つ日と、全然目立たない日がある。全く気にならない日と、ひどく気になる日がある。なんなのかなというと、簡単に言っちゃうと、その人のコンディションなんですよ。コンディションが悪いと顔が曲がってるのが気になってくるのね。あれ不思議だなー。
 歳取ってくると、歯の噛み合わせなんかが変わって、尚更左右がずれてきますから、気をつけた方がいいという話なんですけれど、とにかく人間の顔というのはそういう物なんだ。この絵自体が、だから非常に不自然な描かれ方をした種類の物だって言うのは、この真ん中で立っている聖餅一つとったって変だって事はお分かりだと思います。これ、多分どっかの教会の為に描いた物だと思うんですけれどね。つまりさ、ミサの時の、これはわが体なりといって、ちーんと上げて、割ってさ、食べるって言う、司祭が食べて、みんなが後で正餐をするって言う奴。あれってさ、薄さ**ですよ。ウェハースってよく言っているけれど、並のウェハースより薄い。
 エビの入っている、薄い白い煎餅あるでしょう。あのぐらいの厚さくらいしかないんですよ。それがあんなふうに立つわけ、絶対にないんだよね。最近教会における御聖体と言う奴は――エコなんでしょうね。全粒の聖体があるんです。色がちょっと茶色っぽいから――昔は真っ白だった――わかりますけれど、これはちょっと昔より少し厚くなりましたけれどね。
 厚いと何が困るって言ったって、第二バチカン公会議以降は、手で受けていいんです。司祭からこうやってもらって、こうやって自分で取る。それ以前は口に入れて貰っていたわけですけれど、それはいいんですけれど、それを口に入れたときに、おミサでしょう。朝でしょう。朝飯食っていればいいけれど、朝飯食ってない場合、結構口の中が乾涸らびていたりして、その中にちょっと厚手の聖体を入れるとさ、顎と舌に張り付いて、にっちもさっちもいかなくなる。あれなんとかならないかねえ。事前に水を飲んでいった方がいいだろうとは思うんですけれどね。
 とにかく立つわけがないという、その問題一つ。
 それから、何故この聖母というのは、こんな****種類の(29:02)顔をしてなければならないのか。つまり、もっと人間的な聖母というのを描いた人は、彼以前にいくらでもいるのにも関わらず、彼は何故かラファエロにえらい惚れていまして、ラファエロの聖母の顔を採用してきた。その顔。
 そして、このポーズとこの指の長さ。ちょっとこの指の長さをあれして欲しいんですが、もっと見て欲しいのは、この首。これらの事を組み合わせると、どう考えてもアングルが考えていた理想的な美みたいな物のあり方というのは、普通、もうちょっとノーマルな感覚を持っている絵描きが考えている、ある自然な崩れ方、それも含めてバランスですけれど、バランスの崩れてないバランスの崩し方みたいな物の範疇というのを、全部排除したところにしか発生してこないだろうと言うことは、お分かりになるだろうと思うわけですよ。
 完全に何か排除しちゃった顔ですよね、これは。つまり、もともとある理念の中からしか出てこない顔ですけれども、その理念の中に、人間が人間であることという概念がない。まあ勿論これは聖母ですが、聖母であればこそ、より人間的な実質を与えたいと思う画家というのはいっぱいいるわけです。

 ムリーリョの聖母なんかちょっとあざといくらいだよね。そこらのねーちゃんぽくて。
 ですが、アングルはそういうのを全部外していかないと美しくならないとどうも考えているらしい。その結果というのがさっきのゴードリー夫人の世にもけったいな顔なんですよ。そう考えると、この絵も非常によく分かるでしょう。つまりこれは実際アカデミーの展覧会に出された作品だったと思いますけれど、人の目に触れた時にかなり批判をされた絵です。何を批判されたかと言うと、ここです。この背中の線。これ、解剖学的に言っておかしいんです。勘定した奴がいて、椎骨が二つ多いって言っている。
 ただ、ちなみに後で出してますが、ドラクロアはこれを見て、デッサンへったくそ、って言ったという噂です。ただ、「ゴードリー夫人の肖像」ってさっきのマドンナ見ていただいた後でこれを見ると、ある一つの微妙に納得できる物があるでしょう。その納得できる物というのは何なのかっていうと、アングルは解剖学なんてへとも思ってないって話です。
 アングルはどう考えてもこの長さが欲しいんですよ。この長さをひっぱり出してくるためには、椎骨が二つ多かろうと三つ多かろうと彼は全く気にしなかった。背中フェチだからね。後でもう一つ見て貰う奴の中に、結構若い頃からずっとある、『ヴァルパンソンの浴女』っていうのを知ってます?頭にちょっとターバンみたいなのを巻いた、結構肉付きのいいおばはんがでーんと座って、背中をこっちにこう向けて、背中しかないんですけれど。その背中に対する執着の塩梅というのは並はずれた物があるわけですが、その欲望が彼をしてこのように長い背中を描かせちゃう。その時に、実際人体がどうであるかと言うことは、判断の外側に飛んじゃっているわけですよね。あるいは意図的にそれを排除する。その事から完全な美しさみたいなものが発生するという風に、彼は考えていたと言っていいでしょう。

椎骨が二つ多かろうと、三つ多かろうと、あの絵画の良さには全然関係ない。

 その時にね、実は見て貰いたいのは

これなんですよ。よく古典派って言われるんですが、アングルって非常に謎めいた男でしてね。というか、どう謎めいているのかっていうと、言ってる言葉っていうのがいくつか残っているんです。普通にぱっととっちゃうと、ああそうと、さすがにアカデミズムの人ですね、古典主義の人は違いますね、みたいな感じがちょっとするんですが、よく考えると意味がわかんなくなっちゃうんですよ。例えばこういう事で。

 「絵画にとって、冷たさというのは致命的である。熱さで死ぬ人間はいないが、冷たさで死ぬ人間はいる」。

 暑くても冷たくても人間は死ぬわけですし、今日辺り暑くて、もう既に死ぬと私辺りは思ってますが――この夏をやり過ごせるかどうか、既に自信が無くなってきていますけれど――そう言っちゃった方が、ああそうなのかと思うじゃないですか。ところがね、この言葉よくよく考えてみると、なんか意味不明になっちゃうんです。
 つまり、手掛かりがない。どういう手掛かりがないのか。アングルはその場合、冷たい方を良しとしていたのか、暑い方を良しとしていたのか分からない。普通にぱっととっちゃえば、冷たい絵というやつを批判して言っていると言うことになりますが、その場合、アングル自身の絵というのは、熱い絵なのかって言っちゃうと、あれを熱いって言う人は誰もいないでしょう。これですよ、だって。全然熱くないでしょう。いや、彼的にはなんか微妙に燃える物があるかも知れないけれど、基本的にはこれ、熱い絵だって誰も言えませんよ。どちらかというと、アングル的な捉えで、「冷たいエロティシズム」というのが通例だと思います。そうだと考えると、自分の絵の冷たさみたいなものを、人のことを殺すぐらいの威力がある、と思って言ったんじゃないかと、つい勘ぐりたくなっちゃう。これは私の深読みですけれど。
 もう一つ、アングルを解釈する上で凄く決定的な謎めいた言葉というのがあって、彼はずっとイタリアにいて、ほとんどフランスにある時期まで帰ってこない男で、三十年くらいイタリアにいたんじゃないか。イタリアでずっと仕事をしてたんです。国なんかちっとも帰りたくないのね、彼は。国恋しくなるってことがなくて、もともとモントヴァの生まれなんで、南フランスなんで、パリなんて行ったって別によそはよそだし、イタリアとなんの違いもないって気がするのかも知れませんけれど、
 ただ、一番最初に彼がイタリアに行った時のご感想というのが凄いんですよ。

 「私は騙されていた」。

 私は騙されていた、というのが何なのかってのは、これまた色んな意味があるんですけれど、イタリアの絵画に図版やそれまでの絵画教育を通して――彼はダヴィッドの工房にいましたから。ダヴィッドの工房は払いが悪いんで、バイトで、オケのバイオリンをしてたらしい。まじ上手かったって話なんで、そんなことをしながら――習ってきた古代の美術、古代に範を取った、盛期イタリアのルネサンス美術。これがようするに新古典主義における理想の絵画とされてるわけですけれども、そういうふうにずっと思ってきた物が、多分彼の中で一つ崩れちゃったんですよ。間違いなく。そこまではOKなんです。
 ところで、何をして彼はそれで「私は騙されていた」と言ったのか。一体何を見て騙されていたと言ったのか。古典主義の、ある――昔の人はむつかしいから、きちんと絵にヒエラルキー決めるわけですよ。その中で、一番古典主義的に偉いとされているのが、ルネサンスと言うか、ルネサンスをちょっと過ぎた辺りの昔から、ラファエロはやはり一番模範とすべき画家の一人だという事になっていたわけです。
 ところでさ、そういう意味でのルネサンス的なある理想というのと、アングルのラファエロに対する傾倒の仕方は違うんですよ。一般的には、それは――あくまで当時の言い方だ、というふうな言い方になっちゃいますけれど――古典主義者というのは、ラファエロを模倣したのは、ラファエロが自然を最も上手く模倣したと思ったからです。ところで、ある人たちというのがいまして、その人たちというのも相変わらずラファエロオタなんだけれど、描く物っていうのが、こうなっちまう人たちなんですよ。

 ね、これ顔ラファエロでしょう。微妙に。ただこれ、パルミジャニーノですけれど、パルミジャニーノは顔に対してちょっと特異な好みがあって、ちょっと小狡そうな顔が好きなのね。聖母の左側の方から顔が覗いている、天使だと思うけれど、明らかに思春期の女の子の顔をした女の子いるでしょう?この顔が好きなんですよ。で、こう考えると顔の種類はよく似ている。それから、そこの下のところで、ちょっと横顔だけ、片側の顔だけ明るくなっているちっちゃい男の子いるでしょう?この顔も凄く好きですね。他の絵でもよく使っているんですが、この顔。
 注目して頂きたいのはそこじゃなくて、それで一応膝の上に乗っている、キリストのどうでもよさでもなくて――明らかに全然興味ないよね。不信心な奴だけれど――見ていただきたいのは首と指なんです。
 これ、俗に「首の長い聖母」と言われています。ぱっと見たときにさ、我々はなんとも思わないわけです。つまり、顔のバランスが異様に小さくて、下半身が異常に堂々と描かれているというのも、今日的な我々から言うと、ちょっと低めのカメラの位置か、あおりで撮れば顔は小さくなりますから、こうなったとしてもしょうがないんですけれど、それにしてもこの首が変なんですよ。そして指はほら、さっきのアングルの聖母と同じように、異様に長い指をしているでしょう。この種類の一派というのを、マニエリストと言いました。所謂盛期ルネサンスより後のイタリア美術の中の、ある一部の画家達を指して言うわけで、パルミジャニーノはその代表格だというふうに考えられますけれど、なぜマニエリストというのか。彼らはベラマニエーラというものが存在するというふうに考えた。つまり、美しいマニエラ、美しいあるやり方というものが、絵画には存在すると考えた。
 もっと凄いんですよ。そこから先行くと、かなり過激な発想をするなという話になっちゃうんですけれども、そのベラマニエーラというのは、例えばラファエロだったらラファエロのベラマニエーラを真似して描けば、完全にラファエロがない美しい絵画が出来るだろうと思う所までは、まあ素人考えですむわけですけれども、一応プロが言っていることですから。恐ろしい話はここから先で、彼らはさらに考えた。
 美しいマニエラは色んな画家が持っているんですよ。だから、レオナルドにも美しいベラマニエーラは存在する。レオナルドってあんまり出てくることはない。ラファエロは出てくること多いですけれど。ミケランジェロにも当然のことながら、まあミケランジェロは少し入って来ちゃいますけれどね。その美しいマニエラを、寄せ集めて作ったら、完璧に美しい絵画が出来るに違いないと思った。
 物凄く変でしょう。はっきり言って、彼らの作品を見ても、本当に彼らがそれを完全に実践したのかどうかというのは、かなり疑わしいところがあります。つまりさ、そんなフランケンシュタインの怪物を作るようなやり方で、一枚の絵画ができるってことはほぼあり得ないんで、頭の中で考えたとしても、描き始めたら嫌になっちゃうよって話になるんですけれどね。
 ただ、そういう形で作り上げられていた、ディテールを継ぎ合わせていって、ある何か一つの物を作るというやり方は、後期ルネサンス絵画の中には存在して、予測として成り立つのはですよ、実際問題として、盛期ルネサンスよりは、こういうマニエリスム的なやり方に対して、アングルが非常に強く反応したんじゃないかと思われる。そうだとすると、こういう種類の絵画というのは、こう言うのはアカデミズム的な伝統から言っちゃうと、排除しなきゃならないような種類の駄目絵画になっちゃうわけです。にも関わらず、こういう物を発見した、あるいは何も知らぬ形で、古典的な規範の中におさめられて教えられて、本人もそうだとおもっていた絵画というのを、現物を見た途端に、そのマニエリスム性だと今日我々が考えるようなある性格に対して、開眼したのだとすると、「私は騙されていた」ということが非常に腑に落ちる。
 言ってしまったら、美しさというのは、所謂ヨーロッパの古典的な絵画の考えなら、ですよ、自然な物は美しいです。それはこの前のレオナルドの人体図がどうこうという話をしましたけれど、その美しい自然を、きちんと真似すれば美しい絵画ができるはずだという非常に素朴な発想があります。マニエリスムというのも、もし何か取り上げるべき点があるのだとすると、そういう場所から完全に切れちゃったと言うこと。
 実際問題として、自分がやっていることをよくよく考えてみればですよ、フランチェリコだろうがミケランジェロだろうがレオナルドだろうが、自分がそのまま自然を写しているかどうかという問題に対して深く反省すれば、どうも違うみたいだ、と思うに決まっているわけですが。とにかく思いこみとしてそういうところがあった。
 これはこの前も触れたように、古代の美術、古代ローマにおける美術に対する発想と繋がっている部分があるわけですけれどね。それとはっきり違ったところで、ある美しさというのを、自然な形ではなく、作る、というのを考えたのがマニエリスト達で、そのマニエリストが、あるマニエリスト宣言みたいな形の物として、ベラマニエーラを継ぎ合わせるという発想が出てきちゃう。
 アングルはそれに対して凄く強く反応したんじゃないかというふうに考えることができるわけです。それでね、今日の話というのはなんなのかというと、そこから歴史の話に持って行きます。つまり、今まで言ったのは、個人の創作物としての絵画と、それからそこに写し取れる人間の美しさみたいな話。そして人間の美しさみたいな物を、所謂天然自然にいる人間の美しさじゃなくて、完全に作った物として、アングルは考えて、作っちゃった。その意味で言うと、例えばさっきのグランド・オダリスクだって完璧に出来ているでしょう。椎骨が二つ多かろうと、三つ多かろうと、あの絵画の良さには全然関係ない。何回見ても、ある一つの衝撃がある絵画ですけれど。最も今のルーブルの環境、凄いんだけれど、何故か知らないけれど、アングルの所はあんまり人がいませんから大丈夫です。どうしてアングルだと人が寄りつかないんだろうなと思うけれど、やっぱりあんまりつきあいたくないんだろうね。ああいう微妙な偏向した美意識みたいな物には。
 つまり美しい物を作り出せるというふうに考えた。その時に対象になっている人間性みたいな物というのは、完全に度外視された物になった。まずそういう話なんですよ。簡単に言っちゃうと。
 それで見て欲しいのが――一応当時のフランスの筆頭の画家、だからね、彼はずっとローマにいたんで、パリで誰がどういうふうに揉めているかっていう話に関しては、ほとんど関心がないんですよ。完全にローマの隠者みたいにして暮らしているんで、だから彼は戻ってきて、ダヴィッドが死んだ後で、アカデミーの代表に担ぎ上げられ、ロマン派と競争させられそうになったときに、物凄いたまげるんですよ。だって、絵を見れば分かるでしょう。全然この人、古典主義者じゃないもの。そういう意味では。むしろどうかするとそれよりもっと過激なところに行っています。
 つまり、アングルの影響というのは、勿論所謂19世紀のフランス絵画をずっと通じて、アカデミズムという形で温存されて、ほとんど20世紀に到るまで、影響を残していたというふうに言って良いと思うんです。でも自然を写すという意味では、その後に出てくるアカデミズムの画家達、ポンペの画家ってよく言うんですけれど――これは強烈に馬鹿にした言い方で、オルセーに行くといっぱい見られますが。その連中の方が、はっきり言ってデッサンはきちんとしているよ。全然。というかアングルは、もとよりそういう物を守る気はないから。
 で、誰が一番影響を受けたかって言うと、実を言うと、20世紀に入ってからの画家達なんです。マチスとかね。確か。あの辺の絵画史、私は微妙に疎いんであれなんですけれど。現代絵画の一番基礎になるような20世紀の絵画に対して、大きな影響を及ぼした理由というのはわかりますよね。20世紀の絵画の最大の特徴は何かというと、自然を写すという発想その物が、芸術のなかから完全にすとーんと失われた、そういう時代です。その中から、例えばフォービズムのような絵画が出てくる。フォーブというのの簡単な特徴は何なのって言ったら、物の色を物の色の通りに描かない。目に見える色で描かないという話です。つまり、色彩を自然の中の色彩を模倣して対象を描くことを止めた人たち。あるいは、キュービストというのは――ピカソなんかも含めてですけれど――何をやったことが最大の業績だったのかと言ったら、物を描くときに、その物の形をそのまま写さないという事です。むしろ非常に自由な形で画面の上に構成している。
 そういう形で、対象の形を模倣するという概念から芸術が解き放たれた結果、そこから純粋に美しい形態とはなんなのかという思索に移っていって、その結果抽象絵画が生まれてくるという動きは、非常に絵画史的な言い方ですけれどね。
 その時に、ある意味凄く響き合う物があったというのが、アングルなんですよ。ちなみに言うと、色彩の方に関してはドラクロワの影響があると言われています。ただしドラクロワの色彩の問題について論じ始めるとすっげー長くなるんで止めておきますけれど、そういう意味で、完全に作り込んだ人工的な美という物を作り出そうとアングルは考えていた。



(続く)

平野啓一郎『日蝕』は佐藤亜紀『鏡の影』のぱくりか?――2ちゃんねるにおける考察より――[2]

524 :吾輩は名無しである:2007/10/19(金) 13:11:06
 >>487
 この話題、もう終わってるのかもしれませんが、ちょっと気になったので。
 309さんは、459の内容を読み違えてませんか?
 ここで自分は、日蝕はたしかに四重構造だけど、鏡の影は違う、と書いたんですよ。
 余分なものがない=いいこと、とも書いてません。
 余分なものがない=設計図通りの構造で作られた証だと書いたのです。

 だいたい440-445は、309さんが420に書いた強引な意見を嘲笑ったものでしょう?
 どれもぜんぜん四重構造の作品じゃないですよ。なんで気づかないんですか?

