佐藤亜紀明治大学公開講座第六回(2008年度第一回)(2008.5.10)[2]

個別的な存在であるはずの人間が、類にぱーっと成り下がる瞬間というのはある

 去年の後半は何をやったかというと、ちょっと古い映画を見て貰って、時間の流れの問題と、それから「顔」の問題という奴に関してあれした。今日辺りはその辺を掘り返す所から入っていくんですけれど。何なのかというと、「顔」の剥奪の問題。つまりさっき『宇宙戦争』の話をしましたけれど、『宇宙戦争』における最大の問題というのは、「顔」の剥奪の問題ということです。人間を個別な存在たらしめている、「顔」というやつ。この「顔」というのがぱっと人間の顔から消滅する瞬間がある。
 去年見ていただいたのは、フェリーの乗り場で順番を争って、乗れないかも知れない、乗りこぼれた連中が、そこでちょっと微妙に岸に押し寄せている所に、トライポッドが襲撃してくるシーンがあるんですが、そこでトライポッドが、音を鳴らすんですね。ぶおーって。あの音を鳴らした瞬間に、その場で今まで揉めていた人たち、スピルバーグはこういう人たちを撮るのが上手いんですよ。つまりどう上手いのかというと、これは『シンドラーのリスト』なんかもそうなんですけれど、そこで話している人たちの顔を、遠景でもきちんと見せる事ができる。凄く沢山の人間の中にいる、一組とか二組の会話みたいな物が、ぽろ、ぽろと耳に入ってくるように音を録っていく。その顔をあれしていくと、そこに確実に、ある「顔」をもった人間がいるなっていう、その存在感を出すのが上手いんですよ。
 『シンドラーのリスト』の場合はもっと上手くて、収容所へ入っちゃって、凄い状態になっても、これはあいつって見分けがつくと言うことをしているんですよ。これはちょっとびっくりなんですけれど。実を言うと『シンドラーのリスト』の謎はまだ解けてないんです。つまり、何故『シンドラーのリスト』っていうのは、あんなに顔を覚えやすく出来ているのか。だって白黒で凄く様式化した撮り方をしているわけですよ。ある意味じゃ昔の白黒写真みたいに。それの顔がずっと人間の意識に残っていくと言う時に、どういうトリックを使っているのかというのは、ちょっと興味のあるところですね。というか、本人に会ったら聞いてみたい。誰か、代りに会う人、聞いてみてくれないでしょうか。
 そういう「顔」というのが――襲ってくる合図で鳴らしているというのを彼らはみんな知っているわけですけれど――それを聞いた瞬間に、「顔」が無くなるのよ。全部。ファーって無くなる。もう怯えた獣みたいな顔しか無くなっちゃって、そこにあった個別的な思考みたいな奴がなくなって、ただ単に群れとして逃げ惑う。人間の状態はそこまで下落する。それを捉えた瞬間て奴。暴力による顔の剥奪と言うのは、こういう物だって話。
 『シンドラーのリスト』の時の問題を先に話しましたよね。つまり「顔」を剥奪されるということが収容所の最大の問題であるにも関わらず、スピルバーグは何故顔を撮ったのかって、やっぱり問題にされたことがあった。それに対する答えは凄く簡単でして、簡単に言ってしまえば、顔を剥奪された人たちに一つずつ顔をもう一度返してやるというのがあの映画だから。スピルバーグっていつもそんな問題映画みたいなのを撮っていて、『シンドラーのリスト』にしても『宇宙戦争』にしてもそうなんですけれど、一応娯楽映画の範囲にとどめるために、最後に凄い無理をするんですけれどね。そこの所をみると、ちぇ、ファミリームービーじゃんてついなっちゃうわけですけれど、そうも行かなくて。なんかちょっと怖い人なんですけれど。あの監督は。というか、あの監督、どんどん昔のラビみたいな顔になってきているけれど、いいんですか?あれで。インディジョーンズの予告編みたいな奴、映画館で見たら、うわあラビが喋ってるよって。
