佐藤亜紀明治大学公開講座第一回・ノート(2007.5.12)

表現はどこから生まれてくるか
――映像表現における『暴力』から考える

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五回の公開講座は「表現及びそれにまつわる話」をめぐったものになる。

「表現」という表現を使ってはいけないという人もいるが、悩んだ末大蟻食さまは「表現」という表現をあえて使うことにした。
使ってはいけないという立場は、「表現」という言葉が"expression"−外側に押す−という英語の訳であり、脳内に、表現されるべき何物かが完全にできあがっていて、それを素材に対して型抜きをするような行為と見なされかねない、という心配から発している。

「作品」という表現も同様で、作者によって完全に作り上げられた確固たる存在を、受け手が受動的に受け取るというようなイメージを喚起しかねない表現である。

だが、一々映画なり小説なりを「テクスト」と呼ぶ行為には、少しばかりのこっぱずかしさが伴う。そのため、便宜上仕方なく「表現」「作品」という言葉を使う事にしたのだが、受講者は上記のような点を弁えて欲しい。

高校生ぐらいの時は、どんな小説を読んでも楽しい。だが、大学、就職、という過程を経て歳を重ねるに従って、読書量の減や、感動の機会減という自覚を持つようになるものだ。
その理由として、一つは「受け身な読み方」に飽きると言うことがある。もう一つとしては、現実(仕事など)の方が面白くなる、ということがある。

(40を超えるとさらに老眼が読書に対する快楽を奪うようになる。40を過ぎて小説を享楽出来なくなった人は老眼鏡を掛けてみて欲しい。それだけで小説が面白くなるかも知れない)

これをなんとかするためには、小説の読み方を変えるしかない。「主体的な読解」。
(→「作品」という表現が拙い理由)

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現実の事件が表現の様式を激変させることがある。
そうした「現実の事件」の極大の例として「痛み」が挙げられるだろう。

例としては1334年フィレンツェでのペスト流行。これは人口を半減させた。これについては中森義宗の研究が詳しい。

今日の講座では、

スピルバーグ宇宙戦争」(2005)
マイケル・ベイアルマゲドン」(1998)
アルフォンソ・キュアロン「トゥモローワールド」(2006)

を扱う。

※ここで三作品の一部がスクリーンに映された
宇宙戦争」は、川を流されてくる大量の死体を、少女が見つめるシーン。
アルマゲドン」は隕石が街に降ってきて、ビルをぶち抜き、車を吹っ飛ばす描写。
「トゥモローワールド」は、世界一若い人ディエゴ・リカルド(新生児が生まれなくなってから18年という設定の映画だ)の死の報道をテレビで見つめる、ドラッグストア(だったかな)に集まった人々の様子から、突然の爆発までのカット。

アルマゲドン」は天災を描いた作品である。
隕石が降ってくる、ビルをぶち抜く、車がぶっとぶ、その一連の災害を、きちんと脈絡がつくように撮っている。
「トゥモローワールド」は人災を描いている。突然の爆発(←脈絡を欠いた表現)

アルマゲドン」と「トゥモローワールド」の違いであるが、「アルマゲドン」では人の価値が高い。人が殺されるという事の脈絡をきっちり描いているといえる。

「トゥモローワールド」では人の価値が低い。脈絡を欠いた表現。
 →「人間が死ぬことに意味はない」

アルマゲドン」(1998)と「トゥモローワールド」(2006)の間に何があったか。
一つは9.11テロ。もう一つは旧ユーゴ解体とユーゴ紛争。

キッシンジャークリントンの任期中に「ソ連が崩壊し、その影響力が消えたら、力の空白が生じ、大変な紛争が起こるだろう」という趣旨の発言をした。

スロベニアクロアチアコソボマケドニアの独立、ボスニア紛争を今回の講義の観点から言うならば、それは「フィルムが垂れ流しになった戦争」だと言えよう。
(ハンディカムがこの点で大きな役割を果たした)

それ以前の戦争との違いは、「やられる側が撮っている」という点である。
それ以前の戦争では、第三者であるジャーナリストが撮っていたり、やる側のアメリカが提供した映像であった。