 鏡の影が、キリスト教の問題に即して展開しているのもわかってます。
 その上で、平野氏が説明過多に展開して一つのプロットを目指したようには、
 鏡の影はなっていない、と書いたのですよ。いつもの佐藤氏の特徴ですけど、
 そんなことは読者も知っていてあたりまえとばかりに、説明せずに、あくまでも
 扱いは前提として、話を進めているだけですから。

 黄金産出と処女懐胎の扱いの違いも、この違いの意味を理解できればわかって
 もらえると思いますが。だいたい佐藤氏と平野氏は文学観が全く違いますよね。
 細部まで設計図を作って、構造を弄ることに楽しみを感じる平野氏(それが良いことか
 わかりませんが)の意図した同じ構造を佐藤氏が念頭においていたとも思えません。

 「読めば読み取れるものをわざわざ解説する作家はいない。」と言いますけど、
 自分だって310でこの構造のことを「知らなかった。説明してくれ」と書いてるじゃないですか。


535 :463:2007/10/22(月) 02:39:43
 今更だが俺も反論しておこう。309氏は何か勘違いしているようだから。

 >裁判になる盗作は字句にいたるまでの一致を幾つも指摘できるものだけだ。
 >アイデアやプロットや構造を丸ごと流用しても、
 >字句を変えておけば、盗作裁判にはならない。
 >だから佐藤は「ぱくり」と言ったのだし、平野は六年間平然としていた訳だ。

 何が言いたいのかわからない。僕はあなたの意見は無理矢理だと書いたのだが。
 盗作の証明はできないと改めて宣言したかったのか?

 >支離滅裂だな。かわいそうだからこれ以上castleの足を引っ張るんじゃない。
 >「作品各々の構造がそれだけ複雑である事実が示すのは、作品固有の組成の強度であり」
 >それが同じということは、そのまま流用せざるを得なかったのだということになる。

 これもわからない。君の不思議な考えだと全く同じ作品がふたつ出来上がるが。
 同一ではない二つの作品がある時、各々の作品の構造が複雑であればあるほど、
 盗作の可能性は低くなる理由がわからないのか。

 昔、大学の入学式で蓮實重彦が異様に長い挨拶をしたが、面白いことを言っていた。
 「似ている」という事象から汲み取れる最も確かな事実は何か? 
 それは、それらが確かに違うものであるという事実なのだ。
 ということだ。


537 :309:2007/10/22(月) 11:24:01
 お前ら十日も悩んでたのか?

 >>524
 もう終ってるし、お嬢ちゃんはレベルが低すぎなんだが
 おれは優しいから答えてあげるよ。

 >ここで自分は、日蝕はたしかに四重構造だけど、鏡の影は違う、と書いたんですよ。

 だから君の間違いを指摘してあげたんだよ。感謝してほしいもんだな。

 >余分なものがない=いいこと、とも書いてません。
 >余分なものがない=設計図通りの構造で作られた証だと書いたのです。

 何の証にもなっていないな。平野が「鏡の影」をいっしょうけんめい読んで
 理解できる範囲で単純化したって意味か? 

 >だいたい440-445は、309さんが420に書いた強引な意見を嘲笑ったものでしょう?
 >どれもぜんぜん四重構造の作品じゃないですよ。なんで気づかないんですか?

 どれも間違いなく四重構造だよw。440-445は420を嘲ったつもりで
 平野を嘲っている。なんで気が付かないのかね。

 >鏡の影が、キリスト教の問題に即して展開しているのもわかってます。
 >その上で、平野氏が説明過多に展開して一つのプロットを目指したようには、
 >鏡の影はなっていない、と書いたのですよ。いつもの佐藤氏の特徴ですけど、
 >そんなことは読者も知っていてあたりまえとばかりに、説明せずに、あくまでも
 >扱いは前提として、話を進めているだけですから。

 知っていて当り前のことは、当然そこに存在している。
 説明過多に展開して貰わないとひとつのプロットを目指したように思えないのは
 君が当り前のことを知らないからだ。もう少し勉強が必要だな。
 「聖なるアグネスよわがために祈れ」の出典は調べたかい?


538 :309:2007/10/22(月) 11:25:20
 >黄金産出と処女懐胎の扱いの違いも、この違いの意味を理解できればわかって
 >もらえると思いますが。

 アンドロギュヌスを炙ったら金ができた、という単純な話と
 「イコノロギア」でも首っ引きにしなければ全部は読解できない
 込み入った象徴連鎖という違いはあるが、
 作品の構造上は同じ。

 >だいたい佐藤氏と平野氏は文学観が全く違いますよね。
 >細部まで設計図を作って、構造を弄ることに楽しみを感じる平野氏(それが良いことか
 >わかりませんが)の意図した同じ構造を佐藤氏が念頭においていたとも思えません。

 細部まで設計された構造は佐藤作品の特徴でもある。
 既に何度も指摘されているし、「雲雀」の解説で若島正も触れている。
 強い影響関係を読み取るのが普通だろうな。

 >「読めば読み取れるものをわざわざ解説する作家はいない。」と言いますけど、
 >自分だって310でこの構造のことを「知らなかった。説明してくれ」と書いてるじゃないですか。

 「平野が言った」というのは知らなかったんでね。
 まさかそんなバカを口にする作家がいるとは思わなかったからだが
 ほんとに言ってたのには呆れたよ。

 もう少し色々な小説を読み込んで考えてから再挑戦したらどうだ。
 今のままでは、平野=真で佐藤=偽という君の直感は
 まるであてにならない、非論理的なものとしか思えないな。


539 :309:2007/10/22(月) 11:26:53
 >>535
 >何が言いたいのかわからない。僕はあなたの意見は無理矢理だと書いたのだが。
 >盗作の証明はできないと改めて宣言したかったのか?

 お子ちゃまはこれだから困るな。盗作裁判の前例に当ったか?

 >同一ではない二つの作品がある時、各々の作品の構造が複雑であればあるほど、
 >盗作の可能性は低くなる理由がわからないのか。

 「日蝕」と「鏡の影」、例の四重構造が違うことを論じてからでなければ
 全く無効な反論だな。
 構造的に同じ二作品の間には参照関係のある可能性が高い。

 >昔、大学の入学式で蓮實重彦が異様に長い挨拶をしたが、面白いことを言っていた。
 >「似ている」という事象から汲み取れる最も確かな事実は何か? 
 >それは、それらが確かに違うものであるという事実なのだ。

 似ている=確かに違うものである=ぱくりではない?
 笑わせてくれるな。
 蓮實の産婆術も君らには無効ということか。
 一冊くらいちゃんと読んだだろうな(訓示の間寝てたのか、とは言わないよwww)。
 蓮實が最も嫌うのは君のような短絡的結論だとわかる筈だが。

 週末にもういちど様子を見に来てやるよ。
 もう少しましな反論ヨロ。


576 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 00:14:28
 鏡の影 題名

 日蝕 題名

 鏡とは、光を反射することによってものの姿を映す。
 影とは、物体が光をさえぎることによってできる。
 日蝕とは、太陽の光が月によってさえぎられ、影になる現象をいう。
 月とは、太陽の光を反射することで輝いている。
 したがって日蝕とは、月の影であり、鏡の影なのである。

 題名が似ている


578 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 00:16:41
 鏡の影 あらすじ
 (1)実在のオカルト文献を頼りに真理探究の旅に出る
 (2)知を授ける真理探究の先達に出会う
 (3)後に真理に至る人物に出会う
 (4)異端審問に立ち会う
 (5)火刑とその中断に立ち会う
 (6)「白紙」で表現される奇跡に立ち会う
 (7)真理探究の師が先だって到達していた境地に主人公もまた到達する

 日蝕 あらすじ
 (1)実在のオカルト文献を頼りに真理探究の旅に出る
 (2)知を授ける真理探究の先達に出会う
 (3)後に真理に至る人物に出会う
 (4)異端審問に立ち会う
 (5)火刑とその中断に立ち会う
 (6)「白紙」で表現される奇跡に立ち会う
 (7)真理探究の師が先だって到達していた境地に主人公もまた到達する

 あらすじが似ている


579 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 00:17:28
 鏡の影 194ページ 5行目
 『セフェール・ラーズィエル』

 日蝕 10ページ 14行目
 『ヘルメス選集』

 実在するオカルトの文献を足がかりに、主人公が真理探究の旅に出るという展開が似ている。


580 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 00:18:15
 鏡の影 258ページ 8行目
 「――野蛮人どもめが」

 日蝕 50ページ 1行目
 「ふん、乞食坊主が。」

 面会を目的に文書を持って教会の偉い人に会いに行ったが、そこで退廃を目撃し、邪険に扱われ、捨てゼリフ的な暴言を一言、聞く、という展開が似ている。


581 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 00:19:17
 鏡の影 189ページ 12行目
 ニコラウス・グァネリウス
 189ページ 14行目
 ニコロ・グァネリ

 日蝕 48ページ 6行目
 「ニコラと云ったな、

 真理探求を行う者の名前が似ている。


582 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 00:34:08
 鏡の影 17ページ 1行目
 「その時が来たら、あの本はお前にやろう。私の生涯を懸けた答がそこにある。」
 16ページ 3〜4行目
 叔父の独言も幾らかは理解できるようになった。ある晩、ヨハネスは意を決して尋ねてみた。「黒化の後の第一質料からは霊と魂が放たれます。

 日蝕 145ページ 6行目
 「私の身に何か起これば、此処に在る書の類は皆お前の好きにするがよい。」
 118ページ 8〜9行目
 「第一質料の為だ。」

 主人公と真理探究の師が、同じ意味合いの語を含む会話を交わす点が似ている。


588 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 10:24:12
 鏡の影 36ページ 13行目
 暖炉の端に緋色の背中をしたむかでが一匹、張り付いていた。

 日蝕 25ページ 9行目
 こうこうとかがやく一点を認めた。歩み寄れば、麦の粒程のしろいくもであった。

 主人公が、物語の序盤に、色を特徴とした、昆虫以外の陸の節足動物を、予兆のように発見する、という展開が似ている。


589 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 10:25:07
 鏡の影 34ページ 14行目
 「あんなに別嬪の妹がいたら、
 37ページ 8行目
 床屋の女房がベアトリクス姫と呼んだ娘

 日蝕 80ページ 9行目
 「・・・・・・おしなんです・・・・・・」
 81ページ 8行目
 「おしなんです」

 主人公が、運命的な関係を結ぶある人物に初めて出会い、主人公は陶然とし、その日の夜夢の中でも再び出会いさらに陶然となるという展開が似ている。



590 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 10:25:37
 鏡の影 111ページ 1〜3行目
 乳と蜜で肥えさせています
 114ページ 4行目
 磨り潰した胡桃入りの蜂蜜を塗って焙った豚肉
 114ページ 8行目
 瑪瑙を抉った器に盛られた瑞々しい杏

日蝕 47ページ 2〜4行目
 籠の隙より、チイズが見える。クリイムが見える。りんごやプラムのような果物が見える。くるみが見える。瓶詰にせられたヨオグルトが見える。はちみつが見える。

 主人公が教会に赴くと、そこでは世相に反して贅沢な食事をとっている、という状況と、乳製品、杏(プラム)、胡桃、蜂蜜といった食品の種類が似ている。



591 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 10:26:16
 鏡の影 181ページ 9行目
 シュピーゲルグランツについて、子供のように殆ど息を切らすこともなく丘を駆け上がると、途端に、斜面で手を繋ぎ輪を描いて踊っている娘たちに出会った。

 日蝕 44ページ 4行目
 聖堂奥の僧院に至ると、我々は中から飛び出して来た三人の若い女と擦れ違った。

 主人公が引率されて移動していると、戯れあう若い娘たちに出くわし、主人公がからかわれるが、結局何も無く別れる、という展開が似ている。



592 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 10:26:51
 鏡の影 76ページ 11行目
 猛然たる口喧嘩の声と何かが割れる音がした。

 日蝕 79ページ 9行目
 これを聞いたギョオムはにわかに烈火の如くいきり立ち、

 主人公が寄らせてもらった百姓の家の中で、百姓の夫婦が突然口喧嘩を始める点が似ている。


597 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 18:26:57
 鏡の影 129ページ 15行目
 「まさか」「まさか」「赤の他人」「全然似てない」「似てる?」「似てない」「名前も違う」「こいつはヒンツ」「こいつはクンツ」

 日蝕 82ページ 12行目
 「ギョオム?」「誰だ、ギョオムって?」「知らねェなァ。誰だ、ギョオムって?」「ギョオムねェ。」「とぼけるなって。」「鍛冶屋のギョオムだ。」「いや、ちんばのあおごろもだ!」

 主人公が訊ねると、百姓たちが唐突に、同一の語を含む短いセリフで、かけあい漫才のような問答を始め、やがてドンちゃん騒ぎになる、という展開が似ている。


598 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 18:27:33
 鏡の影 214ページ 21行目
 グァネリウスは殆ど絶望に近いものを感じながら彼女の髪を撫で、

 日蝕 134ページ 9行目
 ピエェルは手の甲で静かにその髪を払いながら、両性具有者の頬に触れた。

 主人公に知を授ける立場の真理探究をする者が、後に火刑に処せられそうになる者と性的な行為に及ぶ、という展開が似ている


599 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 18:28:06
 鏡の影 239ページ 1行目
 その顔に浮んだままの恍惚とした歓喜の表情が

 日蝕 80ページ 10行目
 あとう限り大きく口を開いて声なく笑って

 後に火刑と中断の騒動を経て真理の果てに到達するような立場の人物が、その前から既になにかに至っている点が似ている。


600 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 18:29:16
 鏡の影 282ページ 1行目
 地下室の上げ蓋を上げた。

 日蝕 124ページ 4行目
 洞窟の内部は、

 火刑とその中断を経て真理にいたるものの身が、地下の空間にあるという展開が似ている。


601 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 18:29:48
 鏡の影 20ページ 4行目
 その頁には何も書かれていなかった。まったくの白紙だった。ヨハネスは狂ったように頁を繰ったが、どの頁もどの頁も、全くの白紙だった。
 322ページ 17〜18行目
 図表はそこにありながら、しかも白紙同然だった。
 328ページ 8行目
 「これは白紙だ」

 日蝕 184〜185ページ
 白紙(文章が書かれていない見開きの2ページになっている。)

 真理探求の果てを「白紙」で表現する展開が似ている。


605 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 19:55:22
 鏡の影 29ページ 14行目
 ゴーレム

 30ページ 2行目
 「新しきアダム」

 328ページ 13行目
 怒り狂うマールテンの額に、うねる緋色の筋が現れた。

 日蝕 139ページ 9行目
 巨人が現れると云うのである。

 179ページ 7行目
 かの巨人の姿であった。

 人外の人型についての噂と、その登場という展開が似ている。


606 :新潮文庫の「日蝕」とブッキングの「鏡の影」を比較:2007/10/27(土) 19:56:16
 鏡の影 328ページ 18行目
 指は、細かな、乾いた土となって紙の上を滑り落ちた。〜

 日蝕 188ページ 14行目
 指の隙から、光の名残のような金粉がこぼれた。〜

 奇跡が起きた後、人が粉状の物質に変化する展開が似ている。


614 :吾輩は名無しである:2007/10/28(日) 02:22:12
 ずっと前に誰かが書いてたけど
 平野が読んでいたらなおさら
 上記のような箇所のぱくりは避けるでしょ
 単に損するだけだから


615 :吾輩は名無しである:2007/10/28(日) 02:40:44
 それはあらゆる盗作問題に言える詭弁だね


619 :吾輩は名無しである:2007/10/28(日) 13:49:46
 マジレスすると、そんな書き方ではいくらでも書ける。
 他の作品からでもできる。低レベル過ぎ。
 佐藤亜紀氏も鼻で笑うだろう。


621 :吾輩は名無しである:2007/10/28(日) 16:20:38
 ふうん、じゃお前やってみろよ。
 「黒の過程」で頼むわ。
 どんな作品からでも可能だというなら
 612があげた箇所も全部あげられる筈だろ?


631 :吾輩は名無しである:2007/10/28(日) 23:44:04
 619よ、「黒の過程」読んで当該箇所指摘ヨロ。
 三日もあればできるだろ?