 そういう形で、簡単に言っちゃうと、個別的な存在であるはずの人間が、類にぱーっと成り下がる瞬間というのはある。これが、外側から強制的に行われることがあり得るという話です。その例として、暴力的にというのは程度の問題でして、『宇宙戦争』における顔の剥奪はある状況に強いられて、外的な暴力にさらされた結果なんですが、一方において、映画においても自主的に顔を捨てている奴ってのがいまして、その例として挙げたのは、エイゼンシュタインプロパガンダ映画『ストライキ』それから特に『10月』ね。それから、あるいはナチのニュルンベルグ大会の記録フィルムである、『意志の勝利』この二つです。二度はかけないからね。『意志の勝利』はね。シャベル部隊は馬鹿馬鹿しすぎるから。シャベルをもってこうやって閲兵する馬鹿どもが出てくるんですよ。この連中の顔つきというのが実に恐ろしい物でして、恐ろしいというのは、何もないからね。「顔」がないんですよ。顔かたちはある。顔かたちはあるし、もしかすると、地方ごとに、地域ごとに名乗っているから、その辺の典型ていうのはこういうものってリストアップされた種類の顔を挙げているのかもしれないんですけれど。そういう類として分類される以外の個別の顔という奴が何もない点では、なかなか気味の悪い場面なんですよ。
 この『意志の勝利』だとか『十月』におけるレーニンを迎える労農大衆と兵士って奴ですね。そこの場面なんかも、明らかに顔がない、ある集団になっている。一方向を目指して進んでいくために自主的に顔を失った集団の顔。つまり、特定のイデオロギーやドイツ化における顔の喪失という奴ですよね。ただこれは表裏一体のものになるというのはお分かりだと思います。つまり、エイゼンシュタインなんかのプロパガンダ映画、プロパガンダ映画の世界においては、そういう事は全くなくって、人民なりドイツ民族なりが、自らの使命に目覚めると、自ずとああいう顔になるって事になっているわけですけれども。ただ、実際問題、それが起こった時には、どのような種類の暴力的な強制があったのかっていう問題に関してはお分かりだと思いますし、実際にそれが行われたときの恐怖感というのは、『宇宙戦争』のあれとあまり変わるところがない。人間が顔を失う瞬間というのは。つまり、顔の剥奪、ようするにイデオロギー的な歴史に対して、人間が組み込まれていくことによって、個別な顔を剥奪されるという事はある。個別な顔を失って、類的な顔へ還元されていくという、その経験自体が多分暴力的な物であろうと。否応なしにそういう体制に組み込まれていく人間にとっては、つまり暴力による剥奪として経験される物だろうという話なんです。
 個別的な顔とかざっくり言ってきましたけれど、簡単に言っちゃうと、個別的な顔というのは、これは時間との関係になるんですけれど、ある固有の時間の流れによって形成されてきた顔、そしてその固有の時間の流れみたいな物ははっきり刻み込まれた顔だと言って良いと思うんです。だから、スピルバーグやなんかの場合には、ぱっと映るなりさ、もうぱっとしないオタクが、だらしない奴が二人歩いていて、ああこいつらオタクだなと思うと、なんか微妙にオタ会話やってるわけですよ。やっぱりね。そういう人も当然いるわけですが、それに対して、類的な顔というのは、そういう個別な個人的な時間の流れみたいな物を排除したときに表われる顔なんですね。いや、何もそれ、イデオロギーによるものに限られる物ではないんです。その例として見ていただいたのが、アウグスト・ザンダーの写真集であったり、それから、フェリーニの『そして船は行く』の、1914年当時らしい顔っていうんでフェリーニが役者の写真を集めて、こうやってカルタ取りやって調整したって奴。
 中にピナ・バウシュが入ってるんですよね。このピナ・バウシュの顔が実に素晴らしいんですけれど、まだあの時四十前だったでしょうか。
 ただ、この場合の類的な物に還元された顔って、必ずしも個別の時間を排除することによって成り立っているわけではないんです。それが典型のピナ・バウシュの顔で、あのピナ・バウシュの顔ってのは、勿論いかにもありそうなって言い方が出来るわけですけれども、盲目のコウジョ様でね、信じられないぐらい美しい、と言ったって、所謂美形とか萌えとかいう種類の顔じゃないけれど、美しいのね。それでそこに、今の彼女に到るまでにあった煮え煮えの経験みたいな奴がぎゅーって凝縮された顔をしてきててさ、凄い顔なわけですけれど。例えばそれをある類的なものとして提示する。あるいはアウグスト・ザンダーの場合、『20世紀の人間』という一大プロジェクトを、ライン川下流域にある、ある写真屋が企てたって所から、アウグスト・ザンダー物語ははじまるわけですけれど、色んな人間の写真を撮っている。
