佐藤亜紀明治大学公開講座第六回(2008年度第一回)(2008.5.10)[1]


芸術作品というのは、これじゃなくて、これを作り出しているある空虚

 去年五回やって、五回出ていただいた方もいると思いますし、今年初めての人もいると思います。実は去年も話がちょっととっちらかっちゃってですね、ポイントが掴みにくかった所があるかも知れないんですよ。
 強いて言うと、去年のテーマは、「表現と痛み」という物だった。そこから、人間に固有の「顔」の問題。この「顔」というものは、なんだったらかぎかっこをつけて考えていただいても結構なんですが、つまり、具体的なこの顔の事ではないって話です。その「顔」を剥奪される痛みみたいな物に話を持って行こうかなと最終的に考えたところだったんですよ。
 去年は、主に映画。途中からちょっと写真とか絵画もまじえながら、簡単に言えば、我々は今どこにいるのかという問題を確認すると言うのをやったつもりでした。ただ、具体的に、そこからどういう事をくみ上げてくるのかという事になると、ちょっと別の問題でして……。
 雑談をするとですね、特に若い頃、学生の頃聞いた事って、ほとんど覚えていないことが多いんですよ。恐ろしいことに、完全に忘れていて、それで四十過ぎたぐらいの時に、「あの時先生が言ったことはこれだった」っていきなり気がつくという、本当にそれありますから。だから、もしかしたらちょっとそういうループに入っちゃっている方もおられるかも知れないんですけれど。
 つまり芸術作品、とりあえずここに私が呼ばれているというのは、一応小説を書く人間として呼ばれているんで、そういう問題に関連することを話す事を期待されていると思うんですよ。それなのに何故こんな話をするのかという話を、ちょっと多かったと思うんで、一つ弁明しながらまとめるという形になりますけれどね。
 映画でも絵画でも写真でもそうですけれど、去年扱った物というのは、ほとんどが所謂芸術作品でした。「芸術作品」という言い方は、あまりにも大仰で、かつ反動的な感じがして好きじゃないと言う人がいるとすると、それは「表現」というふうに言わざるを得なくなってしまうわけですけれど、ただ、『小説のストラテジー』なんか読んで頂いた方にはお分かりだと思いますけれど、私の基本的な考えとしては、「表現」というのは、感覚に与えられる刺激から構成されているという認識があります。我々の目の前に差し出されるある作品というのは、感覚に対してある刺激を、それもランダムな刺激ではなくて、ある形に構成された刺激を与える物として存在しているわけですよね。我々はそれを見たときに、作品としてそれがいい作品であるか悪い作品であるか、つまりその形その物が美しいと――この「美しい」の問題も後で微妙に触れますけれど。かなり多義的な言葉です――美しいかどうかという問題、あるいは作品として出来がいいか不出来であるかという問題を感じる。それが片方にありますよね。
 その一方で、もっと別のことを感じる事があり得るわけですよ。それは作品の構成という物が、ある作り手が、こういう形で作品を組み上げたという、その事自体が、その作り手について、あるいは作り手と同じ時代に生きていた受け手、観客であるとか、鑑賞者であるとかについて、彼らがもしそれをはっきり意識していなかったとしても、その意識していない部分で、秘かに感じ取ったり考えたりしていた事を語っている、と感じることがあるわけです。この問題に関しては、作品の出来不出来とは全然別だよと言いますけれど、存在しないとは私は言いません。
 作品としていいかどうかというのと、それが感じ取れるかという事は、全然別の問題になるわけです。作品の総じての評価というのは、そういう、意識していないんだけれど、実はどこかで感じている、考えているという、そういう秘かな思考みたいなものが、感覚に与えられる刺激としてどういうふうに構成されたか。その構成された結果出てくる形に対する評価になるべきだと考えています。
 ところが、一つ問題が出てくるわけですよ。つまり、なぜそこの所しか評価しないのか。
 例えば10年とか20年とか経った後、あるいは古典的な作品なんて言うと、例えば、100年とか200年とか経った後、もっと凄いあれになってくると、例えば古代エジプトの遺物みたいなもの、我々はそれを美術的な物としてつい見ちゃいますよね。それで、美しいとか美しくないとか、形が良いとか悪いとか、これは出来の良い物だとか言って、骨董品市場なんかに流れる場合でも、そういう基準に従って値打ちがつくことがある。