674 :Gauche:2007/10/31(水) 17:55:25
 さて、今更だが俺も少しだけやっておこう。

 まず下記の箇所は『鏡の影』で呈示されたモチーフそのままだ。
 もちろん字句や表現は異なるが。

 「被造物が悪として存在し得ぬのであるならば…」から
 「世界の全的な到達と再生」の予感へ到る主人公の思索の流れ。


675 :Gauche:2007/10/31(水) 17:56:52
 ・ジャックは教会で説教を行ない、人々はそれを疑わない。
  主人公はジャックを論駁しようと決意し問答を行なう。

 ・間歇熱が流行し(黒死病を想起させる)、
  村で争いが起き、風説が流布される。

 このあたりも『鏡の影』からの丸ぱくりだな。


676 :Gauche:2007/10/31(水) 17:58:43
 瑣末な一致や類似に到ってはかなりの数にのぼり、
 仔細に比較していけばきりがない。
 とりあえず、ひとつ挙げておく。

 主人公が村にいる時、ピエェルは白化の作業をしている。
 黒化の後の第二過程。
 >>582参照


705 :吾輩は名無しである:2007/10/31(水) 21:54:34
 >>580
 「鏡の影」では、物語の後半で、騎士フィヒテンガウアーが、
 司教が、建物の外の市民について言うのを聞き、
 「日蝕」では、物語の序盤で、主人公が、
 司祭が、扉越しの主人公について言うのを聞いた、
 という点が似ていません。
 どちらも教会の退廃ぶりを端的に表していると思ったので挙げました。

 >>591
 「鏡の影」では、物語の中盤で、道すがら、
 「日蝕」では、物語の序盤で、僧院内で、
 という点が似ていません。
 なぜこの部分が似ているように思えたのかというと、
 どちらも人物造形が物語世界から浮いているように思えたのと、
 ボッティチェリの「プリマヴェーラ(春)」を連想したからです。

 「鏡の影」ではこの他にもベアトリクスやフィリッパが
 有名な絵画を思わせる雰囲気を纏っています。
 このあたりがイコノロジーと関連しているのでしょうか。


783 :吾輩は名無しである:2007/11/08(木) 22:52:54
 >>589
 「鏡の影」では、その日のうちではなく、
 クリスマス間近の数日間が空いていました。

 火刑のエピソードの比較をしていたのを書き込み忘れていました。

 鏡の影 245ページ 13行目
 火刑を見にいかないんですか、
 248ページ 7行目
 聖ゲオルク教会の塔に炎が見えた。

 日蝕 172ページ 8行目
 焚刑に処する
 176ページ 10行目
 「太陽だ!」

 ある者が火刑が処されようとするが、通常ではありえない現象によって中断され、
 それを目の当たりにした真理探究する者が考えを改める、という展開が似ている。


784 :Gauche:2007/11/10(土) 11:12:03
 >>459さんはまだいるかな。

 >平野氏のいう四つの構造、内容それぞれをきちんと配置すると、
 >もう文章が決まってくるというか、それこそが日蝕になるね。
 >それだけでできていて、余分なものがないことがわかるから。

 >余分なものがない=設計図通りの構造で作られた証(>>524)

 上記のあなたの主張を踏まえた上で>>592で挙げられた部分について、
 次の点を解説してください。
 1. 『日蝕』のこの口喧嘩の場面は「設計図通りの構造」の中で何を担っているか。
 2. またそれは『鏡の影』における当該箇所とどんな相異があるか。
 3. 両作品間でこのような類似が発生したのは何故か。


903 :吾輩は名無しである:2007/12/21(金) 20:20:09
 平野君か誰か知りませんが
 自画自賛がしたければ平野スレでしたらどうでしょう。
 ここは平野の盗作が指摘されたスレ。
 そして今でも有効な反論はされていません。

 そんなスレで切り張りやパクリに過ぎない作品を売り込もうなんて
 自分がみじめになりませんか?
 ここではもう誰もだまされませんよ。
 平野スレならきっときみにふさわしい読者wがいると思う。
 これ以上ぶざまなところをさらさずに帰ったほうがいいと思う。


904 :吾輩は名無しである:2007/12/21(金) 21:57:11
 >>903
 はあ?
 ここは佐藤亜紀氏の「平野啓一郎氏に対する盗作疑惑」の真相が、
 彼女の売名行為であったことを証明するスレッドですよ?字が読めない?

 というかあなた全然読んでませんね?テキトーに放言してますね?
 全て読んでいれば出るわけない発言ばかりしているよ。嘘つき。
 Gaucheさんが学校から帰ってきたら大変な目に遭いますよ?

――――――――――――――――――――――――――
以下は

【新潮社】平野啓一郎氏盗作疑惑の真相 2 【日蝕
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1198595611/l50
から投稿を抜粋した物です。

62 :吾輩は名無しである:2008/01/30(水) 00:03:58
 鏡の影 180ページ 第十一章
 ヨハネスとシュピーゲルグランツは娼婦の野営地で一夜を過ごす
 186ページ 16行目
 ヨハネスはこの女に惹き付けられるのを感じた。
 297ページ 13行目
 「何てことでしょう、妾(あたくし)ともあろうものが百姓女みたいに藁の上に押し倒されるなんて」
 331ページ 7行目
 フィリッパなる女である。閣下は言わば花園のただ中からこの女を選んだのだが、

 日蝕 84ページ 4行目
 ある日、村にジプシイ紛いのひとりの女が流れて来た。
 6行目
 ただ、何処か凄いような魅力が有って、
 9行目
 女は既にしてギョオムに嫁(か)したこととなっていた。
 11行目
 今度は当地に来たばかりであった司祭のユスタスと姦したことである。

 その土地に生活を根ざしていない異国風の女性がふいに現れ、ある人物と肉体関係を持ち、
 その後で高位の聖職者とも肉体関係を持つ、という展開が似ている。

 フィリッパに相当する人は誰だろうと探していましたが、微妙なのがジャンの母親による上記の展開です。
 「鏡の影」でもフィリッパとシュピーゲルグランツは微妙な主従関係にありました。
 神話に相当するのはアポロンの母レトでしょうか。



63 :吾輩は名無しである:2008/01/31(木) 23:38:59
 「鏡の影」 38ページ 13行目
 声の主は軋むような甲走った笑い声を立てた
 59ページ 3行目
 奥方様のリュートが、と呟いた。
 62ページ 8行目
 シュピーゲルグランツがくすりと笑いを洩らすのを、ヨハネスは聞いた。
 「ペストだ」と司祭は叫んだ。
 75ページ 7行目
 「あんな奴、ペストにでも取り憑かれてくたばればよかったんだ」
 「ひとことそう言っていただければ良かったのに」とシュピーゲルグランツは答えた。
 330ページ 2行目
 シュピーゲルグランツは吹き出した。そのままけらけら笑いながら、

日蝕 138ページ 1行目
 村では奇妙なかんけつ熱が流行し始めた。
 180ページ 14行目
 ここに至って、矢はようやく放たれむとしていたのである。
 181ページ 3行目
 だが、こう思った次の刹那、ジャンの不毛にうがたれた暗い小さな穴からは、
 ものに憑かれたような狂的な哄笑が、肉を破るが如く噴出したのであった。

 「弓」「竪琴」「疫病」といった特徴を持つアポロンと「哄笑」「少年」といった特徴で、
 「鏡の影」の従者シュピーゲルグランツと「日蝕」の少年ジャンをつなげることができます。



64 :吾輩は名無しである:2008/01/31(木) 23:39:56
 いささかこじつけの感がありますが、気になった3点を一応あげておきます。

 鏡の影 177ページ 17行目
 ヨハネスは最初の日曜からミサに出席することに決めた。
 8行目
 彼の唇から漏れる声は善男善女の声を剣のように貫いて、
 10行目
 マールテン師の視線が此方に向くと、シュピーゲルグランツは俄に殊勝らしい様子を作って、
 雲が日を遮るようにその悪戯を隠してしまった。
 12行目
 その不可思議な吸引力の中心に立っているヨハネスだけだ。
 15行目
 そこでマールテン師は敢然と反撃に出た。

 日蝕 30ページ 3行目
 村人が多く群を成しているのが見える。
 31ページ 7行目
 眼窩の底深くに沈んだ信心かんぱつたるどうせいが、この時しゅゆの間私の上にとまりまた直った。
 その間もことばは途切れない。僧侶のこの些細なしぐさに促されて私の方をかえりみた者が二三有ったが、
 彼等もやはり無関心らしく、すぐに視線を元に戻した。

 聖職者が説教をしているところに主人公が赴く。
 主人公は特に気を引くようなことはしていないのだが、
 ほかのものの所作のために結果的に村人の注目を浴びてしまう。
 しかしすぐにそれは解消される、という展開が似ている。


65 :吾輩は名無しである:2008/01/31(木) 23:41:04
 鏡の影 148ページ 5行目
 何か巨大な蕪(かぶ)に似たものをつかみ出しては、畦(あぜ)に沿って掘った穴に据えると、他方が丁寧に土を掛け、
 13行目
 修道士は至極気持ちのいい笑顔でヨハネスに微笑み掛け、
 155ページ 12行目
 修道士は欠けた歯をむき出して愛想良く笑ったが、
 15行目
 修道士は九つのされこうべを洗い終え、再び愛想良く笑いかけて去った後だった。

 日蝕 28ページ 2行目
 死者はすべて共同埋葬にせられていたからである。その為、屍体は老若男女を問わず皆塋域(えいいき)奥の大きな穴の中に放られていた。
 一杯になれば、土をかぶせて埋めるのである。
 5行目
 以前に埋めた筈の穴の一つから、醜く腐爛(ふらん)して、頬の肉が落ち、大きく歯を剥出しにした遺骸の顔があらわになっていた。
 8行目
 そのあらわになった顔に向かって、こう声をかけた。
 「そんなに嬉しいかね、また戻ってこれて?」

 村で死んだ死体が穴に埋められて、後に穴から肉が落ちて骨があらわになった骸骨を目撃する、という展開と、
 常識的な感性からは状況にそぐわない「笑顔」という演出が似ている。


66 :吾輩は名無しである:2008/01/31(木) 23:41:43
 鏡の影 259ページ 10行目
 どうすれば不快の念を気取られずに済むものかと考えた

 日蝕 44ページ 11行目
 助祭は動揺を隠し得なかったが、私は敢えて口を開かずにいた。こういう男と接するに、
 尊大なかん黙を守っていられるのは、私のささやかな美点の一つである。

 聖職者の堕落を目撃しても、感想を表にあらわさないようにする自分を省みる、という展開が似ている。

平野啓一郎『日蝕』は佐藤亜紀『鏡の影』のぱくりか?――2ちゃんねるにおける考察より――[1]

この記事をご覧になる前に、お二人の見解と当該の両作品をお読みください。

『バルタザールの遍歴』絶版の理由(佐藤亜紀)

web2.0的世界において、「名誉」を守るということについて(平野啓一郎)

――――――――――――――――――――――
以下は
佐藤亜紀氏「平野啓一郎氏盗作疑惑」の真相
http://ooarikuifc.web.fc2.com/2chlog/1191516240.htm
から、投稿を抜粋した物です。


304 :castle:2007/10/11(木) 14:57:02
 また、日蝕の文学的価値はともかく、あれは鏡の影をぱくったものではない。
 自分で書いてみれば理解するだろうが、プロットを他人に読ませられる水準で
 破綻なく統御するのは至難の技なのだ。稀にプロットやそれに類するものが
 多重になっている作品があるが、それらはたいてい傑作だ。
 日蝕の四重構造はそう簡単には作れないのだ。動かせない制約によって幾重にも
 縛られているからだ。全く帰納的にしか作れない種類の作品で(平野作品には多い)、 
 字面だけ見ている読者にはわからんだろうが、他からぱくって演繹的に進めていく
 ことなど物理的に無理なのだ。池澤夏樹も「知的に構築されている」と感嘆したろう。
 識者は精巧なボトルシップを見る思いだったはずだ。

307 :みちるの友:2007/10/11(木) 15:22:40
 はてさて四重構造とは? アレクサンドリア四十層みたいなもんですかね(笑)
 プロットが多重というのも良くわかりませんねぇ(笑)そもそも貴殿にとってのプロットとは何かを説明してもらわなければ。

309 :吾輩は名無しである:2007/10/11(木) 17:31:48
 >>303
 確かに君が述べているのは意見に過ぎないな。
 平野は無罪を証明できていない。
 「読んでいないし読む気もない」と駄々を捏ねているだけだ。
 一度は見逃してくれた以上、最後まで見逃してくれると
 佐藤に甘えているだけなんじゃないか。
 
 一方で状況証拠は多い。
 新潮社の対応、文壇の不可解な放置、
 何より平野の作品の不出来。
 
 君が貼り付けたリンク先を読む限りでは
 佐藤に謝罪の理由など全くない。
 何しろ平野も新潮社も「やっていない」と口で言うだけだ。
 それを信じるか否かは、平野や新潮社が信頼に値するか否か次第。
 佐藤に対しては両者とも信頼回復のアプローチは全く取っていない。
 とすれば平野の主張を信じる理由は皆無だ。

310 :吾輩は名無しである:2007/10/11(木) 17:36:27
 >>304
 悪いがその四重構造とやらははじめて聞いた。

 「プロットを破綻なく制御するのは至難の業」というが
 小説家にとっては当り前のことだろう。
 とすればその四重構造とやらは余程のものなのだろうな。
 是非どういうことか説明してくれないか。

314 :吾輩は名無しである:2007/10/11(木) 18:04:00
 「物理的に無理」にはわろたよ。
 「識者は精巧なボトルシップを見る思いだったはずだ」にも。
 普通は悪口だもんな。

 もしかしてカストリって日本語が不自由?

354 :309:2007/10/12(金) 16:05:43
 あと例の四重構造の解説頼むわ。
 インタビューにあったやつだよな。
 夏休みの間に神学大全読破したとかいう与太と
 ごっちゃになって忘れたからな。
 あんたが言うような「精緻」なもんじゃなかったと思うよ。

361 :309:2007/10/12(金) 16:37:14
 358よ
 城のおっさんがそう言ってるんだよ。
 「日蝕」には四重の層があって、
 プロットが多層になってる作品には傑作が多いんだとさ。

 >>304
 日蝕の四重構造はそう簡単には作れないのだ。動かせない制約によって幾重にも
 縛られているからだ。全く帰納的にしか作れない種類の作品で(平野作品には多い)、  
 字面だけ見ている読者にはわからんだろうが、他からぱくって演繹的に進めていく
 ことなど物理的に無理なのだ。

 帰納的な制作と演繹的な制作って具体的に何よ、とか
 物理的に無理ってどうよ、とかは
 おっさんに聞いてくれ。
 逃げてなければそのうち来るから。

364 :309:2007/10/12(金) 20:45:58
 来ないってことは負けたってことだ。
 例の四重構造な、見付けたけど
 あんまりしょぼいんでワロタよ。
 幼児雑誌のフロク並みの精緻さだ。
 城が来ないんならおれが解説入りでうpしてやるさ。
 
 今日は飲みに行くんでまた明日な。


415 :みちるの友:2007/10/13(土) 16:57:03
 四重構造講義はまだですかね〜(笑)


416 :吾輩は名無しである:2007/10/13(土) 21:24:58
 飲み会に行ったおっさんまだ帰らないのかw


417 :吾輩は名無しである:2007/10/13(土) 22:08:22
 309、見てるけど書けないのかなwww


418 :吾輩は名無しである:2007/10/13(土) 22:35:18
 309よ、どうした? へたれたか。
 実は「幼児雑誌のフロク並み」だと思っていたものが城の言う瓶詰めシップである事に気付き、愕然として平野信者化してたりなwwwwwwwww


419 :吾輩は名無しである:2007/10/13(土) 22:50:27
 いや、点呼取ってただけだよ。

 城が帰って来るのを待ってたんだが、時間切れだ。

 「日蝕」の四重構造だっけな。
 wをいくつ付けても足りないくらいのありがたいお言葉だ。
 よく読んで覚えておいてくれよ。

 平野 一つは、表面に流れているプロットです。二つ目は、中世のスコ
 ラ哲学からルネッサンスへの転換期の何十年かにわたる思想的な流れ
 を、主人公の個人的な体験の中に象徴的に経験されていることがある。
 三つ目は、錬金術そのものを、テキスト全体を通して展開している。も
 う一つは、ベースとしてギリシャ神話があるんです。ユスタスという村
 の司祭は、キリスト教的な社会の中で徹底的におとしめられ、衰弱した
 ディオニュソスなんです。その他の人物達も、ギリシャ神話の衰弱した
 神々なのです。
 
 拍子抜け、というのが普通の反応だろうな。



420 :309:2007/10/13(土) 22:51:02
 >>304
 日蝕の四重構造はそう簡単には作れないのだ。動かせない制約によって幾重にも
 縛られているからだ。全く帰納的にしか作れない種類の作品で(平野作品には多い)、
 字面だけ見ている読者にはわからんだろうが、他からぱくって演繹的に進めていく
 ことなど物理的に無理なのだ。

 だそうだが、おれはそっくり同じ構造の小説を知ってるよ。
 『鏡の影』だ。あれもやっぱり

 表面に流れているプロット
 舞台となる時代の思想史を主人公がリアル体験
 テキスト全体を通して展開する秘義
 ギリシャ神話の神々=教会から見た場合の悪魔との駆け引き

 の四層を備えている。知らなかったか?
 知らなかったなら『日蝕』はパクリじゃないなんて言えないよな。
 それとも字面だけ見ていたかwwwwwww



421 :309:2007/10/13(土) 22:52:06
 まあそういう訳で、平野が得意顔で威張った四重構造も
 佐藤からのパクリと言えないことはない。
 ここに「表面に流れているプロット」がほとんど同じ、を加えると、
 ほぼ間違いなくパクリ、になる。
 「日蝕」と「鏡の影」が「全く似ていない」のは
 佐藤が加えていたひねりを平野が理解できずにはずしたからだ。
 佐藤は平野が逃げた宗教改革の暗黒面を嗤いのめし
 ルネサンスの思想的冒険が無残な失敗に終るまでを
 カーニバル的な奪冠を通して書いた。
 どちらが小説としてよりいいかは言うまでもないよな。


437 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 02:08:10
 >>420
 それ苦しくない?
 その書き方ならどの小説も四層にできるじゃん


438 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 02:15:38
 四層全部が同じというのはなかなかない。
 あるなら例をあげてみろ。


439 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 02:21:41
 >>438
 どれも同じじゃないでしょ?
 近い世界だけど、まず表面のプロットは違うよね
 他のみっつの内容も違くて、結局同じ箇所がないなら
 なんでパクリになるの???四重だから?