 自分の近所の、あるいは結構遠出して撮っているケースもありますけれど、とにかく様々な人間にそれもきちんとポーズをとってもらって、写真を撮っている。ようするに、彼は素の状態で人間がそこらにいるのを、隠し撮りして、それで何かが捉えられるとは考えていなかった。むしろきっちり彼らが自分の見せたいような顔できっちり撮ってあげましょうという人なんですよ。もともと記念写真なんかを巡回で撮っていた人ですから。そうやって様々な人間の写真を撮って、それを分類したわけですよ。ようするに、お百姓だけの一家って奴ありますけれど、これもなかなか凄い物ですけれど、それから、都市の中産階級の顔、それから、芸術家の顔、そういう形でずっと分類していって、その分類の中で彼らはそれなりにある類に分類されていくわけですけれど、その実際に撮られている顔って奴は凄いのね。それは間違いなく、ある個別の顔、その時間の流れみたいな物をきちんと凝縮した状態でもって、留めている顔です。
 で、ナチと問題を起こしまして、ナチ時代に非常に活動が難しくなっちゃった上に、スタジオが爆撃に遭って、ガラスの中ですから、ネガかなり持っていたらしいんですが、それが失われちゃったってことで、今残ってるのしかないんですが。なんでナチと揉めたか。簡単な話です。彼が20世紀の人間の顔って撮っていく時に、ナチがよしとしない顔がいっぱいあった。ナチがよしとしない顔があっただけじゃなくて、ドイツにはナチがよしとしない人間がこんなに沢山いるということがきちんと痕跡として残っちゃった。それは何かというと、例えばジプシーの楽者、ようするに芸人とか。それから障害者。ユダヤ人。こういう人たち。それから政治犯政治犯の写真て見ると、さすがに面構えが軟弱な奴から筋金入りそうな奴までいてなかなか面白いですけれど。そういう形で、ナチの類的な、ある分類みたいな奴から、こぼれちゃう奴がいっぱい入ってきた。
 実際問題として、いくらでもあるところから、沢山実例を汲み上げてきてそれを分類するのと、上からアーリア民族を、かくあるべきみたいな顔をごーんと押しつけて出てくる顔ってのは全然違いますからって話をしました。その例で挙げたのが、国防軍の募兵ポスターのモデルに選ばれちゃった、半分ユダヤ人の美青年って奴の写真を見せましたけれど。あんな分類しても分からないんだよ。ナチはきちんとしているから、これはもうこの辺の、頭の比率を測るんですね、あいつら、目の色からさ、顔かたちからさ、髪の色からさ、完璧にアーリア人だっていうお墨付きをもらったわけですよ。だからモデルになったわけですよ。にもかかわらず、彼は半分ユダヤ人だった。彼は、ようするに戦時中ユダヤ人は就職が難しくなっちゃったんで、色んな事を言いくるめて軍隊に入っている半分ユダヤ人ていう人とか、四分の一ユダヤ人ていっぱいいたわけ。その内の一人だった。めでたいことに無事に戦争を生き延びて、その本が出た時には、イスラエルでまだ元気でしたけれどね。そっちの写真も入ってました。
 そういう種類の、類的な分類、つまり19世紀の終わりから20世紀にかけての人間の顔って奴、写真を山のように見てきた結果、こういう顔を出すともうとてつもなく1914年ぽいって顔を集めてくるという行為と、あるいは様々な人間の写真をどんどんどんどん撮ってって、それを20世紀の人間を総合するっていう野心の元に分類するという行為っていうのは、言うまでもなくそれ自体がある暴力性を帯びた行為ではありますけれど。ただ、上からイデオロギー的に押しつけてきて、人間を規正していくっていうあり方とは、ちょっと違う種類の暴力性になってくるんですよね。一方で上から押しつけてくる、そこに出てくるのは、政治的な意味での顔の剥奪って奴なんですけれど。

