佐藤亜紀明治大学公開講座第四回(2007.12.8)[1]

映像と文学(2)

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1) Bronenosets Potyomkin (1925) Sergei Eisenstein
2) Wings (1927) Willian A Wellman
3) War of the Worlds (2005) Steven Spielberg
 Schindler's List (1993) Steven Spielberg
4) E la nave va (1983) Federico Fellini
5) Menshen des 20. Jahrhunderts August Sander

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一番最初に考えていただきたいのは、人間の顔というのが一体何を意味しているのかという話ですね

 この前お話したのはですね、「顔」の話をするという話をしたんですよね。この前の最後のところで、エイゼンシュタイの『十月』を観て頂いて、プロパガンダ映画としての作りの特徴はどこにあるのか。それは人間の「顔」の扱いだという話をしました。つまり、様々な、この場合は社会主義革命を支持すべき層だとされる人間を、セグメントに分けていく。例えば陸軍の兵士、あるいは水兵、あるいは労働者という形。彼らがフィンランド駅に到着したレーニンを迎える。兵士、労働者、それに対するレーニンというものが、いずれも記号化されて表されている。それにも関わらず、非常な表現としての強度を持っているがために、直接に感情に訴えてくるという話をしました。それで、今回「顔」の話をするという風に申し上げたわけです。
 一番最初に考えていただきたいのは、人間の顔というのが一体何を意味しているのかという話ですね。「顔」と言ったら、普通に人間の顔であるわけですが、電車に乗っていればいくらでも見る事ができるし、普段家に居たって見る事ができる。テレビのスイッチを一つ入れれば、いくらでも見る事ができる、その顔なんですが、その顔というものが、具体的には何を意味しているのか、あるいは何を意味する可能性があるのかという事を考えてみたいというのが今回の話なんですよ。
 電車かなにかに乗っているでしょう?例えば座席に座っていると、反対側に人がずっと並んで見える状況。その時に、こうやって、あまりじろじろみると、特に夜なんかだと、拙い事になる事がありますから、ちろちろとこうやって伺っている時に、我々がそこで見ている物は、まず何なのか。一番最初にぱっと見た瞬間に見えるのは、まず造形だと思うんですよ。その人間の。今回「顔」と言っているのは、具体的に顔のこの部分だけではなくて、例えば雰囲気であるとか、あるいはその人間がどういう風に自分自身をしつらえているのか。髪型とか。あるいは女性の場合はどういう化粧をしているのか。で、より広げた、敷衍した形では、例えばその人間がどういうたたずまい、動作でそこにいるのかとか、何を着ているのかとか、そういう事まで含めて、あるいは目にはっきり見える状況で、表情が表れているとしたら、その表情まで含めた状態の「顔」。これは何を意味しているのかという話です。
 まず顔を見るでしょう。造形が見える。そこで考えるのは、多くの場合、何が見えるのかと言うと、まず目に入るのは人間の顔の造形です。つまりその人間というのが、例えば顔が丸いのか。あるいはむしろやせてとがった顔をしているのか。あるいは都心なんかだと、所謂日本系ではない外国人が乗っていることがあります。それがアジア系という事もありますし、ヨーロッパ系の事もありますけれど、そういうふうな様々な特徴を備えたある「顔」が、まず我々の目の前に造形として飛び込んでくる。これ、純粋に視覚的な像ですよね。その視覚的な像を見た時、我々が何を見るのかというと、概ね二つに分けられる事を、多分同時に感じている。この二つというのが今回のテーマなんですが、一つはですね、その人の属している、様々なある「類」としての特徴です。
 まず、そこに乗っているのが人類であるという事は、分かりますよね。顔の作りによって。あきらかにそこのところで、人間ではない顔の作りをした人間が乗っていたら、人間ではないという認識をして我々はこやって分けるわけです。まず、そこで、ある「類」、人類か否かというふうに、我々は頭の中で分類する。 その次、例えば人類学的に、分類される所の人種とか、あるいは民族的な特徴というものに関して、我々は目にすることになる。ただしこれは、あくまで混血という状況が存在しないという事を前提にした場合にしか、純粋な、ある人種的な特徴などという物は見て取れない。
 だから、分からないんですよ本当に。私がまたひどく鈍感だという問題があるのですが、よくやっちゃうのがね、ある古銭屋に行ったんですよ。そしたら、凄い顔のいい女が座ってたのね。アジア系の。まずこれですよ。まず目の前にいるのが、まず女性である。それから、明らかにアジア系であるという認識をする。しかも、若いという認識をする。それで、次の瞬間に何を見るかというと、こういう所は申し訳ないんだけれど、身形を見ちゃう。で、身形を見ると、結構派手な所にある古銭屋ですから、身形の良い女性なんですよ。非常にカジュアルなんだけれど、お洒落で。それで、こざっぱりした感じをしているんで、私はてっきり日本人だと思っちゃった。そういう認識を持つ私の偏見というのも凄いんですけれど、こんな所に日本人いるよと思って、日本語で話しかけたら、向こうは凄く恐縮した顔をして、私日本人じゃないんですと綺麗なフランス語で言った。多分中国系かベトナム系なんですが。
 こういう分類を無意識に、特に留学生とか、日本人と接触しないで寂しい生活を送っているアジア系というのは、お互いにお互いの事を認識して話しかけるというのを、例えば留学生の多い都市なんかではよくやります。で、結局その結果友達になっちゃうわけですが。ただ、その時に見ているのは、その人間ではなくて、その人間の外見的な特徴なのね。そしてその外見的な特徴によって、その人間が人種的にどこに分類されるかという問題。それから、服装を見たと言いましたけれど、あるいは表情なども含めてそうなんですけれど、そこに、ある文化的な特徴みたいなものを見つける。つまり、その人間がどういう所で育ってきた人間であるのか。例えばヨーロッパでずっと育ってきたアジア系の人間であるとか、あるいは移民でやってきた人間であるとか、移民であるとしても、裕福な移民であるかそうじゃないのかという事を、ぱぱっと見ちゃうわけですよ。その結果、実を言うと、微妙に相手に対する態度というのが変わっちゃうことというのはあるわけですけれど。だから、社会的な特徴ですよね。
 ところが、これというのは、その人間自身という事と、実は何も関係がない。だから、アジア系で、ちょっと身形がいいから日本人だと思っちゃってるという事を言う時に、異常に恐縮せざるを得なくなっちゃうわけですよ。実際問題として言うと、多分ヨーロッパなどを旅行しているのは、今日び日本人より、中国系などの方がはるかにリッチですよ。でも、なんとなくそういう偏見が、バブル時代の人間というのは身に付いちゃってるのね。日本人というと、札束で、これだから、なんていう意識がある。 で、その時に、無視されているものというのは、分かりますよね。その人間というのがどういう人間であるのか。心の中でね。どのぐらいの事を考えているのか。一体、今私の事を見て、何を感じているのか。この店に彼女がいるのは一体何故なのか。彼女はこの仕事が好きなのか好きじゃないのか。彼女は家が近いか遠いか知らないけれど、家に帰ったら何をするのか。今晩何をしようと思っているのか。家に帰ってから後の生活というのは、仕事がひけたあとの生活は幸せなのか否か。フランスに暮らしている事に満足しているのか、それとも国に帰りたいと思っているのか。そういう事というのは、全部我々が見る類としての特徴という奴から抜け落ちるんです。
 今挙げたような様々なこと、もしかすると、学生のバイトで、専門なんかとてつもなく小難しい事をやってる可能性というのもありますし、あるいはもしかすると、家に帰って凄い小説を書いている奴かも知れない。あるいは実は歌を歌うと抜群に上手いとか。そういう内面の生活というのは、どんな人間にも全部あるんですけれど、我々、なかなかそこまで見て取ることというのは難しい。

