佐藤亜紀明治大学公開講座第八回(2008年度第三回)[2]

所謂国民の指導者、そのイメージ


多分これが出るだろうと、分かっていた人はいると思いますが、『アルプス越えのナポレオン』です。さっきの絵とこの絵の、非常に大きな違い。その話はこの前もしましたけれど、もう少し強調しておきます。さっきの絵では、こうして前脚の片側を上げた状態の、割合ダイナミズムのない姿で描かれています。騎馬像などでは時々あるわけですけれども。それに対して、こちらは馬が後ろ足で立ち上がった状態にある。この状態を考えてください。馬の表情も全然違うでしょう。さっきの馬が非常におとなしい――横を向いているけれど、別段気が荒れた様子も何もないのに対して、この馬の、はやって、もっと先に行きたくて仕方なくて、興奮のあまり後ろ脚で立ち上がっている、その姿。そしてこの馬の目。馬のたてがみはどっちの方に流れているか。強烈な風が後ろで吹いている。つまり追い風の状態です。そうしてそこに跨っている一人の男。
ある人間たちの指導者がこういう形で描かれるとすれば、そこに起こった、ある非常に大きな変化は明々白々だと思うわけです。強いて言うならば、我々が「歴史」というときに想像するであろうダイナミズムを、はじめて獲得した瞬間がここに現れていると考えていい。たかが絵なんですけれど、それがどれくらい多くの事を、それが描かれた時代について語るかということを、これを見た時には思い出して欲しいわけです。
まあ、ね。いくらなんでもと思うわけですけれど。よくよく見ると、かなり馬鹿馬鹿しい。でも、これ、毎度見ちゃうんですよ。ダヴィッドの凄く嫌な所ってそれで、ようするに『300』、あのアホ映画の元絵になってしまった『テルモピュレーのレオニダス』とか、『ナポレオンの戴冠』とかって、超馬鹿、とか書くわけだけれど、行くとやっぱり、ついこう佇んで見てしまうんですよね。やはりそれだけの凄さのある画家です。
ダヴィッドに関して言うと、凄く情けない話ですけれど、見ながら、一度泣いた事があります。『マラーの死』を見た時です。あれはちょっと凄い絵です。何かちょっとね…。どう言ってみようもない。現物を見ると――いや、画集で見て頂いてもいいんですけれど、やはり現物を見ると、全然違う種類の要素が入ってくるもので、特にマチエールですね。ご存知の通り、『マラーの死』は未完成の絵ですけれど、それにも関わらず、一人の人間が死ぬという事に関して、これだけの物をこめられる絵描きというのは、どういう絵描きなんだと思ったことがあります。だからダヴィッドは、間違いなく凄まじい絵描きなんです。ただ、これちょっとうざいので消します。だから、私もダヴィッドに関して非常に微妙なものがあるんですよ。好きなのか嫌いなのかと言われると、凄く微妙。
さて、この絵において劇的に変わったのは何かというと、まず、歴史という物の認識の中に、我々がダイナミズムを認めた瞬間はどこにあったかという、その問題。その瞬間に、歴史の主体その物が変わっちゃうわけです。今度は歴史の主体という話になります。
『ユリエールの占領』などの場合に認識されていた歴史の主体は、あくまで一個の君主です。

あるいは、こっち(「ブレダ開城」)を見せてもいいんですけれど、この絵画に描かれている、ある歴史的事件における主体は、この、明らかに非常に高位の指揮官である、二人の人物です。それから後ろの方にも何人か描かれています。多分これは、集団肖像画になっていると思いますけれども、こういう人物たちとして描くことが出来た時代というのがあった。つまり、あくまでその場合の「歴史」を動かして行く、あるいは歴史的な事件を語るときに登場してくる人物たちというのは、君主か貴族だった。そこでは、人民がその国家の領域の中に住んで、その法に服しているという問題は、凄く後方に退いてしまい、それが歴史の主体だと言われたら、多分17世紀の人間はみんな腰が抜けたわけです。そんなことはあり得ない。だって、あの連中、土地と一緒に全部他所の国に行くんだぜって、そういう考え方。それが、劇的に変わった瞬間というのが、フランス革命であり、その後でそれがひどく軍事的な、攻撃的な色彩を帯びてくるのが革命戦争からナポレオン戦争にかけてからなんですね。
