佐藤亜紀明治大学公開講座第八回(2008年度第三回)[1]

「国民」――ギゾーの定義

近代以降の――ここでは1789年以降だというふうに申し上げますけれど――国家において、国家と国民の関係がどのようであるのか。多少史料をあたってみたんですよ。つまり、「国民」という言葉はどのように定義されてきたのか。フランス語の辞書をあたってみたんですけれど、1822年に、フランスでギゾーという人が、あるフランス語の定義を書きました。彼は、”peuple”それから”nation”この二つの概念がどう違うかという事について、きちんと定義をしているんです。
”peuple”というのは「人々」。英語では"people"ですよね。ただし、ここでは政治的な意味できちんととられています。ギゾーの定義によると、「同一の国家の境界線の内部に住んでいて、同一の法律に服している人々」。これを”peuple”と呼びます。では、”nation”というのは、それとは違うのでしょうか。
ギゾーははっきり違うというんです。二つの点では同じです。「ある国家、ある主権に統括されているとされる領域内に住んでいる」。そして、「その主権が定めている法律に服して暮らしている」。”nation”――「国民」――の場合、その他にもう一つ入ってくるのが、「同じ出自――"origin"――を共有している人々」。
出自の問題というのがただの「人々」と「国民」という二つの言葉を――”peuple”というのはあるいは「人民」と訳すべきかも知れませんが――画然と画しているある概念だと、少なくとも1822年に、とある政治家が捉えた。この事をちょっと覚えておいて欲しいんですよ。