 ところで、それを何故作っていたのかと言うことは、今の我々には全く共有されていないことです。家に大英博物館で買ってきた本でね、『古代ギリシャ人とセックス』という本があるんですよ。えげつないタイトルだと思うかも知れませんけれど、つまり古代ギリシャの、今日我々が古代ギリシャの芸術作品とか美術品と呼ぶ物の中には、性的な題材を扱った物が非常に沢山あります。その中でも、あまり画集とかそういうものに出てこないんですけれど、博物館などに行って見た場合に、男性性器や女性性器を象った物というのが実は結構ある。それほどアルカイックな時代じゃなくて、後の方に遡ってきたとしても、非常にその部分を誇張した形で書かれた物が存在する。そういう所を考えたときに、ちょっと考えるわけです。つまり、ギリシャ人というのは、なぜあれほどセックスネタが好きなのか。思わず思うでしょ。その時、今日の考え方をすとんと入れちゃう人だと、つまり人間だからみんなそれはセックスが好きで、セックスに関することは誰だって、小学校四年生みたいにいくらでも喋りたいという話、表現したいという話になってしまう。だから彼らはそれをやったんだよという見方をする場合がある。ただし、これはどう考えても多分違うだろうと。
 古代ギリシャというのは、我々の時代とは異なって、もっと古い農耕文明の痕跡を引き継いでいる。そこにおいて、性的な物というのは、今日我々が認識しているのとは、まるで別な形を持っていて、従ってそれは、そういう形で表現したとしても、例えば現代美術の画家が性的なものを表現する時とは全く違う動機に基づいて作られている。ある意味では定説の確認みたいな本なんです。これ、図版が多くてなかなか面白い本ですけれど。
 そこで問題になってきちゃうのが、じゃあそういう物を見るときに、我々は何故それを、性に関して当時の人たちと全く違う認識を持っているにも関わらず、何かこう微妙に分かる感じがしちゃう。そしてそれをあまつさえ評価の俎板に乗せてしまうのは何故なのかっていうことなんです。
 簡単に言っちゃうと、いくら頭であの頃は文明が違うからって認識しても駄目な訳ですよ。それは特に文学研究などの場合には顕著になってくるんです。例えば、もう随分前だったんですけれど、新書で、ローマ時代の作家、ペトロニウスの『サテュリコン』、あれを全篇ネロに対する風刺作品として読み解くという本があったんですよ。
 ここの所、あそこの所と細かく指摘してくるんですけれど、それは学術研究として凄くいい。もの凄く立派な研究だと思います。ただし、今日我々がペトロニウスの『サテュリコン』を読む時に、あ、これはネロをおちょくっているから、ここで笑わなきゃいけないんだと思って笑うって事はあり得ないわけです。笑ったらかなりわざとらしいです。ある意味じゃ自然な形で鑑賞してない。でも『サテュリコン』というのは、読んだら面白い人には面白いわけですよ。それは何故か。そこに芸術作品の奇妙な性格という奴が出てきちゃうわけです。
 つまり、中身というのは、作品を作るときに、ある何か秘かな考えみたいな物の中から形を作ると言う事が浮かび上がってくる。ここで出てくる形っていうのが、実際になんらかのマテリアルを使って実現されて、そしてそれが例えば100年なり200年なり、場合によっては2000年以上残る。それが残ったときにですよ、その中身というのは綺麗さっぱり消えちゃった状態で、我々の手元に届けられるわけですよ。
 我々がそれを見るときに何をしているかというと、その空っぽの中身に自分たちの持っている物を入れて読んでる。あるいは自分たちの持っている物を入れて見ている。100年経ったり200年経ったり、あるいは、って一々繰り返すのやめますけれど、それを見る時、もしかするとその時代にその中に何が入っていたのかという事は全く問題ではなくなっている。むしろ、その作品というのは器だって言い方をしてもいいですけれど、その器が、なんと恐ろしいことに、これだけ時間を経て、感じ方も考え方も劇的に変わっちゃった、我々の持っている何かを入れてもなお、きちんと入れられるような形に構成されている。その事に対する驚きがやはりあるわけですね。
 一応落としてきてはいるんですけれど、一々見せなくてもご存じだと思うから、例えばあれを挙げようと思うんですよ。レオナルド・ダ・ヴィンチのこういう奴知っているでしょう。男の人がこうやって手を広げて立っているデッサン。有名な奴です。円形と、正三角形と、それから正方形、これを完全に内接する形であれした中に人体を配置して、そしてその三つの、幾何学的に言って完璧な形というのが、いかに人体の比率に対して適応されているかと言うことを、レオナルドは描いているんですけれど。明らかにそれは、今日の我々の発想から言うと奇妙な代物です。つまり、我々はレオナルド・ダ・ヴィンチの人間観みたいな物を共有していない。
 ルネサンス時代のフィレンツェのある男がですよ、人体というのは、人間というのはなんて凄い物なのか。人間の身体というのは、これほどまでに完璧な物なのだ。この場合は男性ですけれどね。尾籠な話に落ちてあれなんですけれど、今日見て結構笑っちゃったのはね、男性の肝心な部分が、ちゃんと図形の肝心な部分に来ているんですよ。普通来るかねと思うんですけれど、レオナルドはそこの部分にきちんと拘っていたと言う事なんでしょう。ただ、この拘りというのは、例えば古代ギリシャの人間が――ルネサンス時代の人間て古代ギリシャ・ローマに対する憧れみたいな物を非常に強く持っていますから。
