佐藤亜紀明治大学公開講座第五回(2007.1.12)[1]

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1. Triumph des Willens 1935 Leni Riefenstahl
2. E la nave ve 1983 Federico Fellini
3. C'era una volta in west 1968 Sergio Leone

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要するにこの状態を私は総動員と言うんですけれど

 一番上の奴は『意思の勝利』。ドイツでは観てはいけない映画になっているらしいんですが、年末にやっと届きまして、観たら超くだらないんですけれど、そのくだらなさを皆さんにもお分けしたいと思いまして。是非とも観ていただきたいです。これは一部ですけれど、これは私、学生の頃一番馬鹿だと思った…。

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(ここで『意思の勝利』のワンシーンが映された)

講義で見たのは「RAD屋外集会」(31分過ぎから)という場面です。(Oohさんさんきゅ)

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 この前いらっしゃらなかった方のために説明しておきますと、この前から「顔」というものについてお話しています。この前話した内容をざっくりまとめた方がいいのかな。つまり人間の顔における類的な造形と個別性の、ある兼ね合いみたいなことで出てくるものについて話をしてます。例として使ったものとしては、例えば1927年の『つばさ』におけるゲイリー・クーパーの顔であるとか、それからその後、『ポチョムキン』を持ってきて、アメリカ映画が追求してきた顔の個別性とはどんなものかということ、それから社会主義時代のプロパガンダにおける顔というのがいかに個別性を拭い去って、類としての人間を提示することに専念しているかという事を見ていただいたわけです。
 その後でですね、本当はこの『意思の勝利』が来なきゃいけなかったわけですけれど、その時ちょっとまだ手に入っていなかったもので、今日ちょっとお見せしたわけで、今日はそこから話をするんですね。この前、その後で代わりに見て頂いたのが、ナチスドイツにおけるユダヤ人兵士というもの、アメリカの若い研究者がやった奴があって、その中に、表紙に使われている写真というのが、ブログで何箇所か紹介して頂いたので、ご覧になった方もいるんじゃないかと思いますけれど、つまり理想的なドイツ人兵士の顔だって言って、ポスターに使おうと思った奴が、実は半分ユダヤ人だったという事が判明したと言う写真があって、それを見て頂いたわけですよね。
 つまり、典型的な顔、何々人兵士として典型的な顔と言って持ってきたときに、それがどういう民族、どういう人種であるかというのの境界線がいかに曖昧であるかという問題。その次に見ていただいたのがアウグスト・ザンダーの写真から。アウグスト・ザンダーも、ある種の類的な分類の志向みたいなものはあったんですけれど、それはあまりにも自分の個人的な見解みたいなものに根ざしていて、つまり個別個別の顔を細かく見て行った結果、ある類的な分類をしていこうにも、何かそれが所謂、例えばナチスドイツがやったような人種と言う形で、上からスカーンと分けていったのとは明らかに違う種類の顔と言うのが沢山出てきたわけです。
 今の奴を観て頂いてお分かりだと思うけれど、例えば出てくる奴が、これも特別な機会に五万二千人集めてきたと言う問題があるんで、ある程度選り抜かれた人々だと思うんですけれど、映っている部分には、ほとんど体格にそれほどの違いは無いという事。これはお分かりだと思います。顔立ちという物も、様々な形はしていても、ある一定の非常に綺麗な分類。今映った顔と、アウグスト・ザンダーの写真における――あの中にも兵隊さんの部分というのがありますから――写真と見て頂くと、その中に、ナチの写真、かなり入っていますけれどね。実際問題としては、かなりのずれ方があるという事はお分かりだと思います。つまり、当時のドイツ人を見ても、こんな顔は誰もしていないという事です。
 これは私の友達がやった奴なんですけれど、東部戦線の戦車部隊の写真集というのがあるんですよ。つまり、日々の生活みたいな所をぱちぱちスナップを撮ってた奴がどうも残っていたらしくて、よくそんなものが撮れたなと思うし、よく残ったなと思うんですけれど、例えばはまりこんじゃった戦車を引っ張ろうとしているとか、みんなで飯を食っているとか、そういうつまらない雑然とした部分が延々と続いていく奴。国防軍の兵士なんですけれど、それを見ていると、あんまりでかくない。基本、バランスが全然違うような気がする。頭部とのバランスで見た感じでは、平均して165ぐらいしかない感じがするんですよ。人間の身長と言うのは、実はこの間まで意外に低かったんだという事を認識しておいたほうがいいと思うんです。
 例えば、かなり古い時代の話というと、私がデータとして持っているのはフランス革命戦争ナポレオン戦争の時のしかないですけれど、あの時の平均の時のデータと言う奴があります。155センチぐらい。だいたい。そこのところで行って、マックス、一番多い所で160を超えてないですね。フランス人。当時。もっとあれなのは、兵役が前倒しになる事があるわけですよ。有事になっちゃって、兵隊さんの数が足りなくなると、18で取っていた兵隊を17で取ったり、1814年の最後のフランスの本土決戦の時、16歳でマリー・ルイーズ新兵というのを取っています。これは16から取っていますね。一年前倒しにするごとに、兵隊の平均身長が下がっていく。
 これがどういう事かわかりますか。今だとだいたい17、18ぐらいになると、身長ってだいたい伸び切っていると思うんですけれど、当時の若者というのは、その段階でまだ身長が伸び盛りって事です。だから、一年兵役が前倒しになると、ちっちゃくなっていく。だから大体フランス軍の兵隊と言うのはすごく小さい。160前後ぐらいだったと考えていいんじゃないかと思うんですよ。