我々は顔の形を通して、その人間の精神の生活まで感じたり覗き見ているという事なんです

 それにも関わらず、例えばふっとした拍子に、電車に乗っている女性というのが、こうやってメールを打ってますよね。世界中で、メールというのはこうやって打つことになってますけれど。こうやって、メールを打っている時に、ふっとした表情から、あ、この人は誰にメールを打っているんだというのが、ちょっと微妙に察せられる瞬間てあるでしょう。そういう時に、本当に外見的な造作に過ぎないところに、人間の個人としてのあり方がみたいな奴が見えてくる。
 言っちゃったら、それがどこから来るのかという話になると、その顔の固有の造形の問題。それから固有の表情の問題。後は外側に出てくる、例えば、表情なんていうのは、眉がちょっと動くとか、唇がちょっと動くとか、それから目の伏せ加減。そういうものから来るわけですけれども、そこから推察される、ある固有の精神生活。彼女自身の中にある、他の人間には手の触れる事が出来ない、だけど非常に確実なある実体みたいなものが、そこに存在するという事を、我々は感じるわけですよ。
 で、人間の顔と言った時に、ざっと流すと、実は外側だけ撮ったという奴を後で見てみようと思うんですけれど、例えばそれを類としてのみ、見た人間を分けていくという事はほとんどなく、大体の場合、少なくとも地球上の人類に属する人間で、系統としてアジア系で、あるいはヨーロッパ系で、男で、女で、年齢はどのくらいで、というようなこと。で、顔かたちの造作から何からというような物を、類で分けていくことと、それからその他に、彼ないし彼女が持っているある個人的なもの。その固有の、その人間をその固有の人間たらしめている何かという物とを、ないまぜにして人間というのは見ている。
 ということは、自分自身の事を振り返って、その問題に還元してほしいわけですけれども、我々というのは、何人だったり、何系だったり、こういう職業の人間だったりすると同時に、そういう物を全部とっぱずしても残る、ある固有の性質、固有の内面を持った固有の存在である。この二つから人間というのは成り立っている。で、顔というのは、その内面を時々写し出すように見えるんですよ。
 これ、なんで写し出すように見えるのかと言っちゃったら、謎に過ぎないわけですけれど、色んな説明がなされてます。つまり、人間というのは、赤ん坊の瞬間に、見た人間の動作を真似るんだという説があります。
 これね、本当なんですよ。信じられない話。凄く早く消えますがね。赤ん坊はねえ、二歳ぐらい、言葉はまだ喋るか喋らないかくらいの時に、私甥っ子が一人いるんですけれど、子供を見ているのは面白くてね。お父さんの真似をするのが好きなんですよ。男の子は。何をするかというと、だって、お父さんは一日の内ほとんどいないでしょう。そうすると、家にいる瞬間の真似しかしないわけです。で、帰ってくるの遅いから、夜のお父さん見たことない。だから、朝のお父さんの真似しか彼はしない。朝のお父さんの真似というのは何かというと、まず、朝起きて、コンタクトレンズを入れる真似をする。コンタクトレンズがなんだか知らないと思うけれど、なにか、こんな事をして、目をぱちぱちさせてね、その後で、こうやってあれするのを見て、うちの妹はね「コンタクト入れると、必ず髪の毛を上げるんだよねあの人ね」って言う(笑)。それから、煙草を吸う真似とか、信じられないくらい上手いですよ。ぴたっと真似するのね。一瞬父親の顔が浮かんでくるような形態模写でして、ただ、これ三歳か四歳、言葉を喋るようになると消えます。信じられないくらいよく子供が親の表情とかを真似する。それもディテールに至るまで真似をする時期。
 どうもこれは生物学的に規定された物だという説がありまして。つまり人間には本能として、目の前の相手の、例えば表情とかそういう物を真似するという習慣がついている。で、真似することによって、赤ん坊は何をしているのかというと、真似をすることによって、自分の中に引き起こされるものを観察している。従って、たとえば怒った人間の顔をみたら、怒った顔をする。そして怒った顔をしながら、怒るというのはどういう事かを学習する。あるいは、母親が笑う顔を見て、笑う顔の真似をする。そのことによって、笑うという事はどういうことか。どういう時に人間というのは、笑うような感じを引き起こされるのかという事を、実地に、形から入って覚えているという説があります。我々が例えば人間の感情を理解する。表情を見て理解するというのは、そういうところから来ているという説もあります。
 まあね、色んな事をやってますけれど、母親の方も結構真似します。子供に物を食べさせる時にさ、口を開ける母親っているでしょう。なんとなく。ほとんど意味のない行動なんですけれどね。でもやっちゃうわけですよ。目の前の相手がそういう顔をするとその顔をしちゃう。とにかくそうだとすると、我々は顔の形を通して、その人間の精神の生活まで感じたり覗き見ているという事なんです。
 だから、博打打ちの顔とか、大仰にブラフかます奴っていますけれど、一説によると、いい博打打ちの顔は動かない。一切動かない。仮面のよう。ちょっと、準備している話もあって、色々調べているんですけれど、良い外交官も動かないと言われています。いい外交官が動かないというのは非常に不思議な話なんですけれど。古い話に、私の場合なっちゃうんですけれど、タレーランという、ナポレオンの外務大臣だった男がいて、こいつの顔は爬虫類みたいだとか言ってる奴がいる。これは、50ぐらいの時のタレーランの顔ですけれど、つるーっとして、唇をぐっと結んでいて、肖像画なんかでもありますけれど、確かに表情がないように見えるんですよ。だけどね、あの人はね、色んな本を読んでいくと、かなり血の気の多い人なんですよ。本質的には。だから、最初からそういう表情が身についているとはちょっと思えない。
 どのぐらいナイーブだったのかという話をすると、脚が悪かったんで、貴族の家の長男だったんですけれど、一番最初から、聖職者、神父にさせられることになっていたんですよ。で、神学校に行っている間に、サンシェルピスの側だったらしいんですけれど、彼女が出来たらしいのね。ただ、聖職者になるという話になった時に、要するに、そういう事とは全部さよならだ、と彼は、糞真面目にも思っちゃったらしいんですよ。まだ若いからね。二十歳前後。いかにタレーランでもですよ。で、聖職者に叙階を受ける前の晩に、様子がおかしいから友達が訪ねていったんですって。で、友達が訪ねていったらさ、泣いてんだって部屋で。で、物凄く泣いてるから、あんまり泣くからさ、「お前、もうそんなに泣くんだったらさ、僕は神父になりませんて言えよ」って、友達が言ったんだってさ。そしたらなんて言ったと思うタレーラン
 「そんな事をしたらお母さんが悲しむ」(笑)。
 で、これ本当に晩年に至るまで、親孝行な男なんですよ。お母さんが死ぬまでは。だから、タレーラン、ナポレオン時代に何回か引越しをしてますけれど、引っ越しても、必ず母親の家の向かい側とかね、隣とか、スープの冷めない距離に必ずいるんですよ。孝行な息子ですけどね。
 もっと凄いのは、その後、司教に叙階されるということになった。家がいいですから。きちんと教会の出世階段を歩ませてあげようと思ったわけです。で、神父になってからしばらく経ってたし。別に、神父になったからって言って、女出入り禁止とか、そういう事は一切ない。それどころか、お金だって稼げるし、彼女だっていくらでも出来る。人生何もつまんないことは、これでないよって、18世紀の聖職者ですから、そういう風なことは既に分かってたのね。分かってたにも関わらず、タレーランは何故か知らないけれど、司教の叙階で、油を塗られている間に失神しちゃったんですよ。信じられる?凄いナイーブさだと思うんだけれど、でも一体何を考えていたのかというのは謎です。
 ただ、そういう男が晩年になって、蛇みたいな奴とかさ、顔、つるーっとして、何考えてるかまったく分からないとかになると、ああ、鍛えられてそうなったんだなという認識をせざるを得ないわけですよ。で、こう色々悪事を働くんですよね。ついでに言うとね、タレーランというのは恐ろしい奴で、自分で言ってるんですけれど、「私は人の事を騙す。だけど嘘をついたことはない」で、「メッテルニヒは四六時中嘘をついている。だけど、滅多に人を騙すことはない」。だから、顔というのは、そういう物、つまりなまじ偽の表情を作ったとしても、読まれちゃうというのは経験を積んでくると分かってくる。それだったら、表情を一切動かさないほうがいいだろうという認識に、多分彼はどっかで到達したという事なんでしょう。
 そういう形で出てくるものというのが、我々がいつも見ている人間の顔という奴ですよ。文化圏による違いの問題というのは凄く大きいわけなんですけれど。大体どこの国でも、日本でもどこでも、電車に乗るでしょう?電車に乗って、目が、こうすっと通過しない顔というのは、乗ってる全乗客のうちの大体三割ですよ。つまり、目を留めてもあまり不愉快な思いをしないで済む顔。これは大体世界中どこへ行っても、全部同じです。大体三割ぐらいしか、まず見れる顔というのは存在しません。そして、そのうち、うん、あ、結構いいじゃん、というのは、一車両に一人二人いれば良い方。これも世界的に言って、例えばウィーンで市電に乗ってようと、パリでメトロに乗ってようと、ほとんど変わることはありません。で、あ、これは結構な美形だと思っちゃうような奴、はっとするような奴というのは、一週間滞在していて一人見るか見ないかだね。それは東京で見る率とあまり変わらないだろうと思います。つまり、美しい人間が存在している率というのは、多分どこの国に行っても大体同じぐらいの率で、そんなものだろうという認識を私はしているんですね。ただ、なんでこんなに異質な顔、別な顔の美醜という奴を我々がきちんと認識するのかというのは、それは極めて謎に満ちているわけですけれど。まあその辺の話からちょっとしてみましょうか。

