佐藤亜紀明治大学公開講座第七回(2008年度第二回)(2008.6.14)[1]

最先端のコンピュータグラフィックスみたいなものというのは、個人の金ではとても出来ないものになっちゃうわけですよ

 (GTA IVの話題)きっとその話をするだろうと思っていた人が常連には何人かいると思います。まだ日本語版は出てないんですが、北米版が出て普通に売っていたんで、PS3も一緒に買ってやってみたんですよね。
 これがちょっと大抵じゃない事になっていまして、あんまり大抵じゃないことになっているんで、実は「HERS」という雑誌に、ちょっとアート系の原稿を書いているんで、この前ターナー賞の展覧会のをやったものですから、アート絡みで、『GTA4』はどうですかと言ったら、返事がしばらくしてから来まして。なんて言ったかというと、ゲームの話題をしてはいけないということは全くないんですが、ゲームの性質から言ってこれはやはりどうだろう、と。
 ご存じの方はいらっしゃると思いますけれど、『GTA』というのは一番最初、街路はこう地図を見て、こんなちっちゃい車がちこちこちこちこ走ってって、車をこうやって盗んで、このままちこちこちこちこ持って逃げてくってゲームだったんですよ。それが段々3D化されて、どんどんCGが技術の進歩に従って、向上していって、この前辺りから、非常に上手く町の雰囲気を捉まえるようになっているんですよ。この前というのは、『サンアンドレアス』って奴で、ようするに、刑務所から出てきた黒人のギャングが、最初はチャリから始めて、ひたすらに自転車をこぎながら悪事を働いている時期ってのがしばらく続いて、その後段々成り上がっていって、一番しまいの方にはラスベガスまで乗っ取るのに、兄者に「縄張りを荒らされている。帰ってこい」って言われて、戻ってって何故か縄張り争いをしているという情けない話なんだけれど。
 ただ、それでも、おそらくはロサンゼルスとおぼしきサンアンドレアス。それからラスヴェガスとおぼしきラスヴェンチュラス。それからサンフランシスコとおぼしき、あれはなんて言ったかな。とにかくいくつかの場所が出てきますが、これがね、CG使っているのに、街の雰囲気が全部違うんですよ。
 これだけでも感心していたんですが、『GTA4』をこの間買ってきて――私はまだほんの序盤戦しかしていませんが――ディスクを入れて、画面が映り始めた時に、ちょっと茫然自失しました。町が本当にそれらしいんですよ。信じられないぐらいそれらしいんです。雰囲気まであれで。リヴァティシティというのは一応ニューヨークということになっているからね。そこらも、スタバのカップ持った奴がよたよた歩いていて、後ろから走っていってぶつかると落として罵声をあげるというぐらい細かく出来ていて、光の加減とかも、信じられないぐらい上手く出来てきている。
 ここまで行っちゃうと、もうこれを作っている奴の作り込みというよりも、あるデザインに基づいた立派なアートになっちゃってるんじゃないかなと思ったんですよね。
 もう一つびっくりしたのが、人間の顔の作りです。昔は、なまじ人間の顔を作り込んじゃうと、不自然さばかり目立っちゃって、上手く動かないものですから、ゲームをしていて非常に不愉快な感じがあったんですよ。なもので、いや漫画っぽい美形キャラがベストだよ、ゲームするには一番楽だ、とか言ってやってたものですが、今回出てくるのは基本醜男ばっかり。信じられない。主人公にしてから信じられないぐらいの醜男で、その不細工な奴が、旧ユーゴからの不法移民ですから、なんかきっちゃないスポーツウェアみたいのの上からきっちゃねえジャンパー着て、もたもたもたもた尻の膨らんだズボンはいて歩いていて、実に不細工なんですけれど、顔を見てみても、嫌な気持ちにならない。なんかそこのところで、微妙に人間の顔になってきている。他のキャラクターも微妙に人間の顔になってきている。
 そうなってくるとどうなるかというと、基本的に PTAに叱られるような悪いゲームの代表格(参考1参考2)で、街中を歩いて通行人を殴って金品を奪ってもかまわないというのが一応お約束になっているゲームなんですけれど、ここまでなってきちゃうと、人を意味もなく街中で撃ち殺す気持ちになれない。だいたい、うっかりすると人を轢くんですけれど、轢くのが嫌なのね。だって轢いた瞬間の、微妙な凄い反動みたいな物、ゲーム機にくるわけじゃないんですけれど、画面の持っているショックみたいな物も大きいですし、だいたいにおいて、その後で見るとボンネットが血塗れになっている。ここまで行ったらちょっとここから先何が起こるか分からないと思いましたよね。
 昔ちょっと考えたことがありまして。デジタルリマスタリングなんてのがはじまるちょっと前ぐらい。昔の白黒映画にカラーをつけてみましたなんて試みを、ちょっと一瞬やってた時期です。あの時に、昔の俳優をCGに取り込んで、再び演技させることができるんじゃないかっていうふうに言っている人がいたし、実際それはすぐに誰でも考えつく事ですよね。ただその当時の水準では ――で、その辺でやらせるとなると、私の場合はルイ・ジューベ参考)とかね、その辺になっちゃうんですけれど、その辺の俳優を連れてきてあれさせたって、顔はそうかもしれないけれど、演技まではできないでしょと当時は思いました。
 だけど今はわからない。もう二、三年経ったら、そういう事も可能になっちゃうかも知れない。そうなったときに、ビデオアートというか、コンピュータを使って映像を編集して出来上がってくる物というのは、どのぐらいの水準になるのかっていうのは、これはちょっと推測がつかないようなところに入ってきているところはあると思います。
 でも考えてみてください。現状で、本式にそうやって町全部作り込んじゃって――リアルな街でも虚構の街でもいいんですけれど、ある一つの街をばっちり完全に作り込んでですよ、それでその中をゲーム機を介して、あるいはコントローラーを介して、それを鑑賞する人間がうろうろして色々な事をやったりしながら、その作り上げた街の雰囲気を楽しむことができるというのは、これは既にある種のアートの領域に入ってきているんじゃないかなと思うわけですよ。
 前置きはそのぐらいにしておきましょう。実はなんで買ったかというと、『メタルギア・ソリッド』の新しい奴が出るから、それをどうせ買うから、その前に『GTA』もやっておきましょうとか言って買ったんです。この『メタルギアソリッド』の CGと言う奴も、実は、ちょっと前に予告篇が出た時、PS3が出たばっかりの時に、秋葉原パイロットフィルムみたいな奴を見ているんですよ。大きい画面に映されている奴を。
