佐藤亜紀明治大学公開講座第五回(2007.1.12)[2]

顔が歴史になったというのをはじめて見た様な気がする肖像画です

 これもいいんですけれど。もうちょっと古いという事になるかな。だいぶ古い。見て頂きたいのは、こっちなんですよ。この聖母(聖布?せいふ)の横に書いてあるこの男の人。フランドルの、北方ルネサンスの絵画によくこういう描きかたというのが、いや、イタリアの絵画にもあるんですけれどね。つまり、教会に宗教画を寄贈するわけですよ。で、教会に宗教画を寄贈する時に、寄贈主が、自分自身をその絵の風景の中に描きこむ。これが、これをある教会に描かせた、えーと、名前までちゃんとわかっている訳ですが、ヴァン・デル・パェーレという男なんですよ。で、この顔ね。すごいでしょ?ほとんど写真みたいに細かく描かれているわけですよ。表情とか年代とかも、ほとんど間違えようがないでしょう?こういう顔です。このくらいに描いていけば、この位の個別性というのは少なくとも視覚的な情報で見て取ることはできる。ここからはある特性でして、後にイタリア絵画の画家達もすごく刺激されて真似するようになりますけれど、ごく通史的に言うんで、私もそれが正しいと言う気はないというふうに言っておきますけれど。というのは、なんにでもあてはまる説と言うか、あまりにも広く全てを説明しすぎる説と言うのは微妙に胡散臭い所があるので、そういう事を言うと、**のおばちゃんが、ちゃんと美術史の講座を持てる先生になれないわけですけれど。
 北方絵画というのは商人をクライアントとするジャンル。商人の仕事というのは何なのかというと、個別の物をきちんと見て、その値打ちを判断するという所に、成功と不成功がかかっている商売。だから、彼らのクライアントというのはとにかく物の個別性に関して異常にうるさかった。それが全ての物を、細かく描き出す事を要求するような、そういう種類の表現の発達を画家達に対して要求したのだと。
 顔はあれなんですけれど、観て頂ければ。このどうかんです。すごいでしょう?本当に光っているように描いてあるんです。はめ込んでいるわけじゃないんですよ。全部描いてある。こういうものに比べると、ちょっと同時代のイタリア絵画って持ってこなかったんですけれど、もっと普通の、南の方のイタリアの画家達というのはざっくり描くわけです。こんなところまで、細かく細かくあれするように描いて行くというのは、むしろヴァン・ダイクとかこの辺のフランドル絵画の影響を受けてはじまったジャンルだという事。そういう見方からすると、人間の顔というものに対して、そういう種類の集中のして行きかたと言うのは、理解できないことではないわけです。つまり、人間の顔と言うのをオブジェとしてあくまで注視していけば、こういう描きかたができる。
 いい顔ですよね。なかなかね。絶対まけない。この類の商人が出てきた時には、絶対みかんの一つのサービスもしてくれない気がする(笑)。
 今日一番重要と言おうかなと思ってたのがなんなのかと言うと、これ。で、今いくつかお見せしました、つまり、ブロンズィーノの描いた『エレオノーラ・ディ・トレド』とか、あるいはゲインズボローの人物達があれしたように、社会的なステータスと言う物を表現するための肖像画というものがある。そこにおいては、様々な身の飾りにおいて、ある社会的な地位が表現される。そして、顔の個別性というのはもしかするとそれほど重要視されないかも知れない。顔立ちそのもの以上に、どちらかというと、その人間がその内側に何を持っているかという問題は、画家の関心にもなってこないし、おそらく描いてもらっている人間の関心にもなってこないんですよ。