この信じられない美貌によって、既に死亡フラグが立っている

 最初にちょっと映画を。今日は映画をやるのは短いです。

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 ここで"Wings"のワンシーンが映された。

 これね。若い時のゲイリー・クーパーです。
 物凄い短いですから、よく見ててください。髪の毛の乱れ方とか動作とか。

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 今の奴がですね、二番目に書いてありますけれども、『つばさ』というタイトルで日本語で出てますウィリアム・A・ウェルマンの"Wings"という奴です。1927の無声映画。この場面というのは、アメリカの田舎にいる男の子二人が空軍に志願して、西部戦線パイロットになって悲惨な目に合うという話ですけれども。キャンプに着いた所。同じテントの中にいる、相棒というのが、今見たゲイリー・クーパーなんですよ。ここの所、なんで出したかというと、顔の話しちゃうと、ハリウッド的な撮り方という奴の話を否応なくせざるを得ないので、このゲイリー・クーパーの顔を見て欲しかったんです。
 もう一つは、所謂ハリウッド的な美男美女の典型的な撮り方というのが、27年に既に出てきちゃっている。で、この演出、もうちょっと前から取っても良かったかと思っているんですけれど、一番最初、テントの中の、ポットって言うか、仮寝台に向こうむいて寝ているんですよ。背中しか映らなくて。それで寝ている所の上空を、飛行機が通っていくのが、キャンプの中に影になってすぅーっと飛行機の影が通っていく。上空を飛行機が通過した音を聞いて起き上がるんです。だから、ちょっと髪の毛がぐじゃっとしてるんですね。これはゲイリー・クーパーがまだ本当に最初の頃、駆け出しの頃で、主役じゃ全然ないですから。
 起き上がる所が、仰天物の美貌なわけですよ。若い頃のゲイリー・クーパー。髪の毛がちょっと乱れていて、立ち方がなんとなくちょっとだらしなくて、でも態度は気さくなんですよね。で、上着をざくざくっと着て、ポケットからチョコを出して、「いる?」ってやる。「いや、いらない」「お前は?」と言ってこうやって半分分けて、自分は一口だけ食って、それをなぜか靴下の上に捨てて、その後で、出て行っちゃう。
 もうちょっと長く見てると分かりますけれど、これね、出てきた瞬間に死亡フラグが立ってるわけですよ(笑)。つまりさ、夢に燃える若者が前線にやってくるじゃん。そうすると必ずさ、そこで悲惨な死を見てさ、戦争って結構怖いって一瞬思うという。そのためにゲイリー・クーパーは出てくる。この信じられない美貌。この信じられない美貌によって、既に死亡フラグが立っている。不思議な話なんですけれど、無声映画時代のアメリカ映画って、非常に反戦的な色彩が強いです。この映画も勿論そうなわけですけれども。男の子二人出てくるパイロット物って言うと『パールハーバー』とかもあるわけですけれども、もう少し別なあれもありますけれど、両方に一人ずつ恋人がいるか、一人の女を争って揉めている間に何か悲劇的なことになっちゃうか、大体どっちかですが、これはどっちかというと、揉める系なんですが、確か揉めますけれど、ストーリーほとんど覚えてないな。
 27年に、所謂戦争物で、飛行機物の悲劇のパターンがほとんど全部出来ているという。いや、なかなか面白いですから、見てくださいという話で。で、飛行機の撮り方なんかも、一月になったら、もしかしたら、『地獄の天使』、ヒューズが撮った奴、あれをちらっとやるかも知れませんけれど、あれは、実機をまじ揃えて、まじ戦争帰りのパイロットを揃えて、それを実際に飛ばして撮っているという恐ろしい代物。それがいかに恐ろしい撮影だったかというのは、例のパワード・ヒューズの伝記映画『アビエイター』という奴を見て頂ければ分かるんですけれど、実際観るとね、今でもあれを超える第一次世界大戦物の空戦場面てないんじゃないかなというふうな感じの奴なんですよね。
 この『つばさ』は残念ながらそこまでやってないんですが、その代わり、なんとなく上手いのね。飛行機がこう飛んでいる、ある感じみたいな奴を、実際に機影その物を捉えなくても、例えば影であるとか、雲の中をすっと入っていくとか、雲の上に影に落ちているとか、そういう象徴的な場面で上手く撮っている映画で、そういう点でもなかなかいい。
 ただ、ハッピーエンドには信じられないほど終わらない映画です。その中でですね、戦争の悲劇というのを先取りするために、このゲイリー・クーパーを出してくる。わざわざゲイリー・クーパーを出している。多分鈍い監督だったら、戦争の悲劇なんだろ?という時に、模範的なパイロットみたいなのを出しちゃうと思うんですよ。背中にものさし入っているような奴。それより少し鈍くないという程度の監督だと何をするかというと、むしろなんかもう、あまりにも悲惨な目に遭いすぎて、ニヒルになりきっちゃったパイロットというのを出しちゃうんですね。あまりにもニヒルなんで、ああ、死亡フラグ立ってるなとつい思っちゃうわけですが(笑)、どっちでもそうです。
 この映画の結構良いところというのは、普通に気さくな良い奴なんですよ。いかにもアメリカ人的に気さくな態度をとっていて、不思議なことに、ゲイリー・クーパーってすげえ美貌なんですが、アメリカ人以外の役をやった事がない。アメリカ人以外に、多分見えないんだと思う。あんなに綺麗なのに。不思議な言い方になりますけれどね。実になんというか、クリーンでニートな男なんですよ。チョコなんか出すタイミングも物凄く気さくでね。こんな事するでしょ。八の字飛行の練習だーなんて言って、次の瞬間飛行機落ちて死んでますから(笑)。
 注目していただきたいのはむしろこの顔の撮り方。髪の毛ぱらっと落ちたような感じも含めて撮ることによって、この人物の持っている性格みたいな物、それから――だから死亡フラグって言いましたけれど、観てると、ああ死亡フラグだって我々みんな思うんですけれど、そういう所まで含めて、その顔に読み取っちゃう。逆に言っちゃうと、ゲイリー・クーパーの顔というのは、それだけの事を、まだこのぐらいの段階で語る種類の顔だという事です。
 もう一つ、多分指摘しておかなきゃならないのは、ゲイリー・クーパーのこの種類の顔という奴は、あくまでフィクショナルに作られた物だって事です。でね、凄いひどい話なんだけれど、確か「映像の世紀」だったかな。あの中で、赤狩りに関する回があったんですよ。マッカーシー委員会という、ハリウッドが共産主義に汚染されてるんじゃないかと言って、俳優だの脚本家だの監督だの端から呼び出して査問するという事をやりまして、その時に、ゲイリー・クーパーがひっかかってるんですよ。どういう事情だったのか良く分からないんですけれど、その時のフィルムという奴が残っていて、これがもう、ちょっとね。いや、良いですよ。これも今のゲイリー・クーパーと同じくらいお勧めできます。つまりね、査問されながらね、腕時計をこうやってぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちね、外したり留めたり外したり留めたり、もしょもしょもしょもしょしてるんですよ。
 すごいチキンなのね。あいつ(笑)。
 あんな所に呼び出されて、あれで俳優生命絶たれちゃった奴いっぱいいますから、恐ろしいのは分かるんですけれど、それにしてもこんなにはっきりびびってる奴ってはじめて見たような気がする。だから、こういう感じの非常にヒロイックな、明日死んじゃういい奴、というか、次の瞬間死んでるいい奴みたいなのは、あくまで映画的に作られたものです。ただし、そこのところで、自分の顔で、あるいは所作や立ち姿で、完全にそういうフィクショナルな内面みたいなもの、人間の個としてのあり方みたいなものを表現していくというのは、言っちゃったら古典的な意味での俳優の仕事ですよね。