そこで起こるのは、人民の、国家に対する組み込みという物です。この、人民を国家に対して組み込んで、国民として組織するという動作のことを、この間からしつこく動員と言っているわけです。
この絵(『アルプス越えのナポレオン』)の感じ、よく覚えておいてください。歴史というのが一体何なのか。どういう風に認識されていたのかという問題に関してですね。
凄く抽象的でしょう?まず、これがナポレオンに似ているかと言えば、まあ、似てない事もないけれど、似てないよって事になってしまう。二番目に、この状況はあり得るかということになると、多分私、このマントを着て、この強風の中で、こんな峠道を馬に乗って行くのはナポレオンだって嫌がったと思っていますし、史実によると、この時使ったのは、馬ではなく、ましてや白馬ではなく、ロバだったと言われています。賢明な選択です。ロバで十分なわけで、こんな所を駆け足で抜けて行く必要は格別ないわけですから。そういう意味では、リアリティというのは全くないわけです。 リアリティがないとすると、この絵にある物は何なのかというと、ある象徴性なわけです。一番それを示しているのが、ナポレオンの上げられた右手。そして彼方を指している、その指。その動作。それから背景です。
背景に注目して下さい。さっきの『ユリエールの占領』で、少し煙が立って陰っていた以外は、空は凄く綺麗に青く澄んでいた事を覚えてらっしゃると思います。つまり非常に穏やかな天気であったのに対して、こちらは明らかに凄まじい暗雲が立ち込めていて、ただ、風が強いものですから、そこここに青空が見えて、非常に混沌としている。そして荒れ模様ですよね。
しかもこれ、馬の尻がこっちを向いているでしょう?この絵画を見ている人間を、後ろに従えて「あっちだ」と指をさしているんです。簡単に言えばね。
それも凄く違っています。ナポレオンは向こうを向いているでしょう?それで、見ている人間は馬の尻の方にいることになっています。そしてその見ている人間に向かって振り返り、向こう側を指さしています。それに対して、『ユリエール開城』の方は、馬に乗った女性は、こちらを向いて、なんとなく普通に、肖像画的ににこっと微笑んだ状態で綺麗に馬に乗って、そしてこうやって全く動かず、後ろの方で戦争をやっているんです。
ここで、見る人間との間に作られる関係が、『ユリエール開城』と『アルプス越えのナポレオン』では全然違う事はお分かりになりますよね。君主を描いた絵に向き合う人間と、それからその君主ないしは指導者との間の関係は劇的に変わってきます。
かつて君主というのは、我々の側を向いて我々を支配している事を、全く当たり前のように、穏やかな態度で示している存在でした。それに対して、ここに描かれているナポレオンは、我々の事を、なんと恐ろしいことに、どこかへ導いて行こうとしています。この後ろの方に、大砲を動かしている兵隊の絵が描いてありますけれど、こういう人たちと一緒になって、この絵を見る人間が行くべき場所を彼は示している。この荒れた天候の中を、激しい峠道の中を。
つまり、我々が言う所の、所謂国民の指導者という物。そのイメージがここに出現している。この時に、ではその「歴史」における主役は誰なの?と言ったら、ナポレオンです、とは必ずしも言えません。勿論ナポレオンは我々の指導者です。だけど、ナポレオンが一人で馬に乗って、一人で向こうへ走って行ったって、何が起こるわけでもありません。後ろを我々がついて行かなければならない。我々はこの指導者の指さす方へ向かって、一丸となって進んで行かなければならない。それが歴史だよ、という認識をこの位よく表した絵画はないと思います。
それで、多分、我々は歴史歴史と簡単に言うけれど、「歴史がその事を語っている」とか、「歴史的に言ってこの国は」とか言うときに考えている「歴史」というのは、多分そういうイメージの何かだと思うんです。