440 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 02:36:51
 たとえばだけど、、、その書き方(村上龍・限りなく透明〜)編

 表面に流れているプロット
 舞台となる時代の若者思想を主人公がリアル体験
 テキスト全体を通して展開する秘義(疑似薬物体験)
 ギリシャ神話の神々=主人公リュウから見た場合の女たちとの駆け引き


442 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 02:45:20
 たとえばだけど、、、その書き方(村上春樹・風の歌〜)編

 表面に流れているプロット
 舞台となる時代の若者思想を主人公がリアル体験
 テキスト全体を通して展開する秘義(疑似喪失体験)
 ギリシャ神話の神々=主人公僕から見た場合の鼠との駆け引き

 Gauchewwwwwwwwくやしいのうwwwwwwwwwくやしいのうwwwwwwwwwwwwww


443 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 02:47:50
 たとえばだけど、、、その書き方(綿谷りさ・いんすとーる)編

 表面に流れているプロット
 舞台となる時代の若者思想を主人公がリアル体験
 テキスト全体を通して展開する秘義(疑似ひきこもり体験)
 ギリシャ神話の神々=主人公私から見た場合の少年との駆け引き

 Gauchewwwwwwwwくやしいのうwwwwwwwwwくやしいのうwwwwwwwwwwwwww


445 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 03:03:45
 たとえばだけど、、、その書き方(NANA)編

 表面に流れているプロット
 舞台となる時代の若者思想を主人公がリアル体験
 テキスト全体を通して展開する秘義(芸能界)
 ギリシャ神話の神々=主人公私から見た場合の周りの人々の愛と悲劇

 結論:矢沢あいは佐藤のパクリ


446 :Gauche:2007/10/14(日) 03:11:21
 君らは平野氏の四重構造発言がいかに阿呆なことかを、
 笑っていることにならないか?

 309氏が追い詰められたなんて発想がどこから出てくるんだ。

 とにかく「四重構造だから、盗作ではありえない」という
 castle君の主張は309氏によって完全に潰されてしまったわけだ。

 俺がくやしいがるとしたら獲物を持ってかれたことだろ。


448 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 03:21:36
 >>446
 いやそうじゃなくて、
 いわれてみると日蝕は平野の言う通りガチな4重構造だと思うよ
 でも鏡の影は違うんじゃん?てこと
 そんな風には作られてないっしょ
 だいたいギリシャ神話をベースにして組み立ててないじゃん
 それに主人公の話のラインとは別に日蝕の最後は錬金術が成功して
 賢者の石ができあがるようなビックリな仕掛けがあるが
 鏡の影は秘技の使われる意味が違う

 309の人の指摘が間違ってるってことね


451 :Gauche:2007/10/14(日) 03:48:22
 結局、「結末が異なるから盗作じゃない」という
 今までの主張にもどってしまったな。


452 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 03:55:06
 「結末が異なるから」?そんな主張どなたがしてますか?
 Gaucheくん得意のズラし作戦かなあ?


454 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 10:00:47
 >>448
 こんなことまで説明しないといけないとは
 お子ちゃまたちも程度が低いな。
 「日蝕」がギリシャ神話をベースにしているとは
 平野も言っていない。
 登場人物を「流刑の神々」に見立てましたと言っているだけ。
 そんなことでは「鏡の影」の
 「聖なるアグネスよわがために祈れ」が
 どこから来ているのかもわからないだろうな。
 それとも読んでいないか。


455 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 10:22:00
 「鏡の影」も読まずに
 「平野さんは盗作なんかしていない!」と
 騒いでいるお子ちゃまたち、という構図が
 あばかれてしまったな。

 火刑=奇跡に至るプロットがほぼ同一ということは
 随分前のスレで指摘されたし、
 両者がスコラ哲学の末期から、ネオ・プラトニズムを経て
 錬金術カバラに至るルネサンス秘教思想の流れを踏まえていることは
 わずかでも知識があれば誰にもわかる。
 平野のアンドロギュヌスの火刑と黄金産出に対して
 佐藤は処女懐胎を持ってくる。
 平野が「流刑の神々」の見立てなら
 佐藤はヴェヌスベルク伝説を持って来て
 流刑の神々の逆襲として読ませる訳だ。

 まあ、ちょっとまじめに考えておいてくれ。
 全部同じでも、平野の「日蝕」の価値は変わらないから。


459 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 14:09:40
 上のcastle氏のいうことはわかる気がするけどなー
 平野氏のいう四つの構造、内容それぞれをきちんと配置すると、
 もう文章が決まってくるというか、それこそが日蝕になるね。
 それだけでできていて、余分なものがないことがわかるから。

 鏡の影読んだけどもっと違う感じだよね。
 日蝕みたいに、思想史経験させような意図も(だから説明文も)ないし、
 最初から錬金術自体を大きなテーマにしてクッキングブックみたいに、
 その材料とか作り方とか丹念に描写して、別プロットで書いてる日蝕とは違って、
 処女懐胎は表面のプロットに入るものでしょう。
 それに日蝕は一人称だから、別フェーズとしてのプロットを重ねられたけど、
 鏡の影の三人称だと、ただの場面展開になってしまうんじゃない?

 佐藤氏は四つの構造がありますとか何かで言ってるの?


463 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 15:49:11
 たしかに309の発言は間違っていると思うよ。
 佐藤亜紀が盗作問題に「比較対照できそうな箇所はありません」と公言してる。
 平野啓一郎も指摘してる。そんな無理矢理な構造比較で盗作の証明はできないでしょう。

 何より世界は似ているが記述は違うというのは、最も重要かつ決定的な事実で、
 作品各々の構造がそれだけ複雑である事実が示すのは、作品固有の組成の強度であり、
 なおさら盗作が難しいことの証明にもなる。castleが指摘したのはここでしょう。


486 :309:2007/10/14(日) 23:12:48
 解答待ちの質問は二つだけか。
 お前らも健康的な日曜日を送って来たらしいな。
 結構結構。

 >>459
 上のcastle氏のいうことはわかる気がするけどなー
 平野氏のいう四つの構造、内容それぞれをきちんと配置すると、
 もう文章が決まってくるというか、それこそが日蝕になるね。
 それだけでできていて、余分なものがないことがわかるから。

 >>440-445までをカキコした奴と話しあってみるんだな。
 四層構造だから精緻な作品というなら、
 春樹も龍も綿屋もNanaも精緻な作品だ。
 指摘された四つの構造、内容をきちんと配置すると
 もうそれだけで表現が決まって、個々の作品になる、と言える。

 余分なものがないことがいいことかどうかはわからんぞ。
 ないから『日蝕』は稚拙だと言うこともできる。


 >>鏡の影読んだけどもっと違う感じだよね。
 日蝕みたいに、思想史経験させような意図も(だから説明文も)ないし、

 冒頭の、神が聖職者を造ったなら、どんなに一揆をやっても聖職者はいなくならないのでは、という主人公の疑問を読んだかな? 
 神が全てを予め定めているというのがキリスト教の大前提。では人間の自由意思による働き掛けの余地はあるのか。
 ルターの信仰義もカルバンの予定説もこの問題に対する思索から生まれた。
 同時にこれは、人間が罪を犯すことを神は何故放置するのか、錬金術カバラのような秘教的魔術による世界の改変は可能なのか、
 という疑問にも結び付く。『鏡の影』はそういうキリスト教哲学史上の重大問題に即して展開してるんだよ。
 ちょっとはお勉強しとこうな。



487 :309:2007/10/14(日) 23:13:38
 >>最初から錬金術自体を大きなテーマにしてクッキングブックみたいに、
 その材料とか作り方とか丹念に描写して、別プロットで書いてる日蝕とは違って、

 クッキングブック? 言い得て妙だが、『日蝕』の悪口を言っているとしか思えないな。

 >>処女懐胎は表面のプロットに入るものでしょう。

 処女懐胎が表面のプロットなら、『日蝕』の奇跡も表面のプロット。思想史
 の疑似体験も錬金術クックブックも全部プロットだ。皮肉がわからないとい
 けないから書き添えておくが、実際には違う。

 >>それに日蝕は一人称だから、別フェーズとしてのプロットを重ねられたけど、
 鏡の影の三人称だと、ただの場面展開になってしまうんじゃない?

 『鏡の影』を読んだんだろ? ただの場面展開になってたか?
 多重構造はプロットを重ねただけのものじゃない。

 >>佐藤氏は四つの構造がありますとか何かで言ってるの?

 読めば読み取れるものをわざわざ解説する作家はいない。
 いわずもがなの解説を自作に加えて得意顔なのは平野くらいだな。


488 :309:2007/10/14(日) 23:14:08
 >>463
 たしかに309の発言は間違っていると思うよ。
 佐藤亜紀が盗作問題に「比較対照できそうな箇所はありません」と公言してる。
 平野啓一郎も指摘してる。そんな無理矢理な構造比較で盗作の証明はできないでしょう。

 裁判になる盗作は字句にいたるまでの一致を幾つも指摘できるものだけだ。
 アイデアやプロットや構造を丸ごと流用しても、
 字句を変えておけば、盗作裁判にはならない。
 だから佐藤は「ぱくり」と言ったのだし、平野は六年間平然としていた訳だ。


 >>何より世界は似ているが記述は違うというのは、最も重要かつ決定的な事実で、
 作品各々の構造がそれだけ複雑である事実が示すのは、作品固有の組成の強度であり、
 なおさら盗作が難しいことの証明にもなる。castleが指摘したのはここでしょう。

 支離滅裂だな。かわいそうだからこれ以上castleの足を引っ張るんじゃない。
 「作品各々の構造がそれだけ複雑である事実が示すのは、作品固有の組成の強度であり」
 それが同じということは、そのまま流用せざるを得なかったのだということになる。


490 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 23:32:22
 余程文学通のようだなwwwwwじゃあ君に質問を出そう。
 その質問とは佐藤が鈴木にした質問のことだ。


 問一 以下の諸作の言述構造・ストーリー・ファーブラ・行為項・イデオロギー構造における共通点・相違点を論じなさい。

 ベルトルト・ブレヒトガリレイの生涯』(ベルリン版)
 マルグリット・ユルスナール『黒の過程』
 ジョン・バンヴィルコペルニクス博士』
 ウンベルト・エーコ薔薇の名前
 佐藤亜紀『鏡の影』
 平野啓一郎日蝕

 問二 ブレヒトガリレイの生涯』とジョン・バンヴィルコペルニクス博士』について、後者が前者の主題をいかに変奏し、独立した作品に仕上げたかを中心に論じなさい。

 問三 『鏡の影』と『日蝕』について、問二に準じる形で論じなさい




 当然答えられるよね。文学通君w


491 :309:2007/10/14(日) 23:37:55
 お前そりゃ修論級の問題だよwwwww
 佐藤も意地が悪いな。


492 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 23:46:10
 あれ、君は文学通だから、修論レベルの問題でもお手の物なんじゃないの?
 まさか佐藤のリストアップした小説及び戯曲を読んでない訳は無いよね。
 ギブするんだったらだったら言わせて貰うよw




 309wwwwwwwwくやしいのうwwwwwwwwwくやしいのうwwwwwwwwwwwwww


493 :309:2007/10/14(日) 23:49:29
 修士号くれるならやってもいいが
 文学修士はもう持ってるからな。

 それより反論があるなら書けよ。
 明日は勤めがあるから早めにな。


494 :吾輩は名無しである:2007/10/14(日) 23:52:41
 あれ? 君が文学修士なのは分かったど、それじゃ解答にならないなぁ?
 さぁ早く答えてもらおうか。もう一発言わせて貰うよw今度はageでなw


 309wwwwwwwwくやしいのうwwwwwwwwwwwwwwくやしいのうwwwwwwwwwwwwwwwwwww


495 :309:2007/10/15(月) 00:14:01
 おれのカキコには反論なしってことだな。

 問題の解き方は教えてやれるよ。
 問一にはエーコの「物語における読者」を読んで応用すればいい。
 問二は知の探求と命惜しさの姑息な世渡りについて、共通点と相違を指摘すれば及第点は取れる。
 問三は問二と同じ形で奇跡の扱いについて書けばいい。

 佐藤の思惑では
 問一で『鏡の影』と『日蝕』の構造の類似と先行する作品との相違が明らかになり、
 問三で『日蝕』が『鏡の影』からどの程度独立しているかが明らかになる。

 ただし問一と問三の答は分かれるだろうな。
 同一だということにしたければ、『鏡の影』の、狂信者の町に入ってから火刑までを取り上げればいい。
 違うと言いたいなら小説の全体を取り上げろ。

 どこの教授だってこれ以上のヒントはくれないよ。
 健闘を祈る。


511 :吾輩は名無しである:2007/10/17(水) 01:21:58
 一つ確認しておきたいのだが、
 平野啓一郎の盗作の具体的内容が>>420だというのは、
 このスレにおける盗作肯定派の一致した見解なのか?

 この問題は気になっていたのだが、
 平野が具体的にどうパクったのか、きちんと指摘してあるページが、
 ネット上全然見つからない。
 正しいかどうかは別にして、具体的に指摘しているのを見たのは、このスレが初めて


515 :吾輩は名無しである:2007/10/17(水) 02:00:47
 >>511
 それだけは勘弁してくれ。
 アフォだと思われる。
 今週中にはまともな指摘をするよ。
――
続き

佐藤亜紀明治大学商学部特別講義講義録(目次)

2007年度 佐藤亜紀明治大学公開講座第一回ノート
2007年度 佐藤亜紀明治大学公開講座第三回講義録
2007年度 佐藤亜紀明治大学公開講座第四回講義録
2007年度 佐藤亜紀明治大学公開講座第五回講義録

2008年度 佐藤亜紀明治大学公開講義第一回講義録
2008年度 佐藤亜紀明治大学公開講義第二回講義録
2008年度 佐藤亜紀明治大学公開講義第三回講義録
2008年度 佐藤亜紀明治大学公開講義第四回講義録

佐藤亜紀明治大学公開講座第六回(2008年度第一回)(2008.5.10)[2]