 そうすると、例えばあれはひどく誇張してあると思うんですけれど、ゴヤのロッシュ・ホワーダムという、スペイン人のゲリラと目された連中を、フランス人の兵隊が処刑する場面の絵と言うのがあるのをご存知だと思います。あの時のシャコ帽をかぶっているフランス軍の兵士と言うのは、頭部だけで三分の一ぐらいあるような描き方をされている。あれはもしかすると本当にああいう風に見えたのかも知れないですよ。小さいです。それよりも上という所にくると、例えば大体貴族の平均身長、170ぐらい。これ、この間ゲーテの墓場をチェックやった時に、出てきた遺骨から推定されたゲーテの生前身長が170センチだったという事で確認できると思いますけれど、だいたいそんなもの。だから今の感覚からすると、すごく小さいですよ。その頃のヨーロッパ人。
 その後、19世紀の帝国主義時代を通じて、凄く栄養状態が良くなったんで、ヨーロッパ人比較的大きくなる部分では、大きくなるんですけれど、オランダ人なんかはそれよりももっと前にかなり身長が伸びたと言われていますけれど、それでも第二次世界大戦当時でも、そんなに大きくはないのかも知れないという推測が成り立つわけですよ。それを言っちゃうと、例えばSSで、180センチで取ったと言うのは、いかに身長面における、垂直方向におけるエリートであったかという事が分かると思います。ただし近衛と言うのは、ナポレオン戦争の時でも180からとっていた。高低差が大きいと考えてもいいと思うんですけれど、これは絶対にドイツを平均的に均した場合に、代表してくる、当時のドイツ人のたっぱじゃないし、かならずしも当時のドイツ人の顔でもないということです。
 ではなぜこんなものを撮らなければならないのかというのを考えると言うのは今回の一つのテーマなんですけれどね。もう一つ、この場面のまとめ方と言うか、多分本番でやったのを**たのかなという気もするんですけれど、この式次第の問題と言うのがあります。多分皆さんの世代はあれだよね。小学校の卒業式のとき、別れの言葉とかいうおぞましいもの、やらなかったよね。私ぐらいの歳の連中、やった奴いるんですよ。ようするに、「別れの言葉」って誰かが言うと、みんなで「別れの言葉」って。「お父さん、お母さん」「お父さん、お母さん」全員コーラスして。「みんなで一生懸命がんばったキャンプファイヤー」「先生たちも楽しそうでした」って言うと、みんなで声を合わせて「楽しそうでした」って絶叫するって言う奴です。ほとんどそれをそのままやってるんだよ。ある集団の属性を確認するためにこういう形で、言葉をコーラスにして繰り返していくというやり方は、既にこの当時あったという事になりますけれど、問題はその内容なんですよ。
 内容ってなんなのかというと、「あなたたちはどこから来ましたか」って扇動者が言う。そうすると「はい、私はどこそこから来ました」「私はバイエルンから来ました」「私はドナウから来ました」「私はシュレジェンから来ました」って延々と言っていく。それでその時にぱっぱっぱっぱっと、あれしていく顔と言うのは、確かにある種の個別性があるんですよ。私は、そんなにドイツあちこち行ってないですが――そもそもドイツ人と圧倒的に相性が悪い人間なんで、行くと不愉快な目に逢うと決まっているから、あまり行かないようにしているわけですけれど、多分典型的な顔という奴を集めてきているんじゃないかと思います。
 この『意思の勝利』、この前の段階で、市民の部というのがありまして、ドイツ各地から民族衣装を着た方々が集まってくるという所があって、これが信じられないくらい誇張された民族衣装なんで、本当なのかなと思うんですけれど、その顔の一つ一つ、きちんと撮るんですよ。ということは、何か典型的な顔みたいな物を撮っていこうという意図がおそらく働いてるんじゃないかと思えるんです。これはあくまで推測ですけれどね。そうしてそのそれぞれの顔にそれぞれの出身地、我々はどこから来ましたと言わせる。そして、その全員が同じ制服を着ている。そして、その全員がずれこむ所が全然ないのね。みんな綺麗に揃っているでしょう。要するに、がたいにおいてはほぼ同じくらいの連中で、なおかつ完全に制服を着ていて、そしてあちこちから来た人間で色々な顔をしているけれど、我々は一つのドイツに属すると。これが個別な物を類に対して統合していくための典型的な方法じゃないかなと私には思えるわけです。
 ついでに微妙に政治的な事を言わせてもらうと、これを言わせられそうになったら、あ、ここはやばいと思って、回れ右して逃げたほうがいいですよ。これをやられそうになったらそれはまずい場所です。はっきり言って。
 で、二番目。映画表現として更に注目すべきだと思うのは、表情と視線なんですよ。なんか変でしょう?普通にぱっと見た時、これドキュメンタリーと言われて納得いかないような、非常にへんちくりんさがある。そのへんちくりんさがどこにあるかと言うと、意味もなく全員ポジティブな顔をしている。で、意味もなくポジティブなんだけれども、別に笑ってるわけでもなければ、微笑んでさえいなくて、勿論怒りに燃えているわけでも全然無くて、ポジティブにニュートラルな表情をしているんですよ。無表情。まずその点。それから、目線がカメラに向かわない。これはちょっと面白いでしょう。目線がいつも、ちょっとこっちの方とか、ちょっとあっちの方とか行ってて、画面を見ている我々の方向に向いてこない。この意味をちょっと考えて欲しいんですよ。
 普通ね、人物がアップになったらこっちを見てるものです。映画と言うのは。そこにおいて、私と映像の中に映っている人物が、顔と顔とあわせて対面するという形になる。じゃあ、映画の中の人物が目を逸らすとしたら、彼らはどこを見ているのか。そしてその目線によって何をしようとしているのか。簡単に言っちゃうと、すごく雑な言い方をすると、このどこか遠くを見ている視線が向けられている場所と言うのは、当然の事ながら、壇上に上がっているちょび髭のヒトラーなわけです。そして、同時に、この視線というのはそこを通してどこに向かっているのか。つまりどう考えても焦点があっていないからです。どこを見つめているのかって言うなら、その我らが指導者を通して、未来を見つめている視線だって言うんですよ。そして、その目線によって、観ている我々も同じ方向を向くように指示している表情だと私は解釈しますけれどね。