さて、そういう状態に置かれることを、「動員」と言う。では、その時に、こちら側にいる我々はどういう顔をしているのか。今日、さすがに切り取って持って来るのは不愉快なので見せませんでしたけれど、去年観ていただいた『意志の勝利』(youtube)のシャベル部隊のあの顔を思い出してください。あの状態で、我々が一斉にシャベルを背負って、こうやって行列して、こういうふうに行き先を示してくれるのを、待機状態で待っている。これがようするに近代国家の状態です。
つまり、この絵において、ナポレオンというのは、一君主ではなく、国民の指導者なんです。権利によって、つまり相続財 産みたいにしてある国を貰ったからその国の王様であるということと、ナポレオン・ボナパルトであるということの最大の違いは何なのか。国民の指導者であるナポレオンは、謂わば国民の意思を体現する存在であるという事です。彼は無理矢理我々をどこかへ連れて行こうとしているわけではありません。我々が彼の行く所に行くという形で自らの意志を委託した、その意志を体現した状態で彼はここでこうやって馬に跨り、じゃあこっち、と言うわけですよ。

「動員」に先立つある組織化の条件

その時に、では国民とは一体何なのでしょう。さきほどのギゾーの定義でもおとなしい物です。つまり、「住んでいる場所と、従っている法律と、それから出自を同じくしている」だけではまだ非常に緩い。ある意味は緩いんです。ただ、もうすでに「出自を同じくしている」という所で、微妙なやばさは出てきているんですけれど。そのやばさの問題に関しては順次お話しします。
我々が「国民」と言ったときに、今現在の定義というのは、多分もう少し踏み込んだ物になる。つまり、言語や習俗や信仰を同じくしている。それから、民族を同じくしているということもありますね。ただ、それ位の事は、ままあり得るわけです。つまり、偶々そうした物を共有している、ある人たちの集団がいますよという事は、必ずしもその集団が、政治的に統合されて、一つのある行為を完遂しようとして動くという事だとは限らないんです。
今日は、実はフランスの話じゃなくて、主にドイツの話をしようと思っていますけれど、言語、習俗、信仰を同じくし、そして人類学的な特徴を共有している、ある人々の集団が、一個の国家を成していない場合が地理的にも歴史的にもいくらでもあるという事はご存じだと思うんですよ。それを、ある一体性を帯び、ある共通した意志を持ち、それを実現しようと試みる集団だと――そう仮にフィクションの形で思ったとしてもですよ――言い表すようにするには、実は結構色々な手間暇がかかるわけです。
つまり、「動員」に先立つある組織化の条件が存在するという話です。ナポレオン戦争時代の話が一番分かり易いでしょうか。

『アルプス越えのナポレオン』は何のために描かれたか

一般的にですよ、あくまで一般的にです。どうなのか微妙という問題はもしかするとお話するかも知れませんが、一般的に「フランス革命というのは正しい戦争だった」と我々は認識していますし、フランス人もまたそう認識しています。「正しい戦争」とは、どういう事か。既にあの当時でさえもその定義は極めて簡単で、「我々は侵略をされたからそれに対して立ち上がらざるを得なかったのだ」という物です。これが正しい戦争の一番の条件だというのは、時代をどこまで遡ったとしても、いの一番に認める条件です。つまり正当防衛であるという事です。
しかし、少し考えて欲しいわけです。例えば、君主たちの軍隊の連合軍が、ライン川を越えてフランスに入ったとします。それって、プロバンスに住んでいる奴に何の関係があるでしょうか?真面目に考えても、全然何一つ脅かされてないと言ったっていいと思いますよ。その軍隊の侵攻の速度によっては、多分そこまで来ないだろうと考えるのが普通でしょうから。それにも関わらず、その時に、パトリアン・ダンジェ、祖国の危機と言って立ち上がらなきゃなんないと思ってしまうという事が、既に異常事態なんですよ。