 例えばさ、この辺になってくるとどうよ?全然違うでしょ?画家の見ているものも全然別ならさ、描いてもらっている奴の根性も違うよね。これ、アングルの『ベルタン氏』って奴なんですけどね。新聞王です。バルザックの時代。ポーズまで含めて上手く出来ている。木のどうってことない椅子にどーんと座ってね、両脚を開いてそこの所に手をどーんと置いて座っている。腰の据え方なんかもあれでしょう?バルザックの小説なんか読んでいると、四十過ぎてもコルセットしている男はみっともねえとか書いてあったりする。それはさすがに若作り過ぎる話なんですけれど、この男は多分、生まれてこの方コルセットをして自分の事を良く見せようなんて考えたことないよね。そんな事するよりも、他に忙しいこといっぱいあったんだもんて感じするでしょう?その結果今日の地位を築いてきたから、この格好で、この俺を描いてくれといった。その要求に対してアングルは非常に忠実に応じて、アングルというのはある意味非常に変わった人ですからね。これは、多分、今まで挙げてきた作品もいいものばかりですけれど、一、二を争う傑作だと思うんですよ。言っちゃったらさ、顔が歴史になったというのをはじめて見た様な気がする肖像画です。ずっと色々な物を見ているとね。
 この間タレーランの話をしたと思うんですよ。で、タレーランの顔っていうのになると、これは明らかに話を外れているんだけれど、面白いからやってしまおうという事で。タレーランてどんな顔をした奴だったのかという話をすると、これがね、16歳の時の肖像画です。生意気な顔をしたがきでしょう?これで16だってよ。微妙にさ、特にフランス人の肖像画見てて思うのは、知ってるんだよね。この顔。で、肖像画を見るときにもう一つ面白いのは、その人間が着ている衣装とかとって、普通にTシャツにジーンズにしてみるんですよ。髪の毛もさ、いまどきの普通の髪型にしてみるわけですよ。そうするとさ、いるでしょこういう奴(笑)。多分、この若い頃。
 この顔がスタートだとして、彼のゴールってのはね。これね、1815年に描かれたカリカチュアです。似てるんだけどね。この顔。まあ変わったって言えば変わった、変わってないって言えば変わってないんだけれど、この間において、タレーラン自身の顔って言うのは、様々な微妙な変容を見せるわけですが、一番有名な奴というのは、これ。客観的に捉えて描かれる顔というのはこういう種類の顔だと考えてください。なんでこれが可能なのかと言うと、タレーランて信じられないくらい肖像画が多いんですよ。多分同時代の人たちの中でも多いほうだと思います。メッテルニヒ肖像画って言ったって、スケッチまで含めて3、4種類。あとどうでもいい**が何枚かあるんですけれど、これだけ描かせた人って珍しいと思いますよ。ところでね、一般的にすごくいいっていうタレーラン肖像画ってこれです。非常にそれらしい。すごく良く本人の感じ出ている。この顔で爬虫類みたいってのがあんまりあれなんだけれど、ちょっと太いんですよ。かなりある時期太っていた。
 ところが、こういう肖像画も残っているんですけれど、どうも本人の好みはこういう肖像画じゃなかったんですね。本人の好みの肖像画っていうのはどういう肖像画になっちゃったのかというと、こういう肖像画をつくっているんですよ(笑)。なんでこれ、って気がするでしょう?もう一枚別の画家に描かせたのに、ブルーの別珍に金の縫い取りのある上着を着てだよ、タレーランが描かれた奴があって、どうもこの系統が好きだったらしい。なんでって言うと、多分世界史とった人はこの絵は教科書かなんかで見た事があるんじゃないかと思うんですよ。ウィーン会議の時に、タレーランが連れてったイザベーっていう画家に、ようするに、これは歴史的大事業になるから、この場面を是非とも絵に残さなければならない、と考えて、今だったら記者団を連れて行くところだけれど、ところが、イザベーって絵描きは、興味のある人はインターネットで見ていただければわかるんだけれど、お人形さんみたいな人物しか描かない人なのね。どうしてそんな一世一代の勝負にイザベーを連れてくの?っていうふうに考えると、この人はお人形さんみたいな自分が好きなんだろう、ってのが分かる。恐ろしいことに。この顔でですよ。そういう風に描かせることもあった。
 この男が、お人形さんみたいな顔でもって、自分を一世一代の晴れ舞台に立っている姿を残したかったと言うのはどういう事?っていう。
 それで、もう一回さっきのおっさんの顔を見て欲しい。つまりさ、どう考えても、本人これでしょう?って言った顔と、これと並べると、同じ時代の人間として非常にしっくりくるでしょう。絵の描きかたも近いんですけれどね。で、一番違うのは何かと言うと、人間の捉え方なんです。自分自身であってもいいですし、他の人間であってもいいんですけれど、人間というのは一体なんなのかという問題に対する定義が、すごく違うんです。多分タレーランぐらいがそこの所をまたいだ最後の世代だと思うんですよ。どうしてもそうじゃないことは知っていたとしても、タレーランが、それより前に属する世代の人間観から逃れられない、これはもう少し後も一緒かも知れません。つまりメッテルニヒというのは、どんなふうに肖像画を描かれてもそれほど気にしない男ですけれど。肖像画ぐらいでゆらぐようなナルシズムじゃないんですよあれは(笑)。タレーランはもう少し敏感だけれどね。
 このメッテルニヒに関してすごく有名な逸話があって、ギゾーが回想録に書いている奴。フランスの首相のギゾー、1848年の革命でロンドンに亡命している。その後勃発した三月革命で、メッテルニヒもロンドンに亡命した。メッテルニヒというのは、もう80近いけど、かなりよぼよぼしているくせに好奇心の強い男で、大英博物館に行ったんですよ。毎日行ったんじゃないかという気もしますが、とにかく大英博物館の所をよぼよぼって上がっていく所で、ギゾーと遭遇したんだって、で、立ち話をしたんだって。ギゾーは何の話をしたのかよく覚えてないって言ってますけれど、革命で亡命せざるをえなくなった首相級の政治家が二人、大英博物館の階段のところでばったり遭遇して話をするわけですよ。その時にね、なんの話だったか忘れたけれど、メッテルニヒはこういったと言うの。

 僕は生まれてこの方、一回も間違えた事がありません。

 それでもってギゾーは怒っちゃってさ、すごくさ、この惨めな亡命の身でもって、お前はまだそれを言うかっていう話で、もう一つあれなのは、ギゾーとメッテルニヒの考えている人間に対する考え方の決定的な違いがそこに出てくる。で、ギゾーは何と言ったか。
 そうですか。私は凄く沢山間違いを犯した。だけどその間違いから学んで来る事が出来ただけ、あなたより私は幸せな人間だったと思う。