 しかも、物凄くポジティブなんだけれど、完全にニュートラルです。この完全にニュートラルであるという意味は、ちなみに、これ1934年の党大会なんで、まだ戦争が始まる前なんですけれども、このポジティブで、かつ全く無表情な顔と言うのは、まだどこにも向けられていない。我々はこれからどこへ行くんですか。命令してくださればどこへなりとも我々はそこへ参りますと言う表情。まだ、どこに行こうとか、ここに行こうとか言う意思が発生する以前の、非常にニュートラルな待機状態にある表情。言っちゃったら非常に空疎な表情ですよ。まだ何も発生してない状態の表情。ただ単に属性を並べて、そして我々は単一の集団として、単一の意思に従って、ある行動を取る準備がありますというだけの表情。で、この空疎な表情をですね、どういうふうに撮っているかというと、微妙にあおり気味なんです。この微妙なあおりというのは非常に重要な所だと思うんですが、微妙にあおる事によって、その顔というのを非常に崇高な表情として撮ることに成功している。そういう所、上手いですよ。レニ・ルーフェンシュタール。
 つまり今観ていただいたのは何かと言うと、全ての国民が、どこから来た人間であっても――全員制服を着ているという事は、その出自が全部隠されているという事、言っちゃったら、親が何者であるかとか、家がどのくらい金を持っているかとか、あるいは親が夜逃げしちゃって子供一人残されて、なんとかかつかつ生きてきましたみたいな奴もいるかも知れないけれど、そういうものは全部無くなって、均一の出自の均一のドイツ人になっている。で、この連中と言うのが、言っちゃったら、永遠の指示待ち状態に置かれているという、ある状態を表現したのがこの映画です。きもいでしょう?一口で言うと。で、要するにこの状態を私は総動員と言うんですけれど。
 実を言うと、19世紀、20世紀と総動員の問題というのは、今考え中の問題の一つではあるんですけれどね。で、とどめがあれでしょう?あの音楽でしょう?ナチの歌で有名なのはいっぱいあって、欲しい人はですね、CDありますよ。もしかするとまだ出ているのかも知れないんですけれど。えっとね、"Rise of Fascism"とかいうのがあるんです。この中にですね、「ドイツよ目覚めよ」という有名な歌が入ってて、有名な歌だって言うのは知ってたけれど、聴いたことはさすがになかった。歌詞は読んだことあったよ。かなり馬鹿な歌詞だったけれど。(こういう歌です)
 嵐がやってくる。嵐嵐嵐。嵐嵐嵐。街から街へ。村から村へ。谷から谷へと鐘を打ち鳴らして。ようするにドイツ人を目覚めさせよう。我々をやっつけるために敵がやってくるのだという、まあ好戦的な歌なんだけれど。でもそこから先もとにかく馬鹿だと思ったら、歌詞だけじゃなくて、曲をかけた瞬間に爆笑しました。はっきり言ってね、まともな神経のある人間の耐えられる音楽じゃありません。これもかなり馬鹿だけれど、「ドイツよ目覚めよ」はもっと馬鹿。
 それで、やっぱり信じられないのは、彼らがもっと違う音楽を聴いていただろうという事ですよ。だって、「ドイツよ目覚めよ」はもっと前なのかな。20年代か30年代にかけてですよ。ドイツって言ったら、その前に、19世紀のクラシック音楽の滔滔たる流れから含めて、現代音楽の粋みたいな奴と言うのは当時いくらでもあった。それから完全に現代音楽的な先端に行っていないとしても、リヒャルト・シュトラウス的なものもあれば、フェルッチョ・ブゾーニ的なものもあれば、後に退廃音楽のレッテルを貼られてくるような非常に多彩な音楽の流れと言うものが、所謂古典音楽の中にもあった。それから、既にジャズが入ってきています。そして、そういうものを融合するような形で、クルト・ヴァイルなんかが、例えば皆さんが良く知っているようなものだと、三文オペラであるとか、ああいう種類の音楽を作っていた。
 ところが、それに比べて、それが普通にラジオから流れていたはずの世界で、この音楽って信じられないでしょう?凄まじい趣味の退化だと思う。これかっちょいいって言って、みんなで歌うと言うのは。まあいいんですけれどね。
 この話も多分どこかで書いたから、皆さん知っているかも知れないですけれど。ただ、これもバッジオと一緒に共訳した奴から聞いた話なんですけれど、戦争が終わって、ドイツ軍の捕虜をこうやって一箇所に閉じ込めて、捕虜収容所に入れておくわけですよ。そうすると彼らはとっても音楽が好きだからね、毎日毎日声を揃えて合唱するのね、こういう曲を。そして、もっと芸が細かいんだってさ。そこが嫌なんだけれど。適当に良い所でハモったりして、ハモるの上手いんだってさ。それで、一番最後の所になると、ふぁーっと全員がぴったりあわせてリタルダンドかけて、ぷっと終わるんだって(笑)。それを聞いていたら、確か捕虜収容所の所長ってのがイギリス人だったと思うんだけれど、朝も晩も朝も晩も朝も晩も、ふぁーっとリタルダンドかけてぱっと終わるって言うのを聴いてたら、ノイローゼになっちゃったんだって(笑)。分かるよねその気持ちははっきり言って。凄いなこれって言う話なんだけれど。
 ごめんなさい、閑話休題でしたけれど。これが一つの言っちゃったら、総動員というのを可能にする、類化された顔と言うのはこれだって言う。人間を完全に類に還元して、それから類としての動きの中に、運動の中に閉じ込めておくために、これが望ましい顔ですよと提示される種類の顔というのがこれだっていう事です。その問題なんですよね。
 でまあ、ちょこちょこ色んな本を読んでます。ある種、何って言ったらいいのかな。物凄く軽薄に言っちゃうと全体主義なんですけれども、19世紀から20世紀にかけて、ある一定の政治的なムーブメントを起こして、なおかつその過程で多大な犠牲を自国民にも他国民にも強いた政権と言うのに、一つ共通する特徴があるんですよ。それは何なのかというと、人間を新しくすると言う。人間を全く別の存在にするという。人間を、我々が掲げている政治的な目標と、それを達成するために払うべき犠牲、これに耐えられるだけの新しい人間に鍛え上げるというような言い方をする。そのある一つの模範として、こういう映像と言うのが存在する。そして、言ってしまったら、それを物凄く格好のいい、崇高な物として国民の前に提示することによって、プロパガンダ映画がプロパガンダとして機能するわけです。
 これはちょっと違う形ですけれど、微妙に****と違うんですよ。強いて言うとね。社会主義圏の、共産ロシアにおけるプロパガンダ映画にも共通して言えるある事だと思います。ただ、人間の顔の好みというのは凄く違うんだよね。まあ顔の好みの問題がどうと言ってると長くなっちゃうんだよね。それは止めておこうと思いますが。