そして、これは専門家に言うと凄く叱られるかも知れないんですけれど、実はフランス軍が、革命戦争を始めた瞬間には、侵略はまだ受けていません。実際には、細かく言っていくと、そういう条件で始まった戦争ではないんです。
実際には、ある純然たるプロパガンダとして立ち上がった問題の中で人間が動いていく。しかし、これは普通に考えたら動かないはずでした。ある時に、最大瞬間風速的に何故それが可能になったのかを突き止めて行こうとしたら、それこそとてつもない時間がかかります。
何故、フランス人はその瞬間にそのように動くことを集団的に選択したのか。その時、果たして国民という概念が、前提となるある条件として人間の中に存在していたのかどうか。これは非常に結論が出づらい問題なんですね。つまり、そういう意味でのフランス人としての意識は、「自分たちは脅かされている。だから武器を持って立ち上がるのだ」と、何よりもまず戦争の中で育まれていった。そう考えてください。
凄くシニカルな観察者がいて、実際にライン川の向こうで、軍隊の中をうろうろして、後でその事を書いています。その時、川の所に張り付いていた軍隊は、3万ぐらいしかいなかったらしいです。3万では、川を渡るにもちょっときついですね。それに対して、フランス側は、最終的には120万の軍隊がいました。その120万って何に使うつもりだったのか全く分かりません。
一番最初、まだ徴兵制という概念がないんですよ。兵隊をとるという考え方はあったんです。アンシャン・レジーム下でも、村々にお触れを回して、お宅の所は3人とか、お宅の所は5人とか言うと、みんなで村の広場に集まって、籤引きして兵隊をとるというのをやってました。で、当たると黒い玉が出るらしいんですけれど、黒い玉が出た瞬間に、みんな走って山に逃げたという話があります。
しかし、この一番最初の瞬間に、村々に募兵をかけたところ、結構人数は集まるんですよ。主に農家の次男坊と、それから商店などの丁稚とか。簡単に言えば、今ひとつ人生が面白くない若い連中というのが、勇んで応募してきました。その時の兵隊は、士気も非常に高く、そのため、一戦やって、補給線の延びきった超やる気のない軍隊というのを、即座に撃退する事が出来たと言うことになっているわけですが。
問題はその次の年。一度始めてしまった戦争は続けなくてはならない。兵隊が減ったので、また今年も兵隊を増やそうと思って、徴兵のお触れを出したところ、誰も来ないんですよ。どうしてだと思いますか?もうこの理由を書いた奴は本当に意地悪だと思ったんですけれど。「戦争に行くと死ぬ事があるって分かったから」。そりゃそうでしょうって話なんですけれどね。
しかも、政府側はごんごん兵隊の数を増やしたかった。戦線拡大してますから。最終的に、少なくとも、フランス史という形ではなくて、国際関係史ないしは外交史の世界では、この時のフランス側の戦争目標は、自然国境の獲得だったと言われています。これはルイ14世の時代からのフランスの悲願なので、外交上の問題として必ず出てくるんです。だから一度始めてしまった以上、戦争は必ず続けなくてはならない状況にあります。
それで、兵隊を更にとろうと思ったら、誰も集まらないので、地元のお偉方が凄く困りました。それでどうしたかというと、タイミングを待っていたわけです。一説によると蒲萄摘みのタイミングを待っていたと言われています。そうすると、季節労働者が発生するでしょう。この季節労働者を、道ではってて、ばーっと掴まえて、男だけ全部選りだして兵隊に出すんですよ。実に非道い事が平然と行われていたわけですが。
ちなみにこういう事をフランス人はあまり書きたがらないので、こういう研究をするのはやはりアメリカ人です。本当に非道い奴らです。
