佐藤亜紀明治大学公開講座第三回(2007.11.17)

映像と文学(1)

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Perfume:The Story of a Murderer』監督:トム・ティクヴァ(2006)
『Merry-go-round』監督:ルパート・ジュリアン(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)(1923)
『Intolerance: Love's Struggle Throughout the Ages』監督:D.W.グリフィス(1916)163分
『Stachka(ストライキ)』監督:S.エイゼンシュタイン(1925)95分
『Oktyabr(十月)』監督:S.エイゼンシュタイン(1928)101分

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デジタルリマスタリングしたものを見直すだけの価値はやはりきちんとあるわけですよ
 インターネットムービーデータベースからコピーをとってきて書いているんですけれど、写し間違いがあるかもしれません。今日出てくるのはこの位です。
 一本目を除いて今日のは全部サイレント映画になります。読めないといけないので、一応説明しますが、一番上が、パフュームという奴。パトリック・ジュースキントの『香水』の映画化で、今年やった奴ですね。トム・ティクヴァが監督。それから二本目は「メリーゴーラウンド」。これは、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムというふうに一般的に言われていますが、実際に完成させたのはルパート・ジュリアンという、一番最初のオペラ座の怪人無声映画版を撮った人です。この辺の話も後でいたしますが。その次が、グリフィスの「イントレランス」をやります。それからその後で、「ストライキ」1925年、エイゼンシュタイン。五本目が「十月」エイゼンシュタインで、1928年という事になります。
 最後の三本に時間が163分、95分、101分というふうに書いてあるのは、これは微妙な事情があるからでして、無声映画に関して言うと、あるいは非常に古い時代の白黒映画に関して言うと、今、デジタルリマスタリングが進んでいるんですね。その結果、様々なバージョンを観る事ができる状況になってきているんですよ。例えば「イントレランス」はどんどんがんがん増えちゃって、私がこれを見たのは、昔淀川長治さんが解説をつけていたビデオのDVD化したやつで、ちょっとざらざらしているんですけれど、その後でアメリカの作曲家が音楽をつけて、もう少し完全にしたものという奴がしばらく出回っていた時期があります。これはDVDはなかったんですね。そうしたら今ある一番完璧に近い奴というのは、197分です。つまり、淀川長治さんの奴より30分長い。
 それから「ストライキ」。今2006年に出た国内版が出回っていると思いますけれど、その時間が81分なんですよ。これ60年代にソビエトで、ソビエト時代のロシアに一応修復して、音楽も付け直した奴です。この後で、実はアメリカでどうもロシアにあったらしいオリジナルのネガを見つけてきてそこからデジタルで落としたという奴があります。今週それに気が付いて、月曜日に注文して、国際宅急便で送ってもらったら、水曜日に来まして、急遽そっちの方を使いました。これが95分版で、現在国内で一般的に出回っているバージョンより15分長い。
 それから「十月」ですね。これはさっき言った81分版のストライキと同じシリーズで出た奴です。101分なんです。実はこれはフィンランドでデジタルリマスタリングで修復した奴がありまして、それが142分あります。
 まずそういうオタクな話から始めましたが、なぜこの話をしなきゃならないのかというと、実は無声映画というのは、みんな色んなものを見ているというような気はするわけですよ。私ぐらいの時から、まあ、名画座行ったり、それから京橋のフィルムセンター行って見たりしてましたけれど、その時のフィルムの状況は、必ずしも良くはなかったという気はしてたんですよね。そのせいで凄くフィルムそのものの評価が下がっちゃってる事があるわけです。
 私の場合は、例えば「メトロポリス」とか、「ニーベルンゲン」とか、今年の夏場にフリッツ・ラングにはまってましたんで、DVDのデジタルリマスタリングしたバージョンが出たので、その話なんですが、ニーベルンゲンて、はっきり言って全然ぴんときませんでした。それはメトロポリスも同じで、ようするに非常に古いバージョンのフィルムで観てしまうと、無声映画は非常にちゃちな感じがしてしまう事があるんです。特にビデオで出る場合には、一応音楽をつけてあることもありますが、オリジナルスコアとかつけるようになったのは割合最近で、結構ゲーム音楽に近いようなものが入っている事が多い。実を言うと、今日持ってきたこれも、いきなり気が抜けるような音楽がついちゃっているんで、多分音を切ってやりますけれど。
 ところがそのデジタルリマスタリング、フリッツ・ラングの無声映画時代の二本というのは、デジタルリマスタリングしたものを見直すだけの価値はやはりきちんとあるわけですよ。まずこのデジタルリマスタリングのやり方そのものも非常に不思議なやり方をとってまして、すいませんね。映画にあまり興味のない人。なかなか本題に入りません。とりあえず前置きで。
 これは当時からウーファの超大作でして、一番最初からオーケストラスコアがついているんです。修復をする際にまず、全長がどのくらいあったのかデータを忘れましたが、現状を見ても凄い長いですけど。昔観ても長かったけれど、現状を見るともっと長いのね。その長い長い時間帯でずっとオケがやっているという状態で、ベルリンのウーファパラストでどうも一回上演したらしい。それはいくらなんでも世界公開するには長すぎるだろうということで、アメリカ公開の時に短くしたバージョンがありまして、そのアメリカ公開で短くしたバージョンというのの、劣化したフィルムを我々はずっと見続けていた。だから今度出たフリッツ・ラングコレクションの中の奴というのは、そのスコアから持ってきて、そしてスコアになかった場面だけ、場面が暗くなるんですね。凄いでしょう?フィルムがないところだけ。だから音が薄くなっているんですよ。で、ようするにそれに基づいて編集とかずっとやりなおして、話も全部再生し直して見た結果、ニーベルンゲンというのはやはり凄い映画だということが分かりました。つまり、物凄い動きがない、ある、所でもって、持って行くだけの、すさまじい凝縮力というか、テンションがあるわけですね。これはメトロポリスも同じです。やはりまったくほとんど同じやり方で、修復された物ですけれども。そうなってくるとやはり一番重要なのは、今日お話する事に少し関わりますが、一番関係してくるのは、監督が持っていた時間の感覚みたいな奴。それがむしろずっと厳密な形で我々に伝わってくる。
 実は意外なものが意外な所に落ちていたりするわけですよ。例えば凄く古い奴、それこそフリッツ・ラングの「M」。これはトーキーですけれど、確かラングで一番最初の時のフィルムですが、それの所の古いバージョンだと、一番最初にエルジーという女の子が殺されちゃった所を暗示する場面というのが、一段まるまる落ちているバージョンというのが結構出回っている。これもラングコレクションで完全版が出たんですが、その前に私はフランスから買いましたが、別にいいじゃんね。あの辺の映画って、そんなに台詞が厳密に分からなきゃならないということはないから、聴いてても十分分かるので。おまけにフランス語字幕が出れば十分なわけですけれど。それで観たら、ちょっと音の扱っていき方がすごいのね。音と画面とちょっとずつあれしながら、次のところにかぶさっていく、つながっていくみたいな、音を使った時間の操作の仕方。そういう奴ってやはり結局のところ、なるべくいいバージョンで見ることによって、より深く理解できるようになっていて、その結果無声映画時代の、サイレントのフィルムの監督達というのが、どれくらい凄い事をやっていたのかということが、ひしひしと分かる感じになってきているんで、それで今回取り上げさせてもらった次第です。
 一応一番長い奴は何分あるかという話もしましたけれど、多分これからも別なバージョンがまだ出てくる可能性はあるし、それによってある種イメージが変わっちゃうということもあり得るだろうという事を承知しておいてください。多分エイゼンシュタイン、この辺が打ち止めだと思うけどね。「十月」なんて、現状出回っているバージョンよりも更に40分あるんですよ。何が40分あるのかと考えると結構つらいものがありますし、二番目に言うと、このバージョンをもって「十月」を語っていいのかという話になった時にちょっとひくわけですよ。まあ一応その線でやりますけれど。
「パフューム」は物凄い大胆な事をやって、派手に失敗した映画だと言っていい
 というわけで、今日は基本無声映画です。無声映画で何をやるか。そしてなぜここにこれ(「パフューム」)が一番最初に来ているかというと、多分観てもらうのが一番いいんじゃないかと思います。今日はフィルムの時間が長いので、かけたまま話すかも知れません。暗くてちょっとノートがとれなかったという方は、後で聞いてください。記憶に残っている限りで繰り返します。

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(ここで「パフューム」のワンシーンがスクリーンに映された)