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 例えば監督が誰だったか忘れたんですが、『ベルリン陥落』というソ連戦の戦争映画があります。勿論プロパガンダ映画なんですが、これの主人公ってね、普通こういうのを主人公に選ばないって顔している。
 彼らにとっては、なんか非常に、微妙に心地いい顔なのかも知れないけれど、ああいう顔を主人公にしようと思うのは、あの頃のロシア人だけじゃないかという気はするわけですけれどもね。それで、これは言ったら、凄く政治的な目的における類としての顔と言う奴をあれしている。本来これは前の回に入るべきものだったんですけれど。それとちょっと別種の機能を果たす種類の類化した顔と言うのが、フィクションにおいては存在しているっていう話で、次に行きます。




フィクションにおける機能だけに人物を還元していくとどうなるか

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(ここで『そして船は行く』のワンシーンが映された)

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 これが83年の『そして船は行く』という、フェデリコ・フェリーニの映画です。フェリーニの映画と言うのは、実を言うとですね、もう一本『カザノバ』があるともっと良かったんですけれど、『カザノバ』は二月の二十八日に新しくリリースされるということで、今日持って来れなかったんですけれど、ある意味非常にデフォルメされた顔を好んで使う傾向が元々あるわけです。この時は、なおさらそれに徹底していたという話がありまして、つまりキャスティングの段階で、役者の写真を集めるんですけれど、その時に徹底的に、これは設定は1914年で、ついでにこの映画に関して関連付けて言うんであればあれなんですけれど、タイタニックが沈んだ二年後という風に考えていただければいいんですけれど、エドワード朝的な顔と言う奴を選りすぐって、つまり、あの時代の写真にあるような顔と言うやつを選りすぐってキャスティングしたというふうに考えてください。つまりある時代とかある状況をセットや衣装だけじゃなくて、人間の顔そのものによっても表現しようとしたわけです。
 ごめんね、今強烈にタイタニックに対する悪口を言いたくなっているんですけれど、つまりさ、あれも衣装は着せたわけですよ。まあご婦人のタイツが縞であるとか色々な問題はあるにしても、見た目はとりあえずなんかそれらしく見える。あの当時と全く完全に同じ仕立てをしろとは私も言わないんで、例えば『天国は待ってくれる』という映画があるんですけれど、あの『天国は待ってくれる』って、すっごく衣装は良く出来ているんですよ。信じられないくらいに、シルエットとか仕立てとか、雰囲気が出ているにも関わらず、ありえねえって思うけど、女の人が後ろ向くと分かるけれど、後ろ全部びーってファスナーついている。後ろ全部ファスナーびーってついたドレスなんて、あの当時有り得ないわけですけれど、むしろどちらかと言うと、後ろにファスナーついた縫製で、カッティングで、あの上と下が分かれてないとできないあのドレスのシルエットを出している。そこだけでもちょっとした感心なんです。
 だから、そういう事に関して小うるさい事を言う気はないんですけれど、ある程度まで、あくまである程度までですけれど、衣装に関してはちゃんとしたものを揃えようとした。で、船に関しては、その後で他の映画に使えるくらい徹底してタイタニックの内装を再現したと言われているにも関わらず、人間の顔を全くチョイスしてないんですよ。あの映画は。それどころか、俳優達に対して、そういう演技をするように指導さえしていない。あるいは、キャメロンにはそんなことは元々出来なかったと言ってもいいわけですけれども、そういう関心がそもそもない映画だと言ってもいいと思います。その結果、それを全部船に乗せてもさ、どうもタイタニックには見えない、というかあれを最初にタイタニックだと思って観た人はそう思うかも知れませんけれど、タイタニックには見えないという事になっちゃっている。
 これはその正反対なんですよね。つまり実になんか、それらしく出来ている。特にフェリーニによくある顔のバリエーションだと言われればあれですけれども、娘がスープをこうやってあおったんで叱っている母親って、ソプラノ歌手なんですけれど、顔ってなると、恐ろしい顔をしていて、綺麗なんですけれどね。それも含めて、カメラに写されている事を意識していて、髪の毛を直していたあの口髭の男とか、それからサー・レジナルドって呼ばれている、目をぎらぎらさせた女房の事を脇にして虎の話をして女房に当て擦っている――あれ、非常に倒錯した夫婦なんでああいう不思議な関係になっているんですけれども、そういう所まで含めて。あとね、この映画、これ凄いと思ったのは、ピナ・バウシュのキャスティングなんですよ。ピナ・バウシュってダンサーで、映画の女優ではないです。調べてみたけれど、自分のダンスの映画とか、それから製作ドキュメンタリー映画には出た事がないんですね。ただダンサーとしては非常に有名な人で、このとき1940年生まれだから、43歳だったと思うんですけれど、彼女連れてきて、しかも目が見えないっていう設定なんですよ。だから目線が全然動かないのね。
 好みにもよると思いますけれど、私この映画観た時に、信じられないくらい美しい女だと思いました。こんな綺麗な女見た事がない。つまり、この前の段階で、裾を引いて、目が見えないからステッキを持って、こうやって歩いてくるんですけれど、その歩いている後姿からして美しいわけですよ。ダンサーだからしょうがないけどね。あるいは次の翌日の場面で、その甲板に出て、手すりにこうやってもたれているという後姿を撮るんですけれど、そこの所だけ、目線が集中するくらい美しい。凄くきちんと立っているわけですよ。で、顔を見ると、ああいう非常に謎めいた顔をしているわけです。しかも、横顔とかも美しい。それから不思議な声しててね。このキャスティングは凄かった。ただ、これもある形にきちっとまとめられている。