ただ、そういう形でやっていくに従って、戦争という物。それからその軍隊生活という物。国家における軍隊という物のポジションが、じりじり上がっていく。実態としてどういう種類の戦争をやっていたにせよです。その辺の軍事史関係の問題については、専門の方の本を読んでいただくのが一番正しいと思います。ただ人民というのを、特に徴兵制をしいてからは、そういういい加減な募兵じゃなくて、兵士として動員する。これは「動員」と言うときに、いの一番に来る意味だと思います。一般の国民の中から兵隊になる人間を、義務として課してとっていく。所謂徴兵制という物です。
いや、これ実は結構面白いんで、徴兵制をやってると、後世の人間にとっては色々役に立つ事があるんです。例えば、徴兵年齢における当時のフランス人の平均的な身長はどのぐらいだったかが分かる。フランス革命200周年の時に出た資料集を持っているんで分かったんですが、大体155か156です。18歳でです。更に、戦争が激しくなってきて兵隊の数が足りなくなると、兵役を前倒しにします。17でとったり16でとったりします。そうすると、必然的に身長が凄く下がってきます。今から考えると、高校生というのは、背は伸び切っちゃって、そこから先はごんごん背が伸びている最中ではないんですが、当時の子供達の育ち方は凄く遅くて、高校生になって、兵隊にとられてその後もまだ背が伸びていたという事が分かるんです。これはなかなか結構な発見でした。そして逆に言えば、ナポレオンが160cmなかったと言うけれど、その身長というのがどれほどの物だったかというのが感覚的に分かってきます。当時のヨーロッパ人は、概ねにおいて小さいです。
ゲーテの墓を暴いた時に、という話をした事があったでしょうか。ゲーテの墓を、調査のために開いたときに骨が出てくるので、晩年のゲーテですけれど、身長をきちんと測って記録にとっています。大体それが170cmありました。この170cmというのは、当時の大体貴族階級の平均的な身長です。だから、それは今日の人間より小さいわけです。当時のヨーロッパ人は、日本人で言うと、昭和一桁位の寸法だったと考えていいです。
勿論イギリス人はでかかったりするし、ブルターニュの連中なんかもでかい。ブルターニュの連中なんかがでかいというのは、180cmで兵隊をとって近衛部隊を作る事が出来た事実からも分かります。つまり身長差が凄く激しいんです。例えば、そっちの方の家の血統を引いているタレーランという人は、身長186かな。だから、その位の身長のばらつきを想定すると、あの当時のある感じに近づくと思うんですよ。
凄く迫力ないんですけれどね。とても長谷川哲也ワールドにかなわない。いや、でも面白いですよ、あの漫画。凄くよく描けてると思いました。物凄く馬鹿な瞬間て山のようにあるんですが、でも基本的には真面目によく描けてると思いました。大体よく調べてありますし。米のように細かい字で途中に、軍事史に詳しい人が色々書いてるから、舐めるように読んでしまう。まあそれはいいとしましょう。
しかし、ただ兵士として動員するというだけでは戦争は出来ません。これはお分かりですよね。つまり、戦争をするためには何よりもまず金が必要なんですよ。この事を忘れると、第二次世界大戦の時の日本みたいに馬鹿っちゃれな負け方するわけです。財源確保をしないで戦争をやってはいけないし、ちゃんと戦争をしている間は算盤を弾いて、そろそろ赤になります、止めましょうと言わなきゃいけません。
ただ、その確保のためには、一般の社会的な活動まで、戦争という活動の中に組み込まれていく事になります。言うなれば「産業の動員」だと考えて頂いてもいいと思います。
ナポレオン帝国は何故解体したかという問題に関しては色々な言い方があるわけですが、簡単に言えば、ナポレオンがテリトリーとしている、ある領域全体に対する、そこの産業の動員の仕方が激しすぎたからだと言ってもいいと思います。
このナポレオン時代のフランスのイギリスに対する負け方というのは、旧ソビエト連邦アメリカに対して何故負けたかに非常に良く似た所があるんですけれど、それはおくとしましょう。