 その時に、これは凄い、と思いましたけれど、残念ながらメタルギアソリッドは出るのが凄く遅れました。阿呆でもってなんか特典映像つきのヴァージョンを買っちゃったものですから、メイキングが入っているんですよ。NHK茂木健一郎でしたっけ、脳味噌の学者の人が出てきて、色んな人のところで仕事ぶりを取材に行くっていう番組があるでしょう。ほとんどあれみたいな作りの。それをみると、今年の一月に入ってまだ随分ばたばたしてたみたいなんですよね。その状態で出てきた物に関して言うと、そうやって随分長い時間をかけてやっている間にCGの精度という点で、スペック的には多分『GTA4』に簡単に追い越されちゃっているんじゃないかなと気が少ししないでもありません。
 勿論AIやらなんやらという物の出来映えという点でも、ちょっと全然違う種類の物になってきちゃってますね。だからここから先どうなっていくかというのはちょっと注目してもいいと思います。
 雑談ばかりで申し訳ないんですけれど、これで締めますから。ターナー賞の方を見てきたと言いました。こちらの記事は「HERS」の方に書きましたけれど、それでやっぱりこういう、アートの外側でやっている事を限りなく発展させていった結果、物凄くアートに対して豊かな可能性を提供しているにも関わらず、所謂現代芸術というのがその挑戦に対して応えて、その水準をクリアしているかというと、少し疑問になってくるような種類の展示ではありました。質は極めて高いんだと思います。
 毎度毎度展覧会に行くたんびに図録がお買い得だから買えって書くのもなんだから、今回書きませんでしたけれど、実は展示している物よりも、図録の中に入っている、写真で見る物の方が、やはり凄くいい状態になっている場合が多いというのはあるんですね。だから彼らとしてみると、作品の実力を発揮する場所としては、現在の展示は非常に不足だよという事になっちゃうかもしれないんですけれど。中にいくつかビデオアートがありますが、やっぱりちょっとそういうのを見ちゃうと、ビデオアートというのは非常に難しいことになってきているねと。
 本当に頭だけで――さすがに最後まで全部つきあいませんでしたけれど――あれ、お巡りさんなのかな。ずらーっとこう雛壇に並べて、写真撮りますよって言ったっきり、一時間動かせないでいるのをずっとビデオで撮ってて、みんながもう嫌になったとか、もぞもぞ動いたりなんかするのをずーっと果てしなく撮ったりとかっていうのがあります。これはもう技術とはなんの関係もない、ある一つの観点から切り取る事によって、アートになっているか、なってないかっていう話の物に過ぎないわけですけれども、こういうのだったら多分いくらでも出来ます。でも、もっと他の種類の、コンピュータを使っていじったりした物に関して言うと、やっぱりちょっとね。
 そして悲しいかな、現代の最先端のコンピュータグラフィックスみたいなものというのは、個人の金ではとても出来ないものになっちゃうわけですよ。だから、いかに商業芸術その物が恐るべき物になってきているかという事です(参考)。
 これは、これまた森ビルで――何故森ビルで展覧会に行くとそういう感慨を深めるのかというのはちょっと笑えるようなところがありますけれど。まあ森ビルってね、つい1、2年ぐらい前までは、なんか資本主義の牙城みたいな感じがしてたから。そこでやっぱりピクサーの展覧会を見に行った時にもそう思いました。ただピクサーの展覧会って、勿論出てくる物に関して言うと、CGの技術の現在の粋で、何しろふかふかの物が出てくると、そのふかふかの毛が一本一本全部きちんと動くんですもの。CGの動物を使ったあれというのはあるんですけれど、予算によって凄く絵の出来、不出来は違ってきて、一番それがはっきり分かるのは、あれ、難しいのかな。あんな基本的な事もまだ出来ないのかなと思うんですけれど、動物の背骨の動きが、やはりおかしいわけです。一番安いのになると、背骨ってまっすぐ棒が入っているだけで、全く動きません。これでいまいち動物に見えない。特に猫とか全然猫に見えない。猫はだって背中のこれが信条でしょう?
 というような所はあるんですけれど、CGの水準は勿論言うまでもなく高い。ただそれに対して、ピクサーの展覧会で一番びっくりしたのがピクサーが一本の映画を作るために抱え込んでいる芸術家の人数と彼らのレベルの高さです(参考)。だから一つの場面のために絵描きがちゃちゃちゃちゃっと画紙かなんかで書いたような絵とかぱっとおいてあるんですよ。これが凄いんです。とんでもない物だと思う。これを売ってたら、かなりの値段でも買う人間がいるだろうと思いますし、実際そういう事情でピクサーが内部に抱え込んでいるんでしょうけれど、それからモックアップっていうか、三次元に作ってみたキャラクターの造形とか、そういう物の一つ一つ、どれをとってみても、芸術作品としてきちんと評価するに足るような水準になっている。
 一番感心してしまうのが、そういう連中を寄せ集めてですよ――そういうものが出てくるというのは、あんまり標準化しないで、好きなようにある程度仕事をやらせて、それをまとめこむ形でもって作品にしていってるんだろうということになると思うんですが、それを可能にするだけの組織の力。組織をどうやって作って運営していくかという問題に関して、ピクサーはちょっと凄いのかも知れないと思いました。
 集団的な創作というのはそういうふうになっていくのかも知れないですけれどね。だから、映画としては勿論言うまでもなくお薦めですけれど――次何来るのかな――その内側でやっている、裏方達の水準というのを考えただけでも、ちょっと恐るべき潜在能力を持っているし、ここから先も何をやってくるのかよく分からない人たちで。ある意味ではお子様向けで片付けられてしまいかねないアニメを、あれだけの力を傾けてやっているということ自体に対する、ある恐ろしさみたいな物はありますよね。これに対して、個人がアニメーションを作っていって勝とうと思ったら、よほど頭を使わないととても勝てないと思いますし、頭を使うと言ってもこっちは一人で使ってるし、向こうは何十人かで寄せ集めてやって――それで悪い結果が出る事の方が基本的には多いと思いますけれどね。ただ、悪い結果じゃなくて、いい結果を出させる方法というのを彼らは知っていると言うことですよ。