 ただ、顔を見て頂ければ分かると思いますけれど、造作の問題だけじゃないって言うのはこの事なんですよ。造作の問題だけから言うと、こういう種類の顔と言うのは、もしかするとよくいるのかも知れない。だけど、あそこ、ヴッパタールのステージ観た事のある方で、もしかするとカフェ・ミュラーというのを観た方おいでかも知れませんが、このカフェ・ミュラーというのはね、どう説明してみようもないですけれど、なんかもう観ている間に、凄い物を見ちゃったっていう感じがして、どう凄いのかって言われても困りますけれどね、なんかずぶずぶのどろどろの女流小説を百冊ぐらいまとめて鍋で煮込んで、一滴だけエッセンスを取り出したみたいな。それで、本人も出て、もう凄い歳ですよ。観たのは去年ですから。でも、自分も出てやってましたけれど。そしたらさ、プログラムを見ると自伝的作品って書いてあるんですよ。これが自伝てどういう人生送ってきたんだあんた、っていう気持ちがついしたんですけれど。
 結局そういう事まで全部含めて、ある一瞬で、ある人物を表現できる顔だとフェリーニは認識して、それでそこに持ってきたわけです。これ凄く決まってるんですよ。この段階だとあれですけれど、後の方まで観て頂ければ分かりますけれど、典型的なファム・ファタールとして登場していると考えて頂くと、あの顔と言うのは納得がいくんじゃないかと思うんですけれどね。
 だから、一見個別的でありながら、非常に類的な顔だという事です。あるいはもう少し別な言い方をするならば、非常に綺麗にブラッシュ・アップしてはあるんだけれど、顔を集めてくるための意図としては、アウグスト・ザンダー的な意図があったという風に思ってもいいんじゃないかと思うんです。
 それで、フィクションにおいて類化していく――いや、政治的な類化というのはやばいという話はさっきのあれで十分だと思いますけれど――フィクションにおいては割合大胆な類化、つまり大胆にある人物を類型として捉えていくという事が行われる事があります。
 例えば、小説で言うと、ヴォルテールの『カンディード』みたいな書き方がそれです。つまり人間から個別の特徴みたいな物を全部とっぱらって、本当に基本的な物語における構成要素だけに還元していくんですよ。ヴォルテールの『カンディード』って。これはヴォルテールのコント全体に言える事ですけれど。その上でですね、『カンディード』というのが他のコントよりもちょっと違う方向に行ってるなというのが、フィクションにおける機能だけに人物を還元していくとどうなるかと言うと、動きが強烈に**。人間的な拘束みたいな奴を全く外れて、だってそうなっちゃったら普通に操り人形みたいな物だから。どんどんどんどんどんどんどんどん転がしていく事が出来る。話の中で。ヴォルテールの『カンディード』っていうのは、こんなに薄いのに、これ一冊で、プルーストの五倍とか六倍とかあるぐらいのバロック小説の内容を全部やっちゃった。その事によって効果を上げているという話です。つまり、この薄さで、岩波文庫、そんな厚くない奴一冊です。しかも半分くらい解説ついている。半分までは行かないか。その薄さの中で、主人公が、ほとんど性格のない主人公がどんどんどんどんどんどんどんどん、この境遇から次の境遇へ。次から次へと不幸の限りを尽くしていくのを読んでいると、我々はなんとなく、微妙に、そこの所に、あるフィクション的なおかしさを感じる。こういう形で類化というのを使うこともあります。『カンディード』というのは多分小説について話をする時にちょっと外せないある技法を持っている一冊だと思うんですけれど。
 もう一つ別種の、ある種この映画というのは、人間の顔に関しては極端な単純化を行っています。映画というのは顔しか映らないものですから、顔が単純化されるという事は、何なのかというと、その行動も心理も全部単純化されているという風に考えていいわけです。その非常に単純化されて、ある方向性に全ての人物を、現実では有り得ない方向に膨らましていく、つまりカリカチュア化されているわけですけれど、そこから生まれるある単純化された行動と心理と言う物を凄い造形力で捉えているんですよ。
 ごめんなさい。私実は昨日ね、フィルムの中で、ピナ・バウシュの顔をどこから取ってこようかな思って観始めたらね、つい三分の二観ちゃったんですよ。その後で、ビデオにとるために、後で出てくる場面の所を探していたんですけれど、観始めたら、最後まで観ちゃったんですよ。なんでそういう事になるのかというと、物凄い造形力なんです。信じられないくらいの造形力を発揮している。それをきちんとフィルムに捉えていくんです。
 ただし、極端にカリカチュア化されているというんですけれど、実はある一人だけカリカチュア化が及んでいない人物がいるんです。これはね、一番最初に観た時も変だと思ったの。これは私はミスだと思ってたんですよ。そしたら、つくづくこの前真面目に考えてみたら、いやミスじゃないだろうという事を考えていた。それについては後で見て頂こうと思います。つまりある時代と言う奴を捉えて、その時代の中のある雰囲気みたいな奴、そしてその時代の運命みたいなものを捉えていくために、フェリーニは凄く類型化された顔と言う奴を選んできているという事ですけれどね。
 もう一つ言っておくとね、今日ヴィスコンティ持って来ようかなと思ったんですけれど、ヴィスコンティは止めたんですが、ルキノ・ヴィスコンティが、『魔の山』を撮りたがっていたという噂があるんです。あわねえって思ったんですけれどね。ルキノ・ヴィスコンティと『魔の山』は絶対あわないんだけれど、この映画を観た時に思ったのは、ああ、フェリーニだったら『魔の山』は撮れたと思った。フェリーニだったら『魔の山』の一番本質的なところをがっつり掴んで持ってくる事が出来ただろうという風に思った。映画化って言ったって、原作はどっかに行っちゃったような映画化っていうのもあって、映画として成り立っていればそれでいいわけですけれど、やっぱり原作が好きな人間というのは、なんか原作に関してきちんと踏み込んだ物を撮って欲しいなとつい思うわけですよ。いつもそうかと言うと、そうじゃなくて、関心のない作品はどんな撮られ方をしようと結構へらへら観て、笑って、そんな事に拘っている人間を見ると、後ろ指を突きつけて笑う悪い癖がみんなあるわけですけれど。
 ここでやろうとしたというのは、後半まで観て頂ければわかりますけれど、すごいの。フェリーニらしからぬテーマなんですよ。ヨーロッパ世界の没落という問題を扱っている。そこから何が出てくるのかという問題まで扱っているというのは、一つだけ例外があった顔っていう中に表れていて、果たしてそれでいいのかどうかというのはちょっと微妙な問題があるんですけれど。