当時の税関に関する本があったので、それを見てあれしているんですけれど、簡単に言えば、大きい領域が出来る時に、基本的にはみんな諸手を挙げて歓迎することが多いです。何故諸手を挙げて歓迎するのかと言えば、そこで商品の流通というのがより広い範囲で行えるようになると期待するからです。
ところがナポレオン帝国は全く反対のことをしました。ドイツに、ある手工業者がいるとしましょう。帝国になって、これで我々もフランスの一部になったわけだけれど、これでイタリアまで直接商品を出せるようになったら大儲けじゃん、と普通は考える。これが当初歓迎される一つの理由です。
ところが、これをやっていると、フランスが儲からない。ナポレオン時代に一時期行われていたある方法というのは何なのかというと、ドイツからいきなりイタリアに対して輸出が出来ないようにしました。一度、まず領域内に移動する。元の国境を越えて移動する商品は、まずパリに入れて、パリからイタリアに出せと言ったんです。これをすると、凄く儲かる理由、分かりますよね。2回国境を越えるでしょう。2回国境を越えるときに2回関税をかけられるんです。
これは業者としてみれば、とてつもなく不愉快なことです。そういう形で産業を支配していきます。あるいは勿論国内の殖産興業みたいな事だって、不完全ながらやります。
さらに言えば、そんなのとてもつきあってられないよ、と誰でも思うわけです。一番最初に、何しろ2年目に募兵をした年には、戦争に行くと死ぬから行かない、という兵隊が続出するというような状況ですからね。ナポレオン戦争時代というのは、そうやって徴兵制になった後です。徴兵をめぐっては色々難しい問題があるんですけれどね。
徴兵したと致しましょう。その数を100としましょう。そうすると、それをとりあえずカゼルネという兵営にぶち込んで、一応訓練して、それで配属します。なんと、この間のロスが10パーセントだったというんです。死ぬんじゃないんです。逃げるんです。普通に。
これがこの頃の常識です。今日的な感覚で言うと、徴兵されて兵営にぶち込まれると、途中で逃げるって考えられないでしょう。この所の、人間の、ある頭の構造の決定的な相違みたいな物を考えています。そんな事するのは俺は堪らねえ、って普通に言えた時代があったわけです。少なくとも10人の内1人は。
ひどい状態で出されるから、嫌だって言って逃げるのは分かるんです。よくやるのは、上着だけ。つまり、軍服を全部支給している暇というか金がないので、軍服のジャケットだけ与えて前線に出すというのをよくやっているんですよ。ズボンは後で送るからというわけです。ズボンは元のままの物をはいている。凄い軍隊だなと思います。これはかなり後までやっています。その状態をみると、普通、俺もうやだ、帰る、という気持ちになるのも分からない事もないです。この戦争本当に勝てるの?という気持ちになってきますから。
本土決戦まで来ると、もう少し状況は違ってきますけれど。ちなみに1814年、フランスの本土決戦の時は、兵役は16歳からでした。マリー・ルイーズ新兵と言われています。その時、オーストリア側、メッテルニヒが和平仲介をやって、プロイセン・ロシア連合軍とフランスの間でなんとか和解をさせようとするわけですが、その時にナポレオンに言った言葉というのがあります。ドレスデンで会うんですよ。ドレスデンの防衛を固めるために新しくとられた兵隊達が一所懸命土木工事をしていました。基本、兵隊の仕事というのは、第一が歩く事で、二番目は土木工事をする事ですから。弾を撃っているというのはほんの少しだけです。
それを見たら、みんな16くらい。メッテルニヒも小さい子供がいたので、「あんたの所の兵隊はみんな子供だけじゃないか、あの子たちに本当に戦争をさせるのか」と言ったと、メッテルニヒは後に回想録に書いています。それに対するナポレオンの答えというのは非常にそれらしい。「人間がどうやって戦争の中で成長するのかを私はよく知っている」。