 ちょっと話がずれますけれど、実質的に言うと、イタリア人というのはローマ人じゃないんですよ。誰がどう考えたってそれはそうなんです。なにより証拠に、ポンペイの遺物の中にある人物の顔を見てご覧なさい。あれを見て、これ何人?て言われたら、我々は真っ先になんて言うか。「モロッコの人」って言うんです。多分ローマ人てそういう顔をしていることが多かったと思う。その後の様々な民族の移動によって構成されてきたのが、今のイタリア人であり、ましてやフィレンツェ近辺の人間が、直接ローマ人の子孫である可能性というのはあんまりないと考えていいと思います。これは今のギリシャ人にしても全く同じです。明らかに違う種類の人たちだと思うんですけれど、ただ自分たちは古代ギリシャ・ローマの後を継いでいる人間だという意識を、ルネサンス人は、そしてそれを今日に至るまでヨーロッパ人というのは、非常に濃厚に持っている。呆れた事にドイツ人までそう思っているという。これははっきり言って噴飯物だと思うわけですけれども。
 本質的に違う文明を、自分たちのルーツに置いちゃったんですよ彼らは。その一番最初の瞬間。ただしそういう状況にありながらもレオナルドが持っている生に対する感覚、あるいは人間の身体に関する感覚というのは、古代人とは明らかに歴然と異なっている。言っちゃったら、ある形だけ引っ張ってきて、凄く自分流に消化していったものです。ただし、元になるあれっていうのは、古代文明においては既に考えられていた種類のものではあります。そこに入っていた意味は明らかに人間の崇高さという問題に関して全く違う種類の物です。
 今日我々が人間の身体に関してレオナルドが持っていたような楽観的な認識を持っているかというと、必ずしもそうではないということは言えると思います。つまり人間の身体に関して、ありとあらゆる被造物の中で最も出来が良いなんて思っている人間ていますかって話です。誰がどう考えたって、走るんだったら馬の方が速いし、力だったら象の方が強いし。馬に乗ってみれば分かりますよ。人間というのがいかに非力な、弱々しい生き物であるか。馬が首を下げたときに、手綱を持っていたら抑えられませんから。普通。ひどい場合は、小柄な人だったら、そのまま手綱ごと前に***立ちます。
 そういう認識以上に、ある人間性に関する劇的な変化みたいなもの――その辺の話をすることになるとだいぶ話がずれているんですが――が19世紀の終わりから20世紀の初頭にかけてあった。それを経た後で、レオナルド・ダ・ヴィンチのあの絵を見るというのは、非常に奇妙な事ではあるわけですよ。
 我々はレオナルドに関してそういうレオナルドと同じような認識を人体の完全さに対して持っていない。にも関わらず、あれを見たときに、ある微妙な感動があるわけですね。かつてこういう思考をした人がいるという事に対して、そしてその残っちゃった、言っちゃったら我々が全く共有していない何かに対して、我々が入れるべき何物かを持っていると言うこと。その問題。
 簡単に言っちゃうと、芸術作品てなんなのかと言う話になりますね。
 えーと、ポンペイに行かれた方います?あるいは、ポンペイの遺物の展覧会とかでもいいし、本などは見たことあると思いますけれど、ポンペイというのは、ベスビオス火山の火砕流で滅びたわけですけれど、その火砕流が押し寄せてきた時に、凄く沢山の人たちがそこに巻き込まれて命を落とした。18世紀の終わりぐらいになって、そこを掘るわけですよ。ヘルクラネイムなんかもそういう形で掘られています。ヘルクラネイムの方が酷かったのかな。博物館とかに行くと、はっきり言って見たくないなという種類の物があるわけです。それは何かというと、誰か気がついたんです。こうさ、発掘してくとさ、空洞があるわけよ。なんか適当な寸法の。この空洞なに?って言ったときに、そこに石膏を流し込んで固めると言うことを考えついた奴がいる。で、石膏を流して固めるとさ、それがさ、すみっこで蹲ってそのまま死んじゃった人間の格好だったりさ、繋がれたまま死んじゃった犬の格好になった石膏が出てくる。
 つまり、そこにいる人間が火砕流に埋められて、凄い温度で焼け死んでいるわけです。で、焼け死んだ後に、その人間がいた形の空洞が、固まった火砕流の火山の噴出物の中に残っていた。流し込まない事にはどうなっているかというのは我々には見ることが出来ないんですけれど、衣類なんかはほとんど焼けちゃうわけですね。革のサンダルとかベルトなんかも焼けちゃう。ただバックルだけ残ってたりするんですよ。ちょうど、きちんと締めてたんだろうという事がわかるような、バックルだけ残ってたりする。それはかなりグロテスクな代物だし、展示することを憚られるような代物だし、ポンペイなんか行くと、修復中の所の道具が積んであるような場所があって、そこの所になにかトントンと置いてあったりなんかすることが稀にあって、それもかなり嫌な気持ちのするものではあるんですけれど。それはそうでしょう。
 これを、ああ、古代の人たちだって思うっていう、その神経はさすがにないよね。つまり、それね、凄いあれなんですけれど、あんなに昔の事なのに、あれを見ると、ああ被災者だと思っちゃうんですよ。不思議でしょう?