人間の顔が美しいというのはどういう事か

 そういう実業の世界の話はとりあえずいいとしまして、今日お話の一番最初に出てくるのはこれです。去年見ていただいた、アングルの

『ベルタン氏の肖像』という奴ですね。これをちょっと元にして「顔の剥奪」という話をすると前に言いましたけれど、今日しようと思っているのは、「歴史」という物。この「歴史」というのはかぎかっこをつけて考えて頂いた方がいいのかも知れないんですが、「歴史」による「顔の剥奪」というのがどのように行なわれたかという話をちょっとしようと思っているんですよ。
 去年も言いましたが、これは多分アングルの肖像画の中でも最高傑作だし、もしかするとアングルの作品の中でも最高傑作のうちの一つに入るんじゃないかと思います。凄い顔でしょう?実を言うと、昔、私がまだ大学生の頃にアングルの大展覧会が上野の美術館であったときの図録をもっているんですけれど、その中に、このベルタン氏が実際にポーズをとったときのスケッチというのが入っています。その時ね、こうやって座ってないんですよ。どうやっているか。ちょっと高い台みたいな所にこうやって肘かけて、足を交差して、小洒落た格好で立っている。それではないわけですよ。アングルはそれではなくて、このポーズで描いた。この男を描くにはこのポーズじゃなきゃならないと彼は考えて描いた。
 新聞社の社長か何かです。だから、それこそバルザック的なジャーナリズムの世界をばんばんに叩き上げていって、アングルに肖像画を描いてもらえるくらいの社会的地位を獲得した男だと言っていいと思いますけれどね。だから、この顔を見たときに、目つきから何から凄いでしょう?
 この人がここまで来る間にやってきた経験というのをつい我々は想像してしまう。もし詳細な事実を知らないとしても。要するに新聞社を持っているベルタン氏の肖像だよと普通図録には書いてあるだけです。多分この人の細かいライフヒストリーを調べた人もいるだろうと思いますけれど、そういう物を読まなくても、この人がここまで来るときに舐めてきた、受けてきた、いくつものいくつもの苦難を乗り越えてきた、困難の規模みたいな奴。それからそれに対して立ち向かっていくだけの――顎が凄いでしょう。この口の締め方。例えばこういう所からも、全部この人のしょってきた個人の歴史みたいな奴って言うのは ――この場合の歴史はかっこを外して頂いて結構なんですけれど――ごーんとして、ある意味じゃこの顔の中に凝縮されてしまっている。
 アングルは他にこういう肖像を描いていませんし、若い頃のだからそうだ、と言えばそうなんですけれど、自画像を描いてもこういう風にはならないんですよね。ああ、でもないな。晩年のが一枚あるな。それもなかなかに凄い顔の肖像画だとは思うんですけれど、今日は持ってきていないから。
 何を言いたいのかというと、いっちゃったら、この前の、去年見せた映画の中に、セルジオ・レオーネ『ウェスタン』の中の一コマと言う奴で、見ていただいた奴がありますけれど。人物の顔が果てしなく大写しになる奴ね。セルジオ・レオーネ、凄く人物の顔の大写しが多いんですよ。そして台詞が凄く少ないのね。何故そうなっちゃうのかというと、役者の力量もありますし、撮っている人間が、人間の顔という物に対してそれだけの信頼を持っている――つまり、この役者の顔をこういう形で撮ったら、この顔が、何を喋るよりも多くの事を喋るに違いないというふうに思うから、自信を持って大写しに撮っているわけですけれど。
 そしてその顔というのは、非常に妙な対照で言いますけれど、実を言うと、もう一人顔の大写しが凄く多い監督というのがいて、私その時代のイタリア映画というのを横断的に見ているわけじゃないんで、当時の様式としてそうだというふうに言い切ることはちょっと出来ないんですけれど、ルキノ・ヴィスコンティがやっぱり顔のアップの多い男なんですよ。すんごく。顔のアップだけみたいな場面いっぱいありますよね。ヴィスコンティ
 それで、この前『ベニスに死す』を見せようかな、見せまいかなと考えて、そしてどうせみんな見ているからいいやって思ったんだけれど、案外みんな見ていないかも知れないとは思ったんですけれど、今日も持ってきてませんが、それで、ようするにもってきたのが『ベニスに死す』です。その中で特に比較して欲しかったのが、顔の大写し。顔がその映画の中で、特にクローズアップされている、主人公の音楽家、アッシェンバッハ、それからアッシェンバッハがベネツィアのオテル・ド・バンで見つけて懸想をする美少年のタジオ。
 どなたかがきちんと検索をして、本物のタジオの顔はこれだというのをブログに張ってくださってました。あれを見て、私とてもうれしゅうございました。あれはよく出来たリサーチでした。本当に褒めてあげたい。だって、つまりあの顔ね。今の歳取っちゃった後の顔というのを見ると――皆さん知ってるかな。昔ポーランドが今の体制になる前にさ、社会主義の最後の頃にヤルゼルスキという奴がいたのよ。ヤルゼルスキというのは、ポーランドの士族の出で、そう言ったって、ポーランドとかハンガリーというのは、自称士族と称する人間の数が異様に多くて、ハンガリーで確か人口の30パーセントと言ったかな。ポーランドだと、人口の50パーセントだったか、もっとだったかが、士族だという風に言っているという話で、それはほとんど意味がないよという話になっちゃうわけですが、その状態でよく国家としての生産体制を保てたものだねと思うわけですけれど、士族というのは土地を持っていて、管理する側の人間ですが、実際にそこで畑を引っ掻いているのは誰なのという話になりかねないし、多分落ちぶれると自分でやるんでしょうけれど――なんか典型的なそういう顔のおっさんなわけね。そういうおっさんが若い頃、子供の頃どういう顔をしているかというの、想像がつかないじゃない。それでリサーチ、すっごいグッジョブなのが何かって言うと、そういうおっさんたちが子供の頃どんな顔をしているのかというのがきちんと写真貼ってあって、12歳の時の写真だったかな。それで見られるわけですよ。見てください。
 いや、確かにね。『ベニスに死す』を読んで、あの顔を想像する人はいませんわ。いませんけれど、ただ、私はあれは、ああこれは立派な男の子だねと思いました。はっきり言って、男の子として見た場合、ルキノ・ヴィスコンティが撮ったタジオより全然可愛い。多分母親の自慢だったと思う。もう何から何までかっちりしっかりよく出来た子供なんですよ。そういう感じなの。
 それは多分何かトーマス・マンが見ていた物とは全然違うのかも知れないねという気もしましたけれどね。なんか、あの写真では、ちょっとあれできないような、全然別な微妙な空気みたいな物をはらんでいたのかも知れない。でも、まさか12歳だったとは思いませんでしたけれどね。ちょっといくらなんでも。美少年趣味とかなんとかいうよりも、幼児愛としか言ってみようがないでしょう。変態もいいところだな。
 それはいいわけですが、話を戻します。問題なのは、『ベニスに死す』でルキノ・ヴィスコンティが撮った顔です。その時に対照的に撮った、ダーク・ボガード演じるアッシェンバッハの顔と、ビョルン・アンドレッセン演じるタジオの顔というの、これ、二つ一組で見た場合に、歴史のある顔と、それから歴史を超越した無時間的な顔。あくまで人間の物でしかないような、皺とか毛穴とかにまみれた実に汚らしい顔の、ある美しさみたいなものと――私、あのダーク・ボガードって好きなんですよ。あの時、変な化粧をする以前に変なメイクをしてますけれどね。彼は非常に良い感じの役者だったと思うんですが――それと、女の子のよう、とさえ言いようがない、なんだかよく分からない種類のタジオの顔というのがあるわけです。その中で全く時間が流れていない、超越的な美として捉えられた顔という奴。この対照というのをあれした上で、ちょっと考えて頂きたいわけです。
 つまり、人間の顔が美しいというのはどういう事か。
 それに対する一つの回答として、アングルはこれを描いたということをちょっと念頭に置いておいてください。そこから先はなかなかに凄いことになりますが。