フランス革命前夜、ルソーなどを読んだ人は、ほんの少しだった

何故、「1789年以降の世界」と、私が言ったのかは、格別世界史をとっておいででない方でもお分かりだと思います。この時、ある決定的な歴史的事件が起こりました。フランス革命と言われる事件です。
フランス人の場合は、それ以前と以降という事で、そこに一本、線をぴーっと引きたくなるわけです。実際には、ある事件によって人間の考え方が、今日と明日で劇的に完全に変わるなどという事は、あまりあり得ない事だとはお断りしておきます。そこには随分長い積み重ねという問題がありますので。
「1879年に」とか、「1822年に」とか言いましたけれど、私は実は年代の問題というのをそれほど真剣に捉えているわけではありません。あるいは、それほど真剣に捉える必要はないのかも知れないと考えていると言うことはお断りしておきます。
アメリカの歴史家で、ロバート・ダーントンという人がいます。後で、外国人が余所の国の歴史を研究する事にはどういう意味があるのかという点に少し触れるかも知れませんが、このロバート・ダーントンという人、とにかくアナール学派的な傾向の入った、実証主義の鬼だと考えてください。
アメリカの研究機関の研究のさせ方というのも面白いんですけれど、どこかの財団などから、まず予算をぶんどって来て――これはアメリカの学者はよくやっています。日本でももしかするとやるかも知れないけれど、あまり聞いたことはないですよね。アメリカには、一年あるいはそれ以上において、研究の対象となる国に行って、古文書館を這いずり回っている学者というのがいるんですよ。
これはびっくりでしょう?少しオールドタイプなのかも知れませんけれど。今はもう少しテクノクラート的な方法論でさくさくっとやる方が流行りかも知れません。
ロバート・ダーントンは、もともとそういう史料を集める人なんですが、この間、割合新しく訳が出た本で何をやったかというと、あちこちの図書館に行って、フランス革命前夜の貸本屋の目録をあさったんです。
ダーントンの専門は、一応、フランス革命です。あるいは、フランス革命の思想的な背景を専門にしている人で、例えば、『パリのメスマー』とか、そういう本の訳が出ていると思います。もしかすると絶版かも知れませんけれど、読んで損はないので、読んでみてください。これは凄く面白いです。
彼は、古文書館や図書館へ行って貸本屋の目録をあさって、統計をとり、本の名前をだーっとひっぱってくるわけです。そして、どの本がどのぐらい読まれていたのかという事を調べました。これは最初に、ある仮説があるから、図書館に行ってそれを調べるわけです。
世界史をとった人だったらお分かりだと思いますが、「フランス革命を引き起こしたのは、啓蒙的な哲学、思想である」という、ある「言葉」があるわけです。「言葉」としか言ってみようがないんですよ。
教科書的には、「このような形でフランス革命は準備された」と平気で書くわけですが、それは本当かどうかという話です。つまり、フランス革命は本当にこのように準備されたのか。そして、例えば実際にバスチーユの襲撃などが起こった時に、人々は皆、その思想の事を意識していて、その思想に従って動いたのかどうか。その思想で約束されていたような未来が、本当に来ると思っていたのかどうか。
これを検証するために一番簡単なのは、そういう本――具体的に言えば、ルソーであるとか、モンテスキューであるとか、その辺り。政治的な面からもう少し微妙にずれた所で活動していた人たち(だと私は思っていますけれど)である、ヴォルテールディドロ――がどのくらい読まれていたかを調べる事です。ダーントンは、社会変革を論じた著作が、どのぐらい読まれていて、そして読まれる事によって、どのぐらい浸透していたかという問題を検証するために、貸本屋の目録を調べたわけです。
ところが、恐ろしい話なのだけれど、ほとんど読まれていないと言うことがわかってしまいました。少なくとも貸本屋のリストには出てこない。集められるだけの物は集めてみたので、とりあえず漏れはないと思うけれど、貸本屋の、継続的に何月に何の本が入って、何冊貸し出しが出て、という記録その物があまり残っていないというんです。数が非常に少ない。従って、残念ながら統計的な有意性のある結論だとは言えないからという事情で、それ以上の追究は、とりあえず諦めるんですけれど。
ただ、理屈としては、そういう教科書的な書き方で言われているところの、フランス革命を準備したと言われる思想書は、ほとんど誰も読んでいない。では代わりに何が読まれていたか。特に革命前夜、直前に何が読まれていたのか。
ポルノグラフィなんです。革命史をご存じの方はお分かりだと思いますけれど、特にマリー・アントワネットねたのポルノグラフィが、物凄い数、流布していた。
これは非常によく読まれているわけです。他にも色々あるわけです。タイトルが出ただけで、結構にやっと笑える奴というのが。
長谷川哲也『ナポレオン〜獅子の時代〜』を読んでいたら、ナポレオンが何故か本屋の店員していたんです。もしかするとそういう記述が一行ぐらいあったかも知れないけれど、ナポレオンが前掛けして本屋の店員していると思わなかったから、結構びびったんですけれど。その時に、それもあまりないことだと思うんですが、まだ上司と手下の関係になる前のミュラが本屋にやってきまして、そして『哲学女テレーズ』はあるかって聞くというところがあって。どうしてそこでそういうタイトルの本が出てくるんだろう。
この『哲学女テレーズ』という本の現物は見たことがないんですけれど、多分図書館かなにかで探せばあるでしょう。おそらく復刻版もあるし、あるいは家にあるかも知れない。フランスで、一冊叢書みたいなのを出しているシリーズがありましてね、色々な物がそれで揃えられて非常に幸せなんですけれど、その中に、その類の18世紀のエロばっかり集めた一冊というのがありまして、ソレロスなんかが書いている、ビバッドド(?)のポルノグラフィなども、確かその中に入っています。メジャーな奴が5本ぐらい入っているといるという物があって、あの中に入っていたかな。とにかく非常に有名なエロ本なんですよ。
そういう物は読まれていた、というか、読まれていたという形跡はたどる事が出来る。しかし、具体的にルソーなどが読まれていた痕跡を追究することは出来ない。そうするとこの啓蒙思想フランス革命の間の関係を実証的にあとづける事が可能なのかどうかという話になってくるわけです。
色々なやり方はあり得ますが、少なくとも実際に多くの人に読まれていたという検証は出来ませんでした。ただし、そこで一つ二つ、色々な留保が入るわけです。つまり、実際に買われた痕跡がない、あるいは借りられた痕跡がない、あるいはそこから先になるとこれは事実上追究は不可能な事になりますけれど、当時の人たちの書簡のようなものが山のように出てきたとして、その中で語られていた痕跡がない、などという事になってくると、じゃあどうやって、という話になってきます。革命以後の政治的な動きと、その思想的な物の間に明らかに存在する繋がりをどう説明するのか。
その時に出てくるのが、フィルター理論という物です。つまり、本当にルソーなどを読んだ人は、ほんの少しだった。しかし、その人達が何か書いたり読んだり、それこそ当時食い詰めるとみんなポルノグラフィーを書いているので、ポルノグラフィーなどを書く時に、少しずつそうした読んできた思想を入れる。そしてそれを一般の他の人たちが読んだ時に、それが断片として、更にずっと入っていく。これがフィルター理論です。つまり、原典を読んだことはないのに、なんとなく知っているという人がいっぱいいた。
しかし、これは残念ながらあとづけは不可能なんです。実際には、ダーントンが出した結論は、もっと空恐ろしい代物でした。けれど検証が出来ないからというので、一応投げてストップしてきた。真面目な、立派な歴史家の態度ですけれどね。そうすると、一体何が起こったのかという問題について考えなければなりません。
人間の集団が、ある一定の動き方をする。その時に、ある決定的な歴史的事件が起こる。その決定的な日付によって我々はその事件の全体を覚えているわけだけれども、そこにはおそらく因果関係をきっちりあとづけする史料さえ残らないような、もっと非常に漠然とした、ある動きみたいなものがあって、結果的にそれがその瞬間に吹き出してきて形を取るだけなのではないか。
歴史における年代や日付の事を、私はあまり真面目に取りませんと言った理由の一つがこれです。起こることは起こるんですが、その日に起こらなかった理由も、その人物たちによって起こらなかった理由も、本当はないんじゃないか。これはこの次に『地中海』の話をする時に少しまた触れる事になると思います。
ただ、ある微妙な気分みたいな物、何かを求める、ある気持ちみたいな物が、一斉に出来事を引き起こす瞬間が、歴史的には幾つもあるということです。きっちりきっちり仕組んで、登場人物は誰と誰と誰で、この時この人はこういうふうにやって、こうなったらこうなった、というのが事件史的な言い方になりますけれど、実はこういう出来事は、そうした漠然たる動きの上にぽちゃんと一つ立った波みたいな物なんじゃないのか。