「ハリウッド映画」にある一点、共通している部分というのがあって

 強いて言うならハリウッド的な美男美女の撮り方と言いましたけれど、そういうのの方向というのはここにあります。なんでそのハリウッド的なという言い方――で、基本ね、私映画の話をするとき、「ハリウッド映画」って言う奴いるとね、基本的こっちでぶーってやってますけど。
 つまりハリウッド映画っていうと、とてつもない歴史があって、この間観てもらったグリフィスみたいなキチガイ監督から始まってね、俳優のあり方も映画のあり方も凄く劇的に変わってきた。そういった場合に、ハリウッド映画って、どのハリウッド映画?って聞かなきゃなんないようなところがある。
 つまり、『トランスフォーマー』が、ハリウッド映画なのか、それとも『スター・ウォーズ』がハリウッド映画なのか、それとも『ダーティ・ハリー』がハリウッド映画なのか、それとももっと古い所へ行って、例えばビリー・ワイルダーがハリウッド映画なのか、それとも両対戦間のスクリューボール・コメディがハリウッド映画なのか。全部同じというわけにはいかないんですよ。みんなそれぞれに違う。ただし、ある一点、共通している部分というのがあって、それは人間の顔というものをきちんと撮る。人間の顔というものをきちんと重視して撮る。人間の顔というものを非常に魅力的な形で撮りながら、そこに対して、完全にきちんと内面というものを、非常に分かりやすい形で見えるように撮っていくというやり方には、ある共通点があるというふうに言えるかも知れません。ビリーワイルダーは微妙だけどね。
 まあ、ビリー・ワイルダーの映画ってね、観てると一瞬分からなくなる部分があるわけですよ。『失われた週末』かな。アル中の男がさ、家族に見捨てられてさ、一人で家に放り出されて、完全に、酒飲まないと頭がおかしくなるくらいアル中だからさ、ひとりぼっちになってさ、酒飲もうと思ったんだけど、酒、かたされててさ。酒かたされてるから、どっかで酒を手に入れないと俺は死んじゃうと思っていると、週末なんですよ。土曜日の午後だから、店閉まってるの。酒屋も全部閉まってるのね。飲み屋も閉まってるのね。ニューヨークの街の真ん中なんて、飲む所なんて一軒もないわけですよ。それをね、酒売ってる場所探して、さまよい歩いて出て行くっていう、恐ろしい映画があるんですけれど、例えばその時の、ニューヨークの街、なんとなくね、ヨーロッパに見えちゃう。それを言ったら、例えば『アパートの鍵貸します』は、典型的なアメリカ映画だという言い方ができると思うんだけれど、観ていると、なんとなく微妙に、あるヨーロッパ臭さみたいなものを感じないことはないんです。ちょっとそれはまた雑談です。
 この辺というのが、ちょっと今日ね、ビデオを昨日ちょくちょくまとめた後に、あ、しまったと思ったんですけれど、一番あれなのは、多分ジョン・フォードかなと思って。非常にはっきりすると思います。例えば、あんまりメジャーじゃないんですけれど、『リバティ・バランスを射った男』ってのがありますよね。あの中に、テキサスを準州から州に格上げするかどうかの住民投票みたいなものをやる。それをやっちゃうと、中央政府の管理が厳しくなるので、地元の有力者達はあまり好まないから、それを潰すためにごろつきを雇うというような話なんですけれど、その中でですね、いわゆる西部劇に出てくるサルーン、あそこでですね、昼間からみんなで集まって、政治集会をやって話をする。
 そこのところを観ていただきたいんですけれど、要するに、一人一人の顔というのがきちんとあって、一人一人の人間というのが、みんなきちんと言うべき内容を持っていて、もっと凄いのが、「俺は中に入れないから」と言って外にいた黒人まで引っ張りこんじゃうという場面が出てくる。この時にね、まあ、それだけきちんと撮れてるね、って言っちゃえば、それでつうっと通っちゃうんですけれど、非常に特徴的なある政治風土みたいなものを、まず端的に言えば示している。つまり、一人一人の人間が、全部きっちり顔を持っていて、まあこの場合は男だけですけれど。そして、一人一人が全部きちんと個人的な見解を、その問題に関して持っていて、それをきちんと、全部つきあわせて、積み重ねることで、民意という奴が出来てくる。ある政治的な理想みたいな奴が、その顔の撮り方に既に表れているという事です。これは、ある種のアメリカニズムという奴なんですよね。で、果たして世界中で、人間というのが普遍的に、こういう風な事をやるかという問題に関しても、勿論疑問の余地はあるわけですけれどね。

ポチョムキン号の叛乱を支持している人間として表れる以外のなんの機能もここにはない

 だから、それを観ておいて頂けると、多分次のこれの特徴という奴は非常にはっきり分かったはずだと思うんですよ。

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ここで、"Bronenosets Potyomkin "のワンシーンが映された。