 この顔です。信じられます?完全な左右対称でしょう。ちょっと目が微妙にろんぱりぎみなんだけれど、なんでろんぱり気味なのかって言うと、これは実在する人物の顔だからです。元の顔というのはどれなのかって言うとね、本当はこういう顔の人(#1)なんですよ。似ているでしょう?確かに顔の特徴は捉えている。これも横を向いているから、非常にきちんとした、整った顔立ちの、ちょっと年齢行っていると思いますけれど、三十過ぎぐらいかね。後で別な画家が肖像画に描いた顔なんですよ。多分実際にもし会って、話をして、あれしたとしたら、いかにどこかのお嬢様だとしても、もうちょっと別の顔を見せるはずなのに、この顔なわけです。
 この顔というのは、何の顔なのかというと、どうもこれ(#2)のための下書きだったらしいんですよ。四半世紀前のアングル展の書き込みなので、多分今ぐらいは、随分研究も進んじゃって、状況も変わっていると思いますけれど、その時のパンフレットに書いてあった説明によると、そこの家から家族の肖像を描いて欲しいと言われた。ただし、時代が時代ですから、19世紀の最初の頃。ただ単に家族の顔を描くんじゃなくて、居間の中に装飾として入れてくれ、その時に、メダリオンとして、部屋の装飾になるように描いて欲しいと言われたらしいんですよ。家族全員の顔を、神話の中の人物として描き出すことを依頼されたと書いてある。それがこの顔です。
 女神として描くために、真っ正面から完全に左右対称の形に顔を描いちゃったっていうふうに考えられるわけですけれど、アングルの場合、必ずしもそうは言い切れない所がある。朴念仁みたいな顔をしながら邪念の多い男ですからね。どのぐらい邪念が多いか後で見せますけれど、

これ、アングルが描いた聖母です。この顔は、ラファエロなんかから取ってきた、完全に典型的に古典的な顔なんですけれど、限りなく近いでしょう?むしろこっちを元にして考えて頂いた方がいいと思いますよ。
 つまり、アングルにおいては、完璧に美しい顔というのは、ああいう種類の物だった。ああいう形で左右きちんと対称で、全くいかなるぶれもずれもないような種類の顔というのを、美しい顔として認識していたんだと思います。そうして、アングルの美しいという概念というのは何なのかという話に入って行っちゃいますけれど。アングルにとって、それってでもさ、実際に変じゃない?って言う風な考え方は、多分ないんです。
 だって、普通に生きてる人間の顔って、みんな左右対称じゃなくて、ちょっとずつずれている。動いているよ。そこ、違うところで微妙な人間の顔の表情って出てくるんだ。ちなみに、もしあまりそういう事を考えたことがないと言うんでしたら、最近のコンピュータで――このほどやっと私はコンピュータをインテルマックに換えましたが、インテルマックにはカメラついているんですよね。自分の顔写真を撮ってぞっとしましたけれど、ていうか一番最初起動したら自分の顔が映ったんで、結構ぞっとしましたけれど。そういうのを使って――写真を撮って、多分簡単な編集ソフトぐらいついていると思うんで、顔を真ん中から切って、完全に左右反転でもって合成してみてください。右の顔と左の顔と。そうすると、左右を完全にそろえて同じにした自分の顔というのが、いかに変な顔なのかというのがよく分かると思います。これが、あまり顔にぶれがない人でもです。
 実を言うと、普通に話をしたり、人と話をしたりしていて、あ、この人の顔曲がってんだなって、なんとなくつくづくと思う瞬間てあるわけですが――これは余談ですけれどね――不思議なのは、その同じ人とずっと会っていても、その顔が左右違っていることが、凄く目立つ日と、全然目立たない日がある。全く気にならない日と、ひどく気になる日がある。なんなのかなというと、簡単に言っちゃうと、その人のコンディションなんですよ。コンディションが悪いと顔が曲がってるのが気になってくるのね。あれ不思議だなー。
 歳取ってくると、歯の噛み合わせなんかが変わって、尚更左右がずれてきますから、気をつけた方がいいという話なんですけれど、とにかく人間の顔というのはそういう物なんだ。この絵自体が、だから非常に不自然な描かれ方をした種類の物だって言うのは、この真ん中で立っている聖餅一つとったって変だって事はお分かりだと思います。これ、多分どっかの教会の為に描いた物だと思うんですけれどね。つまりさ、ミサの時の、これはわが体なりといって、ちーんと上げて、割ってさ、食べるって言う、司祭が食べて、みんなが後で正餐をするって言う奴。あれってさ、薄さ**ですよ。ウェハースってよく言っているけれど、並のウェハースより薄い。
 エビの入っている、薄い白い煎餅あるでしょう。あのぐらいの厚さくらいしかないんですよ。それがあんなふうに立つわけ、絶対にないんだよね。最近教会における御聖体と言う奴は――エコなんでしょうね。全粒の聖体があるんです。色がちょっと茶色っぽいから――昔は真っ白だった――わかりますけれど、これはちょっと昔より少し厚くなりましたけれどね。
 厚いと何が困るって言ったって、第二バチカン公会議以降は、手で受けていいんです。司祭からこうやってもらって、こうやって自分で取る。それ以前は口に入れて貰っていたわけですけれど、それはいいんですけれど、それを口に入れたときに、おミサでしょう。朝でしょう。朝飯食っていればいいけれど、朝飯食ってない場合、結構口の中が乾涸らびていたりして、その中にちょっと厚手の聖体を入れるとさ、顎と舌に張り付いて、にっちもさっちもいかなくなる。あれなんとかならないかねえ。事前に水を飲んでいった方がいいだろうとは思うんですけれどね。
 とにかく立つわけがないという、その問題一つ。
 それから、何故この聖母というのは、こんな****種類の(29:02)顔をしてなければならないのか。つまり、もっと人間的な聖母というのを描いた人は、彼以前にいくらでもいるのにも関わらず、彼は何故かラファエロにえらい惚れていまして、ラファエロの聖母の顔を採用してきた。その顔。
 そして、このポーズとこの指の長さ。ちょっとこの指の長さをあれして欲しいんですが、もっと見て欲しいのは、この首。これらの事を組み合わせると、どう考えてもアングルが考えていた理想的な美みたいな物のあり方というのは、普通、もうちょっとノーマルな感覚を持っている絵描きが考えている、ある自然な崩れ方、それも含めてバランスですけれど、バランスの崩れてないバランスの崩し方みたいな物の範疇というのを、全部排除したところにしか発生してこないだろうと言うことは、お分かりになるだろうと思うわけですよ。
 完全に何か排除しちゃった顔ですよね、これは。つまり、もともとある理念の中からしか出てこない顔ですけれども、その理念の中に、人間が人間であることという概念がない。まあ勿論これは聖母ですが、聖母であればこそ、より人間的な実質を与えたいと思う画家というのはいっぱいいるわけです。