問題は、きちんと教えられたその「基準」というのが、例えば私の持っている個別の歴史に合致しているのか。あるいはあなたが持っている、あなたが経験してきた時間の流れに照らした場合に、それが本当なのか嘘なのかということ。

 イデオロギー的な顔の剥奪というのは、何かというと、その人間が持っているある個別的な歴史性みたいな奴を、剥奪していくという事でもありますという所から、今年の話がやっと始まるわけですけれど。
 つまり政治イデオロギー的な歴史により、個別の歴史、個別の時間の流れを塗りつぶしていくという行為。これって結構あれなんでね。なんでこの話かと思うと思うけれど、面白いから言っちゃうんですけれど、私、大学に入ったときに、大学生はこれを読みなさいみたいな事を必ず新聞とかで仰せになる方がおられるでしょう。たまにさ、凄いことを書く人がいてさ、立派な先生なんだけれど。誰かは言いませんけれどね。この話、前にもしたかも知れないけれどさ、新大学生に薦める三冊って奴挙げたんですよ。それで、その新大学生に薦める三冊の中にさ、ソルジェニーツィンの『イワン・デビーソニチの一日』が入っているわけですよ。ようするに強制収容所にぶち込まれた男が、ちょっと熱っぽいんだけれど、規定の体温に足りなかったものだから、強制労働に駆り出されてさ、一日さ、極寒のシベリアでレンガ積みやってたら、それなりに楽しくなってきてさ、それで頑張ってレンガ積みをやってさ、帰ってきてさ、すんげー薄いじゃぶじゃぶのスープ食うんだけどさ、そしたらその中にさ、魚の骨が入ってて、なんかすんげーラッキーな気がしたって魚の骨をしゃぶってさ、今日も一日いいいい日だったって話なんだよ(笑)。
 これがこの先うん年続く、刑期の終わりまで続くって言う小説なんだよね。一口で言うならね。ああ、読んでください。私が雑にまとめると酷いから。
 で、それを何故新一年生に薦めると思う?
 労働の尊さを教えるためだって。(笑)
 すんごい冗談だと思ったんだけれど。どうも彼は冗談ではなかったらしいんだよね。それ。時々そういう先生方がおられるわけですよ。そうやって薦められている一冊だし、新書だからっていうんで、うちの学校はあれが生協の本屋って奴がないんで、近所の本屋に行って、買ってきて読んだんだけれど、一番最初の5ページぐらいで結構むかついて投げた。むかついて投げた理由って何なのかというと、こういう事をするように、社会的な意識に目覚めたい、目覚めた精神はこういう事をしなくてはならないっていうんでお薦めの、だいたいお薦めなんてろくなのがないわけですけれど、お薦めでしてた事って何かというと、毎日、新聞を読む。これはまあ大体みんな言うよね。毎日、新聞を読むだけじゃないですよ。その時にね、ちゃんと赤鉛筆を持つ。そして、その赤鉛筆で、新聞に何をするかと言うと、社会の進歩を示す記事には丸を、後退を示す記事にはバツをつけるっていうんです(笑)。これ、もしかしたら誰のことか分かる人が、ある世代にはいるかも知れないんだけれど、誰が書いた本なのか。
 笑うでしょう?みんな。これが笑い事じゃない人たちっていうのが、昔はいた、って話なんです。もしかすると今もどっかにいるかも知れない。で、なんで笑っちゃうのかってことについて、ちょっと考えて欲しいわけですよ。つまり我々は――凄くノンポリ化しちゃった今時の人間というのは、社会がそんな風に進歩したり後退するものだと思ってないでしょう。何かそのもうちょっと混沌とした状況の中で、状況は展開していくんだけれど、ある状況が展開して行ってるというのは、その問題は認識しているんだけれど、それが社会の進歩かどうかっていうのは誰にも分からない。社会が進歩するという問題については――また雑談で申し訳ないんですけれど。今日は本題に入らないな。
 あたしがね、生まれてこの方一番がっかりした事って何なのかというと、携帯電話なんですよ。携帯電話って、ようするに子供の頃さ、十歳ぐらいとか、中学校ぐらいの時にSF読んでるじゃん。そうするとみんなコミューターって奴でかっちょよくさ、きびきびとした会話を交わすわけですよ、内容的にね。SFだから軍事行動中だったりして、その会話は物凄くきびきびしているわけですけれども。ところがさ、実際にコミューターが出現したわけね。そうしたらそのコミューターでみんな何してるかっていうとさ、どってことないことをだべっているどころか――凄い機能なんですよ。これはね、SF作家誰も考えつかなかった。それでメールを打つって誰も考えなかったよねって話で、にも関わらず、そのメールの打ち方って、こうじゃん(笑)。もちょもちょもちょもちょ打っててさ、更にすっごいがっかりした事ってのがさ、SFなんだよ。携帯電話って。なのにさ、そこんとこにさ、スワロフスキービーズが一面に貼ってあったりさ。なにかマニキュアで絵が描いてあったりさ。それからさ、後ろの方になんか龍のステッカー貼ってあったり(笑)。
 人類ってなんなんだろうね、ってつい疑問に感じずにはいられないですけれどね。そういう事実があるんで、例えば携帯のシムロック外しが合法化されたなんてのに、丸をつけるべきか、バツをつけるべきか分からないんだよ。私、例えばそういう記事を見た時に、丸つけられるかバツつけられるかってこの中につけられる人はいないと思う。いるとしたら、なんらかの方向でもって、つまりこういう物は進歩。こういうものは社会の後退っていうのを、きちんと教えられた人たち。
 問題はきちんと教えられたその基準というのが、例えば私の持っている個別の歴史に合っているのか。それは合致しているのっていうことなんです。あるいはあなたが持っている、あなたが経験してきた時間の流れに照らした場合に、それが本当なのか嘘なのかということ。その問題性がある意味ではどこかで消えちゃっている。そういう物を教えられる時に人間というのは自分の過去という奴を全部きちんと消去、まではしないけれど、レッテル分けし直すんだよね。それで何か成立しているように見えるんだけれど、じゃあそれが素の状態で見て本当なのかというと、どうとも言えない問題があるんですよ。とにかく新聞の印付けの話はそういう話なんですけれどね。
 言っちゃったら、それが行われるとしたら、それはイデオロギー的な歴史におけるある時間の塗りつぶしが行われたという事だけ。そして丸付けろバツ付けろは馬鹿みたいだって私はその時感じたし、今では尚更感じるというのは、そういう形で個別の歴史と言う奴を公の歴史によって塗りつぶしていくと言うことが正しいことだとは全く思えない。それは一種の顔の剥奪。そして顔が剥奪されるというのは、そこにある暴力が行われて、そしてある痛みを伴っているはずだというふうに考えずにはいられない。

自分の中の時間がどんどんどんどん死に向かって流れているアッシェンバッハというのは、オテル・ド・バンという、ある、かつてあったある場所からさえ転げ落ちて、ぼろぼろになって死んでいく。それに対して、全く時間の手に触れられる事の無いタジオの顔と、そしてその周りを包んでいるその優雅な世界というのは、そのままそこに残されている