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 ぱっと見ちゃったら、これ普通に今の映画であるわけで、ただしそこの所に、多分我々は見落としがちな様々な事がある。トム・ティクヴァですけれど。まず簡単に言ってしまうと、これは物凄い大胆な事をやって、派手に失敗した映画です。そういう風に言っていいと思います。何が物凄く大胆に感じたか。映画において、果たして嗅覚、においというものを再現する事ができるかという問題に、この題材を選んだが最後、挑戦せざるを得ない。パトリック・ジュースキントの『香水』というのは、すごく前、私がフランスに留学していた頃、フランスでベストセラーになっていて、平積みになっているのを読んで、その後日本語版で読んで、日本語版の訳もなかなか良かったですけれど、異常に、常軌を逸して嗅覚の鋭い若者を主人公にした話です。だから、一応三人称で書かれていますけれど、これを一人称で書いたら多分何も分からなくなっちゃうでしょう。
 つまり、我々が普段生活している時に、どの感覚が一番強いかという事を考えると、これは人にもよるんですけれど、多分視覚が一番強いという人が多いでしょう。それからその次にきて、一番我々が頼りになる感覚、空間を把握したり、世界を把握したりするのに使っているのは聴覚です。それに比べると、例えば味覚であるとか、触覚であるとか、あるいは嗅覚であるとかは、普通人間においては凄く退化しちゃっていて、ある意味では使いようのない、非常に重点的な感覚に現在なっている。ところで例えば犬など、目がすごく悪いにもかかわらず、嗅覚で生きている所があるわけですよね。そういう物事を認識する人間にとって、世界がどう見えるかという事を、一人称でやった場合、一人称で書かざるを得なくなってしまうわけですが、一番問題なのは、そういう感覚を持った人間が果たして我々と同様に一人称で物を語れるかどうか。それが最初に出てきてしまうので、これは三人称でやらざるを得ないわけです。
 それを映画にするというんですよ。映画の場合はもっと辛いので、言語というのも、我々のある意味五感を助けてくれるものでして、だから言語でこんなにおい、あんなにおいと書かれれば、少しは我々は理解できるんですけれど、映画というのは、この間の「チャーリーとチョコレート工場」はチョコの匂いがしたという噂だけれど、行ったけどしなかったよなぁ。色々やってますけれど、実際問題として、映画にまだ臭覚、においをつけるということはできていない。トム・ティクヴァはそれを試みたわけです。できないことをどうやればという話ですが、何をやったかというと、ようするに「共感覚」という奴。これをもって、他の刺激を臭覚での刺激に代えてくれるものかどうかというのを試した。共感覚というのは、簡単に言ってしまうと、一つの感覚が別の感覚に自動的に翻訳されちゃうという類いのことです。
 凄く有名なのは、音とかを聴いた時に、それが色に変換されるというような人がいるという。時々そういう話をする人がいますし、実際もしかすると皆さんの中にもいらっしゃるかも知れませんが、ナボコフはそれがあったという。それからあと凄く有名なのは、アルチュール・ランボーの「母音の詩」というのがありますけれど、あれもそういう共感覚を歌ったものだろうと言われる事がある。もっと微妙なところがありまして、共感覚というのが、条件付けの結果ではないということは誰も言えないんです。確かフランスの研究者で、誰か、アルチュール・ランボーが子どもの時に出てたアルファベット絵本で、母音の字と同じ色とアルファベットが彩っているのを見つけた奴がいたはずです。だからそういう物を見てしまうと、そういう形で頭の中に刷り込まれて、その感覚が大人になっても残っている可能性はあるわけです。そういうものはある。
 我々にとってどういう共感覚があり得るかというと、例えばレンブラントの絵があるでしょう。レンブラントの絵で、若い頃の自画像で、甲冑のふちに毛皮がついている奴があるんですが、あの毛皮を見た時に、平らな平面に書かれているんですよ。パソコンでみていたり画集でみていたりするとなおさらそうで、均一な表面にぺたっと描かれているように、その場合は見える。実際には絵の具のちょっとざらざらがありますけれど、その絵の具のざらざらというのは、毛皮の感覚とは全然違うわけです。我々の前に示されているのは、あくまで視覚的に再現された毛皮だけなんですね。ところが、大抵の場合はこの絵を見ると、毛皮のふかふかした感じみたいなものを感じてしまう。毛皮がどのくらい、その毛皮の毛足の柔らかさとか硬さみたいなものまでちゃんと分かるわけです。こういうあるメカニズムが我々の中に働くので、トム・ティクヴァーがやったというのは、それを使ってもしかすると嗅覚の問題というのを映画で再現できないかと。
 ご覧になったシーンはそういう意味で持ってきたんですが、例えばここで使っているのは、一番そこでまず中心的に来るのは、色彩の問題です。だから主人公の男がぱっと見て、向こうの方に女がいて、髪の毛がまとめてあるところから、少し赤い髪の毛が何本か首筋の白い所にこう出ている。この赤毛と白さ。この赤毛というのが、この後も彼が執着しているあるにおいの記号になってきますけれど、まずこれ。この色彩。このコントラストを出すためだけに、つまり、あの赤毛をあくまで赤くするために、肌はあくまでも白くて、ただし布地か何かのように真っ白ではない。ある暖かさを持った、微妙な色合いの肌にしているわけです。それで周りは全部灰色に近いわけですね。夜の場面ですから。そのコントラストによって、赤毛と肌を浮かび上がらせる。
 それから質感の問題もここでは利用されています。何故か知らないけれど、通りはびしょ濡れなんですよね。主人公も含めて人間も、他の人間もみんな顔が汗ばんで濡れている。全ての物が濡れているにも関わらず、あの赤毛の女の髪の毛と肌だけが乾燥している。暖かく気持ちよく乾いている。この二つによって、我々はあるにおいを想像するようにと誘導されるんですが、補助的に言うんだったら、果物の黄色い実の色。あれを入れてもいいかもしれません。しつこくやってますけれど、ようするに色彩とか物を見せることによって、それとその映画の最初の方から映っているものと、そこから想像される香りという奴で、色んな所で視覚と嗅覚を結びつけるようにこの映画はずっと最初から作ってあるんですね。
 そういう感じで出てきて、あるにおいを想像するように仕向けられる。ただしそれは必ずしも私の感じでは、我々が香水を嗅いだ時にいい匂いだと思うような、そういう香りでは多分絶対無いというふうに思う。もし本当に、例えばそういう普通の状態で、人間が嗅ぎ取れないにおいをなんらかの方法で増幅して嗅がせる事が出来たとしたら、我々、あのにおいを必ずしもいい匂いだと思わないんじゃないか。だって非常に動物的な臭いだと思うから。
 それに加えて、ここにもう一つ別のものがある。色彩と、それからある質感みたいなもの。それは何かというと、音なんですね。この場面というのは非常に簡単で、一人の女をみつけた若い男がその後をずっとつけていって、それから彼女が気が付いて、果物を買いたいのかと思って話しかけたら、不気味な行為に出たので、彼女は走って逃げてしまった、その後をさらに追いかけていく、それだけの話なんですけれど、この間あの男というのは、一貫して微妙な表情を動かさない。事実上少ししか動かさない。従って彼が何を考えているのかというのは分からない。そういう非常に特殊な嗅覚を持った人間が、そこで彼の意思を支配してしまうようなあるにおいに出会って、それに対してアプローチをとったが失敗するというのがこのエピソードです。
 そういうときに、感じるものって、実際問題として、頭の中ですごく人間化した形でしか表せないわけです。多分、それは厳密に言ってしまうと、全然違う。つまり思考の順番も最初から違うんですから。そこの所をどう表現するのかというのに、彼は音楽を凄くよく使っているわけです。音が厚すぎるんですけれど。つまり、主人公がその香りを嗅いだ時に感じたある事というのを表現する。そしてその感じた事の表現というのが、実は映像の文脈とちょっとずれているということに気が付いた方おられるでしょうか。
 例えば音楽全部消すでしょう?音楽を全部消した状態で――そういう事をしちゃいかんという人もいるわけですが。映画というのは、現在の音楽を入れた状態で公開される映画というのは、音も映画の完全に一部ですから――(言葉もないでしょう?)見たら、普通この場面、恋に落ちた場面だと解釈すると思います。確かに彼は恋には落ちているんだけれど、ところが音楽をつけて見て、音楽を彼の感情の高まりだと考えてみると、彼女の反応に対して、彼はまったく何も反応してないという事、彼女がそこでぎょっとしようが、驚こうが、逃げようが、そこで彼の音楽そのものは揺らぐことはない。音楽の盛り上がっていくリズムでは。花火の前で音楽がすっと落ちるのは、彼女が行っちゃったからです。じゃあこれは一体何をしているのかというと、嗅覚による陶酔だけを表している。次第に香りをたどって、最初聞こえますか?と言ったくらい小さい音ですけれど、それをぱっと見て、それでその後ではっきり聞こえて、傍へ行って、それを見て、その時に彼女が、後ろにすぐいるのに物凄く驚く。その後におずおずと実を差し出す。そんな反応は彼には関係がないんです。そこで音楽が凄く高まる。そして手をとって接吻をする。従って、この音楽は、彼が持っている人間的なものに対する一切の関心の無さみたいなものを同時に表しているわけです。彼が考えている事というのは、普通の映画の登場人物が反応するようなこととは全く違うんです。で、だから音楽をすごく補助的な役割で使っている。
 成功したか失敗したか。もしかしたら大きな失敗だったかもしれないという事は、映画でこういう事をすると思っている人というのは、もしかするとあまりいないかも知れない。従って嗅覚を描くことには失敗しているという批評家は結構いる。ただ、実際にはやってたわけですよ。ただ、それには誰も反応ができなかった。まさかこんな所にこんなものをつきつけられるとは誰も考えていなかった。そういう風に考えてずっと見てくると、そこで彼女が行っちゃったところで、音が、彼の顔が映ったまま、見えない状態で、花火の破裂する音がしますね。パンパンパンという軽い高い音。あれが聞こえてカメラがあれした瞬間に上のほうに花火が見えるでしょう?あの時に、多分火薬のきな臭さを嗅がずにいるのは難しいはずなんです。その後で、広間に入っていくと、花火を上げて、あたりがもうもうと煙でいっぱいになっていて、そして火薬の破裂する音がする。我々の五感に与えられているのはそれだけなんですけれど、それを見た瞬間に、嗅覚を頼りに追いかけてきた人間が、火薬の臭いにまかれて、一瞬追いかけている対象を見失うという体験というのを多分、理解できないと嘘です。
 だから、非常に妙な事をやったわけです。ただ、これで一つ言える事はなんなのかというと、もし色彩や音楽をそういう別な五感の代用として使って、観ている人間の中に、そこにはない、ある感覚を呼び起こすという事が、もし我々にとってまったく普通の事であるとしたら、この映画はとても観れたものではないと思います。
 刺激が強すぎるからです。あまりにもはっきりしすぎている。色合いも、音も、えげつないくらいです。もし我々にそれが本当にできるんだったら、もっとずっと微妙な色彩、微妙な感覚、音の微妙な揺らぎみたいなもので、もう十分なものが引き出せるはずなんです。結局それはできないんですよ。
 つまり、こういう試みそのもの、この映画そのものが、(いや、なかなか綺麗でいい映画ですけれど)色彩とか音とかいうものを、未だに我々が扱いかねているという事のある証拠だと思います。映画の歴史においてと言ってもいいと思いますけれど。