 ギゾーが回想録に書いている事だからね。それは割り引くとしても、メッテルニヒという人物について考えると、ああ、メッテルニヒはそう言っただろうと思う。つまり、彼はまだ35くらいの時に、恋文に書いている事があって――いや、四十近かったな――四十近いところでもって、サガン大公妃っていうのと、恋愛関係というか、まあ微妙に恋愛未満なんだけれど、サガン大公妃はもうちょっと元気な男が好きなんで、まあお付き合いがあったわけですよ。その恋文の中にね、

 僕はね、色々な経験を除くとね、16の時の僕のままです。

って書いてある。四十過ぎてだよ。で、彼について言うと、それは圧倒的な事実なんですよ。だって彼は人間が進歩するなんて思ってないんだもの。16の時の僕が一番美貌でカッコよくて頭よくてハッピーだったと思っている。そこから後っていうのは、色々な仕事をしたけれど、仕事嫌いだったって言ってるんだもの。亡命したって、僕は悪いんじゃないって言ってるんだもの。しょうがないよそれ。ただ、そこのところにある圧倒的な人間観みたいな奴ってわかりますか。人間は進歩しないんです。人間は変わらないのね。人間が来た場所から現時点までにおける、色々なものによって人間というのは造形されて行って、どんどん変わっていくというのは、メッテルニヒにはない。
 タレーランはもしかするとそれは持っていたかもしれないんですが、それは好きではないんです。やっぱり彼も、どちらかというと、人間は16の時が最高だよって思っている口なんですよ。だから、お人形みたいな自分を描いて欲しいと思う傾向がある。で、化粧までしてるわけです。男でメイクして化粧した肖像画描かせるのってなかなかない気がするんですが、あきらかにこの頬の所赤くなっているのを見ると、化粧してるなこれなーと思うわけですが。
 ギゾーは多分もっと全然違う。
 で、ベルタン氏の肖像画を見てもらったのは何かというと、ベルタン氏っていうのは何かと言うと、一口で言うと、あの肖像画っていうのは、過去のある肖像画なんですよ。つまり、人間が過去を持つことによって、凄く変わってきて、今の私になる前と、それから物凄く過去の間にあったある事件によって、人間というのは劇的に変ってくるという事。そこのところで、変っていく事を、それこそギゾーのように誇って見せたのがあの肖像画だと考えていいと思います。そこで凄い決定的な人間のあり方に関する認識の違いみたいなものが出てくるんです。この過去と現在の間にある事件によって、私は過去の私ではなくなっているっていう認識っていうのは、ある種の人間の近代的な認識だというふうに考えてください。
 そう考えた時に、もう一回ちょっと見てもらいたい物ってのはなんなのかと言うと、さっきの『意志の勝利』に出てくるあの顔を思い出して欲しい。ベルタン氏の肖像画を見た後にあの顔を思い出して欲しい。そうするとようするに、そこのところでもって何が起こったのかっていう問題をつい考えたくなっちゃうわけですよ。いや、映画だって凄く色んな種類の顔って言うのがあるんですよ。