個別的な存在であるはずの人間が、類にぱーっと成り下がる瞬間というのはある

 去年の後半は何をやったかというと、ちょっと古い映画を見て貰って、時間の流れの問題と、それから「顔」の問題という奴に関してあれした。今日辺りはその辺を掘り返す所から入っていくんですけれど。何なのかというと、「顔」の剥奪の問題。つまりさっき『宇宙戦争』の話をしましたけれど、『宇宙戦争』における最大の問題というのは、「顔」の剥奪の問題ということです。人間を個別な存在たらしめている、「顔」というやつ。この「顔」というのがぱっと人間の顔から消滅する瞬間がある。
 去年見ていただいたのは、フェリーの乗り場で順番を争って、乗れないかも知れない、乗りこぼれた連中が、そこでちょっと微妙に岸に押し寄せている所に、トライポッドが襲撃してくるシーンがあるんですが、そこでトライポッドが、音を鳴らすんですね。ぶおーって。あの音を鳴らした瞬間に、その場で今まで揉めていた人たち、スピルバーグはこういう人たちを撮るのが上手いんですよ。つまりどう上手いのかというと、これは『シンドラーのリスト』なんかもそうなんですけれど、そこで話している人たちの顔を、遠景でもきちんと見せる事ができる。凄く沢山の人間の中にいる、一組とか二組の会話みたいな物が、ぽろ、ぽろと耳に入ってくるように音を録っていく。その顔をあれしていくと、そこに確実に、ある「顔」をもった人間がいるなっていう、その存在感を出すのが上手いんですよ。
 『シンドラーのリスト』の場合はもっと上手くて、収容所へ入っちゃって、凄い状態になっても、これはあいつって見分けがつくと言うことをしているんですよ。これはちょっとびっくりなんですけれど。実を言うと『シンドラーのリスト』の謎はまだ解けてないんです。つまり、何故『シンドラーのリスト』っていうのは、あんなに顔を覚えやすく出来ているのか。だって白黒で凄く様式化した撮り方をしているわけですよ。ある意味じゃ昔の白黒写真みたいに。それの顔がずっと人間の意識に残っていくと言う時に、どういうトリックを使っているのかというのは、ちょっと興味のあるところですね。というか、本人に会ったら聞いてみたい。誰か、代りに会う人、聞いてみてくれないでしょうか。
 そういう「顔」というのが――襲ってくる合図で鳴らしているというのを彼らはみんな知っているわけですけれど――それを聞いた瞬間に、「顔」が無くなるのよ。全部。ファーって無くなる。もう怯えた獣みたいな顔しか無くなっちゃって、そこにあった個別的な思考みたいな奴がなくなって、ただ単に群れとして逃げ惑う。人間の状態はそこまで下落する。それを捉えた瞬間て奴。暴力による顔の剥奪と言うのは、こういう物だって話。
 『シンドラーのリスト』の時の問題を先に話しましたよね。つまり「顔」を剥奪されるということが収容所の最大の問題であるにも関わらず、スピルバーグは何故顔を撮ったのかって、やっぱり問題にされたことがあった。それに対する答えは凄く簡単でして、簡単に言ってしまえば、顔を剥奪された人たちに一つずつ顔をもう一度返してやるというのがあの映画だから。スピルバーグっていつもそんな問題映画みたいなのを撮っていて、『シンドラーのリスト』にしても『宇宙戦争』にしてもそうなんですけれど、一応娯楽映画の範囲にとどめるために、最後に凄い無理をするんですけれどね。そこの所をみると、ちぇ、ファミリームービーじゃんてついなっちゃうわけですけれど、そうも行かなくて。なんかちょっと怖い人なんですけれど。あの監督は。というか、あの監督、どんどん昔のラビみたいな顔になってきているけれど、いいんですか?あれで。インディジョーンズの予告編みたいな奴、映画館で見たら、うわあラビが喋ってるよって。
 そういう形で、簡単に言っちゃうと、個別的な存在であるはずの人間が、類にぱーっと成り下がる瞬間というのはある。これが、外側から強制的に行われることがあり得るという話です。その例として、暴力的にというのは程度の問題でして、『宇宙戦争』における顔の剥奪はある状況に強いられて、外的な暴力にさらされた結果なんですが、一方において、映画においても自主的に顔を捨てている奴ってのがいまして、その例として挙げたのは、エイゼンシュタインプロパガンダ映画『ストライキ』それから特に『10月』ね。それから、あるいはナチのニュルンベルグ大会の記録フィルムである、『意志の勝利』この二つです。二度はかけないからね。『意志の勝利』はね。シャベル部隊は馬鹿馬鹿しすぎるから。シャベルをもってこうやって閲兵する馬鹿どもが出てくるんですよ。この連中の顔つきというのが実に恐ろしい物でして、恐ろしいというのは、何もないからね。「顔」がないんですよ。顔かたちはある。顔かたちはあるし、もしかすると、地方ごとに、地域ごとに名乗っているから、その辺の典型ていうのはこういうものってリストアップされた種類の顔を挙げているのかもしれないんですけれど。そういう類として分類される以外の個別の顔という奴が何もない点では、なかなか気味の悪い場面なんですよ。
 この『意志の勝利』だとか『十月』におけるレーニンを迎える労農大衆と兵士って奴ですね。そこの場面なんかも、明らかに顔がない、ある集団になっている。一方向を目指して進んでいくために自主的に顔を失った集団の顔。つまり、特定のイデオロギーやドイツ化における顔の喪失という奴ですよね。ただこれは表裏一体のものになるというのはお分かりだと思います。つまり、エイゼンシュタインなんかのプロパガンダ映画、プロパガンダ映画の世界においては、そういう事は全くなくって、人民なりドイツ民族なりが、自らの使命に目覚めると、自ずとああいう顔になるって事になっているわけですけれども。ただ、実際問題、それが起こった時には、どのような種類の暴力的な強制があったのかっていう問題に関してはお分かりだと思いますし、実際にそれが行われたときの恐怖感というのは、『宇宙戦争』のあれとあまり変わるところがない。人間が顔を失う瞬間というのは。つまり、顔の剥奪、ようするにイデオロギー的な歴史に対して、人間が組み込まれていくことによって、個別な顔を剥奪されるという事はある。個別な顔を失って、類的な顔へ還元されていくという、その経験自体が多分暴力的な物であろうと。否応なしにそういう体制に組み込まれていく人間にとっては、つまり暴力による剥奪として経験される物だろうという話なんです。
 個別的な顔とかざっくり言ってきましたけれど、簡単に言っちゃうと、個別的な顔というのは、これは時間との関係になるんですけれど、ある固有の時間の流れによって形成されてきた顔、そしてその固有の時間の流れみたいな物ははっきり刻み込まれた顔だと言って良いと思うんです。だから、スピルバーグやなんかの場合には、ぱっと映るなりさ、もうぱっとしないオタクが、だらしない奴が二人歩いていて、ああこいつらオタクだなと思うと、なんか微妙にオタ会話やってるわけですよ。やっぱりね。そういう人も当然いるわけですが、それに対して、類的な顔というのは、そういう個別な個人的な時間の流れみたいな物を排除したときに表われる顔なんですね。いや、何もそれ、イデオロギーによるものに限られる物ではないんです。その例として見ていただいたのが、アウグスト・ザンダーの写真集であったり、それから、フェリーニの『そして船は行く』の、1914年当時らしい顔っていうんでフェリーニが役者の写真を集めて、こうやってカルタ取りやって調整したって奴。
 中にピナ・バウシュが入ってるんですよね。このピナ・バウシュの顔が実に素晴らしいんですけれど、まだあの時四十前だったでしょうか。
 ただ、この場合の類的な物に還元された顔って、必ずしも個別の時間を排除することによって成り立っているわけではないんです。それが典型のピナ・バウシュの顔で、あのピナ・バウシュの顔ってのは、勿論いかにもありそうなって言い方が出来るわけですけれども、盲目のコウジョ様でね、信じられないぐらい美しい、と言ったって、所謂美形とか萌えとかいう種類の顔じゃないけれど、美しいのね。それでそこに、今の彼女に到るまでにあった煮え煮えの経験みたいな奴がぎゅーって凝縮された顔をしてきててさ、凄い顔なわけですけれど。例えばそれをある類的なものとして提示する。あるいはアウグスト・ザンダーの場合、『20世紀の人間』という一大プロジェクトを、ライン川下流域にある、ある写真屋が企てたって所から、アウグスト・ザンダー物語ははじまるわけですけれど、色んな人間の写真を撮っている。
 自分の近所の、あるいは結構遠出して撮っているケースもありますけれど、とにかく様々な人間にそれもきちんとポーズをとってもらって、写真を撮っている。ようするに、彼は素の状態で人間がそこらにいるのを、隠し撮りして、それで何かが捉えられるとは考えていなかった。むしろきっちり彼らが自分の見せたいような顔できっちり撮ってあげましょうという人なんですよ。もともと記念写真なんかを巡回で撮っていた人ですから。そうやって様々な人間の写真を撮って、それを分類したわけですよ。ようするに、お百姓だけの一家って奴ありますけれど、これもなかなか凄い物ですけれど、それから、都市の中産階級の顔、それから、芸術家の顔、そういう形でずっと分類していって、その分類の中で彼らはそれなりにある類に分類されていくわけですけれど、その実際に撮られている顔って奴は凄いのね。それは間違いなく、ある個別の顔、その時間の流れみたいな物をきちんと凝縮した状態でもって、留めている顔です。
 で、ナチと問題を起こしまして、ナチ時代に非常に活動が難しくなっちゃった上に、スタジオが爆撃に遭って、ガラスの中ですから、ネガかなり持っていたらしいんですが、それが失われちゃったってことで、今残ってるのしかないんですが。なんでナチと揉めたか。簡単な話です。彼が20世紀の人間の顔って撮っていく時に、ナチがよしとしない顔がいっぱいあった。ナチがよしとしない顔があっただけじゃなくて、ドイツにはナチがよしとしない人間がこんなに沢山いるということがきちんと痕跡として残っちゃった。それは何かというと、例えばジプシーの楽者、ようするに芸人とか。それから障害者。ユダヤ人。こういう人たち。それから政治犯政治犯の写真て見ると、さすがに面構えが軟弱な奴から筋金入りそうな奴までいてなかなか面白いですけれど。そういう形で、ナチの類的な、ある分類みたいな奴から、こぼれちゃう奴がいっぱい入ってきた。
 実際問題として、いくらでもあるところから、沢山実例を汲み上げてきてそれを分類するのと、上からアーリア民族を、かくあるべきみたいな顔をごーんと押しつけて出てくる顔ってのは全然違いますからって話をしました。その例で挙げたのが、国防軍の募兵ポスターのモデルに選ばれちゃった、半分ユダヤ人の美青年って奴の写真を見せましたけれど。あんな分類しても分からないんだよ。ナチはきちんとしているから、これはもうこの辺の、頭の比率を測るんですね、あいつら、目の色からさ、顔かたちからさ、髪の色からさ、完璧にアーリア人だっていうお墨付きをもらったわけですよ。だからモデルになったわけですよ。にもかかわらず、彼は半分ユダヤ人だった。彼は、ようするに戦時中ユダヤ人は就職が難しくなっちゃったんで、色んな事を言いくるめて軍隊に入っている半分ユダヤ人ていう人とか、四分の一ユダヤ人ていっぱいいたわけ。その内の一人だった。めでたいことに無事に戦争を生き延びて、その本が出た時には、イスラエルでまだ元気でしたけれどね。そっちの写真も入ってました。
 そういう種類の、類的な分類、つまり19世紀の終わりから20世紀にかけての人間の顔って奴、写真を山のように見てきた結果、こういう顔を出すともうとてつもなく1914年ぽいって顔を集めてくるという行為と、あるいは様々な人間の写真をどんどんどんどん撮ってって、それを20世紀の人間を総合するっていう野心の元に分類するという行為っていうのは、言うまでもなくそれ自体がある暴力性を帯びた行為ではありますけれど。ただ、上からイデオロギー的に押しつけてきて、人間を規正していくっていうあり方とは、ちょっと違う種類の暴力性になってくるんですよね。一方で上から押しつけてくる、そこに出てくるのは、政治的な意味での顔の剥奪って奴なんですけれど。

問題は、きちんと教えられたその「基準」というのが、例えば私の持っている個別の歴史に合致しているのか。あるいはあなたが持っている、あなたが経験してきた時間の流れに照らした場合に、それが本当なのか嘘なのかということ。

 イデオロギー的な顔の剥奪というのは、何かというと、その人間が持っているある個別的な歴史性みたいな奴を、剥奪していくという事でもありますという所から、今年の話がやっと始まるわけですけれど。
 つまり政治イデオロギー的な歴史により、個別の歴史、個別の時間の流れを塗りつぶしていくという行為。これって結構あれなんでね。なんでこの話かと思うと思うけれど、面白いから言っちゃうんですけれど、私、大学に入ったときに、大学生はこれを読みなさいみたいな事を必ず新聞とかで仰せになる方がおられるでしょう。たまにさ、凄いことを書く人がいてさ、立派な先生なんだけれど。誰かは言いませんけれどね。この話、前にもしたかも知れないけれどさ、新大学生に薦める三冊って奴挙げたんですよ。それで、その新大学生に薦める三冊の中にさ、ソルジェニーツィンの『イワン・デビーソニチの一日』が入っているわけですよ。ようするに強制収容所にぶち込まれた男が、ちょっと熱っぽいんだけれど、規定の体温に足りなかったものだから、強制労働に駆り出されてさ、一日さ、極寒のシベリアでレンガ積みやってたら、それなりに楽しくなってきてさ、それで頑張ってレンガ積みをやってさ、帰ってきてさ、すんげー薄いじゃぶじゃぶのスープ食うんだけどさ、そしたらその中にさ、魚の骨が入ってて、なんかすんげーラッキーな気がしたって魚の骨をしゃぶってさ、今日も一日いいいい日だったって話なんだよ(笑)。
 これがこの先うん年続く、刑期の終わりまで続くって言う小説なんだよね。一口で言うならね。ああ、読んでください。私が雑にまとめると酷いから。
 で、それを何故新一年生に薦めると思う?
 労働の尊さを教えるためだって。(笑)
 すんごい冗談だと思ったんだけれど。どうも彼は冗談ではなかったらしいんだよね。それ。時々そういう先生方がおられるわけですよ。そうやって薦められている一冊だし、新書だからっていうんで、うちの学校はあれが生協の本屋って奴がないんで、近所の本屋に行って、買ってきて読んだんだけれど、一番最初の5ページぐらいで結構むかついて投げた。むかついて投げた理由って何なのかというと、こういう事をするように、社会的な意識に目覚めたい、目覚めた精神はこういう事をしなくてはならないっていうんでお薦めの、だいたいお薦めなんてろくなのがないわけですけれど、お薦めでしてた事って何かというと、毎日、新聞を読む。これはまあ大体みんな言うよね。毎日、新聞を読むだけじゃないですよ。その時にね、ちゃんと赤鉛筆を持つ。そして、その赤鉛筆で、新聞に何をするかと言うと、社会の進歩を示す記事には丸を、後退を示す記事にはバツをつけるっていうんです(笑)。これ、もしかしたら誰のことか分かる人が、ある世代にはいるかも知れないんだけれど、誰が書いた本なのか。
 笑うでしょう?みんな。これが笑い事じゃない人たちっていうのが、昔はいた、って話なんです。もしかすると今もどっかにいるかも知れない。で、なんで笑っちゃうのかってことについて、ちょっと考えて欲しいわけですよ。つまり我々は――凄くノンポリ化しちゃった今時の人間というのは、社会がそんな風に進歩したり後退するものだと思ってないでしょう。何かそのもうちょっと混沌とした状況の中で、状況は展開していくんだけれど、ある状況が展開して行ってるというのは、その問題は認識しているんだけれど、それが社会の進歩かどうかっていうのは誰にも分からない。社会が進歩するという問題については――また雑談で申し訳ないんですけれど。今日は本題に入らないな。
 あたしがね、生まれてこの方一番がっかりした事って何なのかというと、携帯電話なんですよ。携帯電話って、ようするに子供の頃さ、十歳ぐらいとか、中学校ぐらいの時にSF読んでるじゃん。そうするとみんなコミューターって奴でかっちょよくさ、きびきびとした会話を交わすわけですよ、内容的にね。SFだから軍事行動中だったりして、その会話は物凄くきびきびしているわけですけれども。ところがさ、実際にコミューターが出現したわけね。そうしたらそのコミューターでみんな何してるかっていうとさ、どってことないことをだべっているどころか――凄い機能なんですよ。これはね、SF作家誰も考えつかなかった。それでメールを打つって誰も考えなかったよねって話で、にも関わらず、そのメールの打ち方って、こうじゃん(笑)。もちょもちょもちょもちょ打っててさ、更にすっごいがっかりした事ってのがさ、SFなんだよ。携帯電話って。なのにさ、そこんとこにさ、スワロフスキービーズが一面に貼ってあったりさ。なにかマニキュアで絵が描いてあったりさ。それからさ、後ろの方になんか龍のステッカー貼ってあったり(笑)。
 人類ってなんなんだろうね、ってつい疑問に感じずにはいられないですけれどね。そういう事実があるんで、例えば携帯のシムロック外しが合法化されたなんてのに、丸をつけるべきか、バツをつけるべきか分からないんだよ。私、例えばそういう記事を見た時に、丸つけられるかバツつけられるかってこの中につけられる人はいないと思う。いるとしたら、なんらかの方向でもって、つまりこういう物は進歩。こういうものは社会の後退っていうのを、きちんと教えられた人たち。
 問題はきちんと教えられたその基準というのが、例えば私の持っている個別の歴史に合っているのか。それは合致しているのっていうことなんです。あるいはあなたが持っている、あなたが経験してきた時間の流れに照らした場合に、それが本当なのか嘘なのかということ。その問題性がある意味ではどこかで消えちゃっている。そういう物を教えられる時に人間というのは自分の過去という奴を全部きちんと消去、まではしないけれど、レッテル分けし直すんだよね。それで何か成立しているように見えるんだけれど、じゃあそれが素の状態で見て本当なのかというと、どうとも言えない問題があるんですよ。とにかく新聞の印付けの話はそういう話なんですけれどね。
 言っちゃったら、それが行われるとしたら、それはイデオロギー的な歴史におけるある時間の塗りつぶしが行われたという事だけ。そして丸付けろバツ付けろは馬鹿みたいだって私はその時感じたし、今では尚更感じるというのは、そういう形で個別の歴史と言う奴を公の歴史によって塗りつぶしていくと言うことが正しいことだとは全く思えない。それは一種の顔の剥奪。そして顔が剥奪されるというのは、そこにある暴力が行われて、そしてある痛みを伴っているはずだというふうに考えずにはいられない。

自分の中の時間がどんどんどんどん死に向かって流れているアッシェンバッハというのは、オテル・ド・バンという、ある、かつてあったある場所からさえ転げ落ちて、ぼろぼろになって死んでいく。それに対して、全く時間の手に触れられる事の無いタジオの顔と、そしてその周りを包んでいるその優雅な世界というのは、そのままそこに残されている