それは、メッテルニヒとしては、とても受け入れられなかった。彼は子煩悩だから。自分の所の子供が、いきなり16で兵隊にとられ、ろくすっぽ軍服も与えられないまま、前線に出されてその中をひいひい言いながら大人になっていくなんていう状況は、とても彼には我慢できない。ナポレオンはそれが普通だと言うんだけれど。その所のある文化的な対立はなかなか面白いです。
当時は、軍人と、そうでない人間との間には、あるメンタリティの凄まじい差があるわけですが、そこを埋めていくために必要になってくるのが、つまりこれなんですよ。この絵。この絵が何のために描かれたか。国家が、ただ単に兵員をとって戦争をするというだけではなく、生産力、国民が持っている潜在的な活動力を全て戦争の中につぎ込んでいくために必要な物は何なのかと言うと、文化的、政治的な動員なんです。言うなればプロパガンダ的な物です。
だからこの絵は描かれた。そして、だからこの絵というのはこうじゃなきゃならなかったんだと言ってもいいと思います。
プロパガンダと言うと、みんな、ケッて思うわけで、ダヴィッドはプロパガンダ画家だったというような言われ方をしますが、私に言わせるとそれは少し違うんで、つまりプロパガンダの中からでも、この絵を描ける絵描きって偉いよっていう事です。
もし、ナポレオンなどという人間がいたことさえ分からない時代までこの絵が生き残って、そういう事件があった事さえ知らない人間がこの絵を見たとしても、多分、全てではないにせよ、一番最初にこの絵が発表された時にこの絵を見た人間が感じた物と共通する何かを、いくらかは感じる事ができるでしょう。全面的に共有出来るとは思わないですけれど。
政治的なプロパガンダを表現するために描かれている、細かい構図、動作、モチーフ、表情みたいな物が、この絵を全然違う文脈で見る人間に対しても、何か、例えばある動きの感覚、ある厳しさの感覚、あるいは嵐の中をついていくという事の持っている、凄くロマンチックなイメージみたいな物を、必然的に喚起するのだろうとは思うんですけれどね。

当時フランスは一個の兵営であった

謂わばそういう形で、フランス革命戦争ナポレオン戦争を通じて、フランスは根こそぎ動員されていったと考えてもいいと思います。その感覚というのは、当時の人々がよく言っているわけです。
メッテルニヒの回想録に出てくるのですが、ある上院議員か何かが、愚痴って言った言葉です。「今時は、我々は兵隊の額の汗を拭うために存在している人間でしかない」。あるいは、これはタレーランの台詞なんですが、タレーランがしくじって干された時に言った言葉――彼は派手なしくじり方を時々するから――「そこで私は内面の内側の静かな生活に引きこもろうと思ったが、当時のフランスには内輪の生活という物は存在しなかったので、私も必然的に引退した状態で政治に関わらざるを得なかった」(笑)。
そりゃ言い訳だって話になるんですが、タレーランにはそうした内輪の生活とか、内面の静かな生活の感覚ってあるわけです。フランスにそれはなかったという。つまりそこまで全ての物が動員されていた。
当時のフランスの雰囲気は、我々が普通に想像する物とはかなり違う物だと思っていいです。メッテルニヒが報告書の中に書いているのが、人民を操作するための、あるプロパガンダ的な、というかアジテーション活動のやり方みたいな物です。
例えば戦争があった場合に、負けたという情報がかならずアングラで流れるわけです。最初のうち、みんな踊らされるわけだけれど、段々慣れてくると分かる。ああ、負けるって言ってたけれど、本当に負けていないだろうと。負けると言ってしまうと、とにかくこの状態、根こそぎ全部、社会の何もかもが帝国の存在という問題に対してかかっているという状態――つまり常時戦争をやっていればそういう事になるわけですが――で、負けたみたいだという噂が流れるというのは、どの位の重圧を持っていたか。もう通りから何からどよーんとする。
そこでいきなり公式に、実は大勝利、という情報が入る。そうすると、この落差で、普通のこの位の勝利だったのが、この位の勝利に見えてくるんですよ。それで盛り上がって、必ずお触れが出まして、家の窓の所に全部蝋燭を灯して、イルミネーションをしたと書いてあります。そうやってお祝いをするという、そういう生活を毎日していた。