基本、色はない。音も、基本ない

 今日はここからが話の本題です。つまり、映画に音がついてから、多分80年ぐらいしか経ってない。映画に色彩、色がついてからは多分70年くらいしか経ってない。その状態で、我々は果たしてこれをきちんと扱えているのかというと、現状で見た場合は、まだまだちょっと心もとない部分があるのではないかと言う事はできる。多分、こちらにいる皆さんには想像がつかないと思いますけれど、ある年配の人に聞いてびっくりしたことがあります。前エッセーに書いたことがあるからご存知の方いるかも知れませんが、ある人に聞いたら、映画になんで色がついているのか分からないといった人がいるという。だって、我々の見ている世界、別に色なんて何にも意味がないじゃない。どうして映画に色がついているの?と言われた時に、私は凄くびっくりはしたんですけれど。彼は色盲じゃないですよ。色は普通に分かるんだけれど、映画という形で表現されたときに、物に色がついてなくてはならない必然性というのが彼には分からなかった。つまり、色というのが何の意味も持たないんですよ。だから、もしこういう試みをしようと思えば、そういう人のために、このぐらいどぎつく色をつける必要があるわけですけれど。多分それがずっと白黒か映画を観続けてきた人の中に作られているあるひとつの感覚なのかも知れないけれど。
 ただですね、人類にはそれこそ何千年という絵画の経験という奴をずっと持っているわけでして、絵画の試みの中で、色彩というのは常に非常に大きな意味を持ってきたにもかかわらず、もし我々が未だに色彩の問題を完全には扱えていないとすれば(私は多分扱えていないと思いますけれど)多分、色彩とかいう問題は、我々にとって、ちょっと盲点に入ってしまう、ある問題。微妙な感覚を持ち損ねている問題。スペックとして処理しかねているようなある問題なのかも知れないんですけれどね。で、それ以前、サイレントの話に入ります。
 サイレントというのは何なのかというと、簡単に言ってしまうならば、何が今の映画と最大に違うかというと、まず色がない。当時のものですとモノクロなわけですよ。部分的に色をつけるという試みはずっと行われていまして、昔ね、ロシア映画祭か何かをちょっと見に行ったらね、旗のところにコマの上から下手糞にマジックで塗ったように赤い色が塗ってあったのを覚えていますけれど、あんな不器用なやり方ではなくても、ちょっと色をつけてみるというのは、パートカラーと言って試みはあったんですが、基本、色はない。それから、音も、基本ない。会話の声が入らない。効果音が入らない。更に言うと、音楽も、大作の場合には最初からフィルム用の音楽という奴を作曲してやったケースがありますが、たいていの場合は極めておざなりに済まされていた事が多い。活弁とかついたりした時代があることもご存知だとは思いますけれど。
 その結果、特にこっちの場合、重要なのは、つまりサイレントであるという問題ですけれど、音声が欠如しているという事です。従って、登場人物が何を喋っているとしても、観ている人間には全く聞こえない。その代わりに、ダイアローグの代わりに字幕が出てくる。ただし、字幕というのを、人が一口喋るごとに入れていたら、映画として成り立たない。すごくうるさいでしょう?だから、映像としてずっと画面を展開して行きたいとしたら、何を喋ってても一切字幕は出ないんですよ。この辺の字幕の出なさのひどさというのは、それこそニーベルンゲンは、ほとんどでない。これは恐るべきものがありました。いや、出ない所まで含めていいんだけどね。
 つまりさ、ブリュンヒルドがさ、ビザンツの皇后のテオドラみたいな格好で出てきてさ、こんな顔して立ってさ、目の回りとか真っ暗な感じに塗って、こうやって口だけ動かして喋るんだよ。ずーっと喋るんだよ。ずーっとこうやって立って喋ってさ、カメラなんにも動かなくて、ずーっと喋ってるわけさ。なんかテンション高いの。観ちゃうと。ちょっと、これをどうして観ちゃうのかという問題は、凄い謎であると共に、やっぱりこの人偉い監督なんだなと思います。私は多分そっちに引っ張られるから、あのアホのように長い時間も、それから何言ってるのかわかんないけど口だけ動いているという状況にも慣れるんだと思うんですが、ワーグナーのオペラの地の所によく似てるんだよね。だから、多分そんな事だろうと思って見ているとまあだいたいそんなもので、で、しばらく喋るとちょっと字幕が出る(笑)。ちょっと字幕は出るけれど、それはここまでずーっと喋ってきたことが、原稿用紙で十枚ぐらいあるとすると、三行ぐらい出ます。それは凄いものです。サイレントというのは極端な場合、そうなっちゃうんですよね。
 で、普通の監督は、もうちょっと真面目に字幕をまめに入れます。それはお断りしておこうと思いますけれど、ただ、その結果、要するに言葉が入らない結果、どうなってくるかというと、言葉で説明できないことを、映像で説明しなくてはならなくなる。その結果どうなるかと言うと、悪い例っていうのは、大芝居になるというケースがままある。無声映画というと、すっげえ大芝居してる、とつい思っちゃうわけですが、必ずしもそれだけではない。その事まで含めて、映像がすごく濃くなるということ。嫌な言い方であまり好きではないけれど、映像の、単位時間当たりの映像の情報量が増えるということがあるんですよ。
会社を潰す監督という奴に、実は共通したある傾向がありまして
 次の奴を観てもらいます。ただ、情報量が増えるだけのことはあって、それにちょっと長いのね。

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(ここで「メリーゴーラウンド」のワンシーンが映された)

 登場人物紹介をしながらやっていきますから。髭にスーツなんて着ているから三十男かと思うんですが、多分これ、みんな二十代、どうかすると二十代前半なわけですよ。この男ども。
 これが要するに、雇い主、サディストでセクハラな男なんですけれどね。
 何しろこの有様なので、字幕なくても無声映画は十分いけますから、アメリカあたりからガンガン買ってくださいという話なんですが。