 今日持ってきたのは、実はヴィスコンティのフィルムだけだったんですけれど、別にいいよね。実は『ベニスに死す』なんですよ。『ベニスに死す』は多分、見ている人は見ていると思うし、そこで見るべき物という奴は、今言えば大体みんなどこかで見ていると思うので、今日は敢えてやらないことにしますが。二番目に言うと、ヴィスコンティって、フィルムを作っていて思ったのが、凄くストロークが長いんですよ。一つの所を切り出してくると、物凄い長さになっちゃう。それがあの映画の長い理由なんですけれど。一つはね。
 それもあって、今日持っては来たけれど、どうしようかと思っていたんで、ヴィスコンティの『ベニスに死す』を例にして何の話をしようかと思っていたかというとですね、あの映画の中に表われる、ある二つの顔と言う奴が、完全に今言ったような種類の二つの顔に分かれる。ただし、それはイデオロギー的な分類ではないんですけれど、ちょっと別の場所から入ってます。拾ってきた場所って何なのかというと、アッシェンバッハがヴェネツィアのリドの、オテル・ド・バンについて、ホテルの部屋に案内されて、夜、燕尾服に着替えて、それで飯に、一々飯を食うときに真夏のヴェネツィアであんな格好をするんですよ。それで、実際に食卓に着くとね、スープと魚って言うの。そりゃスープと魚しか食えないよ。だって、こんなん着てネクタイ締めて、夏のヴェネツィアってどうかすると東京並みに暑いからね。全然涼しくないんだよ。ただ、当時の人たちはそこでああやってたわけですよ。気分悪くなるよね。普通はね。
 それでその直前の場面。食事の前の。アッシェンバッハがそこで降りてくると、食事を待っているオテル・ド・バンの客が、ロビーでもって、てんでにアペリティフ飲みながら過ごしている。そこで新聞を取って、座って、座った状態で、新聞見てぱっと周りを見渡すと、隅の方にある家族がいる。それが物凄い可愛い女の子から、ずっと女の子が三人、それから家庭教師が一人。それをずっと撮ってって、すうっと通るんですよ。するとその時にビョルン・アンドレセンの顔が映るわけです。よく写真に出てくる、白いセーラー服を着たのはその時の写真ですけれど。それですうっとまた戻すわけです。それからまたすうっと見て、ぱっと目を留めて、それであれするんですよ。そこの所。そのシークエンスにおいて、映っているものが何なのかと言う事。皆さん、ビョルンだっていうだけなんですけれど。で、もう一つ言うとね、その瞬間によく考えて欲しいのが、ビョルン・アンドレセンがそんなに綺麗なのかどうか。よおく確認してください(笑)。
 いや、つまりヴィスコンティの演出術の問題もあるんですね。何故一番下の妹から順番に撮っているのか。一番下の妹がまず映って、その次が二番目のちょっと大きいお姉ちゃん。なかなか綺麗な顔ですよね。ただしこの顔が綺麗だという認識にはヴィスコンティの個人的なある物が凄く濃厚にある気がします。ただ、なんか凄く愛想が悪くて、目つきの胡乱な子なのね。
 それからその次に、鼻眼鏡をかけた家庭教師が映って、いや、これも美しいかというと、格別美しくはないというか、なんか、ようするに家族が順番に映ってね、下の女の子はとにかくとして、綺麗なんだけれどなにかずれているのよ。綺麗と言うには。一つずつ造作がずれている。そしてその上の一番長女。長女に到っては、多分もう10キロ痩せると、超美少女…かも、という種類の顔。その後で、完璧なビョルン・アンドレセンが映る。ようするに、家族を周りに配置することによって、ビョルン・アンドレセンの綺麗さみたいな奴をずっと際だたせてくる。もっと凄いのが、ビョルン・アンドレセンの所だけライト当ってる(笑)。光るよねそりゃ。光って見えるんじゃなくて、光ってるんだよ。しょうがないよそれ。
 決め所って言うのは何かというと、これはどちらかというと、そういうところでヴィスコンティの凄く個人的な物、個人色を見ることは非常に容易なんですけれど、お母様が、凄く遅れてから表れるのね。それがシルヴァーナ・マンガーノで、信じられないくらい綺麗なわけですよ。で、こう来て、それでこうお話をして、娘達にあれして、なんか顔色が悪いわ、夕べはしゃぎすぎたんじゃない?そんなにはしゃいでるとさ、夏休みだいなしになっちゃうわよとか言って、家庭教師に、気をつけてくださいね、とか言う。信じられないくらい綺麗なの。それでその後ろにさ、機嫌悪そうに、どってことなさそうに、ぼわーっとビョルン・アンドレセンがこうやって長椅子の後ろに座っているっていう。そういう場面。
 ようするに、お母様も含めて、微妙に、美しさからこうずれた家族と、家庭教師と、それから美しいお母様と美しい息子って奴だけきゅーっと立てるために背景にコーラスみたいに配置している。この演出のおかげで随分綺麗に見えているという問題はあると思います。顔自体に関して言うと、あれはよくある顔かも知れない。