一定の社会的地位を持つご婦人だろうという推測をすることはできても、彼女自身がどういう人間であるかに関して、この絵はほとんど何も語らない

 じゃあちょっとざっくりやりましょう。顔というもの、特に政治的な物を外してですね、元々顔というのは類的な物と個別性がせめぎあうような側面があるんですが、言わばその典型として見て頂きたいのが肖像画なんですよ。ヨーロッパの美術館に行くと凄く沢山肖像画があるわけです。例えば歴史に凄く興味があると、あ、あの人の顔はこんなだったのかというのを見るために肖像画を見るという楽しみがあるんですけれど、ある程度美術的な物に関して馴染んできちゃうと、肖像画ってあまり気持ち良くなくなっちゃう瞬間があるんですよね。でも、その先に実は結構肖像画って言うのは非常に面白い問題をはらんでまして。



 これはウフィツィにある奴。アーニョロ・ブロンズィーノ『エレオノーラ・ディ・トレドと息子の肖像』です。ブロンズィーノというのは、マニエリスム時代を代表する画家の一人なんですけれども、ちょっとそういう問題はおいておいて、この絵が一体何を描こうとしているのかという事を見て欲しいわけですね。
 子供を連れているという事は、結婚して子供のいる母親だろうという風に考えられるわけですけれども、例えば母親としての側面。子供に対する深い愛情みたいものを示そうとしているかというと、そういう事はなく、顔はあくまで無表情という。これはブロンズィーノあたりの肖像画のある一つの特徴なんですけれどもね。それよりもこの絵を見たときに、みんな印象に残るというのは、この凄まじい衣装。これはもうちょっと細かい奴を見て頂ければ分かりますけれど、柄の所が、金糸の縫い取りと、それから別珍の浮き出しのあれになっているんですよ。**として考えた場合になかなか。まあ今だったらね、こういう***ちかにもあるという。当時の技術でやろうとしたら大変なことなんです。
 それからこのでかい真珠。養殖真珠がある前ですからね。今だってこんなでかい真珠、養殖真珠でも多分ないし、今でもこんな物を揃えるのは大変ですけれど、この当時、南洋真珠でこれだけ集めるのにどのぐらいかかったのか。それを考えると、つまり彼女の着ているものがとてつもなく高いという事が分かる。
 簡単に言っちゃうとね、これはヨーロッパの古い肖像画とか見るポイントですけれど、肖像画というのは依頼主が画家に頼んで描いてもらっている。そして、その中で、この前ザンダーの写真の時にも言いましたけれど、自分がどういう風に見られるかという問題に関して、ある一定の注文をつけて描いてもらっています。だから、こういう物を着て描かせたと言う事は、彼女はこの服を着たくなかった、この服で自分の姿という奴を、五百年の後までさらしたいと考えたんじゃなければ、絶対この服を着て出てこないという事です。その事によって、彼女は一体何を、今に、要するに自分の事を知っている人たちあるいは知らない人たちに伝えたかったか。勿論美術館なんていうものを予想してなかったでしょうから、こんな物がウフィツィにぶら下がって、すっげー真珠、とかって見て感心する人が出てくると彼女は予想してなかったと思いますけれど、そこで彼女が狙ったのは何なのか。
 簡単に言っちゃうとこういう事なんですよ。つまり私はこんなに凄い物を着ています。こんなに凄い物を着ている理由はお分かりでしょう?それは私がいっぱいお金を持っているから。これはちょっと括弧に入れてください。つまり、社会の構造が今とちょっと違うから。で、こんな物を着ているあたしというのは、物凄く社会的地位の高い人間なんですよ。これがメッセージ。言っちゃったら。
 つまり、着ている物とか背景にある物を含めて、後ろの方に色々な物を描くケースもあります。特に後になってくるとそういう事が出てきますけれど、そういう時に、肖像画が伝えようとしているものと言うのは、描かれている人物の社会的なステータスなんです。これは特に近代以前の肖像画において、非常に顕著な傾向だという事が出来ると思います。色々あるけれど、今回逆に言うと、比較しちゃうと面白いのがさ、この辺なんですよ。