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 1923年のメリーゴーラウンドで、よくエリッヒ・フォン・シュトローハイムだと言われている奴ですが、この辺のいわくいわれについては、もちろん調べていただいてもいいんですが、ざっくり言っておきますと、この前にエリッヒ・フォン・シュトローハイムは同じ撮影所で、「愚かなる妻」というのを作ったんですよ。「愚かなる妻」というのも、これも凄いんですが、どう凄いかの話は後で。この時に、エリッヒ・フォン・シュトローハイムは、モンテカルロを丸ごと作りたかったらしいんだよね。セットで。さすがに丸ごとは無理だというので、どうしたかというと、カジノとホテルだけ実際に作っている。それから屋敷、主人公、エリッヒ・フォン・シュトローハイムが自演している色事師の屋敷という奴がありまして、その屋敷の立っている海岸というところを、撮影する必要があったんだけれど、カリフォルニアにはそういう海岸がないのね。そりゃそうですよ。カリフォルニアはモンテ・カルロじゃないですから。仕方なくモントルーまで北上して建てたという話を聞きましたが、どこまで本当なのかというのはまだ未確認です。
 ただ、とにかくそれですさまじい金を使っちゃった。その次に撮影に入ったのはこの「メリーゴーラウンド」です。これ、いかにもエリッヒ・フォン・シュトローハイム好みの話で、簡単に言っちゃうと、あそこでにやけていた髭の男というのが、皇帝陛下の副官でして(ウィーンの話)遊び人で有名で、婚約者がいるんですよ。婚約者が婚約した理由は何かと言うと、宮廷で一番見栄えのする男だからというので婚約した。
 そ、そうですか?という気持ちがちょっとするんですが、その疑問は堪忍して下さい。観てると段々可愛くなってくるからね。この男が。
 で、いつものように、商売の女の子二人と、それから友達三人と一緒にプラーターへ出かけてって、プラーターって、トポス的に言っちゃうと、アメリカ映画にニューヨークで昔の話が出てきたときのコニーアイランドと似たような所があって、早い話が、大人の行く遊園地のある場所ですけれど。そこへ出かけていって、メリーゴーラウンドの所で、オルガンを弾いて、手回しオルガンを回すだけの仕事をしている女の子と恋に落ちる。だけど、皇帝陛下には来月結婚しろと言われているし、彼女には、ネクタイのセールスマンとつい言っちゃったものだから、ネクタイのセールスマンって嘘をつき続けなきゃならないという異常な状況に陥っていって、どんどんどんどん追い詰められていく。言っちゃったらそういうすごくオペレッタ的な話。ただ、シュトローハイムはシュトローハイムなんですよ。というか、これがシュトローハイムの映画だとしてですが。何故ならば、これはシュトローハイムではないから。その話はその後にしますけれど。
 それは何かというと、ここの所に出てきたのは、あの親父なんですけれど、ただのセクハラ親父というには、あまりにも凶暴なんですよね。暇な方は見てくださいというしかないですけれど。ただ単に彼女に対して下心があるという以上にサディスティック。彼女に対してサディスティックなだけではなくて、従業員全員に対しても、自分の女房に対しても、こいつ病気じゃないかというくらいサディスティックです。シュトローハイムの映画って、そういう完全に壊れちゃってる人って時々出てくるんですね。これが一つ。それから、そういう物も含めてなんですが、シュトローハイムの映画というのは、どんなに可愛らしい表現みたいな物を作ってあったとしても、そこの下に凄まじくどろどろした嫌なものが常にあるのが感じられる。それがシュトローハイムです。
 この映画の場合には、嫌な所というのは、多分本当に本人が撮ったらもっと出てきたんだよ。例えばこのすぐ後に出てくるのが、結局こういうところもそういう一つの表れなんですけれど、脊椎に先天的な障害のある(そういう言い方をさせていただきますが)芸人が一人出てくるわけです。それが、オランウータンを飼ってるんだよ。オランウータンがさ、檻の中で、物凄く可愛い綺麗なオランウータンなんだよ。よく人に馴れててね。感心するくらい可愛いオランウータンなんだけど、オランウータン出てくる時さ、やっぱりこれ、ちょっと見てて眉が曇るわけね。
 やるのそれ?やるの?
 案の定そのオランウータンは後でちゃんと檻を破ってですね、二階に上がってって、寝てる奴のこと殺しますから(笑)。やだな。こういう趣味って。ちょっとな。ちなみに「愚かなる妻」でもちょっとやっててね。何か知らないけれど、シュトロハイム扮する悪い奴というのが、湯水のごとくばらまいてる金って言うのは偽札なんですよ。この偽札を作ってくれる職人の所に行くと、その偽札の職人の所に、ロリっ子がいるの。簡単に言っちゃうと。ロリっ子がこうアップになったりして、なかなか。でもこいつ違うだろ。明らかに年齢もっと行ってる子がロリロリして写ってるだけだよねって結構気味悪いんですけれど。
 それで、彼女に手を出したせいで、贋金作りに叩き殺されてしまうという話が結末になるわけですけれども。明らかにそこの所の書き方をみているとさ、ドストエフスキーもいい加減にしとけという気持ちがする。シュトローハイム、ちょっとそういう所、変に文学に走る傾向があって、これはくさいから止めたほうがいいって私はいつも思うんですけれどね。だって、あんな所でロリする話、全然「愚かなる妻」の本筋関係ないもん。どうしたの?で、ただそういうものを使って、ある深い所、人間の一番底の、隠しているどろどろした物をちょこちょこちょこちょこ出してくというのがシュトローハイムなんですよ。これもそういう所はずばりあれしてます。ただ、すごく抑えている。
 どうしてこういう事になっちゃったのかというと、これを撮り始めてすぐ、五週間目ぐらいに、プロデューサーがはっと気づいて、このままだと「愚かなる妻」と同じかそれ以上に金使われちまうと。よくいるんですね。会社を潰す監督というのは。
 会社を潰す監督という奴に実は共通したある傾向がありまして、私がまったく同じ感じなんですが、シュトロハイムは一説によると、キャストのうちの――全部じゃないと思いますよ――上流階級の役をやっている奴らの衣装を下着までシルクにしようとした。これは結構重要な問題で、私が聞いたのはグレタ・ガルボの話。グレタ・ガルボが、なんだったかな。クリスチナ女王だったかな。あれの時にね、衣装の下の下着がシルクじゃないってクレームをつけたんですよ。で、そんなもん誰も見てないんだから、これは堪忍してくれというふうに撮影所側から説明されたら、きっとして、言い返したのは何かと言うと、「絹じゃないとだめなのよ。だって歩き方が変わるでしょ」。それは事実なんですよ多分ね。今だったらもちろんもっといい素材があるでしょうが、当時だったら綿か何か。確かに歩き方変わります。そこまで撮るのかという話ですが、そこまで撮る奴はいるわけですよ。時々。
 従って、シュトローハイムの映画の場合は、どこまで確認した事はないですが、例えばこの一番最初の冒頭の所、ちょっと笑えるんだけれど、あまりに大仰な部屋で寝てて。この坊ちゃんの家で寝ている場面とかっていうのは、大体朝、坊ちゃんが起きる所からはじまるのは、ウェディング**もそうなんだけれど、その時に、洋服箪笥の中まで物が入っている。そこまでしないと気に入らないんだって。これはもっとありそうな話なんですけれど、サイレントでしょう?音鳴らないでしょう?こっちでキュー出してやってれば役者は出来るにも関わらず、ドアベルはちゃんと鳴るようにしてないとシュトローハイムは嫌だって言った。これはわかりますよね。つまり鳴った瞬間に反応するのと、キュー入れられて反応したフリをしてみせるのとでは、役者の反応は全然変わってくる。つまり、シュトローハイムがやる事ってなんなのかって言うと、ある環境をスポーンと作ってやって、なるべくリアリティがある形で、シミュレーションしてやって、その中に俳優を投げ込んで、その俳優がやる演技、その環境でやる演技というのをひたすらカメラに収めていく。これがシュトローハイムの基本姿勢なんじゃないかいう気がします。
 で、もう一人、そういうやり方をする奴は誰かというと、ルキノ・ヴィスコンティルキノ・ヴィスコンティは「ベニスに死す」の時に、トランクの中に入ってるものまで全部入れましたからね。それは本当みたい。だから、こうやって登場人物が読んでいる新聞、これを拡大していくと、ちゃんと復刻版になってますから。そこまでするか、というんですが。そこまでするんですよ。このタイプは。しないタイプの監督はこんなことしなくても映画作れちゃうけど。これはある種の型として考えてくれればいいんじゃないかと思います。
 もっと凄いのは…シュトローハイムって言うと、多分シュトローハイムの名前くらい皆さん聞いたことあって、なんかすげー監督だけども、恐ろしいことになって映画が撮れなくなった人だという認識ぐらいしていると思うんですが。…その恐ろしい事っていうのも本当に恐ろしいんだけどさ。それはいいとして。…本人もだいぶ悪いよあれは。それはいいとしてですよ。そこまであれして、名前がほとんど伝説のようになって残っちゃっているにも関わらず、シュトローハイム自身、キャリアは十年ないということ、多分考えたことないでしょう。1910年代の終わりぐらいから、1920年代の終わりにはもうキャリア終わってますから。作品はその間に多分一桁。そしてその作品のほとんど全部が、一本たりとも完全な形で残ってないんですよ。全部切られちゃった。いや、じつは「グリード」があれば、「グリード」を見せたいという気持ちがないわけじゃないんですが、「グリード」、現状のバージョンで見ても凄いですから。二時間ぐらいかな。凄いんですけれど、これ九時間かかる。で、フィルムは多分残ってない。実を言うと私去年ぐらいから、アマゾンで「グリード」のデジタルリマスタリングが出るというので、予約かけているんですけれど、今もって出ません。どうもよっぽど難航しているか、それとも企画その物が頓挫したんじゃないかと思って悩んでますが。ただやっぱりそれで見ても凄いから。異常ですけれど。システムが整っちゃったら後の世代には絶対出来ないような物を、偶発的にそこでチャッと撮っちゃった。まあ「愚かなる妻」かな。観るとしたらね。まあその話はまたここで。結構誰がオマージュしてるかなんて話をしてるときりがない。

これ、CGじゃないですから。本当に建ててますから


 じゃあその次の奴。初期ハリウッドというのはいかにキチガイだったかという。
 グリフィスのイントレランスですね。これはとりあえず、ものの話に観といた方がいいという奴ですよ。

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(ここで「イントレランス」バビロン篇のワンシーンが映された)