 今日持ってきたのは、実はヴィスコンティのフィルムだけだったんですけれど、別にいいよね。実は『ベニスに死す』なんですよ。『ベニスに死す』は多分、見ている人は見ていると思うし、そこで見るべき物という奴は、今言えば大体みんなどこかで見ていると思うので、今日は敢えてやらないことにしますが。二番目に言うと、ヴィスコンティって、フィルムを作っていて思ったのが、凄くストロークが長いんですよ。一つの所を切り出してくると、物凄い長さになっちゃう。それがあの映画の長い理由なんですけれど。一つはね。
 それもあって、今日持っては来たけれど、どうしようかと思っていたんで、ヴィスコンティの『ベニスに死す』を例にして何の話をしようかと思っていたかというとですね、あの映画の中に表われる、ある二つの顔と言う奴が、完全に今言ったような種類の二つの顔に分かれる。ただし、それはイデオロギー的な分類ではないんですけれど、ちょっと別の場所から入ってます。拾ってきた場所って何なのかというと、アッシェンバッハがヴェネツィアのリドの、オテル・ド・バンについて、ホテルの部屋に案内されて、夜、燕尾服に着替えて、それで飯に、一々飯を食うときに真夏のヴェネツィアであんな格好をするんですよ。それで、実際に食卓に着くとね、スープと魚って言うの。そりゃスープと魚しか食えないよ。だって、こんなん着てネクタイ締めて、夏のヴェネツィアってどうかすると東京並みに暑いからね。全然涼しくないんだよ。ただ、当時の人たちはそこでああやってたわけですよ。気分悪くなるよね。普通はね。
 それでその直前の場面。食事の前の。アッシェンバッハがそこで降りてくると、食事を待っているオテル・ド・バンの客が、ロビーでもって、てんでにアペリティフ飲みながら過ごしている。そこで新聞を取って、座って、座った状態で、新聞見てぱっと周りを見渡すと、隅の方にある家族がいる。それが物凄い可愛い女の子から、ずっと女の子が三人、それから家庭教師が一人。それをずっと撮ってって、すうっと通るんですよ。するとその時にビョルン・アンドレセンの顔が映るわけです。よく写真に出てくる、白いセーラー服を着たのはその時の写真ですけれど。それですうっとまた戻すわけです。それからまたすうっと見て、ぱっと目を留めて、それであれするんですよ。そこの所。そのシークエンスにおいて、映っているものが何なのかと言う事。皆さん、ビョルンだっていうだけなんですけれど。で、もう一つ言うとね、その瞬間によく考えて欲しいのが、ビョルン・アンドレセンがそんなに綺麗なのかどうか。よおく確認してください(笑)。
 いや、つまりヴィスコンティの演出術の問題もあるんですね。何故一番下の妹から順番に撮っているのか。一番下の妹がまず映って、その次が二番目のちょっと大きいお姉ちゃん。なかなか綺麗な顔ですよね。ただしこの顔が綺麗だという認識にはヴィスコンティの個人的なある物が凄く濃厚にある気がします。ただ、なんか凄く愛想が悪くて、目つきの胡乱な子なのね。
 それからその次に、鼻眼鏡をかけた家庭教師が映って、いや、これも美しいかというと、格別美しくはないというか、なんか、ようするに家族が順番に映ってね、下の女の子はとにかくとして、綺麗なんだけれどなにかずれているのよ。綺麗と言うには。一つずつ造作がずれている。そしてその上の一番長女。長女に到っては、多分もう10キロ痩せると、超美少女…かも、という種類の顔。その後で、完璧なビョルン・アンドレセンが映る。ようするに、家族を周りに配置することによって、ビョルン・アンドレセンの綺麗さみたいな奴をずっと際だたせてくる。もっと凄いのが、ビョルン・アンドレセンの所だけライト当ってる(笑)。光るよねそりゃ。光って見えるんじゃなくて、光ってるんだよ。しょうがないよそれ。
 決め所って言うのは何かというと、これはどちらかというと、そういうところでヴィスコンティの凄く個人的な物、個人色を見ることは非常に容易なんですけれど、お母様が、凄く遅れてから表れるのね。それがシルヴァーナ・マンガーノで、信じられないくらい綺麗なわけですよ。で、こう来て、それでこうお話をして、娘達にあれして、なんか顔色が悪いわ、夕べはしゃぎすぎたんじゃない?そんなにはしゃいでるとさ、夏休みだいなしになっちゃうわよとか言って、家庭教師に、気をつけてくださいね、とか言う。信じられないくらい綺麗なの。それでその後ろにさ、機嫌悪そうに、どってことなさそうに、ぼわーっとビョルン・アンドレセンがこうやって長椅子の後ろに座っているっていう。そういう場面。
 ようするに、お母様も含めて、微妙に、美しさからこうずれた家族と、家庭教師と、それから美しいお母様と美しい息子って奴だけきゅーっと立てるために背景にコーラスみたいに配置している。この演出のおかげで随分綺麗に見えているという問題はあると思います。顔自体に関して言うと、あれはよくある顔かも知れない。
 ちなみに、全然関係ない話をすると、『ベニスに死す』は半分くらい実話だそうで、実際問題、トーマス・マンヴェネツィアに行ったことがあって、その時にポーランド人の家族と一緒になったことがあって、そこの家の家族構成は小説にあるのと全く同じで、しかも兄ちゃんがいたってことまで、宿帳で調べた奴がいた。それで、これ、何の話で読んだんだったか。辻邦生が何かに書いていた記憶もあるんだけれど、ちょっとよく覚えてない。で、これ調べた奴、どうしたかっていうと、ワルシャワへ行って、本人を捜したんですよ。そしたら生きてた。物凄い高齢ですけれど。本当に70とか80とか。色々聞いたら、あ、はいはいはい、私はあそこへその時行って泊まりましたって所まで確認した。で、偉い作家の先生が泊まっているというのも知ってましたという。だけど、その作家の先生が物陰からこそこそ見てね、タージオとか言ってたのは知らなかった。トーマス・マンは本当にそういう癖があるんで、ボーイのこともカーテンの陰から眺めるとかね。スイスのホテル。そういう話っていうのは、ライヒラニツキの『とばりを降ろせ、愛の夜よ』っていう、もう絶版かも知れない。岩波から出てた御本に細かに書いてあるんですけれど。日記に全部ばればれで書いてあって、それが出ているらしいんで、確認がとれるわけですよ。トーマス・マンの場合は。
 それはいいとして、ただそこの所、ビョルンの撮り方がどうだらこうだらという話じゃなくて、ここで撮り方であれなのは、二つの視点がごっちゃになって出てくるわけです。この二つの視点てなんなのかというと、まず第一が三人称的なカメラ。つまり、アッシェンバッハ自身がこうやって入ってきて、座って、その背景に物凄く沢山の他の客がいるという、ある情景みたいな奴を三人称的に撮る。これは背景と思っちゃいけないんで、これ、凄く重要なんです。言っちゃったら、1900年代初頭のオテル・ド・バンとそこの客達と言う奴。
 それから途中でホテルの支配人出てきました。この支配人と言うのが、セルジオ・レオーネの『夕日のギャング達』に出てくる教授なんだけどさ。おお、教授こんな所に。それはまあいいとして。言っちゃったら1900年代のある場所におけるあれをずっと平坦に撮っていって、これ、何なのかというと、『そして船は行く』でフェリーニがやったのと非常に近い。これも映画的に、ある意味があるんです。その話は後でします。もう一つは、それをしながら、そこに映っているアッシェンバッハ自身が何を見ているかと言うこと。その対象に誰がいるのかというのを、非常にくちゃくちゃに混ぜながらやっていて、ところが不思議なことに、映画というのは、これ見てても誰も混乱しないんで、きちんと切り分けが効く物なんですよね。
 そこの、オテル・ド・バンの光景という奴は、ある階層によって再構成された場面だというふうに考えられる。これは作ったヴィスコンティ自身のことを考えた場合ですよ。そうした場合に、全体の構図というのが、美少年の事を追っかけるおじさんという構図からずれて来ちゃっている。つまり、かつて、オテル・ド・バンという場所が、ヴェネツィアにあった。今でもあるけれど。ただそれは今のオテル・ド・バンじゃなくて、あの時のあの瞬間のあのオテル・ド・バン。それがヴィスコンティがある意味じゃ、ある懐かしさをこめて語る、かつてあった社会のあり方みたいな奴というのを、非常に俯瞰的な形でぽーんと収めている。その中にアッシェンバッハもいるし、タジオもいる。そんな撮り方です。つまり、ある全体を、ある非常にフィクショナルに構成された時間の中で撮ると言うんですね。分かるかなその言い方。言っちゃったら、凄く特権的に時間のないある時間みたいな奴。今流れている時間じゃなくて、その過去のある時点で永遠に止まっちゃったまま動かないある時間みたいな奴を出現させることにまず成功している。
 そういう風に考えると、タジオという人間が、どういう位置づけで出てきているかというのは非常に分かり易い。つまり、作中でいっぺんも、原作もそうですけれど、一言もまず口をきいていないですよね。アッシェンバッハと。完全に背景に溶け込んだ中で、例えば海っ端で遊んでいたり、それからケンカしたり、お母様とお話してたり、そういう光景をひたすら覗き見るような視点で見ている。そしてその背景には常に海があり、そして常にその当時の、第一次世界大戦が始まる前の、ある幸せな世界という奴。これは結構重要な観点なんですけれど、つまり、時間上、ただ単に昔話というか、ただ単にあるファンタスティックな場面を選んだわけじゃないんですよ。ヨーロッパの人間にとって、特にあの世代の人間にとってはそういう事になっちゃうと思うんですけれど。
 それは例えばトーマス・マン自身『魔の山』を読んで頂ければ分かるんですけれど。あれ、書き出しが凄く変でしょう?どうして「私たち」という形で話を書き出さなきゃならないのか。私たちという形で書き出される小説は何篇かありますけれど、そのうちの一つです。その時に、トーマス・マンは、確か記憶を頼りに語るので、後で確認していただければと思いますが、これから語る出来事というのは、ある事件のせいで我々にとって最大級の過去だ、と言うんです。最大級の過去になっちゃった事だから、こんな風にして語るのをお許し頂きたいと言っている。そこのところ、みんなさくっと読んじゃって、意外に飛ばしちゃったりするんだけれど、最大級の過去になっちゃう理由が何と言うと、これは一番最後まで読むと分かりますけれど、『魔の山』の一番最後って、第一次世界大戦の戦場なわけですよ。泥沼の中を山の中で、七年間プータローしてたハンス・カストルプが戦場に降りていって、戦争に行ったら、何か知らないけれど、泥の中をひたすら進むだけだった、みたいな。向こうで信号灯がばーっとあがる、所謂第一次世界大戦物の映画を観るときに我々が観るようなああいう光景が広がっている。このせいで、『魔の山』って最大級の過去だっていう。
 単にヴィスコンティの『ベニスに死す』における、あのオテル・ド・バンて、そういう状態の中で想像すべきものだろうというふうに思う。ただし、これはかなり過剰解釈気味だというような言い方はしますけれどね。
 その中で、あのビョルン・アンドレセンが出てくる。ちょっと顔が長いんだよね。はっきり言って。あの瞬間綺麗なのは、彼凄く、でも、馬鹿じゃなかったなというのは、あれで引っ込んじゃって、もうそれっきり出てこないでしょう。あれは非常に賢いと思います。賢い子役ってみんなそうで、例えば『小さな恋のメロディ』ってのがあってさ、マーク・レスターっていう、やっぱり美少年というにはちょっとややかわいい系なんだけれど、男の子がいたんだけれど、その後一、二本出て、すぐそれきりで役者のキャリア終わりなんですよね。終わって、今何をしているかというと、整体士か何かになって、イギリスで幸せに暮らしているらしい。これも賢い人生の選び方だよね。なかなか出来るものじゃありません。大抵みんな老醜を晒すんだけれど。子役って。
 で、ビョルン・アンドレセンもそうだったんですが、そのビョルン・アンドレセンの顔と、それから、ようするに顔が我々ばーっと見ている中で、はっきりカメラが捉えている、観客の印象に残したがっている顔というのは、ビョルン・アンドレセンの顔と、それから当の、見る側の人間である、アッシェンバッハ。見る人間と見られる人間。この二つです。ところが映画というのは、完全な一人称カメラで撮るというのは稀なんで、必ずアッシェンバッハを演じている、ダーク・ボガードの顔も一緒に映っている。ここに一つ、非常に妙なことが起こっている。何なのかというと、それは原作通りなんですけれど、ビョルン・アンドレセンの顔というのはあまりにも平静で、あまりにも美しくて、それから若すぎるからという理由もありますけれど、あまりにも時間の無い顔なんですよ。全く何の時間も流れていないし、そしてギリシャ的なある幻想に結びつけて原作では語られていますけれど、時の流れに浸食される事のない、永遠の美の顔をしている。というか、そう見せるために随分苦心した。人間は誰も本来そんな顔はしてないからね。その為に、いかにヴィスコンティは自慰的な努力をはかっているかというのを見るというのが、まず結構あの映画の見所の一つなんですけれど。
 それに対してですよ。見ている側のアッシェンバッハの顔というのは、物凄い勢いで崩れていく。一番最後、化粧までしてもらった、その化粧を汗でだらだら流しながら階段で死んでいくという悲惨な死に方をするんですけれど、この対比って何なのかというと、時間が流れる顔と、時間が完全に止まっている顔の対比です。自分の中の時間がどんどんどんどん死に向かって流れているアッシェンバッハというのは、オテル・ド・バンという、ある、かつてあったある場所からさえ転げ落ちて、ぼろぼろになって死んでいく。それに対して、全く時間の手に触れられる事の無いタジオの顔と、そしてその周りを包んでいるその優雅な世界というのは、そのままそこに残されている。これが『ベニスに死す』という映画の、ある基本的な構造になっているんですよ。
 その時に問題になってくるのは、この場合の美しい顔とは何なのか、多分、実を言うと――すぐこういう例外論を出してくるから話がごちゃごちゃになるんですが――トーマス・マン自身は、時間の流れの無い顔だとは書いてないです。むしろ、どちらかというと、その儚さ、瞬間性みたいな物を強調している。エレベータの中で、たまたまタジオと一緒になったときに、アッシェンバッハが、この子は長生きしないだろうと思ったっていう、歯がね、ちょっと良くないんですよ。男の子。体が弱いという風に見たんです。その時に、ある美の儚さみたいな奴っていう物まで計算に入れた上で、その美しさというのをあれしていくんですけれども。『ベニスに死す』の場合は、そういうのを完全に超越しちゃった、ある非常に神秘的な存在として、その美しさをクローズ・アップする。
 で、そこからです。つまり、過去の中、回想の中にある、ある特権的な時間において、存在していた、その瞬間が永遠になったような、あるその顔みたいなもの。それが、あの映画におけるビョルン・アンドレセンの顔だと考えてください。どちらかというと、見ていて印象に残っちゃうのは、私の場合だと、ダーク・ボガードの方なんです。ダーク・ボガードの顔における、時間の流れて行き方。そして、自分でも時間が流れていくという事を意識している焦り。その焦りがある極限の所まで振り切ったときに、床屋へ行って化粧してもらうという、悪夢のような状況が生まれてくるんですけれど、あれは自分の顔の時間をもう一回止めたいという、ある非常に絶望的な悪あがきだと考えた方がいいんじゃないかとは思うんですけれどね。

また来週

 では、絵の話というのは、また来週という事にします。前振りでやっておくと、何なのかというと、ある純粋に古典的な美しい顔っていうものを描く事に、どう考えても常軌を逸した情熱を傾けていた男というのがいて、それが誰なのかというと、ドミニク・アングルなんですよ。ただ、ドミニク・アングルの場合、凄く対比になってくるのは、この前『ベルタン氏の肖像』というのを見せたでしょう。初老の小太りのおっさんが、膝を開いてどかーっと座っている、あれもある種の非常に美しい絵ではありますけれど、ただアングル自身が美しい物として意識する物というのは、ちょっと別の種類の物。それが、多分あまり画集に出てこないと思うんですけれど、『ゴードリー夫人の肖像』という奴なんですよ。これはゴードリー夫人が嫁に行く前に描いたものでして、『ゴードリー夫人の肖像』というのはちょっと妙な言い方ではあるんですが。これは来週お見せします。見たこともないような顔です。どう見たこともないのかというと、完全に左右対称なんだわ。本当にこんな顔してたのっていうんですけど、もう一つ別の画家が描いた顔の写真を見ると、概ねにおいはそうなんだけれど、完全にそういう顔にはなってないです。言っちゃったら、時間を超越した永遠の完璧な顔と考えたときに、アングルはいかに不自然な事をやらかすかという話なんです。
 その辺から持って行って、それから、予告編で言っておくね。これもあまり皆さん、画集に載ってたのを見たことがないとおもうんだけれど、アングルが1854年にパリ市庁舎の天井に描いた、ナポレオンの絵というのがあるんですよ。これもあり得ないナポレオンの絵を描くんですよ。どうしてあり得ないのかというと、ナポレオンが素っ裸なんです。時々あるんですよね。一応パリへ行くと、ルーブルへとりあえず行ってお参りしてくるのが、ウードの作ったヴォルテールの肖像というのがルーブルにあって、それも一応拝みに行くんだけれど、拝みに行く度に、なんか凄く困惑にかられて。どうして困惑にかられるかって言うと、もうだいぶ歳をとって、物凄いじいさんになった後のヴォルテールなんですよ。カツラをかぶってなくて、髪の毛こうやってぽしょぽしょでさ、みんなかつらの**したってさ、きちんと剃らないであのぐらい伸ばしてたんだなっていう塩梅で、それもだいぶ寂しい感じになっててさ。それでこうやって立っているわけさ。素っ裸なんだよ(笑)。素っ裸のヴォルテールってあり得ないじゃないと思うんだけれど。ただある理想に基づいて、ヴォルテールは素っ裸じゃなきゃならないと考えた人がいるわけです。
 で、エマニュエル・シュミットだったかな。フランスの物書きで、ディドロで博士論文を書いた奴が、リベルタンという戯曲を書いてまして、それ、その後で自分で映画化してて、それもなかなか笑えるんですが、日本未公開でね。その中に、女の絵描きがまず肖像画を描かせて欲しいってディドロの所に言ってきたんで、ディドロが、ようするに、女房の目を盗んで、一室に二人で閉じこもって、肖像画を描かせるって話をして、その時に、「脱がなくていい?脱がなくていい?」って(笑)。で、彼女は「別に脱いで貰わなくてもいいんですどねー」って言って、「そうかな。哲学って真っ裸であるべきだと思う」って(笑)。
 映画版撮ったときに、本当に、ごめんね。俳優の名前忘れちゃったんだけれど、インドシナなんかに出た美男子俳優が、ディドロの役をやって、ディドロはこんなに美男子じゃないって私は思ったけど、それが文字通り全裸でもって、そこらの庭園を走り回るっていう絶景が拝める、もうどうしようもない映画なんですけれど、ただ物としてはちょっと良い感じに仕上がってました。
 フランスのパルが見られる人だったら、私持ってますから、言ってください。お貸しします。ただし、字幕はないです。
 だから、アングルが描くとナポレオンまで素っ裸になっちゃうんですよ。なんでそんな無茶なことをするんだろうって話から、ただその絵が持っている機能、これはパリ市庁舎の天井に描かれて、今は失われちゃってます。だから完成品がないんで、画集に載らないという問題はあるんです。パリ・コミューンの時に焼けちゃったんですよ。
 それのエスキスというか、下書きみたいな奴は残ってて、ちょっとそれをお見せして、その後で歴史画っていうもの。歴史における永遠みたいなものを考えたときに、作り手がいかに無茶苦茶な事を始めるかっていう事と、それから歴史と顔という問題に関して、来週入っていければなと思ってます。



講師:佐藤亜紀

原稿起こし:ぷりぷりざえもん

2008.5.10 明治大学にて行われた講義より。

※この原稿は、講師のチェックを受けていません。ぷりぷりざえもんが許可を得て個人的に録音し原稿に起こしたものです。

※いつものように、ミス、抜け、聞き取れなかった部分のフォローよろしく!