「近代の不安」というのがある意味極限まで達してきた時に、全く別な種類のアイデンティティというのを人間は求める

 近代の顔というのは何なのかと言う話。ベルタン氏の顔って言うのを近代の典型的な顔だとすると、そこにあって『意思の勝利』のあの顔になかったもの、ようするにナチス・ドイツがないことにしたかった顔と言うのはなんなのかということ。個別性をもった過去みたいなもの。それによって人間が全て別な顔を持っているという、その状況そのものというのを、ある意味では、なくはないとしても、ある中和化された均等な形に均して言って、そして今の人間と言うのを、ああいう形で、永遠の待機状態、国家の命令が一つあればどこへでも飛んで行きますと言う状態にして並べておくと言う、人間のあり方に作り変えようという。つまり、もしナチス・ドイツが新しい人間を求めたのだとすれば、それはベルタン氏的な顔というものを否定した、そこから先にある何かだと彼らは考えたという事。ちょっとややこしいですか。
 そこからあれしているものというのは、個々の人間が――あくまで個々の人間がですよ。人類全体がじゃないです――個々の人間がそれぞれ個別的に生まれて、様々な体験の中で変化して、それによって異なる自分になって行くという、ある概念そのもの。これはタレーランメッテルニヒが見ていたような、ある凄く素朴な人間観というのとは別なものなんですよ。彼らは、人間というのが、生まれてきたらそのままそこに足をつけて、そのまま生きていけばいいんだという世界に生きていた。勿論メッテルニヒタレーランもそこから引き離されて別の世界に投げ込まれて、その結果ああいう悪名高い人になっちゃうわけですけれど、彼らとしてはそういう風にはなりたくはなかったんです。どうしてもそこには微妙な郷愁があって、例えばタレーランなんてのは、イタリアに領地をもらうんですよ。ナポレオン時代に。イタリアに領地をもらうとどうするかというとね。そこに自分の名前の噴水寄付するんです。なんで?って話。領主になりたい。
 これってさ、例えば同じナポレオンの部下で、ネイってのがいますけれど、あの辺と決定的に感覚が違うんですよ。メッテルニヒがネイと話をしていてすっごい感心した話ってのがあって、「ぶっちゃけた話ね」ってネイが言ったんだって。「俺達はもう働くのはやなわけ。だってさ、金だってしこたま稼いだし、不動産だってみんな貸しに出してて仮借ついてくるんだもの。なんで働くの」。メッテルニヒはへえっ?と思って、不動産て何それ?って思ったら、ようするにナポレオンが征服した土地の中から、ネイがなんて爵位をもらってたか忘れたけれど、爵位つきでもらった土地のこと。それをネイは不動産て言ったんだって。**ついてくるんだって。金が上がって来るんだって。
 この感覚っていうのからすると、管理はするけれど、自分の名前が書いてる噴水を麗々しく村に寄付するなんていうのはほとんど考えられないわけですよ。メッテルニヒもやります。メッテルニヒって、親が事実上の破産状態だったんで、自分の給料だけで一族郎党養ってた時代って結構長かったんですけれども、二度目の結婚したぐらいの時からかな。ある程度経済的に状況が安定してきた時に、村を買うんですよ。チェコに。で、そこの村って言うのをね、城が今立ってますけど、メッテルニヒの城っていうのが今チェコで公開されているのがありますけれど、そこの所を開発して、多少メッテルニヒの方が若いから。感覚的な。そこでマリーエンスケルーゼだったかな?あのへんの温泉端まで道を引いて、並木を植えて、ショッピングモールにしようと思ったって言う計画があるんですよ。ただ、そこに鍛冶場作ったり色んなことしてるの。つまり、メッテルニヒは自分の村が欲しかった。早い話。失脚した時にとられちゃいますけど。また後で返してもらいますけれど。つまり、そういう感覚を持った人間て、あれは不動産で、そこから金が上がってくるっていう感覚の人間が持っている、ある決定的な相違みたいなものって分かるでしょう?人間がどういうものか。
 領主って、そこで生まれて、もしかすると、人生が良かったらそのままそこで自分の領地の面倒だけ見て死んでいけばいいって言う。ということは、生まれてこの方、全く大して変ることのない存在だということなんですよ。そういう人間。人間って、生まれたときに、板付きって、ほら、舞台の幕が上がると最初からこうやって立っている、そうやって始まるっていうのを板付きって言いますけれど、人間は板付きで舞台に登場して、そのままの状態で、衣装も変えずに、そのまま最後まで演じる物だって言うのが、タレーランメッテルニヒ的な、いわばアンシャン・レジームの人間。そうじゃなくって、登場してきた人物が、何者だか良く分からないけれど、色んな事をしている。なぜこの人物はこんな事をしているんだろうって観客が思っていると、実はこの人物には意外な過去があった、っていう事になるのが、言っちゃったらロマン主義的な感覚であり、ベルタン氏的なある人間のあり方の感覚。実はこんな過去があったから、この人間はこういうふうになって、実はあの人だったんだ。