 ちなみに、全然関係ない話をすると、『ベニスに死す』は半分くらい実話だそうで、実際問題、トーマス・マンヴェネツィアに行ったことがあって、その時にポーランド人の家族と一緒になったことがあって、そこの家の家族構成は小説にあるのと全く同じで、しかも兄ちゃんがいたってことまで、宿帳で調べた奴がいた。それで、これ、何の話で読んだんだったか。辻邦生が何かに書いていた記憶もあるんだけれど、ちょっとよく覚えてない。で、これ調べた奴、どうしたかっていうと、ワルシャワへ行って、本人を捜したんですよ。そしたら生きてた。物凄い高齢ですけれど。本当に70とか80とか。色々聞いたら、あ、はいはいはい、私はあそこへその時行って泊まりましたって所まで確認した。で、偉い作家の先生が泊まっているというのも知ってましたという。だけど、その作家の先生が物陰からこそこそ見てね、タージオとか言ってたのは知らなかった。トーマス・マンは本当にそういう癖があるんで、ボーイのこともカーテンの陰から眺めるとかね。スイスのホテル。そういう話っていうのは、ライヒラニツキの『とばりを降ろせ、愛の夜よ』っていう、もう絶版かも知れない。岩波から出てた御本に細かに書いてあるんですけれど。日記に全部ばればれで書いてあって、それが出ているらしいんで、確認がとれるわけですよ。トーマス・マンの場合は。
 それはいいとして、ただそこの所、ビョルンの撮り方がどうだらこうだらという話じゃなくて、ここで撮り方であれなのは、二つの視点がごっちゃになって出てくるわけです。この二つの視点てなんなのかというと、まず第一が三人称的なカメラ。つまり、アッシェンバッハ自身がこうやって入ってきて、座って、その背景に物凄く沢山の他の客がいるという、ある情景みたいな奴を三人称的に撮る。これは背景と思っちゃいけないんで、これ、凄く重要なんです。言っちゃったら、1900年代初頭のオテル・ド・バンとそこの客達と言う奴。
 それから途中でホテルの支配人出てきました。この支配人と言うのが、セルジオ・レオーネの『夕日のギャング達』に出てくる教授なんだけどさ。おお、教授こんな所に。それはまあいいとして。言っちゃったら1900年代のある場所におけるあれをずっと平坦に撮っていって、これ、何なのかというと、『そして船は行く』でフェリーニがやったのと非常に近い。これも映画的に、ある意味があるんです。その話は後でします。もう一つは、それをしながら、そこに映っているアッシェンバッハ自身が何を見ているかと言うこと。その対象に誰がいるのかというのを、非常にくちゃくちゃに混ぜながらやっていて、ところが不思議なことに、映画というのは、これ見てても誰も混乱しないんで、きちんと切り分けが効く物なんですよね。
 そこの、オテル・ド・バンの光景という奴は、ある階層によって再構成された場面だというふうに考えられる。これは作ったヴィスコンティ自身のことを考えた場合ですよ。そうした場合に、全体の構図というのが、美少年の事を追っかけるおじさんという構図からずれて来ちゃっている。つまり、かつて、オテル・ド・バンという場所が、ヴェネツィアにあった。今でもあるけれど。ただそれは今のオテル・ド・バンじゃなくて、あの時のあの瞬間のあのオテル・ド・バン。それがヴィスコンティがある意味じゃ、ある懐かしさをこめて語る、かつてあった社会のあり方みたいな奴というのを、非常に俯瞰的な形でぽーんと収めている。その中にアッシェンバッハもいるし、タジオもいる。そんな撮り方です。つまり、ある全体を、ある非常にフィクショナルに構成された時間の中で撮ると言うんですね。分かるかなその言い方。言っちゃったら、凄く特権的に時間のないある時間みたいな奴。今流れている時間じゃなくて、その過去のある時点で永遠に止まっちゃったまま動かないある時間みたいな奴を出現させることにまず成功している。
 そういう風に考えると、タジオという人間が、どういう位置づけで出てきているかというのは非常に分かり易い。つまり、作中でいっぺんも、原作もそうですけれど、一言もまず口をきいていないですよね。アッシェンバッハと。完全に背景に溶け込んだ中で、例えば海っ端で遊んでいたり、それからケンカしたり、お母様とお話してたり、そういう光景をひたすら覗き見るような視点で見ている。そしてその背景には常に海があり、そして常にその当時の、第一次世界大戦が始まる前の、ある幸せな世界という奴。これは結構重要な観点なんですけれど、つまり、時間上、ただ単に昔話というか、ただ単にあるファンタスティックな場面を選んだわけじゃないんですよ。ヨーロッパの人間にとって、特にあの世代の人間にとってはそういう事になっちゃうと思うんですけれど。
 それは例えばトーマス・マン自身『魔の山』を読んで頂ければ分かるんですけれど。あれ、書き出しが凄く変でしょう?どうして「私たち」という形で話を書き出さなきゃならないのか。私たちという形で書き出される小説は何篇かありますけれど、そのうちの一つです。その時に、トーマス・マンは、確か記憶を頼りに語るので、後で確認していただければと思いますが、これから語る出来事というのは、ある事件のせいで我々にとって最大級の過去だ、と言うんです。最大級の過去になっちゃった事だから、こんな風にして語るのをお許し頂きたいと言っている。そこのところ、みんなさくっと読んじゃって、意外に飛ばしちゃったりするんだけれど、最大級の過去になっちゃう理由が何と言うと、これは一番最後まで読むと分かりますけれど、『魔の山』の一番最後って、第一次世界大戦の戦場なわけですよ。泥沼の中を山の中で、七年間プータローしてたハンス・カストルプが戦場に降りていって、戦争に行ったら、何か知らないけれど、泥の中をひたすら進むだけだった、みたいな。向こうで信号灯がばーっとあがる、所謂第一次世界大戦物の映画を観るときに我々が観るようなああいう光景が広がっている。このせいで、『魔の山』って最大級の過去だっていう。