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 これ、エイゼンシュタインポチョムキンの中で、比較的穏やかな場面を持ってきてますけれど。叛乱したポチョムキン号を支持する市民達という奴ですね。それがポチョムキン号に対して物資の救援を、小船で出掛けて行って行うという場面ですけれど。それを支持する市民達が、港に詰め掛けてという、非常に美しい瞬間ですよね。
 で、顔はあるんです。それも非常に強烈な撮り方がされているのが分かると思います。顔はある思考や感情を表現している、それもお分かりになると思います。ただね、観てて非常に特徴的なのは、奇妙な具合に、その中身という奴が画一化されているわけです。というよりも、画一化される事によって、ここの場面が効果をあげている。ようするに、物凄い明るい天気のいい、黒海沿岸の海で、その太陽の下を、白い帆を上げた船が無数に走っていく。それを、燦燦と日のあたる岸壁にいる市民達が、指を指したり、手を振ったりしながら、喜びを持って見つめている。その中には、いかなるばらつきもない。いかなる濁りも存在しない。
 この後、弾圧は勿論あるわけですけれど、それはこの前『ストライキ』の時に言ったのと同じもので、弾圧する側というのも一枚岩なら、される側というのも一枚岩なんですよ。非常に不思議な世界が実現しています。ようするに弾圧する者とされる者を、ある構図の中にきちんとあてはめるために、ある「類」としての顔、さっきの人類学的な分類に基づく類であったり、あるいは社会学的な分類に基づく類であったりするものが、ある顔の中に存在すると言いましたけれど、その「類」としての顔と、あと、その「類」に属してはいるんだけれど、それぞれ固有の感情を持っているはずの人間の固有の顔というのが、完全に一致している。というよりも、その個別の市民達の内面を、この顔に合わせて、全部裁断されている風に考えることも出来ると思います。
 例えば、最初の所に、眼鏡をかけて、なんか嬉しそうにこんな事をしている女の人出てきましたけれど、この瞬間歓喜に満ちている、喜びに満ちて、海を見つめているという以外には、いかなる思考も彼女の中には存在していない。これは実を言うと非常に奇妙なんです。普通こういう瞬間て、みんなさ、見ながらもなんかしら考えているよね。リアリティのある人間というのは。つまりさ、窓開けてきたまんまにしたけれど、今日は大丈夫だろう。雨は降らないだろうとかさ。この靴きついけれど、帰りはこれで歩いて帰れるだろうか。新しい靴なんて履いてこなければよかったとかさ。そういうような、身体的な問題も、社会的な気掛かりも、一切存在していない。ただ単に、そのポチョムキン号の叛乱を支持している人間として表れる以外のなんの機能もここにはない。それがいっぱいですから。そしてこの映画の場合、もっと特徴的なのは、これキャラクターになってないという事。そこにいる人間。全体の中の、一つの顔、別な顔、別な顔という形であれされてますけれど、あくまであるひっくるめた状態で、ある分類の中におさまっている、ある類的な存在としての人間しか示してないんです。
 さっき言ったジョン・フォード的な撮り方、アメリカ映画の顔という奴と、あまりにも違うというのはそういう事です。何もなくて、類的な顔によって、固有の顔が塗り潰されてると言ってもいいんですけれど、これはこういうあるイデオロギーを支持しているはずの人間として示された人間たちだけじゃなくて、この前観て頂いた『十月』におけるレーニンでさえもやはりそういう描き方をされてしまう。それは奇妙だって、この前『十月』をかけたときに言ったわけですよ。
 勿論歴史のある、物凄くモニュメンタルな瞬間を捉えていたら、おのずとそういうふうにならざるを得ないというようなことにもなりますが、そこには極端な事を言っちゃえば、物凄く平面化された顔しか存在していない。平面化された顔しか存在していないという事は、物凄く平面化された人間しか存在していないという事です。つまり、記号化された大衆と、記号化された指導者しか存在していない世界。実を言うと、先週その問題について考えていたんだけれど、この場合というのは彼らが歴史歴史というわけですけれど、歴史というものでさえ、記号化されて、現実のよどみとか、渦巻いているような瞬間とか、それから流れが変わる瞬間みたいなものが持っている、ある深い層における変化みたいなものを、まったく感知しない、ごく上っ面な所のあれを歴史と、彼らは言っているに過ぎなくて、そしてその薄っぺらい歴史の所にさ、乗っかってて、なにしろ想定されている歴史そのものが薄っぺらいですから。だから、特定の一個人みたいなのが、歴史を劇的に変える瞬間のアイコンとして登場する事が可能になる。ただ実際問題として、人間の生活というのはそういうものではないように、人間のくぐっていく歴史というものもそういうものではありません。
 で、そこから先の話になってくるんですけれど、プロパガンダ映画としてのエイゼンシュタインてはっきり言って上手いのよ。今の所だって、船見てるだけで、ちょっと幸せになって、じっと見ちゃうからね。私なんかは。エイゼンシュタインはめちゃめちゃ上手いという事はおいておくとしてですよ。ここで私が今日何を言いたいのかというと、20世紀における人間の顔という奴の、二つの様態なんですよ。それは人間に固有の顔があるという問題とは別に、人間の顔というのを極端に平面化して表現していくという、ある傾向がそこには存在している。この画一化というのが、強いて言うと二つ挙げられると思うんですよ。一つは、社会的なある分類による画一化。この前の、例えば、陸軍の兵士とか、それから水兵とか、労働者諸君という種類の分け方ですよね。もう一つは人種的民族的な分類による画一化です。

理想的なドイツ兵士のポスターのモデルが、ユダヤ人だったんですよ(笑)

 本当の事を言うと、ここでレニ・リーヘンシュタールの『意思の勝利』を持って来ようと思ったんですけれど、レニ・リーヘンシュタールの『意思の勝利』というのは、入手が非常に難しいんですよ。ちょっと妙な雑談として聞いておいて欲しいんですけれど、リーヘンシュタールのDVDをちょっと欲しいなと思って、まずどうするかというと、当然amazon.deに飛ぶじゃないですか。ドイツの。ところがね、ドイツのamazonは、『意思の勝利』扱ってないのね。まあいいんですけれどね。でも不思議でしょう?ドイツの監督なんですよ。多分、だから、ある政治的な懸念があるんだと思う。
 で、これを手に入れようと思うとどこに行くのが一番いいかというと、amazon.comに行く。アメリカでは、いっぱい売っています。それも二、三年おきに版を改めて出しているところがありまして、なんでこの人たちこんなに『意思の勝利』好きなのと思うわけですけれど。で、注文したけれど、来なかったんだよねまだ。残念ながら。来ると、もしかしたら、この次くらいに観る事が出来ると思うんですけれど。
 その中で、要するに、ナチというのは、National Socialismですから、社会的な画一化と、人種的な画一化というのをだぶらせています。それに関する非常に端的な表現が見られるはずなんですけれどね。代わりに、しょうがないから持ってきたのが、まあこれをもって代えてくださいというのも非常に妙な話なんですけれども。
 これね、理想的なドイツ兵士の写真として、実際の兵士の中から探してきた奴を写真に撮って、プロパガンダのポスターに使ったんですよ。ところが、そのプロパガンダのポスターに使っちゃった後で、恐ろしい事がわかった。こいつね、理想的なドイツ人の兵士なんですけれど、実を言うと、これ39年に撮られた写真なんですけれど、この人ね、ユダヤ人だったんですよ(笑)。
 こういう事、よく起こっているんですよ。マルセル・ライヒラニツキというドイツの文芸評論家がいまして、この人、テレビで、本の事を糞味噌に叩いたり褒めたりするというので有名な男で、ドイツ文学の法王と呼ばれて恐れられている奴なんですけれど、まるっきりユダヤ人なんですね。ポーランド生まれで、その後にベルリンに移って、教育はベルリンで受けた。ギムナジウム時代がナチ時代に重なってるんですよ。当時、一応ギムナジウムに行くことは出来たんだけれど、段々締め付けが厳しくなって、大学教育は受けてない。大学を受験する事自体彼は許されなかったんですが。出来は良かったらしいですけれどね。高校時代から、親の目を盗んで、芝居なんか観に行って、その話とかいっぱい書いてるんですけれど、お読みになりたい方はね、ごめんなさい、タイトルはちょっと。訳はね、この人の回想録、一回出てますから、お読みになって頂くといいんですけれど。(ぷり注:これですかね)
 で、そのギムナジウムの時にね、ベルリンオリンピックがあったんですよ。で、ベルリンオリンピックで、ベルリン市内の高校生の中から、オリンピックの旗手を務める生徒を探したいと言って、党の方から言ってきたんです。で、係の人間が学校に来まして、身体検査を全部やって、髪の毛の色をチェックして、あの当時の流行です。頭蓋骨の縦横比を測ったりさ、眼の色をチェックしたりしてさ、理想的なアーリア民族の美青年という奴を探したんですよ。そしたら、選ばれたのが、ライヒラニツキの友達でユダヤ人だった(笑)。
 人種ってのはそのくらいいい加減な物だって話なんですけれど。
 ついでにもう一つ、この本に関して話しておきますと、実は国防軍の中に、万人単位で本来なら兵隊になれないはずのユダヤ系の兵隊がいた。なっちゃう理由というのは簡単で、ユダヤ人だと言われながら、実際ライヒラニツキみたいにかなり戦争が進むまで――その後ライヒラニツキも含めてポーランドに追放されまして、ワルシャワゲットーに入ることになりますけれど――ある段階で、一緒に教育を受けた。その段階で、ゲルマン魂という奴を教育で叩き込まれるわけですよ。ユダヤ人なのに。で、その結果非常に屈折した心情になっちゃって、英雄的なアーリア人になってしまいたいという気持ちを、持たざるを得なくなっちゃった可哀想な子供たちというのが山のように出てくる。
 ちょっと色んな話をするんですけれど、この本の中に出ている、ある可哀想な話ですとね、中学校とか高校の時に、男の子ですけれど、ちょっと色気づくでしょ。で、オナニーとかはじめるわけですよ。オナニーをすると、あの当時の子供たちというのは、大抵ひどい罪悪感を持つ事がある。ただ単にひどい罪悪感を持つだけじゃなくて、学校で教えられるのは、ユダヤ人というのは淫乱だけれど、アーリア人は違う。ということは、僕はこんなに毎日毎日オナニーばっかりしているのは、僕はユダヤ人だからじゃないか(笑)。で、この汚らわしい性質を振り捨てるために、僕はアーリア民族よりも、アーリア人らしくなるとか思った子供がいた。で、そういう事情でもって兵士になりたいというのが一つ。
 もう一つは、社会的に締め付けが厳しくなっていくんで、軍隊以外食っていく所がない。にもかかわらず、軍隊には入れない。正式に届けを出しちゃうと。そうするとどうするかというと、警察に行って、民族の区分を改めてくれという申請書を出すんです。どうするのかというと、大体、1939年とか、40年に二十二、三だってことは、生まれたのは大体第一次世界大戦の戦時中から戦後にかけてのごたごたの時でしょう。で、警察署に行って言うわけですよ。実はうちの母親、不始末をしでかしまして。うちの親父はユダヤ人ですけれど、あのユダヤ人は僕の血統上の父親じゃありません。僕は半分アーリア民族なんです。半分なんだよ大体。で、そういう事をやって、兄弟して軍隊に入ったりして。
 いやまあね、ちょっとこの本凄いんですけれどね。どう言ってみようもないんですけれど、これ仏訳なんですけれど、物凄い勲章を下げている奴いるんですよ。強いて映しませんけれどね。だってこうだよ(笑)。
 ようするに、騎士十字章下げている奴はざら。で、死亡率も凄く高い。もっとひどいのが、そうやって、東部戦線で頑張ってたりすると、いきなりゲシュタポが来る。ある日突然。で、ゲシュタポが来て、中隊長殿の所に呼び出されて、なんですかと言うと、いやこの人が、っていうね。ゲシュタポが、君の実の父親だと言っている男、あれは隠れユダヤ人だと判明したと。で、おふくろがユダヤ人だったりすると、100パーセントユダヤ人ですから、もう絶対に助からなくて、そのまま労働大隊送りになっちゃうわけですけれど。まあそういう悲惨な人たちがいたんですけれど。
 これ、いかにそれが馬鹿馬鹿しいことだったかというのは、お分かりだと思います。つまり、人間の顔という奴、人間の顔という奴をもとにして、人間を区分しようとしている。顔という奴の中に、人間の血統というものを表すものが全て入っているだろうというふうに彼らは考えた。それにあわせてこうやって引っ張ってくると、極めて純情そうで真面目そうなユダヤ人の青年が引っかかってきちゃうわけですよ。
 この話始めると私、きりがないんで。