また、かつての戦争は第三世界、せいぜいがベトナムでの事であって、我々はそれを自分がもしかしたらそういう立場に立たされるかも知れないという想像力を欠いていた。

ボスニア紛争は欧米人が巻き込まれた戦争だ。ウォークマンを聴く難民の写真が報道されたが、ここに至って「紛争と世界が地続き」であるという認識を我々ははじめて持った。
(これはマンガ「鋼の錬金術師」の描写にも表れている)

これ以降、我々はルワンダ等の紛争を、同じ人間がやられている戦争だとして捉えるようになった。

やっている側、やられている側にもそれ以前の生活があるという認識だ。

これは端的に言えば「人間の価値が下がった」ということであろう。
→「人間であっても殺されるのは当然」という認識。

10年の紛争と9.11が、「人間の価値を下げた」。

大蟻食さまは、9.11の報道に接して、思わず笑ってしまったそうである。その有り得なさ、ナンセンスさに。
同時に、映像としては「建物が壊れているだけの映像」なのに、「痛み」を感じた。

9.11をまたいで作られたアメリカのテレビシリーズの代表として「アリーマイラブ」がある。
これは9.11以降ガタガタになった。

また、「フォーリングマン」というドキュメンタリーにも言及する。9.11で、世界貿易センタービルに取り残され、ビルから飛び降りた人々の写真。

9.11で死んだ人の家族の傷の深さは特別なものである。交通事故で死んだとしても死んだことには変わりないのに。

被害者の家族は、ドキュメンタリーを見ることで、物語を作り出す傾向がある。
(火に巻かれて死ぬくらいなら、と判断しての飛び降りだった、等)
これは、家族がナンセンスなあり得べからざる死に方をした事に、人間的な脈絡をつけ、家族を人間の脈絡に戻そうとする行為である。

人間の最大の武器は「脳」である。「脳」は因果の中で世界を捉える事ができる。それはユルスナール「黒の過程」の冒頭で引かれた文章、「人間は望むところの物になれる」という事でもある。因果の中で主体的な選択をすることが可能という事か。(この辺いいかげんです)

エドモンド・ウィルソンは、カフカが分からない。
人間には二つの種類がいて、

a)団結して立ち上がれば何でも出来るという民主主義的価値観の持ち主
b)カフカ的世界観の持ち主

である。

エドモンド・ウィルソンは明らかに前者であって、「カフカの登場人物たちは意気地がない」などと言ってしまう。だが我々はカフカだよね。

サウスパークには、9.11の陰謀説ネタが多く扱われている。ユダヤの陰謀、ブッシュjrの陰謀、宇宙人の陰謀等。

陰謀説は、人を心安らかにするものである。9.11のような脈絡を欠いた事件に脈絡をつける一つの手段である。陰謀説をとり、因果の中に事件を置けば、「誰かがこうしていれば阻止できた」という考えを持つことができるからだ。

9.11は脈絡を欠いた事件である。「明日殺されるかも知れない世界」に、人間は何かの脈絡をつけたがる。

余談であるが、親戚が死んで死体になるというのは相当ショッキングな体験である。
→死体の異質性
葬式などの一連の過程はそこから発生するものだ。

ヨーロッパのロマは、500年以上の難民生活を送っている人々である。ナチスドイツの虐殺にあった。なぜ虐殺されたかについてロマの一人はこう語った。「運が悪かったから」(「立ったまま埋めてくれ」の記述)

また、300年間ルーマニアの丘に住んでいるロマは、「いい所に住んでますね」と言われてこう返した。
「眺めが良くて、村から虐殺者が来るのが見えるので、逃げるのにいい」

9.11についても、我々は誠実であろうとするならば「運が悪かったから」としか言えない。外堀を埋める事は可能だが、それ以上の事を言おうとすれば、どうかすると陰謀説に陥って心の平安を得ることになる。

さて、「アルマゲドン」から「トゥモローワールド」までの表現様式の変化であるが、これはボスニア紛争から9.11までの過程が与えた影響下にある。

※ここでまたトゥモローワールドの映像

「トゥモローワールド」の最後、歴史に残る長尺。これは「誰かがハンディカムで撮っていた」という設定だ。これはボスニアシンドロームの一例であろう。

向こう何年かは「アルマゲドン」は撮られる事がないだろう。

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現実からのインプットによって表現の様式が変わった件について。