(マイクの事について)なんかずっとカラオケしてるみたいで嫌なんだよね。腕疲れるし。こっち(ピンマイク)にしましょうか。
マイクをどこにつけるかというのは難しい問題で、一回だけNHKのテレビに出たんですけれど、NHKのスタジオに入ったら、物凄く渋いおじさんがやってきて、3種類か4種類、各種マイクを出して「どれにしましょうかね」とか言って。物凄いプロなんですよ彼らは。
それでもやっぱり私、テレビを見てると凄く気になっちゃう事がありまして。男の人はいいんです。スーツのこの襟の所に付ければ、大体それで済むわけで。こういう箱があるんですが、ポケットもあるし、どこにでもそれを入れられるから。
辛そうだなと思うのが女の人で、特に軽装の女の人。いや男の人もそうなんですけれど、どうするかというと、例えばTシャツなんか着てると、ここにマイクを挟むでしょう。よく襟の所とかついてますよね。で、その紐が、Tシャツの中に入ってるでしょう。あれを見る度に私、Tシャツの下をマイクの線が走っている感触というのを想像して、あー嫌だって思っちゃう。でも、うん。実際にはそういう不快感は全く無いように、きちんと綺麗に付けてくれました。何事にもプロというのはいるものです。

旧制度における君主の最大の美徳は、動かないこと

では、ちょっとこの前の復習みたいな話からしましょう。絵をなんで持ってくるのか。絵なんて何も証明しないよって言ってしまえばそれまでなんですが、今言ったような、時代が動いてくるある雰囲気みたいな物を、一番的確に捉まえてくるのは、必ずしも歴史的な事実じゃなくて、結局、その時に作られた物だと言うことになるんです。