 単にヴィスコンティの『ベニスに死す』における、あのオテル・ド・バンて、そういう状態の中で想像すべきものだろうというふうに思う。ただし、これはかなり過剰解釈気味だというような言い方はしますけれどね。
 その中で、あのビョルン・アンドレセンが出てくる。ちょっと顔が長いんだよね。はっきり言って。あの瞬間綺麗なのは、彼凄く、でも、馬鹿じゃなかったなというのは、あれで引っ込んじゃって、もうそれっきり出てこないでしょう。あれは非常に賢いと思います。賢い子役ってみんなそうで、例えば『小さな恋のメロディ』ってのがあってさ、マーク・レスターっていう、やっぱり美少年というにはちょっとややかわいい系なんだけれど、男の子がいたんだけれど、その後一、二本出て、すぐそれきりで役者のキャリア終わりなんですよね。終わって、今何をしているかというと、整体士か何かになって、イギリスで幸せに暮らしているらしい。これも賢い人生の選び方だよね。なかなか出来るものじゃありません。大抵みんな老醜を晒すんだけれど。子役って。
 で、ビョルン・アンドレセンもそうだったんですが、そのビョルン・アンドレセンの顔と、それから、ようするに顔が我々ばーっと見ている中で、はっきりカメラが捉えている、観客の印象に残したがっている顔というのは、ビョルン・アンドレセンの顔と、それから当の、見る側の人間である、アッシェンバッハ。見る人間と見られる人間。この二つです。ところが映画というのは、完全な一人称カメラで撮るというのは稀なんで、必ずアッシェンバッハを演じている、ダーク・ボガードの顔も一緒に映っている。ここに一つ、非常に妙なことが起こっている。何なのかというと、それは原作通りなんですけれど、ビョルン・アンドレセンの顔というのはあまりにも平静で、あまりにも美しくて、それから若すぎるからという理由もありますけれど、あまりにも時間の無い顔なんですよ。全く何の時間も流れていないし、そしてギリシャ的なある幻想に結びつけて原作では語られていますけれど、時の流れに浸食される事のない、永遠の美の顔をしている。というか、そう見せるために随分苦心した。人間は誰も本来そんな顔はしてないからね。その為に、いかにヴィスコンティは自慰的な努力をはかっているかというのを見るというのが、まず結構あの映画の見所の一つなんですけれど。
 それに対してですよ。見ている側のアッシェンバッハの顔というのは、物凄い勢いで崩れていく。一番最後、化粧までしてもらった、その化粧を汗でだらだら流しながら階段で死んでいくという悲惨な死に方をするんですけれど、この対比って何なのかというと、時間が流れる顔と、時間が完全に止まっている顔の対比です。自分の中の時間がどんどんどんどん死に向かって流れているアッシェンバッハというのは、オテル・ド・バンという、ある、かつてあったある場所からさえ転げ落ちて、ぼろぼろになって死んでいく。それに対して、全く時間の手に触れられる事の無いタジオの顔と、そしてその周りを包んでいるその優雅な世界というのは、そのままそこに残されている。これが『ベニスに死す』という映画の、ある基本的な構造になっているんですよ。
 その時に問題になってくるのは、この場合の美しい顔とは何なのか、多分、実を言うと――すぐこういう例外論を出してくるから話がごちゃごちゃになるんですが――トーマス・マン自身は、時間の流れの無い顔だとは書いてないです。むしろ、どちらかというと、その儚さ、瞬間性みたいな物を強調している。エレベータの中で、たまたまタジオと一緒になったときに、アッシェンバッハが、この子は長生きしないだろうと思ったっていう、歯がね、ちょっと良くないんですよ。男の子。体が弱いという風に見たんです。その時に、ある美の儚さみたいな奴っていう物まで計算に入れた上で、その美しさというのをあれしていくんですけれども。『ベニスに死す』の場合は、そういうのを完全に超越しちゃった、ある非常に神秘的な存在として、その美しさをクローズ・アップする。
 で、そこからです。つまり、過去の中、回想の中にある、ある特権的な時間において、存在していた、その瞬間が永遠になったような、あるその顔みたいなもの。それが、あの映画におけるビョルン・アンドレセンの顔だと考えてください。どちらかというと、見ていて印象に残っちゃうのは、私の場合だと、ダーク・ボガードの方なんです。ダーク・ボガードの顔における、時間の流れて行き方。そして、自分でも時間が流れていくという事を意識している焦り。その焦りがある極限の所まで振り切ったときに、床屋へ行って化粧してもらうという、悪夢のような状況が生まれてくるんですけれど、あれは自分の顔の時間をもう一回止めたいという、ある非常に絶望的な悪あがきだと考えた方がいいんじゃないかとは思うんですけれどね。