 実はこの辺の変化の劇的な奴っていうのは、ボーマルシェフィガロ三部作を読むと良くわかります。一番最初のあれでしょう?一番最初の『セヴィリアの理髪師』っていうのは、完全にコメディア・デラルテ的な枠組みの中で展開していく。コメディア・デラルテってのはさ、要するに能や狂言なんかと同じでさ、ある一定のキャラクターみたいなのが事前に用意されて、それを組み合わせて、コミカルな舞台を作っていく。ただそれが近代的な形に置き換えられているだけなんですよね。ところが、二作目の『フィガロの結婚』になってくると、もう少し話が微妙な事になってくる。つまり、一番最初は、お嬢様のロジーナは、アルマヴィーヴァ伯爵と結婚して、小間使いのスザンナはフィガロと結婚してめでたしめでたしという、こういうあれで行っていたのが、『フィガロの結婚』になってくると、アルマヴィーヴァ伯爵、事もあろうに、スザンナにお手付けをしようとしていて、そしてここにケルヴィーノっていう少年の美形の小姓がいるんで、女どもはこの二人をいじるというような、かいきゅうこうこうてきな事が起こっている。そしてなかでもって、フィガロってのが誰の息子なのかっていうことまで明らかになってくる。
 めでたしめでたしのあれになってきて、言っちゃったら凄い軽い作りにはなっているんですけれど、既に人間には過去がある事が前提になっちゃっているんですよ。普通例えば、コメディア・デラルテ的なコロンビーナとかに過去があるって、あまり誰も考えない。彼らは生まれてきたそのままである。で、要するに問題は『罪の母』という三番目になるんですけれど、これはなんとアルマヴィーヴァ伯爵が、ケルヴィーノとの間に子供を作っていたと言う話になっちゃってて、そんな過去は誰も欲しくないと思うわけですが、ここに至って、物語は完全にメロドラマと化しているわけです。我々が今日認識するようなメロドラマであり、メロドラマって言う奴の語源的に言うと、言っちゃったら19世紀の初頭ぐらいに大衆演劇として行われていた種類の演劇の世界に入っていく。そのドラマの形式と言うのは、当時の人たちに訴えかけるものがあって、なぜならば、そこの所に、そこで人間の人生にダイナミックな事が起こって、人間が全然別な物になってしまうかもしれないという可能性を秘めていたわけです。その結果としてある顔が存在している。
 ただし、これは考えてみると凄まじくアバウトです。これが俗に言う「近代の不安」という奴なわけですよ。あんまり私、こういう事を言う時に信じてないと思ってください。でも、一応とりあえずのガイドラインとしては示して今日は終わりにしようと思っていますけれど。つまり、人間がどこから来たのかも分からないし、何者になるかも分からないという状況で、例えばこうなってこうなってああなって、もしかすると最後には自分の経歴を例えばベルタン氏のように誇って、堂々と顔ごとさらせるようになるかも知れない。でもならないかも知れないんですよ。もしかするとそのまま何者でもなくなってしまうかも知れないんですよ。そういう不安というのがある意味極限まで達してきた時に、全く別な種類のアイデンティティというのを人間は求める。個別的なアイデンティティではなくて。例えば、だからそれこそ、「一つのドイツ」って奴に統合される様々な種類の人間のうちの一人として私は存在していて、私の運命というのは私によって決められて、私がその選択によってどうなったりこうなったりするもんではなくて、国が命じてくれるから、私はここにいる。国が命じてくれると私はこういう人間になる。そういう所に解消されていったら、如何に人生は楽かという話ですよ。
 そういうところでもって、だから、ああいう物を見ちゃったときに、なんとなく気持ちが動くっていう状況を想像してみてください。自分はもしかするとこのまま何者でもなくなってしまうかも知れない。そういうときに都合よく提示されるのがああいう種類の顔だったらまずいよねっていう話なんですよ。こういう人間におなりなさい。こういう人間になれば、もう何一つ考えず、過去も未来も全て誰かが提供してくれます。その人間の事をただ信じてついていけばいいんです。そういうあり方。
 もちろんそれは華々しく破産して終わったんで、めでたしめでたしであるということですが、それに対して例えば、その前の段階でってことになりますけれどね、フェリーニがその前の段階にあったこととして想像したのが、さっきのミンコって奴なんですよ。で、つまり船の乗客のうちの一人の娘なんですね。ただ出てきた瞬間から彼女だけ顔が違うって言ったの、分かると思うんですけれど、普通の女の子の顔してる。あれだけ様式化された顔が並んでる中に彼女の顔があると少し不思議なんですね。で、美少女って設定だから、とか思ってずっと見てたんですけれど、あの場面見ると良く分かりますよね。つまり、セルビアの難民が乗り込んでくる。セルビアの難民というのは割合様式化はされているんですが、でも、明らかに非常に異質な顔をした人々です。これはイタリア人から見て異質という意味もありますし、それからこの様式化されて作りこまれた種類の登場人物の中で異質ってことでもあります。
 特にあの男の子の顔ってさ、『黒猫白猫』とかに出てきそうなさ、というかクストリッツァの映画によく出てくる、大人に小突き回されるばっかりで、俺まだ美味しい目なんか何にも見たことない。何か世の中良いことないのかしらって顔してるがきの顔なんですよ。そのがきとさ、いきなり彼女が飛んでって抱き合ってぱっとこっちを見た瞬間に映ってる顔ってのが、船に乗っている人たちの顔と全然違う。だからあのお父さんとお母さんというのは、そこで普通は止めるよねって思うんだけれど、抱き合って、娘の事をあきらめるわけです。何故ならば娘はこの様式化された世界から出て、まったく先がどうなるとも知れない世界に向かって動いて行ってしまっているから。