 芸術作品て、ある意味でそういう物なんです。つまり、型だけ残っている。誰かが――例えばガレージキットでプラモデル作っている人とかいれば尚更よく分かるでしょうし、あるいはブロンズの彫像の作り方なんて知っている人もお分かりになると思うんですが、蝋で形を作る。蝋で形を作った物の外側を、粘土で固めて、溶かして蝋だけあれして、そこの所に鋳造すべきものを入れて、形を作ってばこってやると、その掘った物と同じ物が出てくると、そういう理屈です。細かいことを言い始めると更に色んな技術論があって、その技術論をはじめると話が潰れちゃうんでやめますけれど。
 つまり芸術作品というのは、多分そこから抜かれてくる物じゃない。我々の前に、ある絵が一枚置かれる。あるいはある文学作品が置かれる。あるいは音楽の楽譜が置かれる。まあ音楽の楽譜なんかで言うと一番いいですけれど。つまり音楽の楽譜というのは、全然楽譜じゃない。我々が何か中に入れるまでは全然成立していない。どこにも聞こえていない。何も鳴ってない物です。ただ、芸術作品て具体的になんなのかっていうと、勿論我々は絵を見てこれでしょ、という風に言うわけですけれど、それはもしかすると芸術作品じゃない。あるいは、芸術作品なんだけれど、芸術作品というのは、これじゃなくて、これを作り出しているある空虚だというんです。言ってしまったら、外側のモールドだけが芸術作品であって、我々はその中に何かを入れることによって、初めて形という物が判明する。そういう物が芸術作品。
 ポンペイの被災者と同じで、その中にあった物というのは、もう完全に消え失せて無くなっちゃっている。その無くなった中に、我々が何を入れようと、実は自由なんです。そこから作品の評価という奴を考えた場合どうなるかというと、我々が何か入れようとしても入らないような物や破れてしまう物というのには、ある骨董品的な価値しかない。そうじゃなくて、なんと恐ろしいことに、私が持っている全く違う、ある感受性みたいな物。感じ方、考え方みたいな物を、そこに流し込んでもぱしっとおさまるだけの作り方を、この型はしてあったんですよ。芸術作品に対する評価というのは、最終的にはそういう所になります。だから、恐ろしいことに、いつまで経っても古びない物はある。
 あるいは逆に、凄い勢いで、結局中身だけで成立していたから、中身が無くなっちゃったから、もう何一つ残らないような作品というのも、別に存在します。あるいは、ある時代には凄くもてはやされて、その後で廃れて、忘れ去られてしまった作品、こういうのは美術史でも音楽でも凄く沢山ありますけれど、こういうものが再評価されてくるときというのは、おそらくそこに入れるべき、合致する何物かというのを我々が再び見出し、感じ取るようになった時。
 実を言うと、今回の講義は、というかこの前もそうなんですけれど、だから小説のストラテジーなんかを読んでいらした方には、形形と言っている割には中身の話をすると考えると思われた方がおられるかも知れないんですが、その通りで、中身の話をしています。つまり、どちらかというと、作品として残る物ではなくて、作品が出来上がってくるために存在した、ある蝋型みたいなもの。それについて考えています。

(今年やるのは)今現在において、果たして自然主義リアリズムの文学というのが、まだ可能であるのか

 ちょっと話が散らかったので、脈絡を追いにくくなっているかも知れないんですが、その作り手や、その同時代の鑑賞者達が、その時持っていた、ある秘かな志向みたいなもの、自分で意識しているかいないかは別にしてですよ。秘かな志向みたいな物というのはどんなものなのか。どんなものだったのか。そして、去年しつこく話してきたのは何なのかというと、今ここにおける秘かな思考みたいな物、様々な芸術作品に見て取れる思考の型みたいな物っていうのは、どんなものなのか。今年やるのは何なのかと言うと、もういっぺんそこの所を細かく追求していった後で、そこから出てくる表現というのは、どのような物であり得るのかと言うことを考えていくという話です。
 結論を言ってしまうと簡単な、多分上手い具合にちゃんと、脱線しまくらずに話を最後まで進めることが出来ると、12月あたりに最終的にあれするのは、今現在において、果たして自然主義リアリズムの文学というのが、まだ可能であるのかと言うこと。そういう理由で、それで圧倒的にね、いつもそういうことを考え出すと、必ずみんなそうなるんだよって言い方は可能だと思いますけれど、我々における、今ここ、というのはある意味で非常に陰惨で嫌な物。この陰惨だとか、嫌さみたいなものというのは、避けるとどうなるかというと、ある決定的な微妙な嘘みたいな所に到達する。