 ムリーリョの聖母なんかちょっとあざといくらいだよね。そこらのねーちゃんぽくて。
 ですが、アングルはそういうのを全部外していかないと美しくならないとどうも考えているらしい。その結果というのがさっきのゴードリー夫人の世にもけったいな顔なんですよ。そう考えると、この絵も非常によく分かるでしょう。つまりこれは実際アカデミーの展覧会に出された作品だったと思いますけれど、人の目に触れた時にかなり批判をされた絵です。何を批判されたかと言うと、ここです。この背中の線。これ、解剖学的に言っておかしいんです。勘定した奴がいて、椎骨が二つ多いって言っている。
 ただ、ちなみに後で出してますが、ドラクロアはこれを見て、デッサンへったくそ、って言ったという噂です。ただ、「ゴードリー夫人の肖像」ってさっきのマドンナ見ていただいた後でこれを見ると、ある一つの微妙に納得できる物があるでしょう。その納得できる物というのは何なのかっていうと、アングルは解剖学なんてへとも思ってないって話です。
 アングルはどう考えてもこの長さが欲しいんですよ。この長さをひっぱり出してくるためには、椎骨が二つ多かろうと三つ多かろうと彼は全く気にしなかった。背中フェチだからね。後でもう一つ見て貰う奴の中に、結構若い頃からずっとある、『ヴァルパンソンの浴女』っていうのを知ってます?頭にちょっとターバンみたいなのを巻いた、結構肉付きのいいおばはんがでーんと座って、背中をこっちにこう向けて、背中しかないんですけれど。その背中に対する執着の塩梅というのは並はずれた物があるわけですが、その欲望が彼をしてこのように長い背中を描かせちゃう。その時に、実際人体がどうであるかと言うことは、判断の外側に飛んじゃっているわけですよね。あるいは意図的にそれを排除する。その事から完全な美しさみたいなものが発生するという風に、彼は考えていたと言っていいでしょう。

椎骨が二つ多かろうと、三つ多かろうと、あの絵画の良さには全然関係ない。

 その時にね、実は見て貰いたいのは

これなんですよ。よく古典派って言われるんですが、アングルって非常に謎めいた男でしてね。というか、どう謎めいているのかっていうと、言ってる言葉っていうのがいくつか残っているんです。普通にぱっととっちゃうと、ああそうと、さすがにアカデミズムの人ですね、古典主義の人は違いますね、みたいな感じがちょっとするんですが、よく考えると意味がわかんなくなっちゃうんですよ。例えばこういう事で。

 「絵画にとって、冷たさというのは致命的である。熱さで死ぬ人間はいないが、冷たさで死ぬ人間はいる」。

 暑くても冷たくても人間は死ぬわけですし、今日辺り暑くて、もう既に死ぬと私辺りは思ってますが――この夏をやり過ごせるかどうか、既に自信が無くなってきていますけれど――そう言っちゃった方が、ああそうなのかと思うじゃないですか。ところがね、この言葉よくよく考えてみると、なんか意味不明になっちゃうんです。
 つまり、手掛かりがない。どういう手掛かりがないのか。アングルはその場合、冷たい方を良しとしていたのか、暑い方を良しとしていたのか分からない。普通にぱっととっちゃえば、冷たい絵というやつを批判して言っていると言うことになりますが、その場合、アングル自身の絵というのは、熱い絵なのかって言っちゃうと、あれを熱いって言う人は誰もいないでしょう。これですよ、だって。全然熱くないでしょう。いや、彼的にはなんか微妙に燃える物があるかも知れないけれど、基本的にはこれ、熱い絵だって誰も言えませんよ。どちらかというと、アングル的な捉えで、「冷たいエロティシズム」というのが通例だと思います。そうだと考えると、自分の絵の冷たさみたいなものを、人のことを殺すぐらいの威力がある、と思って言ったんじゃないかと、つい勘ぐりたくなっちゃう。これは私の深読みですけれど。
 もう一つ、アングルを解釈する上で凄く決定的な謎めいた言葉というのがあって、彼はずっとイタリアにいて、ほとんどフランスにある時期まで帰ってこない男で、三十年くらいイタリアにいたんじゃないか。イタリアでずっと仕事をしてたんです。国なんかちっとも帰りたくないのね、彼は。国恋しくなるってことがなくて、もともとモントヴァの生まれなんで、南フランスなんで、パリなんて行ったって別によそはよそだし、イタリアとなんの違いもないって気がするのかも知れませんけれど、
 ただ、一番最初に彼がイタリアに行った時のご感想というのが凄いんですよ。