 (笑)この注が笑えるでしょう。これ、本当に字幕に書いてあるよ。下のほうに。NOTEって。これをしないと気がすまないという所が、グリフィス。
 これ、CGじゃないですから。本当に建ててますから。
(→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Griffith-intolerance_Ihcoyc.jpg
 この人間の寸法をちゃんとよく測っといて下さいね。上の方はりぼてじゃなくて、ちゃんと全部人が乗っているんですよ。で、ここの所、こう踊っているわけですけれど、これを撮影している最中のグリフィスという奴を想像すると、かなりキテるなという感じがするでしょう(笑)。
 この音楽が嫌だって私は言ったわけです。音楽の事はちょっと忘れてください。初期任天堂のゲームみたいな(爆笑)。
 特に注意しとかなくちゃならないのは、映ってる人間の動作とか、表情の作り方。
 これベルシャザールの護衛なんですけれどね。
 階段のところ、ゆすったり引いたりしますけれど、ここのとこの、後ろで動いてる人間、ずっと動き続けますから。
 でも、乗ってるでしょう?人間あのサイズですから。
 ちょっと切ります。で、次の所。
 美術史好きな人は、ちょっと**を思い出しながら観て頂けるといいんですけれど。
 ここんところ、鳩の写った瞬間、構図とか見といてほしいんですよ。
 これね。ちょっといい構図だったでしょう?
 それで、これが有名なバビロン**て奴ですけれど。

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 それで、多分、これを観ると、映画というものが何なのかという問題に関して多分凄く大きな問題を提示していると思うんですが、要するに予算キチガイ級で撮っている奴、ほとんどが、精神病んでなきゃこんなもん撮らないというくらいの規模でやっているという事。今はこれ、簡単に出来ちゃうんですね。これ、ぱっとみた瞬間にさ、あ、ファイナルファンタジーだと思わない奴いなかったんじゃないかという気が一瞬したんですが。この前の12か。今だったらCGとか使って割合さくっと作れる。この当時は全部作るんですよ。この前の所にですね、ペルシャとの戦争の場面があり、ペルシャ軍が攻めてくるという場面がありまして、城壁の所、こっちから見て向こうまでずっとあって、その城壁の上というのが、モノホンの戦車、馬に引かせた戦車がすれ違えるくらいの幅があって、高さも十分にあって、それがここからずっと走っていったら、向こーうの方に行くまで続いてるんですよ。実際にそれ、建ててる。信じられない事やるわけですよ。どのぐらい手間がかかったのかちょっと考えたくないんだけれど。
 それをネタにした映画というのもやっぱり出てきちゃって、この辺の映画になってきちゃうと、製作されたという事自体が一つの神話。だから、「グッドモーニングバビロン」みたいな映画というのは出来ちゃうんですよ。あれ誰だっけ監督。(パオロ・タヴィアーニ;ヴィットリオ・タヴィアーニ監督)あの象さんを作った兄弟の話を映画に撮った奴がいるんですよ。それがイタリア系の移民だったって話で。
 指摘しなきゃならないのは何かと言うと、この時点で映画ってのはなんだったのか。そして映画監督は映画を何にしたがっていたのかという問題において、凄く重要な所。つまり、あくまでもこの頃の映画ってのは、誰も作品だとさえ思ってなかった。結局誰も作品だとさえ思わないから、シュトローハイムのフィルム、完全な形で皆無だという恐ろしい事が起こっちゃうわけです。そこでついに映画においては特に激しくて、商業性と芸術性の相克の問題という奴をちょっと考えなきゃいけないんですが、それはまた今度って事にしましょう。後ろにまわしますけれどね。
 そういう形で、お前のやったのは単なるスペクタクルであって、芸術ではないんだということになった時に、こういう人間がすがるのが何かというと、常に権威のある芸術形式に対して接近していく。例えば歴史とか神話を表現すれば、もしかすると俺たちはアートになれるんじゃないかとつい考えるわけです。グリフィスあたりはね。実際こういう形でやらなきゃできないような巨大スペクタクルとしての効果も上がるという考えはあるわけですけれど、それで出てくるのがこういう表現。
 一番最初に階段のところはおいて、後の方のイシュタルの神殿の中の場面とか見たときに、なんとなくオルセー美術館のアカデミズムの部屋にある絵にそっくりだと思わない人は多分いないと思うんですよ。具体的にあげると、例えばブグローだとかそっくりだし、アルマタデム(?)なんかもそっくりで、そういう形でアカデミズムの絵画に対して急接近していく。その結果、映像表現として実に妙な事が起こる。もう一つ言うと、アカデミズム絵画と隣接するあるジャンルとして、活人画というのがあるわけですよ。これは19世紀の小説を読んでいると時々出てくるんですが、簡単に言っちゃうと額縁ショーなんですよ。これ、芸としてみんなよくやったんだね。普通にストリップ小屋なんかでもそういう形でやったし、そうじゃなくても、普通に芸としてある絵画の中の場面をみんなで仮装して再現するっていうような事をやっている。ああいうものの伝統に連なるものだという風に考える事も可能なわけなんですけれど。
 結果としてどうなってくるかというと、見事なまでに絵が動かないわけですよ。絵の中では色々小さな動きはやってます。でも、それでも動かない。例えば踊り子がぐるっと上の方で回っても、ここのこういう人物達は動かない。あくまでカメラに捉えられたアカデミー派の絵画としての絵が延々と貼り付けられてある印象になっているわけです。
 ここで考えなきゃならないのは何かというと、グリフィスが歴史というものに対してどういう認識をしていたか。それも同時代の歴史ではなく。同時代の歴史をグリフィスにやらせたら、自分が知っているせいぜい爺さんくらいまでの歴史の話にしちゃいますと、グリフィスがとんでもない事をしでかすので、どうとんでもないかというのは、この前にとった国民の創生という奴を見ていただくしかないわけですけれども。
 さすがにね、心の準備はしていたけれど、現実に観るとちょっと呆然とせざるを得ないわけですよ。つまりさ、「オー・ブラザー」とかで、夜、山の中で焚き火をたいて、こうやって三角の布をかぶってあれしているクー・クラックス・クランの人達がいますよね。とても明るいところに出られる身の上の人達じゃないわけですよ。あの人達がですよ、白昼堂々物凄い人数で集結をして、全員で馬に乗って公道を堂々と街まで走っていって、黒人を虐殺するという、凄い場面を撮っちゃった。それも皮肉でもなんでもなしに。その場面を見ていたら、私はもう凄いやら呆然とするやら感動するやら情けないやらで、はっきり言ってけたけた笑ってました。恐ろしい映画でした。
 それを撮った後で「イントレランス」、というのも凄くて、要するに人々の不寛容を責めて寛容を訴える映画というのをクー・クラックス・クラン勢揃いをやった人達がやるというのも、なんかちょっと凄いものなんですが、ただ、クー・クラックス・クランくらいまでだったら、映画として動かせるんですよ。そうじゃないと、こうなっちゃうんです。これは完全版を観てないので保留ということにして判断させて頂きますと、やはりイタリア映画で、第一次世界大戦前の超大作で「カディキア」(?)というのがあるんです。これも無茶苦茶な状態のフィルムでしか観てないんですけれど、感じは凄くバビロン篇に近い。ただ、その不完全なフィルムで観たんですが、その中には物凄く有名な、レールを引いて、超長回しでずっと撮ってくるという奴は入ってなかったと思うんですよ。それが有名な映画なんです。これは割合最近、完全に修復されたものがあって、イタリア文化会館か何かがイベントで流した事があったんですが、そんな遠くまで行くのは嫌なので、観に行きませんでした。

ニューヨークのアパートには裏があるけれど、ベルシャザールの宮殿には裏がない

 ところで、これは凄く不思議なんだけれど、同じ監督が、現代の物を作ると、全然違う映画を撮っちゃうんですよ。それがこれです。「イントレランス」の現代篇。

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(ここで「イントレランス」現代篇のワンシーンが映された)

 ギャングのボスが手下の奥さんに懸想しているという状況。そして、ギャングのボスには別途情婦がいる。で、この情婦というのが、ここに対してやきもちをひどく焼いているわけですが。
 乳児院に取られた子を取り返してやるっていうふうに言って、こういう形で乱暴狼藉を働こうとしているんですね。
 ここから先ね。ちょっとこういうの、バビロン篇では考えられない事が起こるんですよ。起こるというか、出来事として起こるんじゃなくて、映画として起こるんだけど。
 さっきのドアから外に出て、隣の部屋からここに移って。で、今要するに状況は、部屋をはさんで壁の外側とそれから廊下で*****。
 これ、回想ね。昔良くしてくれた事があったということで、思い出しているわけです。
 このとき、二人とも失神してたのが**。
 (爆笑)すごいでしょう?女優って大変だっていうね(笑)。ここからお約束通りに。