アウグスト・ザンダーの持っている社会のイメージというのは、到底そういう画一化されたナチ的な興味とは合致しないんですよ
 例えばそういう「顔」に対して、比較していただきたいというのが、例えば今の若い兵士の写真に比べてこれ見て。こいつも勲章凄いですけれど。これは、アウグスト・ザンダーという写真家が撮った――下士官らしいけれど、勲章凄いよね――写真なんですね。あるいはね、こういう奴があります。これなんてちょっと信じられないでしょう。要するに、極めてプロパガンダ的な形で作られた画一化という奴、人間の顔というのは、何々人の場合はこう、我々ドイツ人はこのような顔をしていなければならないというのがユダヤ人だったりする。それで、実際の純然たるドイツ人の兵隊さんとか撮ると、意外にこう眼鏡かけてて、こいつユダヤ人て顔してたりするケースがままあるわけです。人間の顔ってそんな感じのものでして。そういう細かい個別の人間が持っている顔の相違、そしてそこに表れてくる内面の相違みたいなものを、全部均して画一化しちゃうと、そういう非常にへんちくりんな取り違えみたいなものが発生してくるわけですよね。
 多分、アウグスト・ザンダーって、これ見たら誰だかわかると思う。多分この写真ご存知だと思うんですよ。『舞踏会に向かう三人の農夫』っていう小説の表紙になってた事がありますから。これ実際、あの小説は、アウグスト・ザンダー自身が撮ったこの写真に基づいて、ここから色々考えてあれした奴ですけれどね。この厚さで、これ七冊ぐらいあるんです。
 アウグスト・ザンダーって何をやったのかというと、まず、渡りの写真屋というか、あちこち回って、巡回写真を撮って、という所から入って、最終的には、ライン川の流域で、ケルンだったかな、スタジオを開いて、そこで肖像写真を撮っていた。肖像写真を撮るかたわら、つまり商売の写真を撮るかたわら――この写真集の中には、仕事で撮った写真も全部入っていると思いますけれど――こつこつと、街中で見つけた色々な人たちの写真という奴も頼んで撮らせてもらった。
 この人、写真を山のように撮りながら、人間の顔の写真を、それも基本的にスナップ的な写真とか、不意を襲った写真みたいなものというのはほとんどないんですよ。 問題になってくるのは、こういう写真だと思いますね。
 あるいはこれ。明らかにドイツ系じゃないでしょう?
 これ、ジプシーです。熊使いだったかな。
 いいでしょう?この熊。
 熊使いのジプシーって言うと、多分ルーマニアとかあの辺の奥から出てくると思うんですけれどね。
 で、彼はこうやって人間の写真を沢山撮りながら、ある、実を言うとね、今言ってる類的な分類という奴をやろうという志向性は持ってたらしいんですよ。ライン川流域の様々な人々、この顔をね、撮影して、それでその特徴を捉えたいと思っていた。だから、彼はきちんと、本人が本人である事に責任を取れる状態における写真を撮るという方に専念しています。
 よくさ、写真家って二つのタイプがいてさ、対談の写真を撮られたり、インタビューされてる時の写真を撮られる事、たまにあるんですけれど、そういう場合でも、凄く嫌だと思うのはね、人が馬鹿笑いして、顔がぐちゃぐちゃになってる瞬間を撮りたがるカメララマンているの。その瞬間の顔っていうのが、人間の顔だって、彼は考えているんだろうけれど、「いい顔に撮れました」って、サイテーって実際思うわけですけれども。ザンダーの場合はそうじゃない。自分がどういう顔をしているのか。きちんとした服装をして、きちんとした顔をしているというところを、きちんと自分で意識できる状況における人間の写真だけを撮っているわけです。
 この辺の所はね、ちょっと後で出てくる『シンドラーのリスト』の話しますけれど、あの辺と関わってくるところが深いんですが。これ、90年代の初めぐらいに、ちょっとリバイバルみたいに、流行ったことがあるんですよ。その時にこんな七分冊になった奴、全部入っているような、突拍子もない代物じゃなくて、もう少しフレンドリーな感じで一冊にまとめた本という奴が出てくるんですが、それがですね、今はなき、銀座の三階かなんかにあった洋書屋で見て、ショックを受けた写真がこれなんです。(→写真
 これね、ヘッセンの大公の写真なんですよ。このね、顔って凄い顔してるでしょう?なんかさ、一種この世の人じゃなくなっちゃってるね。この人。人間て、どうすれば一体こんな顔になれるんだろうという顔でしょう?これでは社会生活送っていけないからね、実を言うとこの人の所、***してるんですよ。これはさっきのは大公で、これは伯爵ですけれど、この人の財産の**、エステートマネージャー****。
 例えばこういう種類の顔。かなり没落してます。でも、さっきの写真て結構衝撃的*****。多分、あちこち図書館なんか行くと、まだ見られるものがあると思いますので、そういう物を見ていただくといいんじゃないかと思うんですけれど。
 で、こういう形で写真をどんどん撮っていって、その特徴を捉えていこうと。様々な職業、様々な社会の区分に属する人間。色々な人間の事を全部撮って行ったら、そこの所に、ドイツ語で一番下に書いてありますけれど、20世紀の人間、特に彼が住んでいる地域における人間という奴の総体が捉えられるんじゃないかというふうにアウグスト・ザンダーは考えた。そこで、問題が一つ起こってきちゃうわけですよ。ザンダーもある分類をしようとしましたけれど、これはナチが考えたような分類とか、あるいはソビエトロシアなんかも含めた**。ソビエトロシアなんかの場合、階級によってきちんとそういうものを捉えていくものですが、そういうものと明らかにずれた所にある。 つまり、ナチ的な分類というものが、ドイツ人というのはこれこれこれこれこのような特徴を備えている「はずだ」という奴でやっていて、実際には、ユダヤ人の綺麗な兄ちゃんを捕まえちゃうというのと同じようなやり方をしているとすると、あくまで流しでもってあちこち回って写真を撮って行った経験を持っていたザンダーにとっては、こういう分類というのはひたすらに帰納的なんですよ。どこに行ったらこんな奴がいた。あそこへ行ったらこんな奴がいた。あの辺の人たちはこんなふうな顔をしていた。あの辺の人たちはこのぐらいの暮らしをしていたという、物凄い実地で、自分の足で集めたデータが存在して、その中から、20世紀の人間と言ってますけれど、実際問題、当時のドイツの人間という物の、イメージという奴を、彼は作っていった。そこで問題が起きてくる。
 つまり、その方法をやっていっちゃうと、明らかにナチ的な分類においては不具合な人間というのが生じてくる。彼は凄い沢山の分類をしているんですけれど、今日は持ってこなかったんですけれど、この中に、精神的な障害を持った人間、それから身体的な障害を持った人間の写真というのが結構入ってくる。さっき見てもらったような、ジプシーとか、あるいはトルコ人の移民であるとか、それから浮浪者、失業者、それから戦争で廃兵になっちゃって、乞食をやっている奴とか、そういう人間の写真が沢山入っている。
 かと思えば、さっきのナチズムの写真を見てもらえばお分かりなんですが――**の兵隊のことをナチというと叱られるかも知れませんが、まあナチ――純粋なドイツ人であるべき人間というのが、理想的な形態を必ずしも現実にはしていないという事なんです。つまり彼の持っている社会のイメージというのは、はるかに雑多なものを沢山含んでいて、到底そういう画一化された、ナチ的な興味というのとは、合致しないんですよ。
 それは半分ぐらいの結果でして、実際具体的な原因というのは、ザンダーの息子が、政治的にやばい事をやっちゃって、逮捕されたという問題があるんですけれど、その時にザンダーのスタジオもゲシュタポの手入れを食らいまして、その時に、かなりの数のネガを失った。だけど、それよりも決定的だったのは、連合軍による空爆でスタジオが焼けたんですね。それによって、かなりの数のネガを失っちゃった。
 ザンダーの問題というのがなんなのかと言うと、人間の顔というのが、これほどの多様性を含んでいる。到底画一化できない何かを含んでいる。撮り方に関していうと、Sachlichkeit―即物的―な撮り方をしているという言い方がされることもあるんですけれど、確かに凄く即物的なんです。そんな人間の、突拍子もない瞬間を捉えようなんてザンダーは全然しないんです。彼は撮られている人間が、自分が何者であるかと主張する通り撮ろうとしている。ところが、そういう顔をこうやって撮っていくだけで、人間を平面化したり、画一化したりしようという、そういう見方に対する異議申し立てになってしまう。これがアウグスト・ザンダーの写真の非常に不思議な所です。
 彼らは、分類といいましたけれど、つまり都市の住民であるとか、農村の住民であるとか、それから社会からはみだした人間であるとか、それから芸術家だとか、細かい分類をしているにも関わらず、その中から、どうしたってある人間が、分類に合致している所と、合致してない所の凄い微妙な所が出てます。今日は持ってこなかったんですけれど、Künstler―芸術家―だけ一巻があるんですけれど、ダンサーとか絵描きを写してね。それから音楽家とかも含めて、なかなか愉快なんですけれど、その中に、何故か、ウィーンから来た物書きという奴の写真がありまして、これがだらしのない格好した男でね。ネクタイとか一応しめてるんですけれど、あれ、粋がってるのかな。ジャケットがね、わざわざ短いジャケットをこんな風に曲がってるんですよ。ネクタイがね、普通にしめているんだけれど、ネクタイが凄い細かいしわしわが入っている。何考えてるんだろうとホント思うんですけれど。だけど、彼はその状態で撮られたがった。
 それよりも、もっときちんとした人間が山のように出てきますし、きちんとしたドイツ人、あのショック受けましたというヘッセンの大公の写真、あそこまで凄いきちんとしちゃうとなんか――うん。なんか言葉がないんですよねつまり。あの写真を見ちゃうとね。デカダンスというのはああいう感じです多分。デカダンスというと、なんか物凄く華麗で美しい物を想像しちゃうかも知れないけれど、そういう物じゃなくて、ああいうふうに、中身がすこーんと抜けたようなさ、妙なものを***。あの写真は凄いショックだった。
 だから、類的な物に分類されようとしているにも関わらず、個々の顔というのは、完全な類型化を否むんですよね。類型化されようとどうしてもしない部分が、どっかに残っちゃう。つまり、人間の顔というのは、簡単に言っちゃうと、「個」と「類」との間を行ったり来たりしながらなんとなく存在している。その兼ね合いの中に、微妙な線で存在していると言っていいと思うんですけれど。