こういう出来事を見たときに、表現者は何を考えるか。

宇宙戦争」の死体が川を流れてくるシーンは、人間を橋の上から川に落とした史実によっている。

宇宙戦争」で不思議なのは、なぜビルを写さないのか。人々は反対側の川の方に流れていく。→人間が平地を歩いていく映像。

もう一つ、「人が灰になり、服だけ残るシーン」これは、大蟻食さまにホロコースト博物館を見た経験を喚起させた。博物館には遺品しか残っていない。もう一つスピルバーグと灰についてだが、シンドラーのリストの一シーンにも注意をうながしておく。

スピルバーグは、おそらく虐殺される側にのみ興味があった。トム・クルーズが何も出来ないという声が上がったが、それは当然で、彼もただの人間として描かれており、何もできるわけがないのである。

レミングのように、ただ流されて歩いていく、走っていく人々を撮りたかった。

行方不明者の特徴や名前が書かれた掲示板のカットもあったが、あれにも注意すべき。

ぞっとするのは、「物を作る人間の業」である。
虐殺のポエジーと言うべきか、「人間がゴミのように死んでいく映像を作ったらどんなに凄いだろう」という発想がまずある。

そして、大蟻食さま自身も、おぞましさにふるえながらうっとりとそうした映像を見る。
あるアニメ作家が宮崎アニメを批判したことがある。「表現力が凄すぎる」
宮崎アニメでは、あまりにも多くの人が死に、あまりに多くの物が壊れる。「魔女の宅急便」のようなのどかな作品も例外ではない(飛行船が縦になってしまうシーン)

表現者たちがボスニアや、9.11を見て考えたこと。
それは「脈絡」が途切れた時、どんな凄い映像が撮れるだろうということ。

ところで、何故人が死んだり、物が壊れる事は魅力的なのだろうか。
見ている人間をギクッとさせたい時、何をすれば一番効果的かを考えればいい。

そうした衝撃の極大として、「痛み」や「苦しみ」がある。これは表現の本質だ。
今まであまり語られてこなかった事であるが、そうした事に言及することが事実上解禁となった。

マトリックス」のアクションは、因果関係が全て見えるものだ。(どう殴られ、どうふっとぶ、等)

バットマンビギンズ」では、何がどうなっているかよく分からない。ここでは、どう殴られたかより、そういう暴力に接したとき、それがどう見えるかを重視している。

9.11をめぐる映画で、ペンシルヴァニアに飛行機が落ちた件を扱ったものがあるが、アクションシーンはほとんど、誰がどうしたか、どうなったかさっぱりわからない。

こうした描写にはリアリティがある。

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?脈絡のある世界に人間は住んでいないという認識。
 →アクション、ディザスターにおける様式の変化。

?何故「宇宙戦争」が作られ、そして受け入れられたか。
 →組織化された痛みの様式。

私と世界の親密な関係が突然壊れたとき、人は「自分は本当に人間なのか」という疑念を抱く。その時、痛みだけが唯一の真実である。

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◆質疑応答

Qデスノートについて。殺される側にとってはまさに脈絡のない死であるが、殺す側にはある種の脈絡はあるが?
Aデスノートは「ゴス」の問題として捉えた方がいい。

Qテロをやる側には脈絡はあるのか(かなりいい加減です)
A地下鉄サリンには、非常にずれた、強固な脈絡があったと思う。だが、それを一般人が理解するのは困難。
先の銃撃事件は一種の災害ではないのかと思う。

テロリストに確かな脈絡があるかについては、我々は知る手段を持たない。

Q人間には価値があるという思考様式について。
A「自分が生きていたい」という思いはなまなかな事では揺るがない。(特殊で強力なイデオロギー教育などを施さない限りは)
そうした文化と、動物的生存本能の間に線引きをする必要はないと考える。

人間に本当に価値がないと思っているならば、人の死に痛みは感じないだろう。

Q9.11と第一次世界大戦第二次世界大戦の違いについて。
A同種。第一次世界大戦は、ダダイズムに影響を与えた。



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