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 というわけで、こうなってくると、同じ監督、そして同じ映画であるにも関わらず、撮り方が全然生き生きしてきちゃうでしょう。これはやっぱりどちらかというと、グリフィスの事を縛っていた、歴史とかいうアートな物に対するある妄執が取り払われた段階で、カメラというものがどれくらい生き生きと動き出すかという話です。ほとんど、ここまでいくと、多少腕の良し悪しの問題は多分あると思うけれど、現代の映画と**、少なくともテレビドラマぐらいではこういう撮り方をしちゃう人というのはいっぱいいますよね。
 もう一つ、これは私じゃなくて、うちの亭主が指摘してたんですが、グリフィスの頭の中では、ニューヨークのアパートには裏があるけれど、ベルシャザールの宮殿には裏がない。想像力のある限界。あの建物の、例えば通用口がどうなっているのかとか、饗宴で飲食されているものが、どこから搬入されてくるのかとか、あそこで踊っている姉さん達は普段どこにいるのかとかいう事を、考えた事がない、というよりも、そういう事を全部無い事にして、ある非常に平面的なワンダーランドを作っている。ただし、その平面的なワンダーランドというのは、何しろ一番上のてっぺんまで人が登って立ってられるような巨大セットを建てるということであれば、これは文句を言ってみようがないわけです。そこまでやって、裏に登ったら、このセット張りぼてじゃんと言ったら、それは監督に対して失礼にしかなりませんから、黙ってるしかないわけですよ。
 ただ、こういう形での表現というもの。無声映画というのが、ある意味如何に古い形式に捕われながらも、新しいものに対して、まったく映画に固有な表現形式に対して移動しつつあるかという事を、「イントレランス」一本で見てとれるという意味では、非常に良い作品だと思うんですが。で、実際面白いです。今日は取り上げませんでしたけれど、後ろの方に、もしかしたら史上初のカーチェイスという奴が出てきます。知事の乗っている車を自動車で追いかけていく。ここのところのリズム感、しかもそれはイントレランスという――最初に話しておけばよかったね。話が四本立てなんですよ。一本が古代バビロンが滅びる話。一本はキリストが磔になる話。もう一本が、サン・バルテルミの虐殺でプロテスタントが虐殺される話。嫌な感じばかりでしょう?四本目というのが、現代のニューヨークで、それまできちんと工員として働いていた(炭鉱夫じゃないや。工員だ)のがストライキの挙句に、そこの工場を追われて、街に流れ込んできた人達の話でして、その兄ちゃんというのが、様々な不幸な事情によって濡れ衣を着せられて、もしかすると死刑になるかも知れない。それの恩赦を勝ち取るために、色々ごったりすったりもんだりするんですが、これ四本立てで、現代篇以外の話は全部**です。そこの最後の所で、全部短く切って、カットバックして、あれしてて、そこで盛り上げていくんです。
 さっきもしかしたら最初の所がちょっと写ったかもしれませんけれど、リリアン・ギッシュが最初から意味もなく出てまして、こうやってこう揺り籠を揺すってるんですね。どうしてここで揺り籠を揺すらなきゃいけないのか今ひとつ分からないところがあるわけですが。ただこの揺り籠が揺すられる場面を含めて、あるリズム的な転換になって、きちんきちんと入っている。これは映画という事が初めて固有に出来たある事柄でして、だからグリフィスのバビロンは勿論凄いんだけどね。ただ、多分映画の本質的な所からは遠い所にあれを作ったと言っていいんじゃないかという気がするんですね。だから、ある動かない****。
 ただね、歴史というものをそういう形で実際に動くもの、裏庭もあれば搬入口もあるものとして歴史を思い描くというのは非常に難しい事であって、非常に沢山の人はそれをせずに済ませている所はある。けして無くはないわけですが。というよりも、多分搬入口とか出たゴミをどこに捨てているかという問題を考えると、なんだか歴史が汚されるような気持ちがする人達というのがいっぱいいるんですよ。実際、常にそれは存在するのね。



ホースの水圧の威力に対して、人間がどういう形で押し潰され、押し流され、転ばされていくのか

 ではその次。一応予告はしておいたので、きちんとやらざるを得ないんですが、結構時間が迫ってきた。ちょっとこれは長めなので、もしかすると途中で切るかも知れませんが。

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(ここで「ストライキ」のワンシーンが映された)

 音を切りたいと言ったの、理解してください。
 ここでなぜ音楽を下げなきゃならないのか良く理解できないじゃないですか。なぜこういう音楽をつけるのかすら。
 すごいでしょう?もう何も写っていないこの***。

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 これがエイゼンシュタインの「ストライキ」放水の場面でして、実はもしかすると国内版81分でご覧になった方は、ちょっと違うというのがお分かりかも知れませんけれど、長いんですよね。この放水の場面。
 観てない方のために全体に簡単に説明します。これが重要な所なんですけれど。言ってしまったら、ある工場――大規模な機関車の工場ですが――がストライキに入る。ストライキに入って全面的に…そこから話をすると長いか。とにかくそのストライキが長引くので、要求を一切あれせずに工場の再開を狙った経営者側というのは勿論官憲とつるんでまして、ようするに官憲と資本家というのは必ずつるんでいる事になっていますから。ようするに簡単には弾圧が出来ない。その結果どうしてるかと言うと、街の外に住んでいるごろつきを雇ってきまして、酒場に放火をさせる。その酒場に放火をしたという名目に基づいて、消防車が出てきて、そしてそこからはじまって、引火している火事で騒いでいる工場の労働者達に放水を浴びせて、ここから先です。まずそれで川の方に向かって、住宅の方に向かってずっと追い立てる。追っていくのね。その後、労働者住宅の方に入りまして、さらに工場の方まで来た所で、今度は騎馬隊を投入します。投入された騎馬隊はさすがにだんびらは抜かないんですが、鞭で殴りながら群衆の事をさらに川の方へ川の方へ追い立てる。途中で労働者住宅の中に入る場面がありまして、そこでも隠れようとする人々を追い立てて、さらに川の方に向かって追い立てると、川原の所には銃を持った軍隊がいまして、追われた労働者達は、この軍隊によって銃殺されて終わるというのが、ここから始まる長い一繋がりの場面として出来ています。
 多分ちょっと観ればお分かりだと思うんですが、例えば「メリーゴーラウンド」なんかのああいう映画とは撮り方がまず全然違う。それはお分かりでしょう。それからグリフィスもあれしてきましたが、例えば「イントレランス」のバビロンとも群集の場面を扱っていながら全く撮り方が違う。それから後ろの方の殺人が行われる場面。あそこの所のカットの持ってき方と、状況の説明のしていき方とも全然違う。つまり、殺人の所がああいうふうになっちゃって、変にモダンになっちゃうのは何かと言うと、徹底して何が起こったかという状況を観ている人間に飲み込ませようとするために、ああいうふうにカメラをあっちこっちあっちこっち回すことになるわけです。
 だから部屋の中で起こっている事。ドアの外で起こっている事。そしてドアの前にいた人間が、隣の部屋のドアに入って、窓から出て、ベランダからはり越しに出てきて、窓の所に行く。そしてその状態で男はドアを蹴破って中に入る。そういう事をきちんときちんとカメラをそこの場所そこの場所に回していって繋いでいくから、むしろそこで何かカットが存在しているように見えてる。実際そこでカットが変わる事によって何が起こるかという意識がグリフィスにあったかどうかというのは、この状態ではちょっとはっきりしないところがありますけれど。
 で、「ストライキ」の場合、はっきり言ってそれと全然作り方が違うわけですよ。他の場面もそうですけれど。ここの所を持ってきたのは、ようするに一番単純なある感覚的な物に訴えている要素を多用しているから。つまり放水と、ぐちょ濡れになった人間。放水ホースの先から出る水圧の威力に対して、人間がどういう形で押し潰され、押し流され、転ばされていくのか。**に落ちたみたいな奴を、ひたすら機械的に撮って行く事によって、言っちゃったら、ある凄く感覚的な物に訴える形で、我々に飲み込ませていく。だから頭の問題ではないんです。従って、どうやってもあそこでどん詰まりに押し込まれた人達が路地から流れていって、路地から流れてどっから走ってどこまで走っていったかというのは、グリフィスのバビロンと全く別の理由により分からないです。街の配置関係というのがこれを見て分かるとは私は思わない。それにもかかわらず、一貫した流れ、動きみたいなものというのが続いているという事、それがあちこちにぶつかったりよどんだりしながら、押し流されていく。それだけは分かる。
 あるいは、もっと言ってしまうと、ここにおいて多分一番重要な物というのが、これはこの後の問題につながってくる事ですけれど、人間が既に人間として動いてないという事です。顔がアップになる。悲鳴を上げる。そういう状態においては確かに人間であるにも関わらず、放水のホースを浴びせられ流れていく状態というのは、じゃーっと水を流して、そこに砂を流すとどうなるかと全く同じ動きを人間がしていくというふうに言ったっていいわけです。
 今切った一番前の所。一人で逃げ遅れた奴が、放水ホースで浴びせられて捕まえられちゃう。あそこの所なんか見ていると、まず水の威力という奴。小石をはじきとばす事によってきちんと見せた後で、丁寧ですよ。膝の裏にまず水をやって転ばせる。それから肩に当てる。その間もこの男が嵌っている穴って奴は、水のせいでえぐられて、どんどんどんどん深くなっていく。それでそれを引っ張りあげて捕まったという所まで含めて入ってくるのは、例えば、消防車の――あの当時の消防車というのは蒸気の釜を積んでまして、その蒸気圧で水を出しているんだと思うんですが、その機械がぱっと写る。その機械であそこのところで水圧を上げているんですが、水圧を上げた状態で更に水を浴びせ続けるんですが、その時に出てくる、ずぶぬれになっちゃった人間と、それからその機械の、あるコントラスト。これに注目したい。
 ちょっと整理します。一番最初に出てくるのは、ここで監督が狙っている事というのは、あくまで私の言い方になりますけれど、感覚的な物にあくまで訴えることであって、知性で訴えようという努力は基本的に映像では彼はしないんですね。字幕が出ている時には、少しやっていることがある。次の所ちょっと飛ばしますけれど、長い字が出てくる所ありますが、長い字幕ってほとんどないですよ。字幕すごく短いでしょう。ほとんど一語。特にこういう所では。そうじゃない所は二語。ほとんど意味のない字幕というのもあります。真ん中ぐらいの所で、活動家が夜逮捕される時に、警察に追われて逃げた活動家が、めかけを乗せたブルジョワの車にぶら下がって逃げようとするんですよね。もちろんしくじるんですが。するとその中にいた、ようするに腐敗堕落した女が、おまわりに向かって「やっつけろ」。一語だけです。字幕。その後で引っ張り出されて、監獄に連れて行かれて、そこでおまわりに殴る蹴るの乱暴狼藉をされると、収監されている他の囚人がいるんですね。その連中が覗いて、もう一回「やっつけろ」同じ言葉をもう一度繰り返す。ここの所の「やっつけろ」という言葉にはほとんど意味がないんですよ。なぜそこに入れなきゃいけないのか分からない。
 例えばさっきのルパート・ジュリアンの「メリーゴーラウンド」の字幕を考えてもらったって、あそこはきちんと口説くという意味での、ある人間的な言葉の展開があるわけですが、ここの所は文字が飛び込んでくるような形で、人間が発話をしているということの衝撃を、我々の中に与えようとしている。そこにおいて、言葉という奴は、画面の中で行われている暴行の一打ち一打ちと同じぐらい、暴力的で衝撃的なものとして入ってくる。放水の場面で入ってくる字幕というのも、せいぜい一語。そうじゃなければ二語。「俺達は仲間じゃないか」というような事。これで二語。「やめろ。やめろ。仲間だろ」と言ってるだけ。英語の字幕だと長くなるんです。英語って長い言葉だなとあれを見ると思いますね。ただ、それにはほとんど意味がない。だって実際そういうのって、凄くよく聞く言葉だし、お約束と言えばお約束なのだけれど、ただその言葉は視覚的に我々に突きつけられてきちゃうと、言葉じゃなくなってきて、ある意味では視覚表現の一部になっちゃってるんですよ。それが水圧の暴力みたいなもの。それから流されていく人間。そして流されていく中で、明らかに人間性を剥奪されていくというその過程。それと一緒になって、ある感覚的な衝撃として我々に与えられる。そしてそれが何をどこにつながっていくかというと、頭には絶対来ない。感情に来るんですよ。これが要するにエイゼンシュタインの凄い所であるわけです。凄いし恐ろしい。