トライポッドが現れた瞬間に、みんな同じ方向を向いて、その顔から一切の個別的なものが全部剥ぎ取られる

 しつこくてごめんね。そこのところに書いてありますけれど、三番目。またしても『宇宙戦争』です。別の場面です。でね、やっぱり昨日観直したんだけれど、『宇宙戦争』はね、やっぱり観てない人、是非全部観てください。どことっても凄いから。ちょっと信じられない。バカなお子様向け映画だと一般に言われているのは知ってますよ。知ってますけどね、ちょっとそれでは済まないものがこの映画あるでしょと言うことなんですよ。で、その済まないでしょというのは何なのかというと、その問題というのは「顔」なんです。その下に『シンドラーのリスト』というのを入れてますけれど、顔の問題というのは、多分この映画と『宇宙戦争』においては極めて…。

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 ここで、"War of the Worlds"のワンシーンが映された。

 一人一人の人間というものを、きちんきちんと撮るのがスピルバーグは物凄く上手いんですよ。
 ここの場面、トム・クルーズの撮り方をよく観てほしいんですけれど。
 この後の所。
 この顔!(ぷり注:トライポッドが登場した場面ですね)

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 何に注目して欲しいと言ったのかと言うとね、一番最初に観て頂いたところで、踏み切りにずっと向かっていく所。あそこの所で、群集の中の顔の一つ一つにまずスポットを当てていくわけなんですよ。要するに情報提供しながらという事ですけれど。例えば、なんとなく、白い髭を生やしたインテリ臭い男。それから、そこらから這い出してきたオタクみたいな髪の毛の長い男。親子。そういうのをちょっとずつ、ちょっとずつ、群集の中にいる一人一人というのが、全部個別の顔を持って、個別の思考を持っている存在だということを、ちょっとずつスポットを当てながら見ていく。それで、踏み切りの所に来るでしょう。そこへ燃える電車が来る。トム・クルーズなんかも含めてなんですけれど、スポットを当てられた全員が、呆然とその電車を見送っている時に、トム・クルーズですよ?だから、さっき言った、言っちゃったら役者の格から言ったら、さっきの『つばさ』の時の、あれは駆け出しのゲイリー・クーパーですけれど、ゲイリー・クーパー的な撮り方を当然常にされることを期待されてる俳優だと思うんですけれど、この映画評判が悪かったのはそこなんです。トム・クルーズが出てくるにも関わらず、トム・クルーズというのが、群集の中の物凄く小さい一人の顔でしかない。何もなすすべもなく、起こってくる事を、口開けて見ているだけの人間なんですよ。言っちゃったら、もしハリウッド映画的な顔の撮り方という奴が、人間の持っている「個」としての特性みたいな奴をMAXに撮るとすると、それをもう一回「類」の中に帰しちゃっている。
 その典型的で、もっと恐ろしい所というのが、二番目の船着場の場面。鳥がふぁーっと飛んで、ダコタ・ファニングがそれを見ていると、丘の向こうからトライポッドが現れる。その瞬間の人間の顔というのが凄いんですよね。あれが来たと思った瞬間にみんな同じ方向を向いて、その顔から一切の個別的なものが全部剥ぎ取られる。言っちゃったらさ、ライオンがさ、すうっと、ガゼルか何かのそばに寄ってって、走り出した瞬間に、ガゼルがぱっと気が付いてさっと逃げるでしょう。あの瞬間のガゼルとおんなじ顔をしているんですよ人間が。完全に動物になっちゃってる。生存を脅かされて、本能だけになった顔と言ってもいいですけれど。その瞬間に、人間というのが、人間である、個々に内側に何か持っている人間である事を失って、多分ああいう瞬間て、頭も働いてませんから、動物の群れのようになって、次の瞬間にスタンピードが始まります。で、前の時に観ていただいた、フェリーの場面に繋がるんですけれどね。
 こういう顔の扱いというのを、ちょっとあれしておこうと。つまり、類(?)としての人間。個別の人間というものが、確実に存在しているという事を匂わせながらも、それが次の瞬間には、ただの自分達で思っている、ある動物の群れみたいなものにぱっと変わっちゃう。その瞬間に個別の人間の個別性という奴は、ほとんど意味を持たなくなっちゃう。そういう恐ろしい瞬間を、あの映画は捉えてるんですね。