 イアン・マキューアンの『土曜日』って読んだ方いらっしゃいますか。多分、去年の年末に出たんで、私も書評を頼まれて読んだんですが、それまでマキューアンて全然ぴんとこない作家で、なんかちょっとメロドラマ的で好まないなと思ってたんですが、このマキューアンの土曜日に関して言うと、全面的にお勧め出来ます。あるいは、好きじゃないとしても、義務鑑賞してくださいという種の物です。
 簡単に説明しちゃうと何なのかというとね、ロンドンに、ある脳外科医が住んでいるんですよ。ロンドン市内の大きい病院で、脳外科と言っても、結構腕のいい医者として暮らしていて、勤務医で。病院から歩いて帰れるロンドンのど真ん中に、すんごいいいテラスハウスに住んでいる。金持ちなんですよ。歩いて帰れるから、病院には歩いて通っているんだけれども、ガレージをその近所に借りていて、そこのガレージには、ちゃんと銀ベンツが入っている。女房は、特に出版関係の法務を担当している腕利きの弁護士で、夫婦で凄く忙しい。
 微妙にいい描写が出てくるんですが、これ結婚してる人にはおわかりになると思うんですけれど、もの凄く忙しくて、しかも旦那は夜勤あるし、女房も仕事の関係で時間は不規則だから、割合すれ違いのケースが多いわけです。たまに週末とかぱっと顔を合わせたりすると、お互いのファイロファックスを、交尾する小動物のようにこうやって合わせて、お互いのスケジュールをチェックするという。ちょっといいなあと思いました。この描写。うんそういう物だよね。そうなってくるよね。
 子供はもう大きいんです。二人います。上の女の子はもう大学を卒業して、パリにしばらくいた。下の男の子というのは、ドロップアウトしてるんですよ。下の男の子ドロップアウトしているって言っても、並のドロップアウトじゃなくて、まだハイティーンなんですけれど、ブルースのギタリストになると言ってドロップアウトした。普通はこの馬鹿野郎と言って、親は怒るところなんですけれど、恐ろしいことに才能があるわけですよ。ブルースのあれとしてかなりがっちりやって、自分の稼ぎでいい革ジャンなんかも勝手に買って、暮らして行けて、べつに親のこと嫌ってもおらず、親とは非常にいい関係を保っていて、あまつさえ腕がいいのでね、アメリカのクラブがね、うちに出てくれと言って呼びにくるくらい腕がいい。すさまじい家族だよね。それで、上のお姉さんはオックスフォードを出ていて、オックスフォード時代に、詩の賞を取っていて、新しい処女詩集を出す。それだけじゃない。この二人の才能ある子供達のじいさまと言うと、母方のじいさんですけれどね、もの凄い超有名な詩人で、彼の詩を教科書で読まなかったイギリス人はいないってくらいの詩人です。
 あり得るかこれ?って話でしょう。まったく完璧な幸福です。
 本人は、普通さ、四十代後半になるのかな。確か。普通さ、病気の一つや二つ出てきたり、これだけの仕事をしていたらメタボになったりしそうなんだけれど、未だにもっと歳の若い連中と、ガンガンスカッシュの試合が出来るくらい健康。何一つ欠けた所がないんですよ。完璧な幸福なんです。
 この男が、ふっと、もの凄く早い時間に目が覚めちゃった。疲れちゃって。前の晩帰ってきてシャワーだけしてばったり倒れて、起きるとそれよりずっと遅く帰ってきた女房が横で爆睡しているという状態で、窓の外をふっとみると、火がね、テムズ川の方からずっとこっちに向かっている。多分こうだと思います。こうじゃないと思うんですけれど。
 飛行機が燃えているんですよ。ヒースロー空港に向かった飛行機。そういう非常に不吉な出だしから始まって、いや結局の所、これは別にテロでもなんでもなくて、ただのロシアから来た飛行機がエンジントラブルを起こして、エンジンから火を吹いただけの事だと判明するんですけれど、そこからはじまって、この完璧な男が完璧な土曜日を送るはずなんですけれど――午前中にスカッシュをやって、帰りにシャワーしてから市場へ行って、料理の材料を買って、それで家に帰って、おいしいブイヤベースを作って、久しぶりにフランスからやってくるじいさんの事をもてなして、子供達もみんな集まってきて、それで娘の処女詩集の出版を祝おうという――そういう土曜日なんです。だった。