かずめさん情報。

ところで講義で触れていました、『ベニスに死す』の少年一家のモデルになった人々についての文章が、プロジェクト杉田玄白に掲載されてました。(「協賛作品」という扱いですが)
ご参考までに。

真実のタジョ----『ヴェニスに死す』を生んだ少年----
ギルバート・アデア著 
清水 眞理子 訳
http://www.geocities.jp/sstst716/translation/the-real-tadzio.html<<

佐藤亜紀明治大学公開講座第六回(2008年度第一回)(2008.5.10)[1]


芸術作品というのは、これじゃなくて、これを作り出しているある空虚

 去年五回やって、五回出ていただいた方もいると思いますし、今年初めての人もいると思います。実は去年も話がちょっととっちらかっちゃってですね、ポイントが掴みにくかった所があるかも知れないんですよ。
 強いて言うと、去年のテーマは、「表現と痛み」という物だった。そこから、人間に固有の「顔」の問題。この「顔」というものは、なんだったらかぎかっこをつけて考えていただいても結構なんですが、つまり、具体的なこの顔の事ではないって話です。その「顔」を剥奪される痛みみたいな物に話を持って行こうかなと最終的に考えたところだったんですよ。
 去年は、主に映画。途中からちょっと写真とか絵画もまじえながら、簡単に言えば、我々は今どこにいるのかという問題を確認すると言うのをやったつもりでした。ただ、具体的に、そこからどういう事をくみ上げてくるのかという事になると、ちょっと別の問題でして……。
 雑談をするとですね、特に若い頃、学生の頃聞いた事って、ほとんど覚えていないことが多いんですよ。恐ろしいことに、完全に忘れていて、それで四十過ぎたぐらいの時に、「あの時先生が言ったことはこれだった」っていきなり気がつくという、本当にそれありますから。だから、もしかしたらちょっとそういうループに入っちゃっている方もおられるかも知れないんですけれど。
 つまり芸術作品、とりあえずここに私が呼ばれているというのは、一応小説を書く人間として呼ばれているんで、そういう問題に関連することを話す事を期待されていると思うんですよ。それなのに何故こんな話をするのかという話を、ちょっと多かったと思うんで、一つ弁明しながらまとめるという形になりますけれどね。
 映画でも絵画でも写真でもそうですけれど、去年扱った物というのは、ほとんどが所謂芸術作品でした。「芸術作品」という言い方は、あまりにも大仰で、かつ反動的な感じがして好きじゃないと言う人がいるとすると、それは「表現」というふうに言わざるを得なくなってしまうわけですけれど、ただ、『小説のストラテジー』なんか読んで頂いた方にはお分かりだと思いますけれど、私の基本的な考えとしては、「表現」というのは、感覚に与えられる刺激から構成されているという認識があります。我々の目の前に差し出されるある作品というのは、感覚に対してある刺激を、それもランダムな刺激ではなくて、ある形に構成された刺激を与える物として存在しているわけですよね。我々はそれを見たときに、作品としてそれがいい作品であるか悪い作品であるか、つまりその形その物が美しいと――この「美しい」の問題も後で微妙に触れますけれど。かなり多義的な言葉です――美しいかどうかという問題、あるいは作品として出来がいいか不出来であるかという問題を感じる。それが片方にありますよね。
 その一方で、もっと別のことを感じる事があり得るわけですよ。それは作品の構成という物が、ある作り手が、こういう形で作品を組み上げたという、その事自体が、その作り手について、あるいは作り手と同じ時代に生きていた受け手、観客であるとか、鑑賞者であるとかについて、彼らがもしそれをはっきり意識していなかったとしても、その意識していない部分で、秘かに感じ取ったり考えたりしていた事を語っている、と感じることがあるわけです。この問題に関しては、作品の出来不出来とは全然別だよと言いますけれど、存在しないとは私は言いません。
 作品としていいかどうかというのと、それが感じ取れるかという事は、全然別の問題になるわけです。作品の総じての評価というのは、そういう、意識していないんだけれど、実はどこかで感じている、考えているという、そういう秘かな思考みたいなものが、感覚に与えられる刺激としてどういうふうに構成されたか。その構成された結果出てくる形に対する評価になるべきだと考えています。
 ところが、一つ問題が出てくるわけですよ。つまり、なぜそこの所しか評価しないのか。
 例えば10年とか20年とか経った後、あるいは古典的な作品なんて言うと、例えば、100年とか200年とか経った後、もっと凄いあれになってくると、例えば古代エジプトの遺物みたいなもの、我々はそれを美術的な物としてつい見ちゃいますよね。それで、美しいとか美しくないとか、形が良いとか悪いとか、これは出来の良い物だとか言って、骨董品市場なんかに流れる場合でも、そういう基準に従って値打ちがつくことがある。
 ところで、それを何故作っていたのかと言うことは、今の我々には全く共有されていないことです。家に大英博物館で買ってきた本でね、『古代ギリシャ人とセックス』という本があるんですよ。えげつないタイトルだと思うかも知れませんけれど、つまり古代ギリシャの、今日我々が古代ギリシャの芸術作品とか美術品と呼ぶ物の中には、性的な題材を扱った物が非常に沢山あります。その中でも、あまり画集とかそういうものに出てこないんですけれど、博物館などに行って見た場合に、男性性器や女性性器を象った物というのが実は結構ある。それほどアルカイックな時代じゃなくて、後の方に遡ってきたとしても、非常にその部分を誇張した形で書かれた物が存在する。そういう所を考えたときに、ちょっと考えるわけです。つまり、ギリシャ人というのは、なぜあれほどセックスネタが好きなのか。思わず思うでしょ。その時、今日の考え方をすとんと入れちゃう人だと、つまり人間だからみんなそれはセックスが好きで、セックスに関することは誰だって、小学校四年生みたいにいくらでも喋りたいという話、表現したいという話になってしまう。だから彼らはそれをやったんだよという見方をする場合がある。ただし、これはどう考えても多分違うだろうと。
 古代ギリシャというのは、我々の時代とは異なって、もっと古い農耕文明の痕跡を引き継いでいる。そこにおいて、性的な物というのは、今日我々が認識しているのとは、まるで別な形を持っていて、従ってそれは、そういう形で表現したとしても、例えば現代美術の画家が性的なものを表現する時とは全く違う動機に基づいて作られている。ある意味では定説の確認みたいな本なんです。これ、図版が多くてなかなか面白い本ですけれど。
 そこで問題になってきちゃうのが、じゃあそういう物を見るときに、我々は何故それを、性に関して当時の人たちと全く違う認識を持っているにも関わらず、何かこう微妙に分かる感じがしちゃう。そしてそれをあまつさえ評価の俎板に乗せてしまうのは何故なのかっていうことなんです。
 簡単に言っちゃうと、いくら頭であの頃は文明が違うからって認識しても駄目な訳ですよ。それは特に文学研究などの場合には顕著になってくるんです。例えば、もう随分前だったんですけれど、新書で、ローマ時代の作家、ペトロニウスの『サテュリコン』、あれを全篇ネロに対する風刺作品として読み解くという本があったんですよ。
 ここの所、あそこの所と細かく指摘してくるんですけれど、それは学術研究として凄くいい。もの凄く立派な研究だと思います。ただし、今日我々がペトロニウスの『サテュリコン』を読む時に、あ、これはネロをおちょくっているから、ここで笑わなきゃいけないんだと思って笑うって事はあり得ないわけです。笑ったらかなりわざとらしいです。ある意味じゃ自然な形で鑑賞してない。でも『サテュリコン』というのは、読んだら面白い人には面白いわけですよ。それは何故か。そこに芸術作品の奇妙な性格という奴が出てきちゃうわけです。
 つまり、中身というのは、作品を作るときに、ある何か秘かな考えみたいな物の中から形を作ると言う事が浮かび上がってくる。ここで出てくる形っていうのが、実際になんらかのマテリアルを使って実現されて、そしてそれが例えば100年なり200年なり、場合によっては2000年以上残る。それが残ったときにですよ、その中身というのは綺麗さっぱり消えちゃった状態で、我々の手元に届けられるわけですよ。
 我々がそれを見るときに何をしているかというと、その空っぽの中身に自分たちの持っている物を入れて読んでる。あるいは自分たちの持っている物を入れて見ている。100年経ったり200年経ったり、あるいは、って一々繰り返すのやめますけれど、それを見る時、もしかするとその時代にその中に何が入っていたのかという事は全く問題ではなくなっている。むしろ、その作品というのは器だって言い方をしてもいいですけれど、その器が、なんと恐ろしいことに、これだけ時間を経て、感じ方も考え方も劇的に変わっちゃった、我々の持っている何かを入れてもなお、きちんと入れられるような形に構成されている。その事に対する驚きがやはりあるわけですね。
 一応落としてきてはいるんですけれど、一々見せなくてもご存じだと思うから、例えばあれを挙げようと思うんですよ。レオナルド・ダ・ヴィンチのこういう奴知っているでしょう。男の人がこうやって手を広げて立っているデッサン。有名な奴です。円形と、正三角形と、それから正方形、これを完全に内接する形であれした中に人体を配置して、そしてその三つの、幾何学的に言って完璧な形というのが、いかに人体の比率に対して適応されているかと言うことを、レオナルドは描いているんですけれど。明らかにそれは、今日の我々の発想から言うと奇妙な代物です。つまり、我々はレオナルド・ダ・ヴィンチの人間観みたいな物を共有していない。
 ルネサンス時代のフィレンツェのある男がですよ、人体というのは、人間というのはなんて凄い物なのか。人間の身体というのは、これほどまでに完璧な物なのだ。この場合は男性ですけれどね。尾籠な話に落ちてあれなんですけれど、今日見て結構笑っちゃったのはね、男性の肝心な部分が、ちゃんと図形の肝心な部分に来ているんですよ。普通来るかねと思うんですけれど、レオナルドはそこの部分にきちんと拘っていたと言う事なんでしょう。ただ、この拘りというのは、例えば古代ギリシャの人間が――ルネサンス時代の人間て古代ギリシャ・ローマに対する憧れみたいな物を非常に強く持っていますから。
 ちょっと話がずれますけれど、実質的に言うと、イタリア人というのはローマ人じゃないんですよ。誰がどう考えたってそれはそうなんです。なにより証拠に、ポンペイの遺物の中にある人物の顔を見てご覧なさい。あれを見て、これ何人?て言われたら、我々は真っ先になんて言うか。「モロッコの人」って言うんです。多分ローマ人てそういう顔をしていることが多かったと思う。その後の様々な民族の移動によって構成されてきたのが、今のイタリア人であり、ましてやフィレンツェ近辺の人間が、直接ローマ人の子孫である可能性というのはあんまりないと考えていいと思います。これは今のギリシャ人にしても全く同じです。明らかに違う種類の人たちだと思うんですけれど、ただ自分たちは古代ギリシャ・ローマの後を継いでいる人間だという意識を、ルネサンス人は、そしてそれを今日に至るまでヨーロッパ人というのは、非常に濃厚に持っている。呆れた事にドイツ人までそう思っているという。これははっきり言って噴飯物だと思うわけですけれども。
 本質的に違う文明を、自分たちのルーツに置いちゃったんですよ彼らは。その一番最初の瞬間。ただしそういう状況にありながらもレオナルドが持っている生に対する感覚、あるいは人間の身体に関する感覚というのは、古代人とは明らかに歴然と異なっている。言っちゃったら、ある形だけ引っ張ってきて、凄く自分流に消化していったものです。ただし、元になるあれっていうのは、古代文明においては既に考えられていた種類のものではあります。そこに入っていた意味は明らかに人間の崇高さという問題に関して全く違う種類の物です。
 今日我々が人間の身体に関してレオナルドが持っていたような楽観的な認識を持っているかというと、必ずしもそうではないということは言えると思います。つまり人間の身体に関して、ありとあらゆる被造物の中で最も出来が良いなんて思っている人間ていますかって話です。誰がどう考えたって、走るんだったら馬の方が速いし、力だったら象の方が強いし。馬に乗ってみれば分かりますよ。人間というのがいかに非力な、弱々しい生き物であるか。馬が首を下げたときに、手綱を持っていたら抑えられませんから。普通。ひどい場合は、小柄な人だったら、そのまま手綱ごと前に***立ちます。
 そういう認識以上に、ある人間性に関する劇的な変化みたいなもの――その辺の話をすることになるとだいぶ話がずれているんですが――が19世紀の終わりから20世紀の初頭にかけてあった。それを経た後で、レオナルド・ダ・ヴィンチのあの絵を見るというのは、非常に奇妙な事ではあるわけですよ。
 我々はレオナルドに関してそういうレオナルドと同じような認識を人体の完全さに対して持っていない。にも関わらず、あれを見たときに、ある微妙な感動があるわけですね。かつてこういう思考をした人がいるという事に対して、そしてその残っちゃった、言っちゃったら我々が全く共有していない何かに対して、我々が入れるべき何物かを持っていると言うこと。その問題。
 簡単に言っちゃうと、芸術作品てなんなのかと言う話になりますね。
 えーと、ポンペイに行かれた方います?あるいは、ポンペイの遺物の展覧会とかでもいいし、本などは見たことあると思いますけれど、ポンペイというのは、ベスビオス火山の火砕流で滅びたわけですけれど、その火砕流が押し寄せてきた時に、凄く沢山の人たちがそこに巻き込まれて命を落とした。18世紀の終わりぐらいになって、そこを掘るわけですよ。ヘルクラネイムなんかもそういう形で掘られています。ヘルクラネイムの方が酷かったのかな。博物館とかに行くと、はっきり言って見たくないなという種類の物があるわけです。それは何かというと、誰か気がついたんです。こうさ、発掘してくとさ、空洞があるわけよ。なんか適当な寸法の。この空洞なに?って言ったときに、そこに石膏を流し込んで固めると言うことを考えついた奴がいる。で、石膏を流して固めるとさ、それがさ、すみっこで蹲ってそのまま死んじゃった人間の格好だったりさ、繋がれたまま死んじゃった犬の格好になった石膏が出てくる。
 つまり、そこにいる人間が火砕流に埋められて、凄い温度で焼け死んでいるわけです。で、焼け死んだ後に、その人間がいた形の空洞が、固まった火砕流の火山の噴出物の中に残っていた。流し込まない事にはどうなっているかというのは我々には見ることが出来ないんですけれど、衣類なんかはほとんど焼けちゃうわけですね。革のサンダルとかベルトなんかも焼けちゃう。ただバックルだけ残ってたりするんですよ。ちょうど、きちんと締めてたんだろうという事がわかるような、バックルだけ残ってたりする。それはかなりグロテスクな代物だし、展示することを憚られるような代物だし、ポンペイなんか行くと、修復中の所の道具が積んであるような場所があって、そこの所になにかトントンと置いてあったりなんかすることが稀にあって、それもかなり嫌な気持ちのするものではあるんですけれど。それはそうでしょう。
 これを、ああ、古代の人たちだって思うっていう、その神経はさすがにないよね。つまり、それね、凄いあれなんですけれど、あんなに昔の事なのに、あれを見ると、ああ被災者だと思っちゃうんですよ。不思議でしょう?
 芸術作品て、ある意味でそういう物なんです。つまり、型だけ残っている。誰かが――例えばガレージキットでプラモデル作っている人とかいれば尚更よく分かるでしょうし、あるいはブロンズの彫像の作り方なんて知っている人もお分かりになると思うんですが、蝋で形を作る。蝋で形を作った物の外側を、粘土で固めて、溶かして蝋だけあれして、そこの所に鋳造すべきものを入れて、形を作ってばこってやると、その掘った物と同じ物が出てくると、そういう理屈です。細かいことを言い始めると更に色んな技術論があって、その技術論をはじめると話が潰れちゃうんでやめますけれど。
 つまり芸術作品というのは、多分そこから抜かれてくる物じゃない。我々の前に、ある絵が一枚置かれる。あるいはある文学作品が置かれる。あるいは音楽の楽譜が置かれる。まあ音楽の楽譜なんかで言うと一番いいですけれど。つまり音楽の楽譜というのは、全然楽譜じゃない。我々が何か中に入れるまでは全然成立していない。どこにも聞こえていない。何も鳴ってない物です。ただ、芸術作品て具体的になんなのかっていうと、勿論我々は絵を見てこれでしょ、という風に言うわけですけれど、それはもしかすると芸術作品じゃない。あるいは、芸術作品なんだけれど、芸術作品というのは、これじゃなくて、これを作り出しているある空虚だというんです。言ってしまったら、外側のモールドだけが芸術作品であって、我々はその中に何かを入れることによって、初めて形という物が判明する。そういう物が芸術作品。
 ポンペイの被災者と同じで、その中にあった物というのは、もう完全に消え失せて無くなっちゃっている。その無くなった中に、我々が何を入れようと、実は自由なんです。そこから作品の評価という奴を考えた場合どうなるかというと、我々が何か入れようとしても入らないような物や破れてしまう物というのには、ある骨董品的な価値しかない。そうじゃなくて、なんと恐ろしいことに、私が持っている全く違う、ある感受性みたいな物。感じ方、考え方みたいな物を、そこに流し込んでもぱしっとおさまるだけの作り方を、この型はしてあったんですよ。芸術作品に対する評価というのは、最終的にはそういう所になります。だから、恐ろしいことに、いつまで経っても古びない物はある。
 あるいは逆に、凄い勢いで、結局中身だけで成立していたから、中身が無くなっちゃったから、もう何一つ残らないような作品というのも、別に存在します。あるいは、ある時代には凄くもてはやされて、その後で廃れて、忘れ去られてしまった作品、こういうのは美術史でも音楽でも凄く沢山ありますけれど、こういうものが再評価されてくるときというのは、おそらくそこに入れるべき、合致する何物かというのを我々が再び見出し、感じ取るようになった時。
 実を言うと、今回の講義は、というかこの前もそうなんですけれど、だから小説のストラテジーなんかを読んでいらした方には、形形と言っている割には中身の話をすると考えると思われた方がおられるかも知れないんですが、その通りで、中身の話をしています。つまり、どちらかというと、作品として残る物ではなくて、作品が出来上がってくるために存在した、ある蝋型みたいなもの。それについて考えています。