 「私は騙されていた」。

 私は騙されていた、というのが何なのかってのは、これまた色んな意味があるんですけれど、イタリアの絵画に図版やそれまでの絵画教育を通して――彼はダヴィッドの工房にいましたから。ダヴィッドの工房は払いが悪いんで、バイトで、オケのバイオリンをしてたらしい。まじ上手かったって話なんで、そんなことをしながら――習ってきた古代の美術、古代に範を取った、盛期イタリアのルネサンス美術。これがようするに新古典主義における理想の絵画とされてるわけですけれども、そういうふうにずっと思ってきた物が、多分彼の中で一つ崩れちゃったんですよ。間違いなく。そこまではOKなんです。
 ところで、何をして彼はそれで「私は騙されていた」と言ったのか。一体何を見て騙されていたと言ったのか。古典主義の、ある――昔の人はむつかしいから、きちんと絵にヒエラルキー決めるわけですよ。その中で、一番古典主義的に偉いとされているのが、ルネサンスと言うか、ルネサンスをちょっと過ぎた辺りの昔から、ラファエロはやはり一番模範とすべき画家の一人だという事になっていたわけです。
 ところでさ、そういう意味でのルネサンス的なある理想というのと、アングルのラファエロに対する傾倒の仕方は違うんですよ。一般的には、それは――あくまで当時の言い方だ、というふうな言い方になっちゃいますけれど――古典主義者というのは、ラファエロを模倣したのは、ラファエロが自然を最も上手く模倣したと思ったからです。ところで、ある人たちというのがいまして、その人たちというのも相変わらずラファエロオタなんだけれど、描く物っていうのが、こうなっちまう人たちなんですよ。