まず、『ユリエールの占領』(The Capture of Juliers)ですね。この前見ました。確かルーベンス。この前のこの絵についての説明は覚えておいでかと思いますが、要するにアンシャン・レジームにおける、ある歴史のあり方の、非常に典型的な何かを示している絵です。つまり、この街が陥落した記念に書かれた絵で、それは歴史上の一つの業績ですよね。その時に、君主がどのように描かれているのかを注意して見てください。つまり、この歴史における登場人物であり、むしろ主要な主人公の一人である、ある女性の事をそこで描いている。背景に街が描いてあります。軍隊も描いてありますよね。そして、彼女が馬に乗っている。その事によって、この絵画が何を表そうとしているのか。
言うなれば、非常に典型的な、アンシャン・レジームにおける君主、つまりある国家の指導者のイメージの像だという風に考えて頂いて構わないと思うんですけれど。
まず見て頂きたいのは、少し横を向いて足を上げていますけれど、これは馬の姿を美しく見せるための、ある工夫であって、実際問題としては、足を軽く上げて描いただけで、まったく動いていない。凄く安定した構図です。その鞍の上に、女乗りになっているのは分かりますよね。こちら側の足の膝が、ここに来ています。
つまり、馬に足を開いて跨るというのは、非常に行儀の悪い事だとされていた時代がございまして、女性は馬に乗るときには特別な鞍を作りました。多分そういう鞍を使っていると考えた方がいいでしょう。でも、あの鞍も一体どの辺から来て、どの辺まで存在したのかというのもあれですけれどね。
簡単に言うと、鞍の上に斜め座りをするんです。斜め座りをして、右脚を下におろして普通に鐙をはいて、左足はここに突起がありまして、ここの所にかけるんですね。その姿勢で駆け足でも何でもするんで、恐ろしい物なんですけれど、実際に経験した人によると、実は女乗りの鞍というのは、障害を越える時にこれほど良い物はないという話です。ありかよ、と思うんですけれど、両足で跨っている状態よりも、前にバランスを失って体が崩れそうになった時に立て直しが速いって言うんですよ。世の中色々な物があります。
それで、上体のあり方なども含めて、非常にどっしりした形で座っている。こういう絵の見方という物、もし興味がおありでしたら、覚えておいてください。
こういうあり方というのが、結局何なのかと言えば、ある意味ではイデオロギー的な物を、この構図や描き方や、それから色彩によって与えられる重量感みたいな物が、全部語っている事ってあるわけです。彼女のあり方というのは、明らかにそういう、非常なイデオロギー性を帯びたある安定感なわけです。だから、彼女自身は全く動かない。
それはそうです。古い体制における君主は、自分自身がくらくら動いたり、さあこっちだ、さああっちだ、と人を引きずり回す物じゃない。ここの所で、きちんと馬の上に座って、姿を常に現しながら、ある歴史的な出来事を、経験していくと言うよりは、自分自身によって動かしていく。実際には色々な人間を使います。
実際こういう旧制度における君主の最大の美徳は、頭が切れる事でも世の中が分かることでもなく、動かないことなんです。それは何故か。下の人間が――つまりこのぐらいの頃になってくると、社会の構造というのはかなり複雑化してきています。その複雑な物事を、一人で全部仕切るなどということはとても出来ない。従って、戦争をする時には、戦争の事は軍事の専門家に任せざるを得ない。特に女性であった場合にはそう。そして、既にこの時代には、経済の事に関しては、経済の専門家に任せざるを得ない状況になってきています。治安の維持などの問題に関してもそれぞれ専門家の言うことを聞かなくてはならない。外交に関する情報などといえば格段に量が増えてきます。
19世紀の末ぐらいから、イギリスの外交官というか、外務関係の問題に携わる人間の桁が、ごーんと増える瞬間があるという話をニコルソンが『外交』という本に記しています。
実際そこまでではないにせよ、そういう形で、ある程度複雑化してきた社会においては、外交などに関しても専門家が携わる必要があります。つまり、君主の下には沢山の専門家がいて、君主はその示唆を聞いた上で、ではそれはあんたに任せるからそういうふうにやって、という話をせざるを得なくなる。それさえ難しくなってくると、所謂宰相を作ります。つまり、その問題に関して、判断力のある人物、そして抑えの聞く人物を一人任命して、その下の専門家達を統括させるという構造になってきます。
そこから先が問題です。その時、安定しているという事が、いかに美徳であるか。
やはり人間というのは、なまじ利口であって、色々な事を耳打ちされた場合、ぐらぐら動くわけですよ。上がぐらぐら動いてしまうと、下は物凄く困るわけです。従って、安定して動かないと言うことは、旧体制における君主の一番の美徳であるわけです。