「その人こそ」「レーニン」(笑)

 そろそろ時間なので、さっくり行きますけれど。

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(ここで「十月」のワンシーンが映された)

 これがねえ、フィンランド駅と出ただけで燃えないといけない所なんだろうと思うんですよ。
 次、もっと凄いスからね。
 凄いでしょう?この構図見てください。ちょっと決め過ぎ(笑)。
 しかもでかいし(笑)。
 今観るとかえって楽しいんだよね。こういうのね(笑)。

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 結局、極端な話をしてしまうと、さっき言ったようには、感覚的所与に対して衝撃的な物をずがんずがん突きつけていく。それをリズミカルに行うことによって、観てる人間のエモーションを煽るという技法は、極端な話言っちゃうと、ここに集結していっちゃうんですよ。すごいでしょう?「その人こそ」「レーニン」(笑)ちょっとひくんですけれど。いや、申し訳ないんですが、フィンランド語版を観る場合は、このアホの字幕に、エイゼンシュタイの責任があるのかという問題はペンディングしなくてはいけません。つまり、これ、六十年代にフィルムを直した時に、挿入された字幕だと思いますし。それから音楽もその時に付けられている。だから音楽に関してはこれは多少の値打ちがあると言ったっていいわけですが、少なくともゲームの音楽で、みたいなのよりいいから。
 ただやはり、今日観てみると、色々な問題がここのところにあるという事はお分かりになると思います。つまり、私は言いましたけれど、さっき、一番最初に「フィンランド駅」と出たでしょう?その後、「四月三日」って出たでしょう?ロシア革命が好きな人はこれだけで燃えるわけです。当時のソビエトの前提というのは、みんなロシア革命が大好き、というのが前提なので、あそこだけで、観ている人間は盛り上がるという事を前提にして、そこで待っている人達。それも凄くしつこいんですよ。実際そうだったみたいなんだけれど、陸軍の兵隊さんが映って、その後で水兵さんが映って、その後労働者諸君が映って、ときちんと社会主義革命を支持すべき人達が、フィンランド駅に勢揃いをしていて、そこの所へレーニンが、靴から来る。
 靴が写ったの、そうですから。そんな事をしていいのはさ、おいしんぼのパパだけ(笑)。足から出るってやつ。あのパターンてここからあったんだ。そこで上がって、まずその後、旗。それがさ、旗が画面まっすぐ横切っててさ。この状態でこうやって斜めに身を置いて。この構図。もしCD、どっかで借りられたら借りてきて、見てください。すばらしい構図なんですから。で、絵の質も最高なんですから。観てて、思わず興奮しちゃうんだけれど、やっぱり内心、私は個人的には内心忸怩たる物を観ながら興奮するって、すっごく健康に悪い事なんで。ただ、プロパガンダ映画というのは、結局最終的な時にはそういう所に行きます。