ホロコーストで「顔」を奪われた人間たちに、顔という物をもう一回与え直すというのが『シンドラーのリスト』なんです

 スピルバーグは別段昔からこうだったというわけでは必ずしもないんですけれど、例えば、あの辺というのは私よく覚えてませんけれどね。『未知との遭遇』とか。それから、『シンドラーのリスト』なんかは、「顔」の問題というのを物凄く考えているという事が分かります。ちょっとね、これはあくまで推測に過ぎないんですけれど、さっき90年前後ぐらいにアウグスト・ザンダーがある種の再評価を受けていますけれど、もしかしたらその影響を受けているのかも知れない。

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 ここで、"Schindler's List"のワンシーンが映された。

 これだけ沢山の登場人物がいるにも関わらず、ほとんど全部覚えているんですよ。誰がどこで出てきたかね。こういう撮り方。

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 やっぱりスピルバーグの顔の問題というのは、別途取り上げるに値する、きちんと考えなければならない問題ですけれど。実はこれ、シンドラーのリストが公開されたのが、1993年ですけれど、この当時、ある微妙な議論を引き起こしたんです。特に所謂現代思想系の人たちからね。全体主義というのは、人間から個を剥ぎ取って類に還元する。それは多分確かですよ。個を剥ぎ取って全部類にして、この場合アーリア民族であるとか、ユダヤ人であるとか、ジプシーであるとか、そういう分類をまずする。その分類のうちのある一部の類という奴を、望ましくない種であるとして、処分する。これがホロコーストであるという事ですけれど、まあユダヤ人だとかジプシー、精神障害者。障害者の処分というのはひどいものがあるんですけれど。その時の議論というのを物凄く単純化した話で、もう少し微妙な議論があるらしいんですけれど、つまり、ホロコーストの犠牲者に顔があるかのように描くのはいかなるものか。顔がなくなるということ、顔を奪われるということが、ホロコーストの最大の恐怖であって、その犠牲者が、あくまで一番最初から最後まで個別の顔を保っていたような描き方をするのっていうのは、ハリウッド的なご都合主義であると。
 ただ、『宇宙戦争』を観ていただければお分かりの通り、スピルバーグというのは必ずしもハリウッド的な撮り方にとどまる監督ではないんです。実を言うとね、『シンドラーのリスト』も『宇宙戦争』も、ある同じ系列にあるもので、映画として最後に行って何か微妙にこけるという所まで含めて、実は非常によく似ているんですね。微妙なところでこけるというのは何かというと、さすがにこのまま撮り続けられなかった。スピルバーグ自身は、多分アートな監督だったら撮りたかったんでしょうけれど、商業ルートに乗せるという事を考えると、何らかのきちんとしたストーリーの展開、ハッピーエンドをつけざるを得なくなっちゃった。で、『宇宙戦争』というのは後ろのほうは妙な事になってるし、『シンドラーのリスト』というのも、最後の所はお涙頂戴になって、激しくしらけるわけですけれども、ただそこに至るまでの人間の顔の描き方というのは凄い。
 例えば、家族に連れられて歩いていた小さい子供いるでしょう。あの小さい子が、『シンドラーのリスト』では凄い活躍しますよ。あっちこっちで。で、あ、あの時の子供、って観てるとみんな分かるんです。それから、後の所に出てくる、老夫婦いるんですけれど、この老夫婦、移送の途中で射殺されますが、その時も観ている人間はどの老夫婦だったかきちんと覚えてる。それから、今の闇屋三人組のうちの、縮れ毛の男がね、収容所でどういうポジションにつくか、そういう所まで、一瞬見てるだけなのに、エピソード的にちょっと映るだけなのに、我々その顔を覚えてるんですよ。この映画。信じられない。顔を全部覚えている。
 果たしてそれがそういう思想的な意味での答えなのかというと、思想が後退したり前進したりする物だと私は全然思いませんけれど、それは全然違うということになっちゃう。つまり、スピルバーグは、撮り方次第によって、顔という奴をきちんとクローズアップして、その顔が持っている個としての個性というようなものをクローズアップする事も出来れば、それが一瞬にして全部剥ぎ取られて、人間が動物みたいになる瞬間も撮る事が出来る。
 多分そこの所で使い分けがある。つまり『シンドラーのリスト』と、それから『宇宙戦争』の間にあった出来事というのは、アメリカに限って言うんだったら、9.11だという事になるんですよ。『宇宙戦争』のすぐ直後の『ミュンヘン』の時には、一番最後の所の場面で、わざわざまだツイン・タワービルがあるという事にして、後ろの方に遠景ですっと流している、その問題がスピルバーグにとって非常に大きいというのは、多分間違いのないところだと思うんですけれど、だからどちらかというと、向かっている方向は違っている。『シンドラーのリスト』の時には、とにかくそういう形で顔を奪われて、殺されていった人間、あるいは殺されそうになったんだけれど、なんとか生き延びた人間達にも、当然の事ながら、個々の内面というものがあり、それを反映する固有の顔というものがあった。その顔というものを、もう一回与え直すというのが『シンドラーのリスト』なんです。
 それに対して、『宇宙戦争』というのは反対の方向を向いているんですね。つまり個別の顔というものを持った人間が、一瞬にして巨大な暴力にさらされて、人間としての顔というものを完全に失って、ただ単に逃げ惑う獣みたいになる。その瞬間みたいなもの。
 これは9.11までの、例えばアメリカ人がアメリカ人であるという事に対して持っていた認識、あるいは、なぜ日本人の私がそれを持たなければならないのかと思うんですが、飛行機がさ、あそこにどがーんとぶつかったのを見た瞬間に、世界がガラガラと崩れ落ちたような、ある物凄い危ない感じ。つまり、こうやって今日われわれが暮らしてて、この生活がずっとさ、明日も明後日も、未来永劫続くものだと思っているわけだけれど、帰りの電車の中で、馬鹿が爆弾仕掛けてドカンと行かないとは限らないし、そうなっちゃっても、多分この世界の情勢をかんがみるに、我々はどこで爆弾で殺されてもあんまり文句は言えないくらい、いい生活をし過ぎている。
 で、『宇宙戦争』というのは、明らかにそういう形での、ある戦争状態の感覚を普段の生活、普通に生活している人間に対して感じさせようという意図を持っている。だから、人間の顔がなくなる瞬間を嫌になるくらい見せます。どちらかというと、『宇宙戦争』の方があれなんですけれど、『シンドラーのリスト』もですね、ただね、二回か三回見直しているんですけれど、『シンドラーのリスト』でこれほど色んな登場人物の顔がね、はっきり観てて頭に残ってくるというのが、今ひとつ解明できないんです。もちろん、例えばモノクロにすることによって、顔の輪郭とか線とか特徴という奴が、極端に拡大されますから、それでさ――強いて言うと、ビットレートを落とした音楽の圧縮ファイルみたいなもので、ある特徴みたいな奴だけを、ひどく強調されている。だから、英語の聞き取りなんかだと、ビットレートが高い奴だと上手く聞き取れない奴を、ビットレートを落とした録音だとさ、凄くよく聞き取れたりすることあるんですけれど、そういうものに近いものがあるかもしれない。でもやっぱり***。
 もう一つは、一つ一つのコマに映っている人間というのが、ある肖像写真的な写り方をしているんではないかという推測も成り立つ。その撮られ方というのが、さっきの所、教会で後ろをすっと出てった二人組が、お前もかなり***振り返って止まるでしょう?あれがアウグスト・ザンダーの三人の農夫の写真の一部に非常に良く似ている感じがちょっとしたわけですけれども、そういう物からの影響というのを被っているのかも知れないです。
 実を言うと、『そして船は行く』という奴があるんですけれど、それは次回に回しましょうか。



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