この話は多分、メッテルニヒの話を書く事になれば――微妙に再浮上してきたんですが――徹底してあれすることになるでしょう。メッテルニヒの上司のフランツ一世というのはとにかく最低だと、宰相として仕えたことのある人はみんな言うんです。何が最低なのか。つまり、これこれこうですから、今こういう風にしなければなりません。ご決断をお願いします、と宰相が、毎日毎日通って、二時間三時間四時間と喋って、やっと説得するわけです。
いや、もう時間がないんだけれど、急いでこの手続きだけ打たなきゃ、と思って、五分離れた隙に、誰か別の奴が寄って行って耳打ちすると、もう気が変わっている。これにみんな、本当に悩まされるんです。
逆に言えば、マリア・テレジアなど、つまり所謂ハプスブルク家の女どもの美徳というのは何なのかと言えば、鈍感と頑固。梃子でも動かない。この梃子でも動かないという性質は、実はなかなか出てきづらい。ハプスブルク家の女の子というか、マリア・テレジアも娘達も、平素を見ていると、ただの馬鹿姉ですよ。どう考えても凄く軽薄だし、なんかちゃらちゃらしているわけです。しかし、そこで何か起こると、いきなりとてつもない腰の据え方を発揮するのがあの女どもで、マリア・テレジアははっきり言って、その腰の重さだけで、「あの」マリア・テレジアという名前を築いた女だと考えられます。
彼女は、例えばエカテリーナ二世などに比べれば、格段に頭が悪いし、統治の技術も知らない上に座っている女だと言ってしまえばそれまでなんです。だけど、例えばオーストリア継承戦争の時に、話が面倒くさいことになってくると、これは亭主に――この亭主の話からして凄くて、マリア・テレジアが5歳だった時の話です。その時、後に亭主になるロレーヌ公は、ウィーンの休廷で小姓勤めをしていました。その11歳の男の子を、5歳の幼女が見たわけです。それで、もう「超素敵!」と思って、「あたしあの人のお嫁さんになる」と言った。
5歳とは言え、ハプスブルク家の跡取り娘ですからね。可哀想に、そこから先の意志は彼にはないんですよ。そのまま亭主にしてしまうわけです。しかも彼は、婿になるための交換条件として、自分の領地を手放したんですよ。それで、アルザス・ロレーヌというのはフランス領になりました。これも後で触れる話と関係がありますけれど。
それで、亭主としてはある種義務はあると思うじゃないですか。例えばオーストリア継承戦争で女房がかっかかっかして、絶対にプロイセン討つべし、っていうポジションを取ると、彼女は動かないわけです。あの土地はあたしの物だから絶対に渡さない、と。
でも、どう考えても、算盤はじくとそろそろ赤になりつつある。亭主は割合そこの所敏感な男で、「もうさ、そろそろやめてもいいんじゃない?あれはやっちゃおうよ」と言ったら、女房がどのくらい怒ったか。「あんたは黙ってなさい!」って本当に言ったらしいですよ。何しろこの有様なので、他の誰がどう口を出したって絶対に動きません。
ところが、「あんたは黙ってなさい!」って言うんだけれど、その後亭主の所に行って「あたしの子ネズミちゃん」(笑)。それとそれは全然別の事なわけです。それどころか、亭主は、そういう寂しい人生を送ってきてたから、古銭とかそういう物を山のように集めてて、その凄いコレクションがウィーンに行くとまだあるわけです。一度見るといいですよ。立派なコレクターだと言うことが分かりますし、この男としての度量って凄いって思うわけですが。
それで、人生寂しいから、素晴らしく綺麗な女っていうのが宮廷にいましてね。ナイペルク伯爵夫人というんですけれど。ナポレオン戦争関係が好きな方がおられたら、ナイペルク伯爵夫人と言ったら、ああ、あのナイペルクの身内?って言うと思います。後にマリー・ルイーズの亭主になる男の身内ですね。要するに、美男美女系の家だと考えていいわけですが。それで、ナイペルク伯爵夫人の事が好きだ、ってなった時に、もうばればれになっちゃったんですが――だって、隠すの無理ですよね――そうしたら、マリア・テレジアは、別に何も言わなかった。それどころか、関係は放置した上で、週に一回ずつ三人で一緒にご飯を食べた。なんかこう、男女の関係って凄く嫌だねって若い人は思ったと思いますが、まあそんな物なんですよ。
何の話だったかというと、いわゆるその動かない姿勢という奴、それを絵画でどう表現していくか。こうじゃなくてはいけない。彼女の周りで全てが動いていく。それを表しているのが、例えばこちらの人物であり、そちらの翼のある人物です。特にこの翼のある人物に注目してください。片手に月桂樹の冠を持って、この不動の姿勢を保って動かない女性に対して、それを捧げている。
いわば、あるタイミングみたいな物。ある運命みたいな物。ある宿命みたいな物を――ニケだと思いますけれど――配する事によって、彼女が特別な、当然のことながら恵まれるべき幸運に恵まれた女性であるということを表現している。かつて君主という物はこういう風に認識されていたんだと考えてください。