本当に普通の人間というのは、顔にそんなに中身入っている?っていう言い方になっちゃうわけですけれど

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ここで『ウェスタン』の一部が映された。

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 何回もセルジオ・レオーネって取り上げようと思ってて、実はすごく難しくて、すごく難しいってのは何かと言うと、物凄く長い場面を取り上げてくるから。そうじゃなかったら意味が不明になるわけです。かなり長い場面を取り上げても意味は不明になります。これもしかしたらどこかで言ったり書いたりしたかも知れないんですけれど、セルジオ・レオーネが死んだとき、私たまたまフランスにいましてね。夕方のテレビつけたらセルジオ・レオーネが死んだって言ってたのね。夕方のテレビをつけたらニュースでずっとやってるんですよ。で、ニュースで、いきなりなんの前置きもなしでだよ。この『ウェスタン』という場面のずっとあとで、悪いガンマンがヘンリー・フォンダと、これも過去のある顔なのよ。チャールズ・ブロンソン、つまりここの後ろの方でハーモニカ吹いていた、あれチャールズ・ブロンソンていう役者で、もしかしたら知らないといけないから言ってますけれど。あれはですね、兄ちゃんの事を殺されてるんですよ。凄い殺され方をした。で、復讐のためにうろうろしているという話になってきて、ようするに典型的な過去のある顔ですね。
 そこのところの、いざ、ヘンリー・フォンダチャールズ・ブロンソンが対決するって時に、こうカメラがぐっと回りこんで、いきなり回想に入るんですよ。そこで回想に入って、まだがきだったチャールズ・ブロンソンが、こう泣いててね、その肩の上に兄ちゃんが立たされててね、で、首に首吊り縄が下がってる。つまり、ここで兄貴の重みに弟がへたると兄ちゃんそのまま首吊りって状態で、砂漠の真ん中にこうやって立ってて、その向こうにね、なんか異常に若作りしたヘンリー・フォンダが陽炎のなかからゆらーっと表れて来るところなんだけれど、これをね、いきなり延々とはじめたのよ。
 いや、これはまた。なんだよこれって思ったら、いきなり、イタリア西部劇の巨匠セルジオ・レオーネ氏が亡くなりましたってニュースで言った時に、どっちかって言うとね、フランスのニュースってまだ劣情で作る事ができるんだって思って少し感動した。何年前の話だかっていうのはちょっとあれしてください。その後随分フランスも資本主義化が進展してますから、いまはあんないい加減なことはできないけど。
 つまり、あのニュース作った奴は、セルジオ・レオーネが死んだんだよ、普通にニュースなんかできるわけないじゃん。セルジオ・レオーネ式にやらなきゃ駄目だ、セルジオ・レオーネ式に(笑)。いきなりそこにクライマックスのフィルムをどーんと映す、なんでしょうこれってみんな思うっていう。ただね、その時にその熱い思いにうたれたってのはあります。
 実際問題としてちょっと取り上げてみるとあれなんですけれど、レオーネっていうのは、60年代、70年代のはじめぐらいに、所謂イタリアでマカロニ西部劇って言われる奴を作った人です。マカロニを作った奴は山のようにいて、十年間ぐらいで、総計七、八百本作られたらしいです。もし興味がある人いたら、きちんとした数字じゃないから調べてください。それがイタリアのローカル商品じゃなくて、全世界的に消費されるきっかけになったのが、セルジオ・レオーネが黒沢の『用心棒』をリメイクした、『荒野の用心棒』というやつ。今観ると少ない予算で物凄く頑張っている映画で良いんですけれど、その後段々段々大作化が進んでいって、この辺の『ウェスタン』が68年です。マカロニ・ウェスタンて面白い所がありまして、見ていくと、大体68年、69年あたりなんですけれど、五月革命なんかとだぶるテーマというのがよく出てくる。この『ウェスタン』も基本的には資本主義をめぐる話だというふうに、例えばそういう論じ方をする学者だったら言うだろうというフィルムなんですけれどね。
 レオーネに関していうと、特徴として言われている事というのはいっぱいあるんですけれど、だいたい必ずみんなオペラ的だと言うわけです。だけど、オペラ的って何のこと?って言い始めると物凄くややこしいことになるので、あんまりうるさく言いませんけれど、少なくともヴェルディなんかに代表されるイタリアオペラはこういう登場人物の描きかたはしないんですよ。何をしてオペラ的というのかよく分からない。もし強いて言うとすると、とてつもない情念がとぐろを巻いているような表現の仕方というのをオペラ的という人はオペラ的と言っているのかなと。ただそれはオペラ的な物とはちょっと違うでしょうということになります。ヴェルディというのは、登場人物が出てくると、もういきなり、俺はあいつのことを憎んでいる、するとそこにだれそれが来て、こいつは能天気でへらへらへら。よし、おれはこいつを騙すぞと歌ってこうすると、三分で落ちているという世界ですから。あるいは、毎晩毎晩あたしの窓の下に来て、歌う方がいらっしゃるの。あの方は一体誰かしらって言うと、この女に懸想している男が、毎晩彼女のところにきて、歌を歌う奴がいる、けしからん、こいつを何とかしてやろうと思っていると、**だとかね。で、そこのところで主人公が現れて、一曲歌を歌って、その後彼女が降りてきて一曲歌って、そうすると男が出てきて、でもってここで喧嘩になってもう一幕終わりですよ。すごい速さなんです。ヴェルディって。信じられないぐらい早く終わるんだから。だからそういうのとはちょっと違うんですよ。ただ、例えばね、情感の持って行きかたや盛り上げ方なんかは、プッチーニのトスカなんかには似ているかも知れない。だからどっちかというとそっちの問題です。
 で、最大の特徴というのは顔のつかまえかたなんですね。この『ウェスタン』も実は一番最初の所を持って来ようと思ったんですよ。でも、そこの所を持ってくると、十分以上かかるのね。フィルムで。これは列車で、チャールズ・ブロンソンが着くのを待ち構えている男が三人いる。駅員をどこかに監禁して、駅を乗っ取った状態で、ずーっと待っているっていうのが、十分ぐらい続くんです。その後で、さっくり撃ち合いになって、三人ともあっという間にぶち殺されてしまうわけですが。そこのところの人間の顔のつかまえていき方というのが、ほとんど意味がないんですが、座って暑くてだらだらだらだら汗かいてね、だらだら汗かいてるっていうのは、マカロニウェスタンの特徴でして。だって、すごく不思議だよ。同じ場所を舞台にしていながらさ、ジョン・フォードの西部劇に出てくるジョン・ウェインは汗なんか一滴もかいてないよ。あんなべたついた顔してるの見たことない。ところがマカロニウェスタンの人物は顔がやたら脂ぎってるんですよ。べたべたと。それで、所謂基本的に美しいといわれる顔というのはほとんど出てこない。ただしその顔というのが、とにかく執拗に捉えられて行くんですよ。
 色々考えてね、これ何の撮り方に一番似ているのか考えたんですけれど、じつは似ているのはヴィスコンティかもしれないと思ったんですよ。ルキノ・ヴィスコンティヴィスコンティとレオーネというのは大体時代的にも同じ時期になるんですけれど。
 昨日ちょっと観た『ベニスに死す』。持ってこないけどね、なんかね、買ってみたら『ベニスに死す』って最近ね、DVD980円だった。なんて情けない世の中になったのかと思ったんですけれど、980円で超ど級に状態の良いフィルムから起こした超ど級にきれいな映像が見れます。