 これね、デューラー肖像画です。デューラーというのは、画家として非常に優秀な人で、しかもビジネスマンとしての才覚もありましたから、そういう意味ではきちんと社会的な地位を絵描きなりには持つ事の出来た人です。で、自画像を描くわけですよね。この自画像が言わんとしている事はなんなのかっていうのを、今と同じに美術的な物というのを全部外して、凄くいい絵なんですけれど、いい絵なんだけれどちょっと微妙に。第三者の絵をこういう風に描いたのならともかく、自分の絵をこういう風に描く奴恥ずかしいなと思うんですけれど、それはいいとしてですよ。結構あれでしょう?身形においてはとてもさ、素町人とは思えないくらいいい身形しているわけです。さっきのエレオノーラ・ディ・トレドなんかと一緒にして考えた場合に、デューラーのこの肖像画が伝えようと考えているという事はそれです。
 つまり、画家が自分自身をただの職人としての絵師ではなくて、ある一定の社会的なポジションを持っていて、それに付随してくる富というのをある程度有している人物として、自分の事を描いています。言っちゃったら、すごく大胆な宣言を社会に対して行っている絵だという事になるんですね。
 そういう風に考え始めると、実はですね、肖像画というのは俄然面白くなってくるわけでして。
 これはヴァン・ダイク。ヴァン・ダイクっていうのも現物を見ると良いわけですよ。だいぶ前だったけれど、ミラノに行った時に、ミラノ・ドームの脇の所に展覧会やる所があるんですけれど、そこでヴァン・ダイクの特集をやっていて、夜の七時くらいだったけれど、開いてたから入って、物凄い極楽を味わいましたけれど。こういう感じの肖像画。ただ、例えばエレオノーラ・ディ・トレドなんかと、ヴァン・ダイクがちょっと違ってくるのは、顔の表現の仕方に、ある非常な一定の節度を持った上でですけれど、描かれている人間自身の持っている、ある個別の顔みたいなものを表そうとしている。
 つまり、エレオノーラ・ディ・トレドは、綺麗なんですけれど、本当にあんな顔をしていたのかというのはよく分からないし、本人が、あの顔というのは、もしかしたら、全然別の人間の顔であっても――顔だけね――少なくとも後世の我々にはとっては何一つ変わらない。もっと恐ろしい事を考えると、多分彼女の周りの人間にとっても、あの顔が別の人間の顔であっても、誰もびっくりしない。何も問題は起こらない。それで世の中万事回って行くという種類の顔なんですけれど、ヴァン・ダイクになると明らかにそういうものじゃなくなってくるわけですよ。これも凄いですけれどね。真珠。要するに今、こういう時期になっちゃうと、真珠の首飾りくらい、女の子だったら大学入って一本ずつもらうものだという気はするわけですけれど。この当時の真珠というのは、今と全然意味が違いますから。



 で、あるいは。これになってくると、自分の内面みたいなものを描き出して欲しいという願望が非常にはっきりしてきます。これはまあ、服装を見て分かりますけれど、プロテスタント********。
 あるいは。肖像画って言ったらこの人でしょう。事実上の衣服以外――これはよくファッションの資料でよく出てくるやつだと思うんですよ。これゲインズボローですね。ゲインズボロー肖像画っていうのも凄くいい感じなんですけれど。そうなってくると肖像画って何を意味してくるかというと、その時代の――直接の身内とかじゃなければですよ。あるいはその人物に何か共感しているとかいう状況がない場合には、あるいはそれさえ出来ないぐらい**な肖像画って沢山ありますけれど、それを見る者にとって、意味を持ってくる人間というのは、ある社会的な状況の中に置かれていた、ある人間について考える事が出来るからだという風に言ってもいい。