 ところが、そのスカッシュに行く途中で、うっかり軽い接触事故を起こしちゃうんです。明らかに相手が、微妙な、まともな世界の人じゃない男で、という所から話がはじまって、ネタバレはしませんけれど、これでね、マキューアンが後ろの方で言っているのが笑えるんですけれど、この話を書いたら書評家がみんな怒ったと言うんです。なんで書評家が怒るかと言うと、主人公の、こんな設定の主人公はあり得ないと言ったっていうのね。それはすごくよく分かるんですよ。
 ただ、そうしなければならない理由というのがあった。がちがちに調べ込んだ、本当にある自然主義リアリズムのお手本みたいなものなんですけれど、でも微妙にそこから既にずれているんですけれどね。そういう文体で書いていきますけれど。その完璧な幸福を書く。その完璧な幸福の中に、その事故の影響である物凄いノイズが響いてくる。その結果明らかになるのは、彼のある完璧な生活。西側の肥え太った自己満白人の生活。それが、煮えたぎっている世界の上に薄皮一枚――牛乳が沸いているような物です。そこに薄く一枚被さっているわけです。ただし、そういう所って、マキューアンはちゃんとしてるから、いきなりそこでこの薄皮一枚の虚栄の生活が崩壊したりしないんです。この薄皮一枚、凄く薄皮一枚だけれど、強靱なんですよ。彼はそこから出ることもできないし、それを破壊することもできない。そこのところにずっと最初から最後までとどまる。とどまる目で、自分の下で牛乳が沸いている、何かぐつぐつ煮えたぎっている混沌みたいな奴が、自分の足下、すぐそこの所にあるという事を意識する。そういう小説です。いや、結構最後まで読むとね、その一番最後のところで、どうやって嘘の顔の生活にさ、言っちゃったら、みんなよくやるのはさ、このところに実は愛人がいるとか、なんかそういうパターンで生活崩壊って話を書きたがるわけね。エンタメなんか。エンタメじゃないからね。これ。だから崩壊しないんですよ。
 ただし、それがほんの一枚、この世界のうちのほんの一部の人間が享受している、物凄い幸せな状態という奴を誇張するためだけに、このあり得ないぐらい幸せな男というのを作っちゃったわけです。それを見たときに、彼がやる事というのはある意味じゃ非常に諦めに満ちた物なんです。
 つまり、自分が出来ることだけ。
 最終的に賢者はみんなそう言い始めるんだよね。それでお前らくその役にもたたねえとかって言われるんですけれど、ヴォルテールの『カンディド』の最後で言ったのは、「自分の畑を耕す」ということ。そこの所が明らかになるある事件の後で、手術のために病院に呼ばれていくんですよ。その時の病院の様子って、もしお読みになったら、よく読んでみてください。ここ凄く、結構大事な所だと思います。一番最初の所、昨日病院に行った時に、って話を回想するんですよ。その病院に行った時にって回想するのと同じ病院に行くと、夜の病院というのがいかに違って見えるか。彼が今までずっと見ていても見ていないことにしていた、そしてそれを強制的に見る羽目になっちゃうと、すごく機嫌が悪くなっていた、それというのが、いかに自然な形で彼の世界に組み込まれているか。そして、その世界に対して、自分が出来る事はなんなのかという話。
 これは、この書き方で書けるある限界ですよね。もし本当に下の煮えたぎっているミルクに関して書こうと思ったら――ごぼごぼしている、ある混沌とした部分について書こうと思ったら、果たして自然主義リアリズムというのは有効なのかどうかって話、ちょっと先に結論になっちゃうわけですけれども。我々はそれを意識するようになってきているというのが、例えば『土曜日』のあれですし、教訓なんですけれど、この前ちょっと面白かったのが、伊藤計劃って作家がいるのをご存じの方もいると思いますけれど、あの『虐殺器官』という小説をハヤカワから出したんです。一応SFという事になってますし、そういう所を細かくごちゃごちゃ言っても仕方がないんですけれど、これも言っちゃったら凄くよく似た認識の上に立っている作品ではあるわけですが、この伊藤計劃が、『土曜日』面白かったって言っている。へえと思いました。やっぱり感じる人は感じるんだなと。実はその煮えたぎっている部分というのは、我々が薄皮一枚の上に暮らしながら、感じ取って、それが作品の中に、芸術作品として実際に我々が目に見る場所に少しずつ滲み出ている。浮かび上がってきているというのが、言ってしまったら去年の話だったわけです。

彼らはなんでも、凄く、凄く忘却するのが早いから、精神の健康を保てるんだよね