ベニスに死す [DVD]

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 『ベニスに死す』に関して言うと、ちょっとこぼっちいところが好きか嫌いかという問題はあると思いますけれど、環境ビデオとしては一級に綺麗よ。とにかく。1コマ1コマ信じられないくらい綺麗。やっていることは何かというと、所謂真夏のベニスって言う奴。そして真夏のベニスであれしている、まあ皆さんご期待だと思いますけれど、ポーランド一家のうちの、美形の長男ていうやつ。これにドイツから来た、小説だと小説家なんだけれど、この映画の場合は作曲家の、アッシェンバッハって言うのが、強烈に心惹かれて、強烈に心を惹かれるがままに、どんどんどんどんどんどんどんどん転落していって、最後コレラにになって死んじゃうっていう。言ってしまったらそれだけの話です。
 凄くつまんないんですけれど、映画として観た場合に、見所は何かというと、これはビョルン・アンドレセン扮するタジョーが綺麗っていうような問題でもなくて、どちらかというと、タジョーとそれからその家族というもの。で、これは『そして船は行く』と見比べてもらえば面白いと思うんですけれど、すごく様式化された捉えられ方をされています。勿論ヴィスコンティは実体験としてああいう場面を持ってますから、あるすごくリアリティをわきまえた形では撮られてますけれど、第一次世界大戦勃発前の、裕福な社会階層の連中の生活っていうものの中に、きちんと枠としておさめられていて、言っちゃったら、フレームが嵌まったような状態でずーって動いていくんですよ。で、それを見ているのが面白いかと言われれば、綺麗だけれど、たいして面白くはないわけですよ。面白いのは何なのかというと、これを執拗に視線で追っかけていく、ダーク・ボガードの顔の転落のしていきかた。そしてその顔をしつこいぐらいしつこいぐらい撮っていく。
 一番最初に美少年を見て、あっと思って、何回も目が通りすぎってってから、目と目が合った瞬間にあれしてくる動揺。それから顔全体が、またこれが暑いんだよね。なぜか。真夏のさ、ヴェネツィアであんな19世紀の男みたいなホワイトタイしめて、燕尾服着て晩飯食うこと考えてご覧。夜の七時に。悪夢だよ。ヴェネツィア、日本より蒸すんだからね。それで、食うなって言われている苺を食ってコレラになって死にますけれど、しかも洗ってないからね、あの苺。ちょっとあれは考えられないことだって私も思うけれど。
 その過程であれしていく、すごい執着みたいなもの、あとずっと追っかけてってるんだけれど、もうだいぶ病気出てきてて、途中で具合が悪くなって苦しくなっちゃって、井戸のところでかがむとむくむ顔だとか、それから、最後死んで行く瞬間の、で、途中で化粧してもらうんだよね。床屋によって。その顔塗ったくってさ、はたから見ると凄い状態なんだけれど、本人はそれで。で、それで海岸に行って、椅子に座って死んじゃう。その時に化粧が汗でがーっと流れていく、その顔。これを見るための映画です。どう考えても。
 しかもさ、アッシェンバッハって一人きりだから、途中でトーマス・マンぽく独白する箇所が一箇所ぐらいあったかも知れないんだけれど、独白するったって独白するだけなんですよ。基本的に全てのドラマって言うのが、アッシェンバッハの頭の中で起こっている。ところが、その事って言うのは、台詞にしても出てこないし、モノローグにしても自分が今何を考えているのかっていうようなことというのは、必ずしも出てこない。あるのは、ただ単にアッシェンバッハの顔だけなんですよ。その顔で、その心理という奴をずーっと執拗に追いかけていく。これは凄く今のレオーネの場面にもあれなんですが、だってあの場面、ほとんど台詞ないでしょう。ちょっと冷やかしみたいな台詞は一言二言あるだけで。言っちゃったらさ、見るとアニメ?って思うんだけれど、ちなみにレオーネの『ウェスタン』がですね、主要登場人物がですね、三人いるんですよ。三人出てくるたびに人場面ずつ十分か十五分かけて見得を切るんで、話が展開しはじめるまでに、ほとんど45分かかるんです。そして全長版で、三時間近くあったと思います。いや、でも、この長さ必要なんですよ。見てると明らかに。で、こういう所まで含めてオペラ的っていうのは長いからオペラ的って言うんだろうと思うんですけれど、その間、ある情念の高まりみたいな奴がきちんとトレースされていく。ただし、その事に関してべらべらべらべら誰もしゃべったりしない。ほとんど何も言わない男どもばっかりなんで。
 で、これはアッシェンバッハと同じなんです。ただようするに顔があるだけ。こうやって、入ってきて、ちらっと見て、横見てあれしてっていうのは、ああいう所からして、台詞要らないんですもん。明らかにお尋ね者と思われる奴が、護送中に逃げてきた。で、入ってって、テーブルの上に包丁が乗ってたからそれを抵抗されないように捨てて、酒くれって言って、ぐーっと飲む。そうするとここに手錠がはまっている。で、あ、こいつ逃げてきたんだって分かるわけですけれど。で、向こうで、周りが全部静まり返っているところなんですよ。いきなりハーモニカを吹く男がいたんで、そばに寄ってって、それで何の反応も示さない所をみて、ライトでこうやっておすと、その顔がばっと映るっていう。これですよ。で、あの瞬間のあの見つめあい方、もうとてつもなく、美しいとは全く関係のない世界の人たちなんで誰も言わないだけですけれど、あそこで見つめあっただけで、その道の人、あ、茶釜二つあるといくらでもご飯が食えるねってくらいの顔するわけですよ(笑)。でも残念ながらチャールズ・ブロンソンとですね、あいつがあれではそうはならんわけですけれども。言っちゃったらそこで物凄いお互いのところへ凄い量の情報がやり取りされているわけですよ。わかる?結局のところ後々、あの二人は組むことになりますから、こういう所でも茶釜二つあるとという話になるわけですが。