 ね、これ顔ラファエロでしょう。微妙に。ただこれ、パルミジャニーノですけれど、パルミジャニーノは顔に対してちょっと特異な好みがあって、ちょっと小狡そうな顔が好きなのね。聖母の左側の方から顔が覗いている、天使だと思うけれど、明らかに思春期の女の子の顔をした女の子いるでしょう?この顔が好きなんですよ。で、こう考えると顔の種類はよく似ている。それから、そこの下のところで、ちょっと横顔だけ、片側の顔だけ明るくなっているちっちゃい男の子いるでしょう?この顔も凄く好きですね。他の絵でもよく使っているんですが、この顔。
 注目して頂きたいのはそこじゃなくて、それで一応膝の上に乗っている、キリストのどうでもよさでもなくて――明らかに全然興味ないよね。不信心な奴だけれど――見ていただきたいのは首と指なんです。
 これ、俗に「首の長い聖母」と言われています。ぱっと見たときにさ、我々はなんとも思わないわけです。つまり、顔のバランスが異様に小さくて、下半身が異常に堂々と描かれているというのも、今日的な我々から言うと、ちょっと低めのカメラの位置か、あおりで撮れば顔は小さくなりますから、こうなったとしてもしょうがないんですけれど、それにしてもこの首が変なんですよ。そして指はほら、さっきのアングルの聖母と同じように、異様に長い指をしているでしょう。この種類の一派というのを、マニエリストと言いました。所謂盛期ルネサンスより後のイタリア美術の中の、ある一部の画家達を指して言うわけで、パルミジャニーノはその代表格だというふうに考えられますけれど、なぜマニエリストというのか。彼らはベラマニエーラというものが存在するというふうに考えた。つまり、美しいマニエラ、美しいあるやり方というものが、絵画には存在すると考えた。
 もっと凄いんですよ。そこから先行くと、かなり過激な発想をするなという話になっちゃうんですけれども、そのベラマニエーラというのは、例えばラファエロだったらラファエロのベラマニエーラを真似して描けば、完全にラファエロがない美しい絵画が出来るだろうと思う所までは、まあ素人考えですむわけですけれども、一応プロが言っていることですから。恐ろしい話はここから先で、彼らはさらに考えた。
 美しいマニエラは色んな画家が持っているんですよ。だから、レオナルドにも美しいベラマニエーラは存在する。レオナルドってあんまり出てくることはない。ラファエロは出てくること多いですけれど。ミケランジェロにも当然のことながら、まあミケランジェロは少し入って来ちゃいますけれどね。その美しいマニエラを、寄せ集めて作ったら、完璧に美しい絵画が出来るに違いないと思った。
 物凄く変でしょう。はっきり言って、彼らの作品を見ても、本当に彼らがそれを完全に実践したのかどうかというのは、かなり疑わしいところがあります。つまりさ、そんなフランケンシュタインの怪物を作るようなやり方で、一枚の絵画ができるってことはほぼあり得ないんで、頭の中で考えたとしても、描き始めたら嫌になっちゃうよって話になるんですけれどね。
 ただ、そういう形で作り上げられていた、ディテールを継ぎ合わせていって、ある何か一つの物を作るというやり方は、後期ルネサンス絵画の中には存在して、予測として成り立つのはですよ、実際問題として、盛期ルネサンスよりは、こういうマニエリスム的なやり方に対して、アングルが非常に強く反応したんじゃないかと思われる。そうだとすると、こういう種類の絵画というのは、こう言うのはアカデミズム的な伝統から言っちゃうと、排除しなきゃならないような種類の駄目絵画になっちゃうわけです。にも関わらず、こういう物を発見した、あるいは何も知らぬ形で、古典的な規範の中におさめられて教えられて、本人もそうだとおもっていた絵画というのを、現物を見た途端に、そのマニエリスム性だと今日我々が考えるようなある性格に対して、開眼したのだとすると、「私は騙されていた」ということが非常に腑に落ちる。
 言ってしまったら、美しさというのは、所謂ヨーロッパの古典的な絵画の考えなら、ですよ、自然な物は美しいです。それはこの前のレオナルドの人体図がどうこうという話をしましたけれど、その美しい自然を、きちんと真似すれば美しい絵画ができるはずだという非常に素朴な発想があります。マニエリスムというのも、もし何か取り上げるべき点があるのだとすると、そういう場所から完全に切れちゃったと言うこと。
 実際問題として、自分がやっていることをよくよく考えてみればですよ、フランチェリコだろうがミケランジェロだろうがレオナルドだろうが、自分がそのまま自然を写しているかどうかという問題に対して深く反省すれば、どうも違うみたいだ、と思うに決まっているわけですが。とにかく思いこみとしてそういうところがあった。