その中で、いや、勝ったなんて良かった良かったと言って、たまさか休暇を取っている兵隊などがシャンゼリゼ通りなどに繰り出すわけです。その雰囲気をちょっと想像して下さい。
そこで、もういい加減手を広げすぎなのよ、とかいう話をするわけです。いい加減止めた方がいいって俺は思うわけね、とかって。まあな、休暇引けたらお前、どこへ行くの、とかいう話をするでしょう。それから家に帰って酒を飲んで寝ていると、ドアをとんとんとんと叩かれるわけです。はーい何ですか?と言うと、いきなり連行されて、お前、昨日の晩の何時何分にシャンゼリゼ通りで何の某という者と、政府に対する不満を口にしたな、と言われる。本当にやるんです。大体お叱りを受ける程度ですむ場合が多いんですけれど。
だから、ある種の警察国家ぶりというのが、非常に不完全な形ながら始まっていた、その雰囲気を想像していくと、容易に、例えば映画など観ると、それが何につながったかというのが分かると思います。つまりナチ時代のドイツの雰囲気に非常によく似ていますよね。映画などで見た場合には。ある雰囲気が。
だから、当時フランスは一個の兵営(カゼルネ。かまぼこ型の、兵隊が住んでいる小屋)であった、というふうに言ったとしても、多分当時の人たちからも――特に冷めた目を持っている人たちからは――それほどの異論は出なかっただろうと思うんです。
ただし、このあり方というのは、近代においては必ずしも特殊な物ではないという事に注意してください。結局、ナポレオン戦争はそれで負けて、王政復古して、状況というのは変わったはずなのだけれど、フランスという国家は相変わらず、潜在的にそのままでした。現今戦争をしていなかったり、あんな大きい戦争はしていなかったりするだけで。
その中で、一番最初に言った、1822年のギゾーの定義が出て来るという事について少し考えて欲しいんです。同じ領域に色々な人間が住んでいるけれど、住んでいて同じ法律に従っていれば、そこの人間じゃん、という感覚に対して、もう一つ全然別な要素を持った、「その国の人間」という物に対する認識がある。それがつまり、”origin”であるという事です。出自の問題という物。
この国家というあり方は、革命戦争が始まった瞬間から潜在的に現れて、おそらくはほぼ今日に至るまで、ずっと続いています。もしかしたら、それはもう終わったのかも知れないんですが。
何故終わったのかというと、兵役という物を止める国がかなり増えてきているからです。兵役でとった兵隊を訓練して使えるような戦争の時代ではなくなってしまったという問題があります。ただその兵役という物がなくなって、志願制の軍隊だけをとるようになって、それを非常にプロフェッショナルな形で訓練するという形式が採用された瞬間に――国民国家というのは兵営だ、と言ったんですが、兵営国家というのも、悪いところもあるけれど、良い所もあるわけです。良い所というのは何なのかというと、簡単に言えば兵営に居れば食いっぱぐれないという事です。国民を動員しておくために、国家は国民を食わせておこうとする努力くらいは少なくとも払ってくれたんだけれど、もし戦争という問題を中心に考えて近代の国家という物が発達してきたのだとすると、徴兵制を止めて、人民を軍隊として動員しなくてもよくなった瞬間に、人民の面倒は別に見なくていいという事になってきてしまう。
何の事を言っているかは分かりますよね。もしかすると、そういう時代が来ているかも知れない。もう5年とか10年経って、私がこの時言ったのはただの杞憂だったと分かるといいなと思っていますけれどね。そうなってしまった時、国民から再び人民に返った我々は、一体どうやって安心立命を得て暮らしていけばいいのかと考える人たちが沢山いるのも分からないわけではないんですけれどね。



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