 従って、そういう意味で物凄い内容を凝縮させている。この中身の詰まり方というのを持ってきたのは何なのかというと、フィクションであるにも関わらずですよ。というか、意外にフィクションだからっていう言い方もあるかも知れないけれど、現実の人間を絵にとった『意思の勝利』と比べて、顔の中身の詰まり方どうなのっていう話になるわけですよ。凄くこれ微妙なんですよ。あのレオーネとか、ヴィスコンティもそうですけれど、人間の顔に、必要以上の内面をこめている。有り得ないくらいの中身です。本当に普通の人間というのは、顔にそんなに中身入っている?っていう言い方になっちゃうわけですけれど。ただ、それをフィクションの形として詰め込んでいったということ。そして当然の事ながらそういう形で、人間の顔が凄まじい量の感情と、それから屈折した過去と、それからここから先どうなっていくか分からない未来までもはらんだ不確定の存在として、ごろーっと存在していて、そしてそれを見るのが物凄い快感だから、セルジオ・レオーネって髭面の男がずっと、あー電車こねーなーって言って、蝿と遊ぶんですけれどね。うるさい蝿がいて、こうやって追っ払っているんですけれど、ちなみに撮影の時、ここママレード塗らされたらしいとか。で、蝿を一匹ずつカメラのこっち側で離していくっていう話ですけれど。その蝿にイライラして、銃を抜いてね、銃口の中にばーんて入れるのよ。で、こうやって蓋して、こうやって聞いてみたいな場面も含めて、ある人間のあり方みたいなやつがぐーっと凝縮されてくる時に、それはようするにいかなる類にも還元されてみようのない人間の顔という奴を、フィクショナルに作り出しているわけです。そこに、ある人間に対する見方みたいなものが存在していて、そしてその見方というのが、さっきも見ましたけれど、あくまで近代の産物だっていうことは、多分認識しておいたほうがいいんじゃないかと思います。
 ただ、こういう人間のあり方というのは非常にはかないものであり、この認識の仕方そのものが、ある瞬間にどこかに消えてしまうものだということは忘れちゃいけないっていうのは、この前『宇宙戦争』で観て頂いたときにお話したことです。言っちゃったら、この状態で、人間というのはこういうものだと言える状態というのは凄く幸せなことだと言えます。その不安定さに耐える事が出来ればという話ですけれどね。
 もしかしたらこういう話というのが続いていかなくなって、スコーンと無くなってしまうかも知れない。その瞬間に我々はそういう固有の内面みたいなもの、固有の歴史みたいなものが全部無くなって、同じ方向見て逃げなきゃならないかもしれないよっていう危機感が、なんとなく微妙に蔓延している世界に今現在我々は生きているんじゃないかなと思うわけです。だから、これはエッセーに書いた事があった話だとおもうんですけれど、凄く昔にね。核の問題に関して、大江健三郎大先生が、凄く神経質に、軽視しちゃいけない問題だよと警鐘を鳴らしていた時期があった。その時に書いていた事というのは、特に小説家はこの問題に関してないがしろにしちゃいけないよっていう風に、ある対談で言ってたんですよ。もしかすると探すと出てくるかも知れない。何なのかというと、核の傘の下で小説を書くことなんか出来ないって彼は言った。非常に大仰な物の言い方ですけれど、何故ならば、登場人物たちが、そこで凄く極限の人間ドラマをそこで展開しているその瞬間にだよ。頭の上にいきなり核爆弾が落とされるような状況というのを想像したら、いかなる小説も存在し得ないからというふうに言ったんですよ。それで、その瞬間に、ある世代的な違いみたいな物を凄く感じた。それは今でも強いし、今もしお会いしてあれすることが出来るとしたら、確認した上で、大江先生に聞きたい。今でもああいう風に考えておられますか。何故ならば、まさに今我々が生きているというのは、そういう世界なんですよ。何をやっていても、ある瞬間に我々はいきなり死んでいるかもしれない。そういう中で、多分フィクションにおける顔というものについて、見て考えておくというのはけして悪いことじゃないと思うわけですよ。
 落ちがつかないですけれど、こんなものでいいですか?無理やりつけると恥ずかしいしね。

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講師:佐藤亜紀

原稿起こし:ぷりぷりざえもん

Special Thanks toOoh

2008.1.12 明治大学にて行われた講義より。

※この原稿は、講師のチェックを受けていません。ぷりぷりざえもんが許可を得て個人的に録音し原稿に起こしたものです。

※いつものように、ミス、抜け、聞き取れなかった部分のフォローよろしく!

※当講義録で紹介できなかった絵画の情報お待ちしています。