(今年やるのは)今現在において、果たして自然主義リアリズムの文学というのが、まだ可能であるのか

 ちょっと話が散らかったので、脈絡を追いにくくなっているかも知れないんですが、その作り手や、その同時代の鑑賞者達が、その時持っていた、ある秘かな志向みたいなもの、自分で意識しているかいないかは別にしてですよ。秘かな志向みたいな物というのはどんなものなのか。どんなものだったのか。そして、去年しつこく話してきたのは何なのかというと、今ここにおける秘かな思考みたいな物、様々な芸術作品に見て取れる思考の型みたいな物っていうのは、どんなものなのか。今年やるのは何なのかと言うと、もういっぺんそこの所を細かく追求していった後で、そこから出てくる表現というのは、どのような物であり得るのかと言うことを考えていくという話です。
 結論を言ってしまうと簡単な、多分上手い具合にちゃんと、脱線しまくらずに話を最後まで進めることが出来ると、12月あたりに最終的にあれするのは、今現在において、果たして自然主義リアリズムの文学というのが、まだ可能であるのかと言うこと。そういう理由で、それで圧倒的にね、いつもそういうことを考え出すと、必ずみんなそうなるんだよって言い方は可能だと思いますけれど、我々における、今ここ、というのはある意味で非常に陰惨で嫌な物。この陰惨だとか、嫌さみたいなものというのは、避けるとどうなるかというと、ある決定的な微妙な嘘みたいな所に到達する。
 イアン・マキューアンの『土曜日』って読んだ方いらっしゃいますか。多分、去年の年末に出たんで、私も書評を頼まれて読んだんですが、それまでマキューアンて全然ぴんとこない作家で、なんかちょっとメロドラマ的で好まないなと思ってたんですが、このマキューアンの土曜日に関して言うと、全面的にお勧め出来ます。あるいは、好きじゃないとしても、義務鑑賞してくださいという種の物です。
 簡単に説明しちゃうと何なのかというとね、ロンドンに、ある脳外科医が住んでいるんですよ。ロンドン市内の大きい病院で、脳外科と言っても、結構腕のいい医者として暮らしていて、勤務医で。病院から歩いて帰れるロンドンのど真ん中に、すんごいいいテラスハウスに住んでいる。金持ちなんですよ。歩いて帰れるから、病院には歩いて通っているんだけれども、ガレージをその近所に借りていて、そこのガレージには、ちゃんと銀ベンツが入っている。女房は、特に出版関係の法務を担当している腕利きの弁護士で、夫婦で凄く忙しい。
 微妙にいい描写が出てくるんですが、これ結婚してる人にはおわかりになると思うんですけれど、もの凄く忙しくて、しかも旦那は夜勤あるし、女房も仕事の関係で時間は不規則だから、割合すれ違いのケースが多いわけです。たまに週末とかぱっと顔を合わせたりすると、お互いのファイロファックスを、交尾する小動物のようにこうやって合わせて、お互いのスケジュールをチェックするという。ちょっといいなあと思いました。この描写。うんそういう物だよね。そうなってくるよね。
 子供はもう大きいんです。二人います。上の女の子はもう大学を卒業して、パリにしばらくいた。下の男の子というのは、ドロップアウトしてるんですよ。下の男の子ドロップアウトしているって言っても、並のドロップアウトじゃなくて、まだハイティーンなんですけれど、ブルースのギタリストになると言ってドロップアウトした。普通はこの馬鹿野郎と言って、親は怒るところなんですけれど、恐ろしいことに才能があるわけですよ。ブルースのあれとしてかなりがっちりやって、自分の稼ぎでいい革ジャンなんかも勝手に買って、暮らして行けて、べつに親のこと嫌ってもおらず、親とは非常にいい関係を保っていて、あまつさえ腕がいいのでね、アメリカのクラブがね、うちに出てくれと言って呼びにくるくらい腕がいい。すさまじい家族だよね。それで、上のお姉さんはオックスフォードを出ていて、オックスフォード時代に、詩の賞を取っていて、新しい処女詩集を出す。それだけじゃない。この二人の才能ある子供達のじいさまと言うと、母方のじいさんですけれどね、もの凄い超有名な詩人で、彼の詩を教科書で読まなかったイギリス人はいないってくらいの詩人です。
 あり得るかこれ?って話でしょう。まったく完璧な幸福です。
 本人は、普通さ、四十代後半になるのかな。確か。普通さ、病気の一つや二つ出てきたり、これだけの仕事をしていたらメタボになったりしそうなんだけれど、未だにもっと歳の若い連中と、ガンガンスカッシュの試合が出来るくらい健康。何一つ欠けた所がないんですよ。完璧な幸福なんです。
 この男が、ふっと、もの凄く早い時間に目が覚めちゃった。疲れちゃって。前の晩帰ってきてシャワーだけしてばったり倒れて、起きるとそれよりずっと遅く帰ってきた女房が横で爆睡しているという状態で、窓の外をふっとみると、火がね、テムズ川の方からずっとこっちに向かっている。多分こうだと思います。こうじゃないと思うんですけれど。
 飛行機が燃えているんですよ。ヒースロー空港に向かった飛行機。そういう非常に不吉な出だしから始まって、いや結局の所、これは別にテロでもなんでもなくて、ただのロシアから来た飛行機がエンジントラブルを起こして、エンジンから火を吹いただけの事だと判明するんですけれど、そこからはじまって、この完璧な男が完璧な土曜日を送るはずなんですけれど――午前中にスカッシュをやって、帰りにシャワーしてから市場へ行って、料理の材料を買って、それで家に帰って、おいしいブイヤベースを作って、久しぶりにフランスからやってくるじいさんの事をもてなして、子供達もみんな集まってきて、それで娘の処女詩集の出版を祝おうという――そういう土曜日なんです。だった。
 ところが、そのスカッシュに行く途中で、うっかり軽い接触事故を起こしちゃうんです。明らかに相手が、微妙な、まともな世界の人じゃない男で、という所から話がはじまって、ネタバレはしませんけれど、これでね、マキューアンが後ろの方で言っているのが笑えるんですけれど、この話を書いたら書評家がみんな怒ったと言うんです。なんで書評家が怒るかと言うと、主人公の、こんな設定の主人公はあり得ないと言ったっていうのね。それはすごくよく分かるんですよ。
 ただ、そうしなければならない理由というのがあった。がちがちに調べ込んだ、本当にある自然主義リアリズムのお手本みたいなものなんですけれど、でも微妙にそこから既にずれているんですけれどね。そういう文体で書いていきますけれど。その完璧な幸福を書く。その完璧な幸福の中に、その事故の影響である物凄いノイズが響いてくる。その結果明らかになるのは、彼のある完璧な生活。西側の肥え太った自己満白人の生活。それが、煮えたぎっている世界の上に薄皮一枚――牛乳が沸いているような物です。そこに薄く一枚被さっているわけです。ただし、そういう所って、マキューアンはちゃんとしてるから、いきなりそこでこの薄皮一枚の虚栄の生活が崩壊したりしないんです。この薄皮一枚、凄く薄皮一枚だけれど、強靱なんですよ。彼はそこから出ることもできないし、それを破壊することもできない。そこのところにずっと最初から最後までとどまる。とどまる目で、自分の下で牛乳が沸いている、何かぐつぐつ煮えたぎっている混沌みたいな奴が、自分の足下、すぐそこの所にあるという事を意識する。そういう小説です。いや、結構最後まで読むとね、その一番最後のところで、どうやって嘘の顔の生活にさ、言っちゃったら、みんなよくやるのはさ、このところに実は愛人がいるとか、なんかそういうパターンで生活崩壊って話を書きたがるわけね。エンタメなんか。エンタメじゃないからね。これ。だから崩壊しないんですよ。
 ただし、それがほんの一枚、この世界のうちのほんの一部の人間が享受している、物凄い幸せな状態という奴を誇張するためだけに、このあり得ないぐらい幸せな男というのを作っちゃったわけです。それを見たときに、彼がやる事というのはある意味じゃ非常に諦めに満ちた物なんです。
 つまり、自分が出来ることだけ。
 最終的に賢者はみんなそう言い始めるんだよね。それでお前らくその役にもたたねえとかって言われるんですけれど、ヴォルテールの『カンディド』の最後で言ったのは、「自分の畑を耕す」ということ。そこの所が明らかになるある事件の後で、手術のために病院に呼ばれていくんですよ。その時の病院の様子って、もしお読みになったら、よく読んでみてください。ここ凄く、結構大事な所だと思います。一番最初の所、昨日病院に行った時に、って話を回想するんですよ。その病院に行った時にって回想するのと同じ病院に行くと、夜の病院というのがいかに違って見えるか。彼が今までずっと見ていても見ていないことにしていた、そしてそれを強制的に見る羽目になっちゃうと、すごく機嫌が悪くなっていた、それというのが、いかに自然な形で彼の世界に組み込まれているか。そして、その世界に対して、自分が出来る事はなんなのかという話。
 これは、この書き方で書けるある限界ですよね。もし本当に下の煮えたぎっているミルクに関して書こうと思ったら――ごぼごぼしている、ある混沌とした部分について書こうと思ったら、果たして自然主義リアリズムというのは有効なのかどうかって話、ちょっと先に結論になっちゃうわけですけれども。我々はそれを意識するようになってきているというのが、例えば『土曜日』のあれですし、教訓なんですけれど、この前ちょっと面白かったのが、伊藤計劃って作家がいるのをご存じの方もいると思いますけれど、あの『虐殺器官』という小説をハヤカワから出したんです。一応SFという事になってますし、そういう所を細かくごちゃごちゃ言っても仕方がないんですけれど、これも言っちゃったら凄くよく似た認識の上に立っている作品ではあるわけですが、この伊藤計劃が、『土曜日』面白かったって言っている。へえと思いました。やっぱり感じる人は感じるんだなと。実はその煮えたぎっている部分というのは、我々が薄皮一枚の上に暮らしながら、感じ取って、それが作品の中に、芸術作品として実際に我々が目に見る場所に少しずつ滲み出ている。浮かび上がってきているというのが、言ってしまったら去年の話だったわけです。

彼らはなんでも、凄く、凄く忘却するのが早いから、精神の健康を保てるんだよね

 例として挙げたのは、結局映画が多かったわけですよね。例えば、去年の中で何を二本見てくださいって言うかと言ったら、前半の中では、『宇宙戦争』と『トゥモロー・ワールド』を見てくださいと言うことになります。『トゥモロー・ワールド』で表現されているのが何かと言うと、人間の存在価値の圧倒的な低下みたいな物を背景にして出てきた、あるとてつもなく命の安い世界。人間の死というのが、脈絡さえ持たなくなってしまった世界。これは『宇宙戦争』も同じです。『宇宙戦争』の方が多分映画として、そういう形で映画として分析していくには非常に楽な作りをしている。何故かというと、主演がトム・クルーズなんですよ。それで、トム・クルーズのギャラが平均いくらかというのは私は知りませんけれど、とてつもないギャラをとる役者ですよね。しかも、これ『宇宙戦争』の企画を持ってきたのは、トム・クルーズ自身だというので。にも関わらず、スピルバーグは、トム・クルーズをね、群衆の中の小さい顔にしちゃったんですよ。
 簡単に言っちゃうと、ハリウッドの役者の顔の大写しとヒーローぶりってのは、一応比例していると言っていいと思いますけれど、そのヒロイックな顔と言う奴を、沢山いる人間の中の顔の一つにしちゃった。そこまで還元しちゃう。言ってしまったら、ヒーローぶりってのはなんなのかというと、人間の値打ちの問題になってくるわけで、あの映画では、人間の値打ちを、スピルバーグはそこまで縮小しちゃったんですよ。
 そこで火星人が攻めてくるわけですけれど、火星人だよな確か。その辺では原作に非常に忠実な作りになっていますけれど、それを圧倒的な、ある映像として定着した。圧倒的なあれな結果、何になってくるのかというと、現代の普通の文明的な生活を享受している――勿論トム・クルーズちょっと貧乏だったり、元女房はちょっと金持ちだったり色々な問題は出てくるわけですけれど――その人間というのが、いきなり難民化するという状況を作っちゃったわけです。そのぐらい、ある危機感みたいなものが、我々のすぐそばまで来ている。
 その問題に関して、例えばボスニア紛争が与えた影響であるとか、それから何よりも大きいのが、911アメリカ人に及ぼしたインパクトであるとかいう話をしたと思ってます。だってねえ、アメリカのテレビシリーズ物を見るのが好きな人だったら、あれですけれど、911でがたがたになっちゃったコメディっていっぱいあるのね。『アリー・マイラブ』ってありましたけれど、『アリー・マイラブ』って911を境にして、いきなり調子を落とした。つまり、そこまで『アリー・マイラブ』を支えて来た物凄く楽天的な世界観みたいな物が、成立しなくなっちゃってる。途中で、一話、明らかに911を意識したエピソードがあるわけですけれど――ただ911って言えないんだよね。だから、とあるところで物凄い大火事があってという話になっていたけれど――沢山の人が死んだ。こんな凄い災難がある年に、我々は果たしてクリスマスを祝っていいものかどうか。多分凄くコンテンポラリーな**者としては、問いだったと思うんですけれど、その辺からあの話、何かおかしくなっちゃった。そのぐらいのインパクトがあったわけですけれど、つまりその瞬間に、911を経験した瞬間に、アメリカ人が持っていた、アメリカ人が、俺たちの生活は、沸いているミルクに浮いている薄皮一枚だって、薄々感じるようになっちゃった。いや、今はもうだいぶ戻したと思います。彼らはなんでも、凄く、凄く忘却するのが早いから、精神の健康を保てるんだよね。
 あるいは、我々はそれをテレビで見た。これはボスニア紛争なんかがもたらしたインパクトって、私が知っているのに、非常に近いと思うんですけれど、あくまで放送を通してきた物であって、我々が身体的に感じる物ではないにも関わらず、なにか凄く大きい形で我々の暴力性に対する脅威みたいな奴を増幅しちゃったところがあるんですよね。様々な映像って。
 何よりもまず、普通の生活をしている――つまり今までさ、難民て元々超可哀想な貧乏な生活をしている人たちが追い立てられて、着の身着のままで逃げてって、で、超気の毒な生活をしているんだけれど、いや西側の先進国の目から見ると、何が違うのか分かりませんみたいな話はあったわけですよ。そしたら、ベンツに乗った難民とか、iPod聴いてる難民とかいうのが発生するのを写真で見た瞬間に、やあ、これは人ごとじゃないという、ある感覚を持った。
 もう一つあるのは、その時にフォックス・ニュースとか、CNNが垂れ流しにした、衝撃的な映像、つまり現場直撮りの奴ですよね。これは『宇宙戦争』でもスピルバーグは採用しています。つまり、一番最初にトライポッドが出てきて、そして人が虐殺されはじめる場面というのを、最後の瞬間までさ、ビデオカメラで撮ってた奴がいる。確かにそういうのが垂れ流しにされている。
 ところが、それを見たときに我々が――ただのテレビの映像であるにも関わらず――ある確実な痛みみたいな奴を感じると言うこと。これは身体的な痛みではありません。神経に直接来る痛みであり、ありもしない痛みみたいな物を、感じ取る感受性が我々にあったという事です。

アクション映画は、動きの撮り方がどう変わってくるかと言う物の変化の目安になってくる物だって気はします

 関係するかしないかという問題は別として、これは去年取り上げたんですけれど、暴力表現という奴はどれくらい変わってきたかという話もちょっとしたと思います。
 あれは確か『黄金』か何かから初めて、ようするに古典的な奴からはじめて、殴り合いの場面を、何本か見て頂いた。その結果、かつて殴り合うというのは、男と男ばかり殴り合って、女は殴り合わなかったんですけれど、これは身体的な条件と特撮技術の、ある兼ね合いみたいなところで発生してくる問題ですけれど。例えば、殴り合いというのが、男性性の誇示、ディスプレイとして機能していた時代というのがあった。その後色々変わってきたんですけれど、あるところで決定的に変わった。まず一番最初に変わっちゃったって言うのが、クンフー、マーシャルアーツが入ってくることによって、凄く型、特殊技能化した結果、綺麗にやるとそれなりに見えるようになった。この辺から女性のアクションスターって奴が出てくるようになった。それから、香港の得意技のワイヤーアクションという奴ですね。あれを使うことによって、どんな華奢な女でも、いくらでもとんぼが打てるし、空中で止まったまま蹴り入れたりできるようになったわけですよ。そうすると、なんとなく映画的に見栄えがするようになって、女の殴り合いって奴がみられるようになりました。
 ただ、それだけでは必ずしもない。つまり『マトリックス』って映画があったのはあれなんですけれど、あの話って言うのはさ、凄く変なことにさ、誰も本来の身体を持っているのか持ってないのか分からないような所で殴り合いをしているわけでしょう。完全に身体的な殴り合いの話ですよね。あれ。それを生身のアクション・スターが、生身の人間が殴り合っている場面まで、ある種ああいう、体ではなく、神経にくる痛みみたいな奴ってのが導入されてくる。それが例えば――まあ、これもくだらない映画だって言っちゃえばそれまでなんですけれど、でも見た方がいいですよ――所謂『ボーン・スプレマシー』からの二本、『ボーン・スプレマシー』と、この間あった、『ボーン・アルティメット』あの二本です。これの殴り合いっていうのが、非常に原始的に殴り合いをやったり、ジャンプしたり色々やってますけれど、スタントマンも大変だったと思います。だって走ってってさ、窓から飛び出して、通りを飛び越えて、反対側の家の窓に突入したりするんだもの。信じられないよねこいつら、と思ったけれど、ただその時に撮っている撮り方って奴。この撮り方って奴が、明らかに身体的な動作を見せるという事。それから見せることを通じて、勿論、もうそんな時代じゃないからっていう言い方もありますけれど、肉体の優位みたいな奴をお互いに誇示し合うっていう構造から、ひたすらに見ている側が痛い、辛い、直接見ていれば神経に刺さるような暴力シーンに変わってきている。
 いや、しょうがないんだけれどね。変な話だったからね。あれ。
 あの原作というのが、暗殺者って奴でして、あたしはあれ、日本語の訳が出たのが、私が大学生の頃だったと思うんですよ。そしたら、私はあんまりそういうのを読まないんだけれど、なんか先輩がね、狂喜乱舞してて、狂喜乱舞している理由というのが、別にそれが凄くいい小説だからじゃなくて、逆です。あまりにもアホな話なんで、物凄い喜んでいたんです。まさか20年後にそれが映画化されて、こういう形で見ようとは思わなかったって私は思いましたが、まあそれはいいとして。そしたらああいうことに仕上がっていたんで、だからアクション映画って奴は、侮っちゃいけないんですけれどね。
 映画というのは本質的に動きをみせるものである以上、アクション映画って奴は、動きの撮り方がどう変わってくるかと言う物をめぐる、ある目安、変化の目安になってくる物だって気はします。
 だから、今年の話というのは、概ねにおいて、そういう具合にいきます。



(続く)