また来週

 では、絵の話というのは、また来週という事にします。前振りでやっておくと、何なのかというと、ある純粋に古典的な美しい顔っていうものを描く事に、どう考えても常軌を逸した情熱を傾けていた男というのがいて、それが誰なのかというと、ドミニク・アングルなんですよ。ただ、ドミニク・アングルの場合、凄く対比になってくるのは、この前『ベルタン氏の肖像』というのを見せたでしょう。初老の小太りのおっさんが、膝を開いてどかーっと座っている、あれもある種の非常に美しい絵ではありますけれど、ただアングル自身が美しい物として意識する物というのは、ちょっと別の種類の物。それが、多分あまり画集に出てこないと思うんですけれど、『ゴードリー夫人の肖像』という奴なんですよ。これはゴードリー夫人が嫁に行く前に描いたものでして、『ゴードリー夫人の肖像』というのはちょっと妙な言い方ではあるんですが。これは来週お見せします。見たこともないような顔です。どう見たこともないのかというと、完全に左右対称なんだわ。本当にこんな顔してたのっていうんですけど、もう一つ別の画家が描いた顔の写真を見ると、概ねにおいはそうなんだけれど、完全にそういう顔にはなってないです。言っちゃったら、時間を超越した永遠の完璧な顔と考えたときに、アングルはいかに不自然な事をやらかすかという話なんです。
 その辺から持って行って、それから、予告編で言っておくね。これもあまり皆さん、画集に載ってたのを見たことがないとおもうんだけれど、アングルが1854年にパリ市庁舎の天井に描いた、ナポレオンの絵というのがあるんですよ。これもあり得ないナポレオンの絵を描くんですよ。どうしてあり得ないのかというと、ナポレオンが素っ裸なんです。時々あるんですよね。一応パリへ行くと、ルーブルへとりあえず行ってお参りしてくるのが、ウードの作ったヴォルテールの肖像というのがルーブルにあって、それも一応拝みに行くんだけれど、拝みに行く度に、なんか凄く困惑にかられて。どうして困惑にかられるかって言うと、もうだいぶ歳をとって、物凄いじいさんになった後のヴォルテールなんですよ。カツラをかぶってなくて、髪の毛こうやってぽしょぽしょでさ、みんなかつらの**したってさ、きちんと剃らないであのぐらい伸ばしてたんだなっていう塩梅で、それもだいぶ寂しい感じになっててさ。それでこうやって立っているわけさ。素っ裸なんだよ(笑)。素っ裸のヴォルテールってあり得ないじゃないと思うんだけれど。ただある理想に基づいて、ヴォルテールは素っ裸じゃなきゃならないと考えた人がいるわけです。
 で、エマニュエル・シュミットだったかな。フランスの物書きで、ディドロで博士論文を書いた奴が、リベルタンという戯曲を書いてまして、それ、その後で自分で映画化してて、それもなかなか笑えるんですが、日本未公開でね。その中に、女の絵描きがまず肖像画を描かせて欲しいってディドロの所に言ってきたんで、ディドロが、ようするに、女房の目を盗んで、一室に二人で閉じこもって、肖像画を描かせるって話をして、その時に、「脱がなくていい?脱がなくていい?」って(笑)。で、彼女は「別に脱いで貰わなくてもいいんですどねー」って言って、「そうかな。哲学って真っ裸であるべきだと思う」って(笑)。
 映画版撮ったときに、本当に、ごめんね。俳優の名前忘れちゃったんだけれど、インドシナなんかに出た美男子俳優が、ディドロの役をやって、ディドロはこんなに美男子じゃないって私は思ったけど、それが文字通り全裸でもって、そこらの庭園を走り回るっていう絶景が拝める、もうどうしようもない映画なんですけれど、ただ物としてはちょっと良い感じに仕上がってました。
 フランスのパルが見られる人だったら、私持ってますから、言ってください。お貸しします。ただし、字幕はないです。
 だから、アングルが描くとナポレオンまで素っ裸になっちゃうんですよ。なんでそんな無茶なことをするんだろうって話から、ただその絵が持っている機能、これはパリ市庁舎の天井に描かれて、今は失われちゃってます。だから完成品がないんで、画集に載らないという問題はあるんです。パリ・コミューンの時に焼けちゃったんですよ。
 それのエスキスというか、下書きみたいな奴は残ってて、ちょっとそれをお見せして、その後で歴史画っていうもの。歴史における永遠みたいなものを考えたときに、作り手がいかに無茶苦茶な事を始めるかっていう事と、それから歴史と顔という問題に関して、来週入っていければなと思ってます。



講師:佐藤亜紀

原稿起こし:ぷりぷりざえもん

2008.5.10 明治大学にて行われた講義より。

※この原稿は、講師のチェックを受けていません。ぷりぷりざえもんが許可を得て個人的に録音し原稿に起こしたものです。

※いつものように、ミス、抜け、聞き取れなかった部分のフォローよろしく!



かずめさん情報。

ところで講義で触れていました、『ベニスに死す』の少年一家のモデルになった人々についての文章が、プロジェクト杉田玄白に掲載されてました。(「協賛作品」という扱いですが)
ご参考までに。

真実のタジョ----『ヴェニスに死す』を生んだ少年----
ギルバート・アデア著 
清水 眞理子 訳
http://www.geocities.jp/sstst716/translation/the-real-tadzio.html<<