映像というのは凄まじく雄弁なんです

 そろそろしめに行かないといけないんですよね。だから、映像というのは、言っちゃうと極めて感覚的なものだということ。これがまず一番最初に来ることです。ちょっとまとめます。今日は何をやりたかったのかというと、世界に対する認識の仕方という物が、映像の相違になって表れている。従って、例えばトム・ティクヴァがやろうとした、あの映画における世界の認識というものは、あの映画、特に色彩と、彼の場合音楽を映像に併用してますけれど、その形で、あの異常な感受性の世界みたいな奴というのを作り上げようとしてたというのが、そこから映像が実際にああいう形で生まれてきているんだという事。まあちょっと微妙な所なんですが。つまり、それだと先に表現すべきものがあるみたいな気がするわけですが、実際はそうじゃなく、もうちょっと作る人間としてうろうろあるわけですよ。多分。
 映像と相違というと、我々、よく静止画像で比較しちゃうんですね。特に映画史の方には限界はあるから、いちいちDVDつけてかないで、だいたい、ここでこういう上映やっているのも、もしかすると、配給会社とかにばれると新しい映画だと叱られるからね。私ね、一回紀伊国屋か何かで映画の話をして、映画のビデオ持ってっていいですかと言った時、結構難儀した。向こうが微妙に難色を示して、結局ゲリラ撮影という形でやったわけですが、本当は配給会社に許可をとらなきゃいけないんですよ。学校だからいいと思うんですけれど。本屋とかでやる場合はやらなきゃならない。で、許可をとると、その後、係りの人が言っていた場合には、この場面を使ってくれと指定されちゃうんだって。もちろんそういう形で許可をとったフィルムに関しては、批判的な事を差し挟んだりすれば後で叱られます。で、やはり結局そういう問題というのが、ちょっとあるので、だからDVDはつけられないんだろうと思うんです。映画研究の本なんかでは。
 実際に街中にいけばいくらでも借りられるし。だから、映画の本て、大抵一枚一枚の絵がこうはってあるわけですよ。多分「十月」とかというと、斜めに旗があって、こっちレーニンという。
 ただ問題なのは、勿論そういう静止画像一枚一枚でさえも、作ってる人間が、その時作り上げようとしていた世界とは何なのかというのを語ることはできます。だけど、さらにそれ以上、つまりそれだったら、映画って紙芝居でかまわないわけで、どうして映画は動くのかという事を考えた場合、静止した絵じゃなくて、その瞬間、一コマ一コマずっと流れていっている映像を、どこで切って、どこで止めるか。映像というのは、ばっと表れた瞬間に、針がピーンと一番上がって、その後同じものがずっと映って、微妙に減衰していくんです。その減衰していく刺激のどこの所で、次の映像をあわせるのか。その次の映像というのを、どのぐらいの強度にしておくか。何と何をどうあわせるのかという問題。その問題を含めて、そしてそれがどのくらいの時間的持続をもって続いていくのかという問題に対して。そして、映像の一コマ、止まったコマの中でも人が動いていれば、バビロンなど踊ってるところみたいな。その動きに応じた、動作に応じた動きという奴がきちんと生じてきているんだけれど、それと次の所につなげてどうあわせるのかという所にも、一つ一つに全部作り手が作ろうとしている世界にとって、非常に大きな意味を持っている。まず、これが一つですね。
 無声映画を観てくると、音楽くだらねえとか言って、時々切ったりする線もありますけれど、その映像が動くという事。その動く映像という物を扱うという事に関して物凄く大きな示唆するものがあるわけですよ。彼らは純粋に映像に頼っちゃってるからね。まず、こういうものが一つですよ。まずこの辺が一番メインになる所。
 二番目の所。ただしそれというのは、頭に働きかける物である以上に、多分、まず感覚に働きかけて、その後頭で感情のほうに流れていくことというのが多い種類のものではあります。これ、映画嫌いだという人が言うのは大抵これなんですよ。酒井法子さんと言ったかな。イラク関係で凄く活躍している品の良い女性、どこかの研究員だったと思うのですが、専門家の方がいたと思うのですが、競馬でご一緒したら競馬もお強かったりするわけですが。彼女がどこかで書いていたのは、映画が嫌いだと。特にアメリカ映画、ハリウッド映画が嫌いだと。あれを見に行くと、物凄い大きい画面が目の前に迫ってきて、そして物凄く大きな音がして、それだけで、物は何も考えられなくなって、監督の思っている場所に引きずられていくような気がして怖いと。これは映画に対して、ある凄く敏感な感覚を持った人の、非常に正直な証言だと思って受け止めておくべきものだと思いますね。さっきのトム・ティクヴァのあれだって、怖いといえば、既に、十分に怖い。だからと言って、映画を避けて通るというわけには我々はいかない。その問題はちょっと胸に刻んでおきましょうという話です。
 で、感覚的な物から、そのまま我々が何も考えないで、そのまま感情の方に行ってしまう。プロパガンダ映画というのはそういう形での、あるメカニズムを利用した形で、特定のイデオロギーを与えるように観客を引っ張っていく、誘導していくような性質がある。もちろんこの「十月」ほど露骨な形でないとしても、確かにその酒井先生が言うとおり、アメリカ映画というのは、無意識的にしろ、観客に対してそういう種類のイデオロギー的な誘導をしているというのは、これはある意味では事実なので、我々はいつもその事は、頭のどこかにおいておかなくてはいけません。だからと言って、「300」みたいなバカ映画観て「アメリカ人傲慢」とか言って怒っても仕方のないような所はあるわけですけれど。
 ただし、その次というのが私はちょっと強調しておきたい所なのですけれど、その映画がプロパガンダ映画であるかどうかという事と、その映画が屑であるかどうかという事は、関係ない。全てのプロパガンダ映画は屑というわけではないし、全てのプロパガンダに対して距離を取った、自由な精神の持ち主の撮った自由な映画が、良い映画とも限らないです。つまり問題は何かというと、あるイデオロギー性を持った素材、勿論例えば評論家筋なんかに言わせれば、イデオロギー性を伴わない筋書きなんかねえって言われちゃうに決まってるわけですが、そこから一点、何を引っ張り出してきて、それでそれをどういう形で組み上げていくか。作品の問題というのは、純粋にそこに尽きてしまう。それはいつも言っている事ですが。
 もう一つ多分注意しておかなければいけないのは、そういう形で映像がどういう風に組み立てられているのかという問題に対して、評論的な物言いというのが、あまりにもしばしば無関心過ぎる。だから、例えば映画の問題と絡めて、色んな問題を論評していく人達っているじゃない?まあ評論家と呼んでおきましょうか。そういう人達のさ、あるいは研究者でもいいですけれど、そういう人達の評論なり研究なりを読んでいてさ、凄く変だと思うのは、映画がないのねそこに。映画はないんです。何があるのかと言うと、粗筋だけがあるんです。そして、もっと凄いのは、粗筋なんかに、精神分析的な分析をほどこしてその映画を語ったと言うわけですよ。何も語ってないでしょ。それは粗筋だから。あんた、映画観てないでしょ、という話になってしまう。しかし、粗筋より踏み込んだところで、じゃあ彼らの方法を適用できなくなるのかというと、そうじゃなくて、私はいつも腹立たしいと思うのは、彼らがサボっているという事です。勿論、粗筋を完全に離れちゃった所にある映像にも確実にイデオロギー性は存在します。そしてそのイデオロギー性というのは、粗筋を分析してあれするのと同じようなやり方で、きちんと適用していけるものです。抜き難いイデオロギー性というのは、「ストライキ」の筋書きじゃなくて、要素でもなくて、映像そのものなんです。例えばね。そのうちの一つというのは、私がさっき言いましたけれど、人間が砂粒みたいに水に流されてしまうというそのイメージ。そこの所、執拗に描き出している。
 で、二番目。そこから更にあれすると、あそこで、丘の上にぱっと騎兵が現れるんですよ。あの現れ方の凄さみたいなものも含めてなんですけれど、あの映画、見事なまでに、迫害されるものと、迫害するもの、どちらにも固有の顔と固有の物語が欠落している。なにしろ、一番最初の所に、いっぱい、所謂キャスティングがないんだよ。「第一労働者集団の皆さん」と書いてある。このイデオロギー性というの、分かります?実際問題として、個々の人間の顔があっちゃいかんという世界なんです。シチュエーション的に、あの家で寝ているパパとか、それから投げ落とされちゃう子供とか、よく見ているとちゃんと覚えているメンバーというのは、繰り返し繰り返し出てきているんですけれど、それはようするに、人間は砂粒であり、全く顔はない。迫害されるものという一括りになっちゃってる。いっしょくたになっちゃって、どうかすると忘れてしまうかもしれない。
 それと、十月の、今の覚えてます?ようするに、兵隊さんが並んでいる。水兵さんが並んでいる。労働者諸君が並んでいる。労働者諸君の一人を代表する、労働者1という顔が描かれて、口を開けると、「その人こそ」って。それでもう一回口を開けると、「レーニン」ってでっかい字が出たの、あったでしょ?あの顔。その後で、足から出てくるレーニン。まず足ですよ。それから手でしょ。旗をこう掴む手。その後、レーニンの顔が出てきた時の、あのレーニンの顔が持つショックという奴を考えて見てください。まあ、あんまりそっくりなんで、おおおうと思うこともあるわけですが。
 最初の労働者の顔というのは、あくまでも労働者全体を代表する一つの顔として現れてきている。それに対して、レーニンの、極度に記号化された、つまりロシア映画ってやたらそっくりさん出てくるんだけれど、凄く記号化されてるんだよね。レーニンといえば、簡単に言っちゃったら、頭丸めて髭つければ、見えるだろうという感じがしないでもないですけれど、言っちゃったら、そういう種類の、ある記号、というより象徴としての顔しかない。で、これを二つ組み合わせると何が起こるかというの、分かるでしょう。つまり顔のない人民がいて、支配者に対して向ける顔しかない人民がいて、その上に極度に記号化した権力の象徴みたいな****。この世界は。
 「十月」はもう少し難しいことになっていて、レーニンケレンスキー内閣という問題がある。ただし、このケレンスキー内閣の面々というの、映しませんでしたけれど、これもまたちょっと凄まじい記号化によって描かれている。エイゼンシュタインの悪役というのはいつもそうですけれど、「アレクサンドル・ネフスキー」。あれはトーキーですけれど、あれの中の駐屯騎士団て、一番最初に出てくる時、甲冑着てるじゃん。がぼーっとか兜かぶって。それで、この兜をこうやって脱ぐんだよね。そうすると、もうね、期待してた通りの悪役面が表れるんだよもう(笑)。感動しちゃうよね、あれ。どういう悪役面かというと、ひところの宮崎のアニメに出てくるようなね、そういう悪役の顔です。凄いなー。そういえば、アレクサンドル・ネフスキーもちょっと宮崎っぽいんだよね。顔がね。つまり、そういう種類の、つまりこの人良い人じゃ絶対あり得ないという顔がもういきなり出てくる。だから、同様にレーニンが出てきたとしても、それがへたれなレーニンだったりするという可能性は全く想像する必要はなくて、完全に神話としてのレーニン。それに対して、神話としての悪役、神話的な悪役としての、へたれたケレンスキー内閣という奴が、上からぎゅんぎゅんにあれしていて、でもこれはもう無条件に悪いものだという、ある凄く単純化した構造が、人間の描き方ひとつの中から。で、多分ここから出てくる帰結というのは、一つしかないでしょうという話になっちゃう。
 つまり、こういう場所から、それも一つのイデオロギーと言われてしまえばそうでしょうけれど、我々の多分ほとんどの人間が、肯定するであろう、一人一人の人間が、きちんと固有の顔を持って生活できる民主主義みたいなものが、ここから出てきようがないんですよ。で、映像というのはそこまで語っちゃうんです。多分、もっと詳しい人が観ていくと、もっと色んな事があるはず。ただ、そこまでやるには、最低限、観るだけの時間をかけなきゃならない。粗筋はね、ゼミ生か何かにまとめさせればできるんですよ。観なくてもね。非常に意地の悪い言い方をしちゃいますけど。それで、観たのか、と私はいつも言いたくなっちゃうし、特に、観たのか、と言いたくなっちゃう結論というのが、明らかに映像の部分を無視して語られた場合には、私はそういうふうに言いたくなっちゃうんですけれど。それが一つ、今日一言付け加えて起きたいという事です。映像というのは凄まじく雄弁なんです。この雄弁さというのは、我々、いつも肝に銘じておかなければならない種類のものだと思うんです。
 レーニンの顔が出てきたので、この次のところで、ちょっと顔の問題をやろうと思っています。顔の問題というのは、当然のことながら、映画というのはそういうものですから、という言い方になりますけれど、美しいもの、醜いもの、あるいは美しげなもの、美しげだけれど醜いもの、あるいは醜いけれど美しいもの、というような問題に対して、すぐ直結してくる問題だと思いますので。
 今日はこれで。ありがとうございました。



講師:佐藤亜紀
原稿起こし:ぷりぷりざえもん
2007.11.17明治大学にて行われた講義より。

※この原稿は、講師のチェックを受けていません。ぷりぷりざえもんが許可を得て個人的に録音し原稿に起こしたものです。
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