 例として挙げたのは、結局映画が多かったわけですよね。例えば、去年の中で何を二本見てくださいって言うかと言ったら、前半の中では、『宇宙戦争』と『トゥモロー・ワールド』を見てくださいと言うことになります。『トゥモロー・ワールド』で表現されているのが何かと言うと、人間の存在価値の圧倒的な低下みたいな物を背景にして出てきた、あるとてつもなく命の安い世界。人間の死というのが、脈絡さえ持たなくなってしまった世界。これは『宇宙戦争』も同じです。『宇宙戦争』の方が多分映画として、そういう形で映画として分析していくには非常に楽な作りをしている。何故かというと、主演がトム・クルーズなんですよ。それで、トム・クルーズのギャラが平均いくらかというのは私は知りませんけれど、とてつもないギャラをとる役者ですよね。しかも、これ『宇宙戦争』の企画を持ってきたのは、トム・クルーズ自身だというので。にも関わらず、スピルバーグは、トム・クルーズをね、群衆の中の小さい顔にしちゃったんですよ。
 簡単に言っちゃうと、ハリウッドの役者の顔の大写しとヒーローぶりってのは、一応比例していると言っていいと思いますけれど、そのヒロイックな顔と言う奴を、沢山いる人間の中の顔の一つにしちゃった。そこまで還元しちゃう。言ってしまったら、ヒーローぶりってのはなんなのかというと、人間の値打ちの問題になってくるわけで、あの映画では、人間の値打ちを、スピルバーグはそこまで縮小しちゃったんですよ。
 そこで火星人が攻めてくるわけですけれど、火星人だよな確か。その辺では原作に非常に忠実な作りになっていますけれど、それを圧倒的な、ある映像として定着した。圧倒的なあれな結果、何になってくるのかというと、現代の普通の文明的な生活を享受している――勿論トム・クルーズちょっと貧乏だったり、元女房はちょっと金持ちだったり色々な問題は出てくるわけですけれど――その人間というのが、いきなり難民化するという状況を作っちゃったわけです。そのぐらい、ある危機感みたいなものが、我々のすぐそばまで来ている。
 その問題に関して、例えばボスニア紛争が与えた影響であるとか、それから何よりも大きいのが、911アメリカ人に及ぼしたインパクトであるとかいう話をしたと思ってます。だってねえ、アメリカのテレビシリーズ物を見るのが好きな人だったら、あれですけれど、911でがたがたになっちゃったコメディっていっぱいあるのね。『アリー・マイラブ』ってありましたけれど、『アリー・マイラブ』って911を境にして、いきなり調子を落とした。つまり、そこまで『アリー・マイラブ』を支えて来た物凄く楽天的な世界観みたいな物が、成立しなくなっちゃってる。途中で、一話、明らかに911を意識したエピソードがあるわけですけれど――ただ911って言えないんだよね。だから、とあるところで物凄い大火事があってという話になっていたけれど――沢山の人が死んだ。こんな凄い災難がある年に、我々は果たしてクリスマスを祝っていいものかどうか。多分凄くコンテンポラリーな**者としては、問いだったと思うんですけれど、その辺からあの話、何かおかしくなっちゃった。そのぐらいのインパクトがあったわけですけれど、つまりその瞬間に、911を経験した瞬間に、アメリカ人が持っていた、アメリカ人が、俺たちの生活は、沸いているミルクに浮いている薄皮一枚だって、薄々感じるようになっちゃった。いや、今はもうだいぶ戻したと思います。彼らはなんでも、凄く、凄く忘却するのが早いから、精神の健康を保てるんだよね。
 あるいは、我々はそれをテレビで見た。これはボスニア紛争なんかがもたらしたインパクトって、私が知っているのに、非常に近いと思うんですけれど、あくまで放送を通してきた物であって、我々が身体的に感じる物ではないにも関わらず、なにか凄く大きい形で我々の暴力性に対する脅威みたいな奴を増幅しちゃったところがあるんですよね。様々な映像って。
 何よりもまず、普通の生活をしている――つまり今までさ、難民て元々超可哀想な貧乏な生活をしている人たちが追い立てられて、着の身着のままで逃げてって、で、超気の毒な生活をしているんだけれど、いや西側の先進国の目から見ると、何が違うのか分かりませんみたいな話はあったわけですよ。そしたら、ベンツに乗った難民とか、iPod聴いてる難民とかいうのが発生するのを写真で見た瞬間に、やあ、これは人ごとじゃないという、ある感覚を持った。