 これはこの前も触れたように、古代の美術、古代ローマにおける美術に対する発想と繋がっている部分があるわけですけれどね。それとはっきり違ったところで、ある美しさというのを、自然な形ではなく、作る、というのを考えたのがマニエリスト達で、そのマニエリストが、あるマニエリスト宣言みたいな形の物として、ベラマニエーラを継ぎ合わせるという発想が出てきちゃう。
 アングルはそれに対して凄く強く反応したんじゃないかというふうに考えることができるわけです。それでね、今日の話というのはなんなのかというと、そこから歴史の話に持って行きます。つまり、今まで言ったのは、個人の創作物としての絵画と、それからそこに写し取れる人間の美しさみたいな話。そして人間の美しさみたいな物を、所謂天然自然にいる人間の美しさじゃなくて、完全に作った物として、アングルは考えて、作っちゃった。その意味で言うと、例えばさっきのグランド・オダリスクだって完璧に出来ているでしょう。椎骨が二つ多かろうと、三つ多かろうと、あの絵画の良さには全然関係ない。何回見ても、ある一つの衝撃がある絵画ですけれど。最も今のルーブルの環境、凄いんだけれど、何故か知らないけれど、アングルの所はあんまり人がいませんから大丈夫です。どうしてアングルだと人が寄りつかないんだろうなと思うけれど、やっぱりあんまりつきあいたくないんだろうね。ああいう微妙な偏向した美意識みたいな物には。
 つまり美しい物を作り出せるというふうに考えた。その時に対象になっている人間性みたいな物というのは、完全に度外視された物になった。まずそういう話なんですよ。簡単に言っちゃうと。
 それで見て欲しいのが――一応当時のフランスの筆頭の画家、だからね、彼はずっとローマにいたんで、パリで誰がどういうふうに揉めているかっていう話に関しては、ほとんど関心がないんですよ。完全にローマの隠者みたいにして暮らしているんで、だから彼は戻ってきて、ダヴィッドが死んだ後で、アカデミーの代表に担ぎ上げられ、ロマン派と競争させられそうになったときに、物凄いたまげるんですよ。だって、絵を見れば分かるでしょう。全然この人、古典主義者じゃないもの。そういう意味では。むしろどうかするとそれよりもっと過激なところに行っています。
 つまり、アングルの影響というのは、勿論所謂19世紀のフランス絵画をずっと通じて、アカデミズムという形で温存されて、ほとんど20世紀に到るまで、影響を残していたというふうに言って良いと思うんです。でも自然を写すという意味では、その後に出てくるアカデミズムの画家達、ポンペの画家ってよく言うんですけれど――これは強烈に馬鹿にした言い方で、オルセーに行くといっぱい見られますが。その連中の方が、はっきり言ってデッサンはきちんとしているよ。全然。というかアングルは、もとよりそういう物を守る気はないから。
 で、誰が一番影響を受けたかって言うと、実を言うと、20世紀に入ってからの画家達なんです。マチスとかね。確か。あの辺の絵画史、私は微妙に疎いんであれなんですけれど。現代絵画の一番基礎になるような20世紀の絵画に対して、大きな影響を及ぼした理由というのはわかりますよね。20世紀の絵画の最大の特徴は何かというと、自然を写すという発想その物が、芸術のなかから完全にすとーんと失われた、そういう時代です。その中から、例えばフォービズムのような絵画が出てくる。フォーブというのの簡単な特徴は何なのって言ったら、物の色を物の色の通りに描かない。目に見える色で描かないという話です。つまり、色彩を自然の中の色彩を模倣して対象を描くことを止めた人たち。あるいは、キュービストというのは――ピカソなんかも含めてですけれど――何をやったことが最大の業績だったのかと言ったら、物を描くときに、その物の形をそのまま写さないという事です。むしろ非常に自由な形で画面の上に構成している。
 そういう形で、対象の形を模倣するという概念から芸術が解き放たれた結果、そこから純粋に美しい形態とはなんなのかという思索に移っていって、その結果抽象絵画が生まれてくるという動きは、非常に絵画史的な言い方ですけれどね。
 その時に、ある意味凄く響き合う物があったというのが、アングルなんですよ。ちなみに言うと、色彩の方に関してはドラクロワの影響があると言われています。ただしドラクロワの色彩の問題について論じ始めるとすっげー長くなるんで止めておきますけれど、そういう意味で、完全に作り込んだ人工的な美という物を作り出そうとアングルは考えていた。



(続く)