近代以前において、人民が何人であるのかは、政治には関係がなかった

先ほど、「人民」と「国民」の違いについてのギゾーの定義についてお話しましたが、それはここに関係のある話です。つまり、「ある一定の領域に住んで、そこの法律に従っている人間」と定義した場合には、これは非常に古い国家における人間のあり方だと考えられますが、そこで、人民が国家に対してどういう権利を持っているのかということは、全く触れられることがありません。
それどころか、さっきアルザス・ロレーヌを手放して交換したという話をしましたけれど、それと同じ理由で、例えば一般の人民がある村に住んでいます。それで、土地が割譲されてしまうと、翌日からは違う国の人間になってるんですよ。当時は。
これが後の時代と、どちらが良いかというのは、すごく微妙な問題です。現代史において、こういう形で土地が割譲された場合には、ほぼ確実に、今まで住んでいた場所を出て行くことになります。今日からこの国はここになったんだから、例えばポーランドになったんだから、このポーランド領に住んでいるドイツ人は全部出て行けという話になってくるんですよね。実際それに近いことをやられて、遺族会みたいなのが、今でもズデーデンの土地で怒ってますけれど。あるいは日本のことを考えても、北方領土がロシア領になった時に、そこを追われてきた人たちがいる、あるいはサハリンから追われてきた人たちというのがいることを考えてください。
これが、つまり今日言うところの、1979年以降の国家のあり方ですが、それ以前においては、そういう意味で、人民というのが何人であるのか、という認識は、上の方さえ持っていない。政治には関係ないんです。簡単に言えば、会社が、子会社を手放して別の会社に売却したみたいな感じです。経営者が変わっても、そこで働いている人間にはあまり関係がない。もっと凄いのは、実は生活さえ何一つ変わらない事です。実例をあげますと、オーストリア継承戦争の時に、最終的な解決の際に、プロイセン側に渡った領地に住んでいた人たちというのがいます。その時、プロイセンは、その土地を管轄する専門の役所を作りました。今までの役所では対応ができないからです。行政体系が違うからです。でも、行政体系は変えないんですよ。そこの人間たちが今まで作らしてきたのと同じ法律の体系を守るために、特別な役所を作って、そしてそこに人を据えるというやり方をしました。この時にそれで出てきのが、ハルデンベルクという人なんですが、それはまた別の話。



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