 もう一つあるのは、その時にフォックス・ニュースとか、CNNが垂れ流しにした、衝撃的な映像、つまり現場直撮りの奴ですよね。これは『宇宙戦争』でもスピルバーグは採用しています。つまり、一番最初にトライポッドが出てきて、そして人が虐殺されはじめる場面というのを、最後の瞬間までさ、ビデオカメラで撮ってた奴がいる。確かにそういうのが垂れ流しにされている。
 ところが、それを見たときに我々が――ただのテレビの映像であるにも関わらず――ある確実な痛みみたいな奴を感じると言うこと。これは身体的な痛みではありません。神経に直接来る痛みであり、ありもしない痛みみたいな物を、感じ取る感受性が我々にあったという事です。

アクション映画は、動きの撮り方がどう変わってくるかと言う物の変化の目安になってくる物だって気はします

 関係するかしないかという問題は別として、これは去年取り上げたんですけれど、暴力表現という奴はどれくらい変わってきたかという話もちょっとしたと思います。
 あれは確か『黄金』か何かから初めて、ようするに古典的な奴からはじめて、殴り合いの場面を、何本か見て頂いた。その結果、かつて殴り合うというのは、男と男ばかり殴り合って、女は殴り合わなかったんですけれど、これは身体的な条件と特撮技術の、ある兼ね合いみたいなところで発生してくる問題ですけれど。例えば、殴り合いというのが、男性性の誇示、ディスプレイとして機能していた時代というのがあった。その後色々変わってきたんですけれど、あるところで決定的に変わった。まず一番最初に変わっちゃったって言うのが、クンフー、マーシャルアーツが入ってくることによって、凄く型、特殊技能化した結果、綺麗にやるとそれなりに見えるようになった。この辺から女性のアクションスターって奴が出てくるようになった。それから、香港の得意技のワイヤーアクションという奴ですね。あれを使うことによって、どんな華奢な女でも、いくらでもとんぼが打てるし、空中で止まったまま蹴り入れたりできるようになったわけですよ。そうすると、なんとなく映画的に見栄えがするようになって、女の殴り合いって奴がみられるようになりました。
 ただ、それだけでは必ずしもない。つまり『マトリックス』って映画があったのはあれなんですけれど、あの話って言うのはさ、凄く変なことにさ、誰も本来の身体を持っているのか持ってないのか分からないような所で殴り合いをしているわけでしょう。完全に身体的な殴り合いの話ですよね。あれ。それを生身のアクション・スターが、生身の人間が殴り合っている場面まで、ある種ああいう、体ではなく、神経にくる痛みみたいな奴ってのが導入されてくる。それが例えば――まあ、これもくだらない映画だって言っちゃえばそれまでなんですけれど、でも見た方がいいですよ――所謂『ボーン・スプレマシー』からの二本、『ボーン・スプレマシー』と、この間あった、『ボーン・アルティメット』あの二本です。これの殴り合いっていうのが、非常に原始的に殴り合いをやったり、ジャンプしたり色々やってますけれど、スタントマンも大変だったと思います。だって走ってってさ、窓から飛び出して、通りを飛び越えて、反対側の家の窓に突入したりするんだもの。信じられないよねこいつら、と思ったけれど、ただその時に撮っている撮り方って奴。この撮り方って奴が、明らかに身体的な動作を見せるという事。それから見せることを通じて、勿論、もうそんな時代じゃないからっていう言い方もありますけれど、肉体の優位みたいな奴をお互いに誇示し合うっていう構造から、ひたすらに見ている側が痛い、辛い、直接見ていれば神経に刺さるような暴力シーンに変わってきている。
 いや、しょうがないんだけれどね。変な話だったからね。あれ。
 あの原作というのが、暗殺者って奴でして、あたしはあれ、日本語の訳が出たのが、私が大学生の頃だったと思うんですよ。そしたら、私はあんまりそういうのを読まないんだけれど、なんか先輩がね、狂喜乱舞してて、狂喜乱舞している理由というのが、別にそれが凄くいい小説だからじゃなくて、逆です。あまりにもアホな話なんで、物凄い喜んでいたんです。まさか20年後にそれが映画化されて、こういう形で見ようとは思わなかったって私は思いましたが、まあそれはいいとして。そしたらああいうことに仕上がっていたんで、だからアクション映画って奴は、侮っちゃいけないんですけれどね。
 映画というのは本質的に動きをみせるものである以上、アクション映画って奴は、動きの撮り方がどう変わってくるかと言う物をめぐる、ある目安、変化の目安になってくる物だって気はします。
 だから、今年の話というのは、概ねにおいて、そういう具合にいきます。



(続く)