 でね、物凄いロマンチックな例というのを挙げましょうか。これはしょうがないって言えばしょうがないって私は思うんだけれどね。これです。どこの王妃様じゃないんですよ。これイギリスの**です。これ物凄く大きな絵になっちゃってるんで、半分ずつしかお見せできないんですが、下のほうのドレスはこうです。赤と白でさ。しかも駝鳥の羽持ってさ、頭にも駝鳥の羽てんこ盛りにしてさ、マリー・アントワネットの駝鳥の羽問題って知っている人は知っているよね。凄いんですよこれ。当時これを手に入れようとしたら。この顔でしょう?で、確かですけれど、このご婦人ね、フランス革命の最中に何を考えたかフランスに渡りまして、そこで百姓にとっ捕まってぶち殺されました。この顔で歩いていたら、どんなひょうげんそうをしていてもきっと殺されただろうと私は考える(笑)。
 で、実は今日一番多分メインにしなきゃならないというのはこれなんです。つい微妙に、こういう話を始めると少しフェミ入っちゃうんで、その辺はお許し頂きたいんですけれど、例えば、ある意味しょうがないんですよ。肖像画の上手下手に関して言うと、実はですね、凄い有名な絵描きでも、肖像画全然駄目な人がいるんです。逆に言うと、肖像画を描かせると一品なんだけれど、で、近代になると肖像画しか描かない人出てきますけれど、例えばトマス・ローレンスなんかがそうです。ほとんど肖像画だけだと思うんですけれど、他の描くと全然駄目って人いるんですよ。



 で、これはアングルですけれど、アングルは普通に絵描きとしてもいい感じなわけですけれど、肖像画を描かせても非常に上手い。ただし、ここで描かれているご婦人というのがさっきのエレオノーラ・ディ・トレドなんかと同じような描かれ方をしているというのは多分お分かりになると思います。この絵、凄いいい感じなんだけれど、現代には存在しなくなった種類の服だよね。着る事を考えるとぞっとするでしょう?似合うって言われても着ないから。



で、ちょっと見えにくくなっちゃっているけれど、彼女物凄く質素に見せてはいるんですが、それなりにきちんとはりこんでやっぱりやってます。で、別珍は印刷の具合で少しグレーっぽく見えるけれど、黒だったと思うんですね。黒い別珍で、手に持っている扇子って言うのが、鼈甲をつづった扇子なんですよ。で、そこの所に、金で柄が描いてあります。このショールっていうのが、ショールも当時アングルが肖像画を描く時によく一緒に描かれます。ショールって高いんですよ。安くてもニ、三百万するって考えてもいいと思います。インドから持ってきますから。これを、ジョゼフィーヌがね、亭主からせしめては買い、せしめては買いして、ろくすっぽ巻きもしないで部屋の中に捨てといて、犬がそこに寝ていたという話がありますけれど。で、刺繍が入ってたりなんかすると必ずあれするんですね。これも少しですけれど刺繍入ってます。肖像画、特に女性の肖像画っていうのはこういうものです。ところが、エレオノーラ・ディ・トレド――勿論彼女は伝記的な事を調べてもずっと色々な事があるわけですけれど――なんかと同じで、例えばこの肖像画を見たときに、この女性に関して何かいえるかというと、分からないとしか答えようがない。つまり、あまりにも綺麗に顔が描かれているんでね。ようするに、彼女が一定の社会的地位を持つご婦人だろうという推測をすることはできても、彼女自身がどういう人間であるかに関して、この絵はほとんど何も語らない。
 語らせる方法というのは別種の事になってきています。話が随分それてますけれど、ちょっと堪忍してくださいね。例えばね、そういう描き方をしながら語らせる方法というのは、えーと、古い時代ですけれど、これも16世紀。こういうの。



 ね、顔なんか見ただけで、要するにある若い男で、それなりに地味は地味なりにあれな感じというのはお分かりだと思いますけれど、この絵を特徴付けているというのは、例えばここでめくられている本。このかなり厚い本。あるいは、ここに折って描かれている手紙。それからどうやら花びららしいものが散っている。そして、何よりもこの絵を変な物にしているのが、ここに描いてある蜥蜴なんですよ。蜥蜴が一匹、ちょっと陰になってますけれど、布のおじの陰の所にいって、この顔をみつめている。
 これは今日となってはほとんど読解のしようのない何かなんです。多分かなり調べている人でも、正確な確信に行き着くことは出来ないと思います。これはあくまである蓋然性の範囲で言うしかないわけですけれども、多分この蜥蜴も手紙も薔薇の花びらも、この男にとって非常に個人的な何かなんですよ。そして、この絵を見た内のもしかしたら何人かには分かったのかも知れない。その事によって、この肖像画は、他でもない彼自身と、それから彼の事を良く知っている人間にとっては、ただ単に顔が描いてある、ある社会的な地位をもった人間の絵姿ではなくて、確実にこの人間自身、この個人というものを指し示す何かであったはずだと考える事ができます。これがつまり、もう少し違うやり方ですね。そうじゃないんだとすると、何を追及していくのかというと、**ですね。私に言わせると。



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